表参道ソフィアクリニック
この著作は『学問芸術論』よりも発展を遂げていて、いくつかの重要な考察が含まれています。
<まとめ(引用)>
ルソーは、本来の人間存在である自然人は与えられた自然の環境的条件のもとで自足的に生きており、自己愛と同情心以外の感情は持たない無垢な精神の持ち主であったとしたうえで、平等で争いのない自然状態を描きだした[58][59]。
しかし、こうした理想の状態は人間自身の進歩によって失われていったと見た。人々が農業を始め土地を耕し家畜を飼い文明化していく中で、生産物からやがて不平等の原因となる富が作り出され、富をめぐって人々がしだいに競い合いながら不正と争いを引き起こしていったと考えた[60]。「私有財産制度がホッブス的闘争状態を招いた」と指摘したのである[61][62]。また、文明化によって人間は「協力か死か」という状況に遭遇するが、相互不信のため協力することは難しいと喝破した。これは一般的にルソーの「鹿狩りの寓話」として知られる。
やがて、こうした状況への対処として争いで人間が滅亡しないように「欺瞞の社会契約」がなされる。その結果、富の私有を公認する私有財産制が法になり、国家によって財産が守られるようになる。かくして不平等が制度化され、現在の社会状態へと移行したのだと結論付けた[63]。富の格差とこれを肯定する法が強者による弱者への搾取と支配を擁護し、専制に基づく政治体制が成立する。「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」に基づく桎梏に人々を閉ざし、不平等という弊害が拡大していくにつれて悪が社会に蔓延していくのだと述べた[64]。ルソーはこうした仮説に基づいて、文明化によって人民が本源的な自由を失い、社会的不平等に陥った過程を追究、現存社会の不法を批判した[65]。
不平等によって人間にとっての自然が破壊され、やがて道徳的な退廃に至るという倫理的メッセージを含んだ迫力は人々のこころに恐怖感を煽るほどの強烈な衝撃となった。その後この書はヴォルテールなど進歩的知識人の反発を強めさせ、進歩の背後に堕落という負の側面を指摘する犬儒性の故に「世紀の奇書」とも評された[66]。
以下序論の中から主要なところを抜粋
Laissant donc tous les livres scientifiques qui ne nous apprennent qu'à voir les hommes tels qu'ils se sont faits, et méditant sur les premières et plus simples opérations de l'âme humaine, j'y crois apercevoir deux principes antérieurs à la raison, dont l'un nous intéresse ardemment à notre bien-être et à la conservation de nous-mêmes, et l'autre nous inspire une répugnance naturelle à voir périr ou souffrir tout être sensible et principalement nos semblables. C'est du concours et de la combinaison que notre esprit est en état de faire de ces deux principes, sans qu'il soit nécessaire d'y faire entrer celui de la sociabilité, que me paraissent découler toutes les règles du droit naturel; règles que la raison est ensuite forcée de rétablir sur d'autres fondements, quand par ses développements successifs elle est venue à bout d'étouffer la nature.
<訳>
学問的な書物はどれも、すでにできあがった状態の人間について理解するために役立つだけであり、ここでは無用のものである。それよりも大切なことは、人間の魂の原初的でもっとも素朴な働きについて考察してみると、理性に先立つ二つの原理を見分けることができるということである。一つの原理は、わたしたちにみずからの幸福と自己保存への強い関心をもたせるものである。もう一つの原理は、感情をもったあらゆる存在、とくに同類である他の人間たちが死んだり、苦しんだりするのをみることに、自然な反感を覚えることである。わたしたちの精神は、この二つの原理を調和させ、組み合わせることができるのであり、そこから自然法(ドロワ・ナチュレル)のすべての規則を導きだせる。ここに必ずしも社会性(ソシアビリテ)の原理を導入する必要はないのである(23)。次第に発展していく段階のうちで理性がついに自然を窒息させるようになると、理性はこうした自然法の規則をもっと別の土台の上でふたたび構築することが必要になるのである。
ルソー,中山 元. 人間不平等起源論 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.402-413). Kindle 版.
ルソーが人間の起源について考察を進めるプロセスを、ざっくりいえば、meditation(冥想、熟考、沈思黙考)です。つまり冷静になって頭の中で思いを巡らせて考えるというようなことです。これについてデカルトのmeditationも想起されます。デカルトも自室にてゆったりとして考える中で第一原理を導入したのでした。デカルトの場合には「我思う故に我あり」という有名な原理であり、これが近代的自我についてのいくつかの重要な側面を表すと共に、その限界についても考察する機会にもなります。それにたいしてルソーは全く異なる原理をを持ってきます。この原理のフランス語もやはり'principe'です。デカルトのprincipeとルソーのprincipeは全く異なっています。デカルトのprincipeは自我の存在および、それだけでなく幻影であったとしても数学的幾何学的な一貫した合法則的な理性を兼ね備えたような自我でした。それにたいしてルソーのほうは、そんな次元とは全く異なるところから出発して謂わば第一原理を考えています。この第一原理はふたつあって、二つの第一原理です。つまり、自己保存conservation de soi-memeとpitieです。ルソーは、社会状態を投影して、自然状態を理解することに反対していて、既存の社会的な固定観念を一切排除して考えてみるという思考のポジションを提起しているところがラジカルであり、このラジカルさはデカルトと同様です。しかし、デカルトの方法的懐疑もその意味で重要であるものの非常に抽象的でありかつ一面的であるのにたいして、ルソーのほうはより具体的に既存の社会の固定観念をいったん脇に置いて考える思考のポジションを作ってそのエリアの拡張を目指したのでした。デカルトの場合には数学的幾何学的、そして物理学的な思考のポジション形成とエリアの拡張を目指すことができたのに対して、ルソーは人間の本来の姿について考える思考のポジション形成とエリアの拡張を目指すようになっています。このようにルソーの思想は、より先進的な思想です。
ルソーは理性を人間の根底に据えるのではなくて、理性以前を人間の根底に据えます。デカルトは方法的懐疑の後にコギトを置けば、合法則的な理性を根源に置くことができて、その後のデカルト派やライプニッツもその流れを汲んで大陸合理論という大きな流れを形成することができました。これは理性に対する信頼、ひいいては理性の妥当性を保証してくれる、あるいは理性の根源であると見なされる神の概念もこれに付け加えることができます。
それに対して、ルソーは理性を第一原理に加える必要は必ずしもなくて、冥想によって人間の自然状態に思いを巡らすに、理性は第一原理ではなさそうなのです。もちろんルソーの自然状態にも理性を加えてもよいのですが。ルソーの場合には、むしろ理性に対する懐疑をもっています。デカルトのように理性こそが人間の精神の根源であるというのではなくて、ルソーは、理性の形成以前に人間の根源を診ようとしています。デカルトにおいては理性以前の根源は、単に自我が存在しているという閉じた空間でしたが、ルソーにおいては、他者との関係を根源としています。
文明化された社会においては、理性が発展を続けます。その元では、自然法は窒息して、衰退し壊れがちになるため、それを復旧するために文明化された社会という新たな基礎fondementのうえに、新たに法を作る必要に迫られます。つまり理性が発展することで、自然法は毀損され、それを理性が復旧するというようなことかとも思われます。
もっともルソーはカントのように理性をいくつかの分野(純粋、実践)にはっきりとは分けていないようです。これはルソーのデメリットでもありメリットでもあるでしょう。後述されるように、ルソーは道徳人間みたいな人間を怪物とも呼んでいます。
「人間の魂の原初的でもっとも素朴な働き」について考察したい、という根本的な問いをたてて、躍動的で野心的な試みです。
この著作の着想は、根底から考え起こしたような着想であり、当時としては大変にラジカルな思想でした。
二つの自然の原理が提起されます。
・自己保存本能
・憐れみの情:これは後に詳述されます。
<自己保存本能について>
スピノザは全ての人間はや動物や物は自己保存を望むということを「コナトゥス」と名付けていました。「おのおのの物は自己の及ぶ限り自己の有に固執するように努める(スピノザ『エチカ』)」と。この本能は、存在する物質全般にみられる法則のようなものです。
またホッブスはこの人間が自己保存を欲することについて、これを自然権として位置づけていました。ホッブスは、「法」は拘束力を有しますが、「権利」は拘束力をもたない自由意思に基づくので、この場合には自然の権利です。このようにホッブスは自己保存を法学の観点から位置づけています。それにたいしてルソーの言う自己保存は、自然法droit naturelの一つとされて、法と権利の区別がなく、法と権利が混ざっているようです。ルソーには法と権利の区別があまりかもしれません。というのも、法と権利に加えて、それは本能であり、法則でもあるような次元を扱っているからです。従って、それは法、権利、本能、法則です。それらが渾然一体となった原初的な状態を考察しています。ここでは自然の声である自然法に従って、動物においても自己保存と次の憐れみの情が適応されています。
ルソーは自然状態をめぐってホッブスをはじめとして幾人か思想家を批判しています。
「結局のところ誰もが、欲求について、貪欲さについて、抑圧について、欲望について、驕りについて語りながら、社会のなかで見いだした考え方を、自然状態に持ち込んだ」。そして誰もが「「野生人(オム・ソヴァージュ)」について語りながら、社会のなかの人間を描いていた」といいます。
そうだとしてもルソーの純粋な自然状態も人間と人間の関係の抽出であります。これも広い意味で社会です。ただ、ルソーの自然状態は<心理学的レベルでの社会状態>あると考えられます。それが後に提起される「憐れみの情」です。
前文の一部
Je conçois dans l'espèce humaine deux sortes d'inégalité; l'une que j'appelle naturelle ou physique, parce qu'elle est établie par la nature, et qui consiste dans la différence des âges, de la santé, des forces du corps, et des qualités de l'esprit, ou de l'âme, l'autre qu'on peut appeler inégalité morale, ou politique, parce qu'elle dépend d'une sorte de convention, et qu'elle est établie, ou du moins autorisée par le consentement des hommes. Celle-ci consiste dans les différents privilèges, dont quelques-uns jouissent, au préjudice des autres, comme d'être plus riches, plus honorés, plus puissants qu'eux, ou même de s'en faire obéir.
ここでは二種類の不平等が挙げられています。一つは生まれ持った身体的あるいは精神的な特徴の違いによるもので、それはやむを得ないものです。もう一つは社会的にそして政治的に形成されてきた不平等です。この不平等は、人々の同意によって取り決められたものです。またこの不平等は、種々の特権を、他の人々の利益を損なうようにして、享受します。より豊かに、より尊敬され、より権力をもち、人々を服従させます。
Enfin tous, parlant sans cesse de besoin, d'avidité, d'oppression, de désirs, et d'orgueil, ont transporté à l'état de nature des idées qu'ils avaient prises dans la société. Ils parlaient de l'homme sauvage, et ils peignaient l'homme civil.
訳:
結局、皆はたえず、欲求、貪欲、抑圧、欲望そして傲慢について語りながらも、自然状態に社会の中で理解された観念を持ち込んでいる。彼らは、野生人について語るとともに、文明人の髪の毛を整えている(洗練されたものにする)。
Commençons donc par écarter tous les faits, car ils ne touchent point à la question. Il ne faut pas prendre les recherches, dans lesquelles on peut entrer sur ce sujet, pour des vérités historiques, mais seulement pour des raisonnements hypothétiques et conditionnels; plus propres à éclaircir la nature des choses qu'à en montrer la véritable origine, et semblables à ceux que font tous les jours nos physiciens sur la formation du monde.
訳:
従って、あらゆる事実から離れることから始めてみよう、というのもこれら事実は問題に対する答えに触れることはないからである(先入観になるので目に見える「事実」なるものに惑わされないようにしよう)。このテーマ(つまり自然状態)に入るのに、歴史的真実の研究をしてはならず、ただ推論による仮説と条件の研究をしなければならない。これは、真の起源を指し示すよりも、物事の本性を明らかにするのに適していて、わが自然学者(物理学者)が世界の成り立ちについての研究で毎日やっていることと同類である。(つまりルソーの方法は科学研究の方法論の一つと類似あるいは同類であるということ)
Ô homme, de quelque contrée que tu sois, quelles que soient tes opinions, écoute. Voici ton histoire telle que j'ai cru la lire, non dans les livres de tes semblables qui sont menteurs, mais dans la nature qui ne ment jamais. Tout ce qui sera d'elle sera vrai. Il n'y aura de faux que ce que j'y aurai mêlé du mien sans le vouloir. Les temps dont je vais parler sont bien éloignes. Combien tu as changé de ce que tu étais! C'est pour ainsi dire la vie de ton espèce que je te vais décrire d'après les qualités que tu as reçues, que ton éducation et tes habitudes ont pu dépraver, mais qu'elles n'ont pu détruire. Il y a, je le sens, un âge auquel l'homme individuel voudrait s'arrêter; tu chercheras l'âge auquel tu désirerais que ton espèce se fût arrêtée. Mécontent de ton état présent, par des raisons qui annoncent à ta postérité malheureuse de plus grands mécontentements encore, peut-être voudrais-tu pouvoir rétrograder; et ce sentiment doit faire l'éloge de tes premiers aïeux, la critique de tes contemporains, et l'effroi de ceux qui auront le malheur de vivre après toi.
【訳】
おお人間たちよ、どの国の人間であっても、意見がどうであれ、聞いてくれ。この著作は、嘘つきたちの著作からではなくて、決して嘘をつかない自然から、私が読み取った人間の歴史である。自然に関するあらゆることは、真実である。私のこの著作に間違いがあるのは、我知らず自分の考えを意見を混ぜ込んだことによる。私が語るのはずいぶん古い時代のことである。君たちは元の状態とはなんと変化したことだろう!私は人間という種の一生を、その固有の質に基づいて描写しよう。この質は生得的なものであり、教育や習慣が堕落させても、破壊されることはありえない。個人は叶うことならばそのままでいたいというような時期があり、それを感じるが、それと同じように人間という種は願わくはそのままでいたいような時期がある。それを探そう。君は今の状態に不満だが、その不満の原因は後に生まれ来た人々により一層の不満をもたらすことを予告している。君は可能ならば元に戻りたいと願うだろう。こういった気持ちから、最初の祖先たちを称賛し、現代について批評し、また君の後に生きる人々の不幸となることに恐れおののくに違いない。
<第一部冒頭>
Quelque important qu'il soit, pour bien juger de l'état naturel de l'homme, de le considérer dès son origine, et de l'examiner, pour ainsi dire, dans le premier embryon de l'espèce, je ne suivrai point son organisation à travers ses développements successifs.
<訳>(quelque important que+接続法は決まった言い回しで、「たとえいかにque~であろうとも」ですから、ここではde以下のことがいかに重要であろうとも、という意味です)
人間の自然状態についてうまく判断するには、その起源から、つまりいわば人間の最初の胎児において考察することが重要である。ただそれがどんなに重要であっても、私は人間の継起的発展を経た組織化をたどることはしないでおこう。
<解釈>この冒頭では、 社会の形成過程から、自然状態について考えるのではなくて、最初から人間の自然状態について考えていく、という方針を掲げています。この研究は、社会から自然状態を考えていくという筋道を進まないということを各所で述べていて、これはルソーの基本方針です。歴史をたどるのではなくて、ほぼ一気に自然状態に思いをはせて、そのイメージに到達するのです。
ルソーは自然状態にある人間、野生人(homme sauvage)を描きます。ルソーは主にhomme sauvageとよんでいて、所々homme naturelとも書いています。
野生人は森で孤独に暮らしています。彼の欲望は簡素であり、木の実を食べたり、小川の水を飲んだり、木の下で寝たりしており、これで、「彼の全ての欲求は満たされています」。ただ、森の中で他の動物たちと戦っています。まだ道具の使用を知らないという段階であり、身体が非常に逞しいです。
ここだけに限らず全体に自然状態については想像上の自然状態を描きます。これは想像によって思い巡らされたものであって、その描写の細部にはあまり見るべきものはないようにも思われます。稚拙ささえ感じられます。しかし、その妥当性ではなくルソーの思想の着想が重要です。
なるほどそうかもしれません。このような穏やかな自然のなかにおいては、そのような生活があり得るのかもしれません。そのように恵まれた地域があるのかもしれません。自然人は気楽な一生を送っていたというのです。しかし、誰しも疑問に思うように、自然はそんなに甘くはないはずです。いつもこのように穏やかな自然のなかで暮らす事ができたならば大して苦労もありません。思うに、この自然人の状態では、人間にはならなかったはずです。つまり、他の動物と大差はありません。なぜならば、穏やかな自然のなかでは進化する必要がないからです。過酷な生命の危機にさらされている環境のなかでこそ人間は進化の必要が生じるのです。生き残りを賭けた対処法として自然人は人間になるという道が選択されたのです。ルソーは人間ではなくて人間の前段階である自然人を描いているのです。要するにルソーは人間の一面だけを描いています。
読み始めは、描写の仕方が上手で説得力があり、当時の人々にはウケていたのではないかとも思われました。語り口も穏やかで滑らかで、心と理性を癒やすような雰囲気があります。自然には両側面、つまり一方は穏やかで癒やす快適な自然、他方は荒々しく攻撃的では恐ろしい自然があるものですが、この著作の文体で現れいるニュアンスは、前者に対応していると思われました。
しかし読み進めていくと、原始部族に関する若干の文献をも参照しつつ、大部分を空想によって、「自然状態」を考察しています。それについては「何の根拠でそう主張するの?」と問いたくなります。ここでは実証的な根拠が少なすぎです。実証主義だけでやっていきますと思想が貧困になるのでいけませんが、それにしても実証性が必要です。それになぜ人間の起源を長々とそこまで述べる必要があるのでしょうか。描写の細部には、見るべきところが乏しいような気がして、ほとんど読み飛ばしてしまいました。当時はあまり違和感なく興味深く受け入れられたのでしょうか。 今日では、ルソーが重要な思想家だから、それに付随して、こういった空想的な描写が今でも読まれ翻訳さえされるのでしょう。私はさしあたりまともに読む気がしませんでした。ルソー自身も歴史的真理ではなくて、仮定と条件に基づいて推論できるだけである、と明言してもいます。
フロイトの『トーテムとタブー』でも原始部族について描かれていますが、そちらは論理的でさえある思想が表現された物語であることは明らかです。でもルソーの場合には、空想が行き過ぎて本当にそうであったかのように信じているのではなかろうか、筆が張りしすぎているのではなかろうか、パラノイアが混入しているのではないか、とおもいつつ、細部に興味が持てなくなってしまいました。
また文化人類学のレヴィ=ストロースは、ルソーを「文化人類学の創始者」とも位置づけましたが、ルソーの語る具体的な内容よりも、着想点が創始的だということではないでしょうか。その着眼点とは、未開社会について思いを巡らし、空想しつつ、人間の自然状態がどのようなものであったのか、その起源だけでなく、社会や国家の成り立ちを考察する思考実験を行うという方法論を思いついたということです。これは現在の社会や国家の状態を相対的にみることができます。ただこれはルソーだけでなくロックもそのようなことを行っています。しかし、ルソーは思考実験と実証性を混同しがちであるので、それが故に、あまり真剣に読みたくなくて、思想的な論理のほうを読みたくなります。専門家にとっては前者と後者の両方が大切なのでしょうが。フロイトの『トーテムとタブー』『レオナルド』『グラディーヴァ』などの文学芸術論もやはり思考実験と実証性が混同しがちです。
meditationについて。デカルトのmeditation。
経験論、合理論
経験論には反している。完全に反している。
そうだのに、どうしてヒュームはルソーを好意的に迎え入れたのか。
Je n'ai considéré jusqu'ici que l'homme physique. Tâchons de le regarder maintenant par le côté métaphysique et moral.
<訳>私はここまで身体的な水準のみを考察してきた。ここからは人間を形而上的で精神的な側面から見ていこう。(tâcher de - しようと努める。-しよう)
<解釈>
-moralについて-
ここでも moralという言葉が用いられていますが、さしあたりこれは精神と同義語と考えていいかと思われますが、意味の使い分けが為されているのだあろうとおもわれます。人間は本来的に善きものであったのか、悪しきものであったのか、つまり性善説なのか、性悪説なのかという問題意識があります。とくにベーコンとの対決にそれが現れています。あるいは人間はそもそも善くも悪くもなかったのか。それにしてもそのような水準での議論となるので、moralという言葉が用いられているのかもしれません。
-physiqueとmétaphysiqueについて-
それと形而上学métaphysiqueという用語についてです。ルソーは物質的な側面としての身体についてphysiqueという用語を使っています。そして肉体といってもいいかと思われます。ルソーは動物をおおむね機械のように考えていて、ただ完全な機械ではありませんが、しかし動物は物質的な存在で、pysiqueの水準で動いています。こういった動物を機械と見なすのはデカルトもそうであり、この見解は伝統的な考え方です。一方métaphysiqueは、哲学史ではおもにアリストテレス以来のものであり、自然学pysiqueに対してmétaphysiqueが置かれていました。ルソーは、一応こういったアリストテレス以来の哲学用語であるmétaphysiqueを用いていますが、動物のような機械的な生命体としての人間をpysiqueの水準で描き、その上に人間独自時の精神を持つ水準をmétaphysiqueとしています。以下ではその核心を、本能や他者による指令に対して引き受けたり拒んだりする自由意志を持つことであるとしています。
L'homme éprouve la même impression, mais il se reconnaît libre d'acquiescer, ou de résister; et c'est surtout dans la conscience de cette liberté que se montre la spiritualité de son âme: car la physique explique en quelque manière le mécanisme des sens et la formation des idées; mais dans la puissance de vouloir ou plutôt de choisir, et dans le sentiment de cette puissance on ne trouve que des actes purement spirituels, dont on n'explique rien par les lois de la mécanique.
<訳>人間は動物と同様に自然の本能が発する命令を受け取るという印象を感じる。しかし、人間は命令に従うか抵抗するかは自分の自由だと考える。この自由の意識においてこそ、人間の魂の精神性(spiritualité )が見られる。なぜなら身体は感覚のメカニズムと観念の形成についていくらか説明しはするものの、意思の能力あるいはむしろ選択する能力において、そしてこの能力を感じることにおいて、純粋に精神的な(spirituel)行為のみを見いだすからである。人はこれを機械的(力学的)な法則からは、なんとも説明しないのである。
<解釈>ルソーは人間と動物の違いがどこかというふうに論考を進めます。それについて、人間には、動物のように固有の本能がないが、それは人間が自由であると言うこととも対応しているといいます。動物は本能が発する命令に従います。つまり、動物はあらかじめ決められたプログラムに従って動く機械のような存在です。それにたいして、人間には固有の本能があまりはっきりしていません。人間は本能が発する命令に従うこともあれば従わない、つまり抵抗することもあるという選択choisirを行うため、「人間は自由な行為者」だということです。
人間の自由の導出のロジックはなるほどと思わせますが、しかしこれは自分の内側にある本能に従うか否か、ということからの自由のことであって、人間の自由一般を導出するには飛躍があるかと思います。さらに次の飛躍があります。つまり「この自由の意識において、人間の魂の霊性があらわになる」というのです。どうやって「霊性」という観念が導出できたのか謎です。このあたりは直感とひらめきでしょうか。このあたりは人間と動物の対比をしているという外見を取りながらも、実際には人間の自由についての一つのテーゼを提起したものと考えられます。
ルソーの論考に飛躍を感じるのは、動物と人間の比較するからだと思われます。むしろ機械論的、力学的な法則と人間の自由意志を対比させた方がクリアにわかりやすいと思われます。ここで動物と人間を対比させるからわかりにくいのだと思われます。ルソーは動物を精密機械だと考えていて、それを機械論的力学的な法則に従ったものという着想で考えています。
-la spiritualité(精神性)という言葉について-
spiritualité 霊性とすると違う方向への発想になってしまうので、ここでは、精神性ということでいいかと思います。しかし、精神について似たような言葉としてmoral, âme,spiritualitéがありますが、それぞれどのような使い分けをしているのか、わかりづらいです。moralについては上で一応説明を試みました。さて、人間は自由な意思を発する能力を持っていますが、それは少なくとも今のところは由来不明のものであり、この由来不明のものをさしあたりspiritualitéという名で呼んでいるようです。このように名前で呼んでおいて、当面はそれ以上問わずに話を進めることができるのです。これはルソーが提起したテーゼであり、あるいは、考察を進めても、それ以上問うことができない絶対的な前提要件の一つなのでしょう。âme(魂あるいは心)には、このようなspiritualitéの能力が備わっています。
人間の自由意志について
人間の自由意志を論じるにあたって三つの次元から言及しています。
1.本能の次元
2.機械論的力学的次元
この二つの次元が混在して、ほぼ一体になっています。人間はそれから自由であるということで、人間の自由意志が語られます。
3.さらにもう一つの次元が暗に含まれていると思われます。表だっては現れていませんが、それは社会的次元です。人間には、他人の命令に従うか抵抗するか選択の自由がある、あるいは社会的制度に従うか抵抗するかは選択の自由があるということになります。はっきりとはそのようには書いていませんが、そのようなことになるという萌芽が見られます。ただ、この著作の現段階の叙述では、たとえば自分の性欲や食欲という動物的本能に発する欲求には従わないという古くからのキリスト教の教えとも合致しているので何の問題にもならないでしょう。しかしいったんこのルソーの考え方が政治的な水準に移植されて展開されたなら、危険思想になるでしょう。そもそもキリスト教(カトリック)は世俗権力から独立していましたが、それはこのような本能にたいする不服従が政治権力にたいする不服従とが通じ合っていたということにもあるかもしれません。
現代における民主主義政治においては危険な思想ではありませんし、当たり前のことですが、当時は自国の政体を否定する危険思想です。
感覚と観念について
「la physique explique en quelque manière le mécanisme des sens et la formation des idéesの意味について。」これは身体は、たとえば、赤色の感覚sensを生み出し、次に赤色の観念idéesを形成します。これは必然ともいえる身体的水準の筋道です。ただし、ここでは赤色の「概念」ではなくて、赤い色をした赤色の「観念」のことです。
Mais, quand les difficultés qui environnent toutes ces questions laisseraient quelque lieu de disputer sur cette différence de l'homme et de l'animal, il y a une autre qualité très spécifique qui les distingue, et sur laquelle il ne peut y avoir de contestation, c'est la faculté de se perfectionner; faculté qui, à l'aide des circonstances, développe successivement toutes les autres, et réside parmi nous tant dans l'espèce que dans l'individu, au lieu qu'un animal est, au bout de quelques mois, ce qu'il sera toute sa vie, et son espèce, au bout de mille ans, ce qu'elle était la première année de ces mille ans.
<訳>「人間と動物のこの違いについては幾ばくか議論の余地があって困難が残すであろうが(意訳)、人間と動物を区別する非常に特別な(specifique)特質がもう一つある。それについては、異論の余地がない。つまり自らを改善する能力(faculté de se perfectionner)である。これは、環境の力を借りて、他の全ての能力を次々と発展させる能力である。これは人間という種としても、そして個々人のなかでもとしてもである。。。。。」
<解釈>
動物と異なり人間には自己改善能力があるとされます。動物はいつまでも同じ能力ですが、人間は、自分の能力を発展させていく力があります。人間の場合には歴史とともに能力が発達していくのです。これによって文明を築き発展させることができました。マクロな観点から人間という種でみれば人類の歴史として自己の能力を発展させ、ミクロの観点からすれば個人というレベルでも自らの能力を改善させていきます。種としての能力の発展史と個としての発展史の歴史があります。個体発生が系統発生を繰り返すともいいますが、こういった遺伝子レベルの系統発生史や個体発生史だけではなく、それに加えて、人間には環境の力を借りて自らの力によって新しい能力を開拓し発展させる能力があるのです。これは自己の能力の新たなる開拓と自己の能力の鍛錬を要します。この二つをもって自己改善の能力です。se perfectionnerとは自己の能力の新規開発と後続の人々がこれらの技能を習得するための自己鍛錬の二つがあると考えられます。こうして個々人の能力に依拠しながら、人類という種の諸能力の継起的な発展に資するのです。つまり人類という種にこのような能力が備わっていると言うことです。
因みにルソーは正規の教育を受けたことがほとんどありませんでしたが、彼は自己教育の人であり、過去の技能を習得すると共に新しいものを創り出そうとするという点で、自己改善能力の優れた人であったと思われます。創意工夫と創造性に優れた人でした。もっとも、歪みのようなものもあったのですが。
しかし、これら自由と自己改善能力が組み合わされ変質して、「人間を自己と自然を支配する暴君」に変貌しました。動物と異なって自由であるが故に、悪徳も生まれ、自己改善能力のゆえに強大な力を持ち、心や体の自然本来のありようも毀損するほどの暴君を生み出すのです。
このふたつによって、野生人の自然状態から、社会状態に到達させます。
『学問芸術論』では、学問や芸術、知識や技術が文明をもたらしたが、同時にそれらが人間に頽落をもたらしことを指摘したが、ここでもそのプロセスを示唆しています。もっともこのプロセスについては、まだなおしっくりいかない感じもあります。このような逆転と変質を発生させるのは一応わかるのですが、プロセスの説明がなくて飛躍であって説得力に少し欠けます。このプロセスには自由と自己改善能力のふたつ以外にも何かファクターが必要なはずです。
もっとも、このような自由と自己改善能力が諸刃の剣になるという考え方は、現代においていろいろな局面で警戒されています。ルソーはそれを原初的に、文明論として捉えているところが重要です。ルソーの思想家として優れたところです。
以上のあたりは2001年宇宙の旅の第1章"The dauwn of man"にも通じています。
類人猿は骨という道具を使うことによって人間になったと言うよりも、骨という道具を発見発明することで、自己改善能力の途を発見しましたということになります。つまり、ルソーの言うとの頃の「環境の力を借りて、他の全ての能力を次々と発展させる能力」です。類人猿は道具を発明するということを通じて、自分の様々な能力を改善する能力を獲得したのです。類人猿の喜びは道具の獲得という喜びでというよりも、自分の能力を改善する能力を獲得した喜びです。そして自分の能力の改善が無限であるかのように、あるいは神に近づくかのような万能感を伴っています。これは能力の飛躍的な向上を人間にもたらすところの、他の動物とは決定的に異なる人間の特質です。ルソーは動物と異なる人間の特質としてこの能力を挙げて、これは異論の余地がないと言っています。pitieのほうは動物でもあるというのですが、自己改善能力とは人間だけにあるとされるのです。ですからこの人間の自己改善能力は人間の歴史、社会、文明の形成においても中核的な要因になるのです。および、人間の文明の悪弊の起源もここにあり、本来の人間の善きもの、pitieなども疎外されるのです。
因みに『2001年』では、この能力はモノリスという神によって授けられたものです。それは一つの実験のために人間に授けた能力です。しかしこの自己改善能力が、核兵器や核兵器搭載型の人工衛星も作り出し人類を滅亡の危機に陥れることになります。
因みに『続・猿の惑星』では、核兵器(コバルト爆弾)を神と崇めています。どうやら類人猿は知性をある程度持っても、人間ほどは発展できずに、神としてあがめていたようです。人間は完全を目指すほどの自己改善能力があり、神にまで近づく勢いであり全能の神は相対的に衰退しましたが、類人猿にはその力が不足しているために、人間の能力を全能の神の偶像として崇めていたということになります。この場合コバルト爆弾は、本物の神ではなくて、神の似せ絵としての偶像であり、これを拝むことは偶像崇拝です。
se perfectionnerは、完璧なものにするという意味も含まれています。敷衍すると、人間は、自分のいろいろな能力を開拓して高めるという能力があり、自己改善能力とはいわば「能力改善能力」であり、これによって継起的に諸能力が発展していき、一定段階以上に発展すれば、文明を形成します。これは完璧なものを目指すという方向でもあり、完全主義的な心性はここでも貢献しているとも考えられます。
ところで、自然状態の人間は、この自己改善能力を持っていたのでしょうか。自然人は、自分の(家族はあまり関係なさそう)衣食住の欲求を満たす最低限のことで満足しているので、弓矢などの道具や狩猟採集のスキルや、身体能力を高めることで大丈夫です。これは簡単なことではなくて、大変高度の技術を要します。しかし、この高度のスキルのほとんどを遅くとも10代の半ばまでには習得できるでしょう。そして原始部族に見られるように、自然人ほど原始的ではないにしても、20世紀に入っても、100万年前と同じ生活をしている部族が世界中に存在していました。つまり、進歩が途中で止まってしまうような部族が多数あったのです。つまり原始部族の中には往々にして自己改善能力が途中で止まってしまうことがあったのです。ルソーの言う自己改善能力は、一体どこの範囲まで指しているのか、文明化まで指しているのでしょうか。ルソーの言う自然人は、この自己改善能力faculté de se perfectionnerが大分少なかったといえます。何百万年でも同じように固定化していて、それ以上のことを必要としません。動植物が豊富に恵まれていたのならばそれでいいのでしょう。寒冷地や食糧不足に悩まされるところなどでは、生きるために自己改善能力を発展させてきたようにもおもわれます。概ねこの原則は当てはまるのですが、当てはまらない例外も少なくありません。
しかし、仮に現代の未開部族の子供が文明社会の中で育ったとすれば、完全に文明人となるのであって、この自己改善能力は自然人であろうと未開の原始部族であろうと、潜在的能力としてはすべての人間全ての部族が持っているのは確かです。そして他の動物はそれを持ってないと断言できます。何かの事情で、この能力の成長が止まることはありそうです。それで自足しているからです。これは個人のレベルでも未開部族のレベルでも言えることです。なにか不足があって危機が生じるときには、自己改善能力が再び起動されるでしょう。しかし、何が文明化に向けて自己改善能力を最大限にまで高めることが起動されるのか。この最大限に高めるというのが自己改善能力の本質でもあると思われるのですが、この完全主義的な傾向は重要ですが、おそらくはこれを自己抑制して、神の能力(全能の神)として外化させてもいたでしょう。十全に自己改善能力を開花させると、この外化は相対的に減ってきます。自己改善能力が無限にまで起動されると万能感が伴うのです。神にはいくつもの側面がありますが、一神教においては全能の神は自己改善能力が外化されたものであるという側面も重要です。
以上のようなあたりは、本質的で興味深いところの一つです。
Il paraît d'abord que les hommes dans cet état n'ayant entre eux aucune sorte de relation morale, ni de devoirs connus, ne pouvaient être ni bons ni méchants, et n'avaient ni vices ni vertus, à moins que, prenant ces mots dans un sens physique, on n'appelle vices dans l'individu les qualités qui peuvent nuire à sa propre conservation, et vertus celles qui peuvent y contribuer;(あまりに長い文章です。途中ですがここで切りたいと思います。)
<意訳>「自然状態における人間は、相互にいかなる道徳的な関係relation moraleも結ばず、いかなる(道徳的な)義務も知らないために、善も悪も存在し得ないし、悪徳も美徳もなかった。あるいは、これらの用語を身体的な意味に適用するなら、自然状態における人間においては、自己保存を害しうるものを悪徳と呼び、自己保存に貢献するものを美徳と呼ぶのが良かろうか。」
<文法>
・on n'appelle:à moins queに続いて、neは虚辞であろう。 これは条件法的に用いられている。prenantはgerondifの条件法的な使い方。
・nuire a a~を害する、損なう、毀損する。
<解釈>
自然状態における人間は、道徳的な人間関係を取り結んでいないために善悪の区別がありません。ただ、自己保存という観点からすると善悪があり、道徳的な善悪ではありません。ルソーは道徳的な善悪も、文明の産物であると考えています。
もっとも、ルソーは自然状態はむしろ善であると言いたいと思います。それが次のPitieを基礎としています。Pitieは道徳ではありません。ルソーは、ホッブスの万人の万人に対する闘争、および文明によるその緩和、という考え方を否定します。ルソーは、ホッブスの考えは文明化によって生じた悪弊によって幾度となく繰り返された闘争状態を自然状態の人間に投影して人間の本性であると見なしたものと考えます。
ルソーは道徳を軽視するものではありませんが、それは文明化によって作り出されたものです。いまさら善と悪のない時代に戻るわけにはいかないのですから。むしろ徳をどういうふうに高めて、それを政治社会的な空間とも連動させるか、が重要です。
自己保存sa propre conservationは正当なものとして肯定されていて、これは美徳でも悪徳でもない、あるいはこれが美徳か悪徳かと言えば、美徳であるとされます。場合にもよるのですが自己保存は基本的には徳の一つに数えられるのです。これは個々人のレベルでもそうであり、ここでは身体的物質的pysiqueの意味だと言っています。ここでは触れられていませんが、より大きな集団、つまり家族や共同体でもそうです。更に大きく考えて「国家」においてもそうなのです。個人、家族、共同体、国家といった人間の個や集団のいずれのレベルでも自己保存sa propre conservationが美徳です。そして自己保存sa propre conservationを毀損することが大きな問題であり悪徳です。たとえばルソーは、前作『学問芸術論』において、学問や芸術の発展が、個人を内に向かわせつつ現状の問題・課題から目を背け、こうして個人と国家を切り離す事で国家を弱体化させ、ひいては衰退、被征服、滅亡への道を歩むようになる、つまり自己保存sa propre conservationを毀損するというのがルソーの考えの原理です。このように自己保存sa propre conservationはルソーのなかでは政治思想としても重要な位置にあります。徳とは、個人と国家の双方の力を維持増進することなのです。また、ここでいうpysiqueとは当然のことながら物質的身体的ですが、さらに加えてこの国力の平面では、精神的な体力とでもいうべきpysiqueも含んでいると思われます。つまり意思の力、不撓不屈の精神、絶対の決意などです。ルソーにとって、国力が強いことが正義なのです。国力の強さはその国の精神力の強さを表しています。そして個々人の精神力の強さを表しています。相手国を征服するくらいの勢いがあるところがむしろ徳の高い国です。『学問芸術論』では、アテネは学問芸術が発展したために滅亡に向かい、スパルタは学問芸術を追放したから強い国を維持できたとされます。
ルソーは重要な問題を提起していると思われます。
しかし、ルソーは、後に著しい被害妄想によってこの自己保存sa propre conservationがひどく脅かされましたが、これはパラノイアと結びつきやすいことがあることも要検討です。
ルソーの考え方は、画期的ですが、しかし実はそのラジカルな思想の主要部分がキリスト教の教えにすでにあることも少なくありません。ルソーは、キリスト教を信仰している徒でした(プロテスタント→カトリック→プロテスタント)。
人間が元々善悪を知らなかったというのも創世記にあります。文明化による弊害は旧約聖書にも語られることでした。フランチェスコ会などでは、奢侈から離れ、所有物を放棄し、聖書以外の書物からも離れ、原点に戻ることを唱えました。もっともルソーは、キリスト教から離れて、考察しています。キリスト教の教えにとらわれているわけでもありません。しかしルソー独自の着想であるとともに、ずっとキリスト教の中にもありました。キリスト教自体に革命的な精神が潜んでいるとともに、宗教に包まれて、攻撃性を抜き取られ、それでも時たまキリスト教内部でも噴出してきます。ルソーはキリスト教の外にでて哲学思想の言論空間で自らの頭で考えてラジカルな思想を展開します。
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N'allons pas surtout conclure avec Hobbes que pour n'avoir aucune idée de la bonté, l'homme soit naturellement méchant, qu'il soit vicieux parce qu'il ne connaît pas la vertu, qu'il refuse toujours à ses semblables des services qu'il ne croit pas leur devoir, ni qu'en vertu du droit qu'il s'attribue avec raison aux choses dont il a besoin, il s'imagine follement être le seul propriétaire de tout l'univers.
<文法>
4つのqueが並列になっています。最後のqueはni queとなっています。これはN'allons pas surtout conclure avec Hobbesの否定文に対して最後のqueだけni queとしています。「これもまた違う」という意味のようです。
pourは理由を表しています。「~だから」
soitは接続法であり、断言しているのではなく、考えている。
<意訳>ホッブスのように結論しないようにしようではないか。ホッブスにとって、人間が善の観念を全く持たなかったから自然においては人間は悪人であったし、美徳がなんであるかを知らなかったから邪悪だったし、同胞たちへの義務をしらなかったから義務の行いを拒んだし、人間は自分が欲するものについての権利は自分にあるとするおかげで、人間は全宇宙の唯一の所有者であると狂気じみた空想を描いていた。
<解釈>
ホッブスはいわゆる性悪説を採ります。それに対してルソーは性善説です。要するに、自然人においては精神活動の上位から下位への禁止や命令がなかったから、下位の願望が解放されて好き勝手に振る舞うと言うことのようです。これは神経学でもこのようなことが言われています。たとえば前頭葉症状です。前頭前野には統合機能があり、大脳の活動のトップに位置していて、下位の神経系に禁止と命令を与えていますが、この前頭前野の機能を喪失すると、下位の神経系が勝手に思い思いに暴走してしまいます。こうしていわゆる「脱抑制」が生じます。これが前頭葉症状です。この考え方によれば、中枢神経系は上下関係のあるヒエラルキーを構成しています。これは中枢神経系の話ですが、果たして、人間関係についてもそれは成り立つのでしょうか。あるいは上位に位置するものは何でしょうか。後のルソーの議論の展開によれば、最上位にあるのは「憐れみの情」ということになります。これは精神活動と人間関係のヒエラルキーの頂点に立っているということになります。「憐れみの情」が諸々の自己保存欲求を和らげ、人間と人間の関係を適正なものとして維持する、あるいは最適化しているのです。人間が文明化された理性化されると、このヒエラルキーの頂点から「憐れみの情」が追いやられ弱体化され、代わりに諸々の利己愛にとってかわります。このあたりはまだ議論が必要そうです。
Hobbes a très bien vu le défaut de toutes les définitions modernes du droit naturel: mais les conséquences qu'il tire de la sienne montrent qu'il la prend dans un sens qui n'est pas moins faux.
<意訳>ホッブスは自然法についての現代のあらゆる定義の欠点を大変よく見抜いていたが、自分の定義から引き出した結論は、この定義の意味(方向)を取り違えて相変わらず間違った結論のままであった。
En raisonnant sur les principes qu'il établit, cet auteur devait dire que l'état de nature étant celui où le soin de notre conservation est le moins préjudiciable à celle d'autrui, cet état était par conséquent le plus propre à la paix, et le plus convenable au genre humain.
<意訳>ホッブスが確立した原理から推論してみるに、彼はこう結論すべきだった。自己保存の営みは他者の自己保存をもっとも害することのない状態であるから、結論としては自然状態は平和に最適な状態であり、人間にもっとも相応しい状態であったのだ。
<解釈>
自然状態が人間にとって最適な状態であった。これは人間関係や人間の精神について最適だったと言うことです。もちろん自然の脅威に立ち向かえませんから平均年齢は極端に低いものであり、自己保存の観点からはよい状態とは言えません。それでも自然状態は何百万年あるいはそれ以上続いていたと思われ、その長い自然状態の経過の中で形成された人間関係様式や人間の精神は、自然状態の人間に最適化されていたと考えられます。理性化された文明の中でこそ、それはゆがめられ、機能不全に陥る可能性があるのです。
Il dit précisément le contraire, pour avoir fait entrer (mal à propos) dans le soin de la conservation de l'homme sauvage le besoin de satisfaire une multitude de passions qui sont l'ouvrage de la société, et qui ont rendu les lois nécessaires.
<文法>
ここのpourも理由を表しています。「というのも」位の意味。
mal à propos:都合悪く。
rendre OC OをCにする。
<意訳>彼はまさしくその正反対のことを言う。彼は、野生人の自己保存の営みの中に夥しい数の情念を満足させたいという欲求を都合悪く混入させたが、実際にはこの情念とは社会の産物であり、それだから法律を定める必要を生じさせたものであるのだ。
<解釈>近代が始まって以降どんどん増えていった欲望を自然状態の人間にも投影して、もともとから人間とはそのような欲望を持っているのだと見なすことをルソーは否定します。文明社会の中で持っている欲望を、自然状態のなかで過ごす人々に投影してはならない、と。欲望とは社会的産物であることがおおいということです。とりわけ消費社会や政治の発展によって生じる権力欲などもあるでしょう。
この著作は人間の自然状態を考察する一環として、系統発生と個体発生が対応関係にあるとするという観点から(ルソーはそのよう用語は使いませんが)、子供を観察して論拠にします。具体的な子供の観察結果から本来の人間を検討してて、ホッブスを批判するところは優れています(4952)。ホッブスはこんな身近で当たり前のところも見てないのか、と。憐れみの情が子供に観察されるのだから、ホッブスのいう野蛮人=悪人=「たくましい子供」というふうにはならないといいます。ルソーの着想はきっと間違いではありません。
自然状態がもしホッブスの言っているとおりならば、ルソーが指摘するように、現代の子供たちも兄弟姉妹間で敵同士になり、殺し合いをしているはずです。しかし、そうはなりません。人間はその本質として先天的に自然な憐れみの情pitieがあります。同胞が苦しむのを、生まれつき嫌悪を感じるのです。ルソーによれば、これは人間の自然の美徳であり、原理であり、もって生まれた素質であり、普遍的に備わっているものです(例外はありますが)。それからこの性質は人間固有のものではなくて、動物にも観察されるのだから、ましてや人間にもあるのだといいます。ただ、人間の場合は動物よりその能力がより高いと考えられるのです。
これは正しいことであると思います。
Il y a d'ailleurs un autre principe que Hobbes n'a point aperçu et qui, ayant été donné à l'homme pour adoucir, en certaines circonstances, la férocité de son amour-propre, ou le désir de se conserver avant la naissance de cet amour [note 15], tempère l'ardeur qu'il a pour son bien-être par une répugnance innée à voir souffrir son semblable. Je ne crois pas avoir aucune contradiction à craindre, en accordant à l'homme la seule vertu naturelle, qu'ait été forcé de reconnaître le détracteur le plus outré des vertus humaines8. Je parle de la pitié, disposition convenable à des êtres aussi faibles, et sujets à autant de maux que nous le sommes; vertu d'autant plus universelle et d'autant plus utile à l'homme qu'elle précède en lui l'usage de toute réflexion, et si naturelle que les bêtes mêmes en donnent quelquefois des signes sensibles. Sans parler de la tendresse des mères pour leurs petits, et des périls qu'elles bravent pour les en garantir, on observe tous les jours la répugnance qu'ont les chevaux à fouler aux pieds un corps vivant ;
<意訳>
ホッブスが全く気がつかなかったもう一つの原理がある。この原理は、ある状況において、利己愛の獰猛さあるいは利己愛が生じる以前の自己保存欲求を和らげるために人間に与えられた原理である。この原理は、同胞が苦しむのを見ると嫌悪することによって、自らの安寧を求める情熱を和らげる。私はこれが自然の唯一の美徳であると見なしても反論を恐れることは全くないと思う。人間の諸々の美徳にたいするもっとも極端な誹謗者であってもただ一つこの美徳だけは認識せざるを得ない。それは憐れみの情pitié のことである。憐れみの情pitié は、私たち人間のように弱くて悪い人間に相応しい素質である。この美徳はあらゆる思考を用いることに先立って普遍的で有用である。そしてこの美徳はとても自然なものであるから動物さえも時にはこの憐みの情の顕著な兆候を示しさえする。子供たちに対する母親のやさしさや危険から子供たちを守ろうとして母親が勇敢に立ち向かうことについては言うに及ばない。たとえば馬が生き物を踏み潰すのを嫌悪するのは日々見かけるところである。
<文法>原文は持って回ったような表現があったりで一読しただけでは構文の把握がかなりわかりづらいです。日本語に訳すとかなり平たくなりますが、切れ切れになりがちです。
これはルソーはここでは言及していませんが、「憐れみの情pitie」あるいは「寛容」はキリスト教の隣人愛に近いものかと思われます。ただルソーのほうは誰彼なく隣近所の人々に親切でなければならない、というのでもなくて、もともと人間は近しい人に「情けpitie」をもつものだという自然の感情のことを言っているのであり隣人愛ではありません。近しい人なら誰彼なしにではありません。実際には、相手次第、状況次第なのです。ただ、人間はそのような能力を持っているということが決定的に重要なのです。時には近しい人が悪さをすれば、それに対してそれ相応の対応をしなければなりません。ルソーは迫害妄想を持つことがあり、外部からの悪事には敏感で、とりわけそれ相応の対応をしようとしていました。有名なところではヒュームがルソーにあれこれと手を貸していると、ルソーはヒュームが自分を陥れるための手先になっている裏切り者であると考えて、ヒュームを排撃したことです。他方では、ルソーはこのような情けを持っているのは確かであり、その点は普通以上に豊かであろうと思われます。また、これは人間特有のものではなくて、動物にもあることです。自然のままの子供にも当然あります。以上のことから敢えて宗教的なもの、たとえば義務という観念が混入している「隣人愛」というものを持ってくる必要もありません。なるほど憐れみと隣人愛は近いところにあるだろうと思われますが、それよりももっと柔軟で自然発生的な憐れみの情pitiéが相応しく、ホッブス批判の論拠にもなるのです。ただ、ルソーは、ホッブスが全くこの観点を知らないか無視しているのか認めていない、と糾弾しますが、ホッブスがまさかそんなことを考慮に入れていないはずがありません。ルソーのホッブス批判は、論点がかみ合ってない可能性があります。ルソーの言うように人間や子供が純真無垢ではありません。ただルソーは、この憐れみの情pitiéを中核として、自然状態、そして文明化による野蛮化を論じます。このようにルソーは壮大に拡張する文明論を構想しますが、それはやはり重要な見解であります。
人が苦しんでいると嫌悪を感じるとルソーは言います。でもその逆もあり得ると言うことです。人が苦しんでいるときに、嫌悪するのか喜ぶのか、という二分法だと、この二つを分けることについては、実はなかなか説明が難しいのではないかと思うのです。相手によって、あるいは時と場合によってはどちらにでも転びうる訳ですから、常に不信感が芽生える訳です。いつもルソーの言うようにはならないし、いつもホッブスが言うようにはなりません。双方とも真にもなりうるし、偽にもなりえます。そして双方とも政治哲学の重要な原理となりえるのです。
自然状態で強かった憐れみの情は、文明において弱まったのだという重要な視点をさらに深めます(1100)。
文明のなかで理性と省察は、利己愛の増長と歩みをともにしているとルソーはいいます。この場合の理性と省察とは、単純に言えば、あれこれと考えること。それに対して「憐れみの情」は何も考えずに自然に生じてくるものです。何も考える必要はありません。決して理性を働かせることで憐れみの情が出てくるものではありません。逆にあれこれと考えることによって自然な「憐れみの情」は減衰していきます。このようにルソーは憐れみの情の発生の根拠を理性の行使のうちには求めません。ルソーにおいては理性対自然という図式になっています。憐れみの情を持たずに理性の行使に依存していたならば、人類は闘争状態のなかでとっくの昔に滅んでいたと明言します。また憐れみの情は、道徳でもありません。人間がいかなる道徳を持っていたとしても、人間が憐れみの情を持たなければ怪物のような存在だっただろう、と。また、寛容、慈悲、人類愛は、憐れみの情に還元されます。
憐れみの情はいわばア・プリオリなものとして人間(そして動物)に備わっているものです。それに対して理性はむしろ後天的に形成され発達してきたものです。あるいは憐れみの情は個々人によってその強弱に差があり、ほとんどない人もいるかもしれません。
キリスト教の隣人愛「汝の欲することを他人に為せ」は理性に訴えかけ義務を課すものですが、これはそもそも憐れみの情に由来します。理性の発達によって弱まった憐れみの情を理性に働きかけて強化する代替のような言葉なのでしょう。隣人愛は、減衰した憐れみの情を補強したり代替するための再構築物のように思われます。
<この項目は文章の乱れ多く、修正中>
文明のなかで理性が発達して「憐れみの情pitié」が弱まると、代替物として道徳(実践理性)を作り強化するということになるでしょうか。そうでなければ安定した社会が維持できません。カントの実践理性、とくに当為「・・・すべし」という理性の声と、ルソーの「憐れみの情pitié」を比較するのがよいでしょう。実践理性のほうは内側から発せられる命令と義務であり、憐れみの情は湧き水のようなものです。ルソーは「自然の声をもって人に語りかける」法とも話します。両者は近いところ交わっているところもあるのですが、反対側に向かって範囲を拡げています。実践理性は義務と命令に範囲を拡げ、憐れみの情は自然へと範囲を拡げています。ルソーの「自然の声をもって人に語りかける」もののほうが優しく穏やかであるような気がしてきます。これもやはりカントの実践理性とは若干おもむきが異なるものの、やはり「理性」にも位置づけることができると思われます。文明における野蛮において、古くからある自然の呼びかけによって気づかされるのであり、これもまた理性と呼ぶこともできます。もっともルソーは上のように「理性」を排撃するようなことをたくさん言っています。ルソーはカントよりも、一層自然の側に軸をおいています。
またルソーは道徳ばかりであれば人間は怪物になっていた、とこの著作で明言を語っています。こういったことからもカントの実践理性批判はなにかもう一つの暗い野蛮を含みうるのではないか、と疑惑の目を向けられることがあるのです(たとえばT.W.アドルノやラカン、その他20世紀の現代思想において)。
さらなる命令と義務として代替されるものは、法律だということになります。減衰した自然法は、成文法において再構築されるのです。
しかしルソーの言っている自然の憐れみの情とは、外敵(自然の猛威)のなかで、団結して結束するという面もあるように思われます。かつての自然の猛威に対処するためには、この「憐れみの情pitié」があったのではないでしょうか。他の部族からの攻撃もそうです。そしてまた外敵が失われたら、内部で葛藤が生じやすいのは今も昔も同じだろうと思われます。
上で自然の情としての憐れみの例として同胞の間で自然に生じるものとして重要な例が挙げられましたが、それでは同胞葛藤はどうなのでしょうか。それについては今のところルソーによる説明を見いだせていません。
PDFではp37です。
Tel est le pur mouvement de la nature, antérieur à toute réflexion : telle est la force de la pitié naturelle, que les moeurs les plus dépravées ont encore peine à détruire,...
<意訳>考えるということ全てに先立つ(反省réflexion (思考、思考の働き)という哲学用語にもかかっているとは思います)自然の純粋な動きとはこのようなものである:自然な憐れみの情の力とはこのようなものである。そしてもっとも退廃した習俗であってもこれを破壊することは難しい。
<解釈>
ここでは、憐れみの情について、思考に先立つ自然のものとして最初からあったと言うことが説明されています。どんなに悪い文化的な環境であってもこれを破壊することができない、と。憐れみの情は理性によって形成されるのではなくて理性以前にあったものです。理性に先立った原理です。何も考えなくても、どんな文化であっても、どんなに未開であっても、あるということです。これがルソーの(あるいはルソーの『人間不平等起源論』の)第一原理として認めることができるものでしょう。ただ、この第一原理は『学問芸術論』には現れていなかったように思います。また今後のルソーの思想のしそうのなかでなおも第一原理として有効性を発揮するのでしょうか。
Mandeville a bien senti qu’avec toute leur morale les hommes n’eussent jamais été que des monstres, si la nature ne leur eût donné la pitié à l’appui de la raison :
<意訳>もし自然が理性の支えとして憐れみの情を人間に与えなかったならば、あらゆる道徳をもっている人間でも間違いなく怪物になっていたに違いない。マンデビルはそのように正しく考えた。
<解釈>
ここではルソーはクリアに意見を表明しています。そしてまたとても印象的であり、重要な観点であると思われます。道徳は善きものとは限りません。道徳とはそれだけでは怪物のようにもなりうるという考え方です。道徳に対する重要な疑義を提起しています。道徳的なことから、様々な残虐なこと過酷なことが行われることがあります。道徳を追求することで逆に怪物になりえます。あるいは憐れみの情が存在しないあるいは希薄な人々が道徳的になるとこうなりやすいと思われます。
逆に言うと憐れみの情があって、あまり道徳がない人もいることが考えられますが、なにか純粋な人でもあります。ただ普通は憐れみの情があれば善き道徳も備わりやすいものです。また、憐れみの情があってもそれがあまりに特定の対象だけに偏りすぎている場合もあります。倒錯的な場合もそういったことがあるでしょう。また憐れみの情がないか、非常に希薄である場合もあります。これは最近ではサイコパスという考え方で注目されています。サイコパスでも道徳に従っている場合があります。
ときには自らを省みて、憐れみの情が希薄化しているのではないかとか道徳が先行しすぎているのではないか、とか気づきも大切であろうかとおもわれます。これについて特段の対処法をすぐに考えると言うよりも、まずは自ら気がついてみることが重要であろうと思われます。
・過酷な教育、しつけ。折檻がこうじて虐待も。
・個人的な水準だけではなく集団心理(社会心理)としてもこれが発生します。歴史上でもこのような事件が発生したりもします。
・魔女狩り。
・ナチスによるホロコーストなどもこれに近いものかと思われます。
・『文学芸術論』では学問、文学、芸術が発展すると自分のことしか考えなくなる傾向が強まり、意識が内向きになり共同体のこと国のことを軽視するようになることが主軸に論じられました。『人間不平等起源論』では、憐れみの情が主軸になっています。これもまた文明の発展によって自分のことしか考えなくなる傾向が強まるということです。そしてこの文明の過程で道徳が発展してきましたが、これは本来は憐れみの情の減弱を補うためであったのでしょうが、憐れみの情から切り離されて、道徳が自律的に動き始めて時には他者に対して過酷に振る舞うようことがあるのです。他者に対して大変過酷に振る舞うことがあるというのが道徳のデメリットです。憐れみの情にはそのようなデメリットはありません。心のない道徳はときに他者に対して過酷になります。 あれこれ考えてみるに憐れみの情は怪物になることはありませんが、道徳は怪物になることがあります。
また憐れみの情はあるとともに、道徳の過酷であるなどして、悩みや精神疾患にも関連している場合があります。
ラカン派の精神分析で言う超自我とは、一方では欲動にたいする道徳的な検閲の担い手であり、他方では厳しく過酷なことを容赦なく行う担い手でもあります。
mais il n’a pas vu que de cette seule qualité découlent toutes les vertus sociales qu’il veut disputer aux hommes.
<意訳>しかしマンデビルが見ていないことがある。ただこの憐れみの情だけから、社会的な全ての美徳が派生するのである。
<解釈>
やはりルソーは憐れみの情を個人心理から社会心理までに拡げて考えています。そもそも憐れみの情とは、個人心理でありながら、同時に社会的な関係を形成する基礎的な原理です。
En effet, qu’est-ce que la générosité, la clémence, l’humanité, sinon la pitié appliquée aux faibles, aux coupables, ou à l’espèce humaine en général ?
<意訳>弱い者たち、罪人たち、あるいは人類一般にたいする憐れみの情がないとしたら、寛大さ、寛容さ、人間性とは一体なんだと言うだろうか。
<解釈>
このあたりはキリスト教的です。ルソーは熱心なキリスト教徒です。前作の『学問芸術論』などでも、徳とは国のことを考えること、信仰が重要です。もっともこの論文や他の論文でもキリスト教の教義に沿って書くというやり方をしません。ルソーは信仰の大切さを説きながらも彼の著作は宗教書ではありません。彼は彼の思想に基づいて書いています。しかしキリスト教の教えとかなり近い考え方であるのは確かです。ただ憐れみの情とはルソーのテーゼです。ルソーの考えは独創的でありながらも、その内容はキリスト教の教義と類似しています。
La bienveillance et l’amitié même sont, à le bien prendre, des productions d’une pitié constante, fixée sur un objet particulier : car désirer que quelqu’un ne souffre point, qu’est-ce autre chose que désirer qu’il soit heureux ?
<意訳>
好意とか友情さえも、憐れみの情が特定の対象に定着して一定に持続したものである。というのもある人が苦しまないようにと望むことは、その人が幸福であるようにと望むことにほかならないのではなかろうか。
<解釈>ここで憐れみの情をさらに一歩進めて拡張しています。つまり好意とか友情とかも、憐れみの情の変化形であるとしています。
Quand il serait vrai que la commisération ne serait qu’un sentiment qui nous met à la place de celui qui souffre, sentiment obscur et vif dans l’homme sauvage, développé, mais faible dans l’homme civil, qu’importerait cette idée à la vérité de ce que je dis, sinon de lui donner plus de force ?
<意訳>
同情(la commisération:pitiéと同義かあるいはそれから派生したもの)とは、苦しんでいる者の身に自分を置き換えてみる感情にほかならず、それは野生人においては漠として生き生きとしているが、文明人においては発展していても微弱である。これは私が言っていることの正しさを示すだけでなくより強く支持するものである。
En effet, la commisération sera d’autant plus énergique que l’animal spectateur s’identifiera intimement avec l’animal souffrant. Or il est évident que cette identification a dû être infiniment plus étroite dans l’état de nature que dans l’état de raisonnement.
<意訳>
同情(la commisération)は、動物が他の動物が苦しんでいることに同一化することである。同一化すればするほど、同情もそれだけ強くなる。この同一化は理性的な(de raisonnement)状態においてよりも、自然の状態においてのほうがより強く、その結びつきの程度は無限大であったに違いない。。
<文法>動物についての話については条件法ではなくて未来形であるので、より明瞭に主張しています。
<解釈>
pitiéとは、苦しんでいる他の人に同一化することです。いわば想像力による同一化です。相手の身になることです。自分の身を相手のみに置き換えることです。上の文章では人間ではなくて動物の例を出してきていますが、私たちにとっては、これは正しい例かどうか確証が持ちにくいです。私たちに身近な犬や猫をみているとそれについては疑問を感じます。せいぜい母猫が子猫にたいしてくらいです。しかしある種の動物にはそういったことがあります。たとえば、ボノボという猿(別名ピグミーチンパンジー)はおそらくこれが当てはまります。こういったことは、かなり種によって規定されているものと思われます。上の文章でルソーが動物の例を持ち出しているのは、自然状態を強調するためです。上では、自然と理性の対比、そして自然状態と理性の状態を対比させています。ルソーの立場は「反理性」に近いです。近親者に対してとか、時と場合によるのですが、理性の状態において、人間としての感情であるpitiéが著しく減弱するのです。著しいというのは、程度としてはもの凄く、というくらいです。ほとんど感じられなく微弱な、あるいは消失してしまっていることも少なからずあるというくらいです。理性の状態においては、人間は著しく薄情になります、無関心になります、そして残酷になることもあります。そして往々にして自分のことしか考えなくなります。それにたいして、自然状態においては、pitiéは無限大かと思われるほど充実しているというのです。それほどに人と人の結びつきが強かったのです。「自然人」は集団生活をしていませんから、そんなに人と接するわけでもありません。人におべっかを使うこともありません。でも人との感情面(pitiéとamitié)での結びつきは非常に強いものがあります。自然人は誰に対しても豊かな感情を持っているのです。
理性の状態においても、家族や近親者に対しては感情面(pitiéとamitié)の結びつきが強いです。ただしルソーは家族だけでなくて集団のことや共同体のこと国家のことにまで拡げて考えているというか、それこそを目指しています。自然状態では集団生活が少なかったのですが、文明生活においては共同体や国家が形成されます。ルソーは愛国者です。他者に対しての感情(pitiéとamitié)は、他者に目を向ける徳を形成し、国家の基盤にもなります。
それにしても自然人には存在しなかった共同体や国家などの集団性の基礎として感情(pitiéとamitié)が位置づけられるというのも矛盾ではないかとも思われます。しかし、文明化した以上は、共同体も国家も必要であり、壊すわけにはいきませんから、そこにおける基礎である感情(pitiéとamitié)をもう一度位置づけをしっかりしておきたいという思いがあったのだろうと思われます。
ボノボ(ピグミーチンパンジー)
PDFではp38の上4分の1からです。 2019年9月
C’est la raison qui engendre l’amour-propre, et c’est la réflexion qui le fortifie ; c’est elle qui replie l’homme sur lui-même ; c’est elle qui le sépare de tout ce qui le gêne et l’afflige : c’est la philosophie qui l’isole ; c’est par elle qu’il dit en secret, à l’aspect d’un homme souffrant : péris si tu veux, je suis en sûreté.
<文法>à l’aspect de~ ~を見て。aspectは外観、様子、見かけ。
la raison とréflextion は同義と考えられます。
<意訳>
理性こそが利己愛を生み、考えることが利己愛を強める。それは人間を自分の中に引きこもらせる。それは自分を不快にさせたり苦しませることから引き離す。哲学が人間を一人っきりにさせ、かりに苦しんでいる人を見ても「勝手に死ぬがいい、私は安全だ」と秘かにつぶやく。
<解釈>逆説的なことを書いています。理性が利己愛を生み出しそれを強めるのだ、と。そして理性の人である哲学者がその悪しき代表者にもなっています。哲学というものはそのようなものであるのだ、と。こういったことは逆説的でありながらも、重要な見解です。確かにそのような傾向があるかとは思われます。しかし具体的にはどの哲学者をさしているのでしょうか。ソクラテスはそれには当てはまりません、これはルソーも認めるところです。具体的に誰というのが思い浮かびにくいです。ただ、まずはc’est la philosophie qui l’isoleということからしてもデカルトの思弁的な側面が挙げられると思います。しかしさしあたり簡単に言ってしまえば、ルソーと同時代の哲学者たちのことをいっているのだと思われます。ルソーは重要なことをいっていると思います。これは哲学者だけではなくて、近代人の自我の有り様、さらには階級的な特性を描写してるものと思われます。敷衍していえば、デカルトが描いているのは、おもに近代人の自我の有り様です。
なお思弁ではなく実践を求める流れは古くからあります。たとえばフランチェスコ修道会は、学問を捨て、宗教的な実践のみに専念します。また19世紀半ば以降、つまりマルクス主義の考え方だと思弁的な哲学にたいする批判が強まり、実践を重視します。20世紀後半からのポストモダンでは反理性の考え方が強まります。
Il n’y a plus que les dangers de la société entière qui troublent le sommeil tranquille du philosophe, et qui l’arrachent de son lit.
<意訳>
哲学者の静かな眠りを乱し、寝床から引き剥がすのは、ようやく社会の全体が危機に陥ってからである。
<解釈>この社会全体が危機、つまりカタストロフに陥るときとはどんなときでしょうか。自分が依って立つ社会基盤が揺らぐと、彼ははじめて動揺するということなのでしょうが、どういカタストロフのことでしょうか。これは社会の大変動、社会構造の変革期、革命、内乱、戦乱です。フランスにおいては近代に入ってからルソーの時代までは、カタストロフになるような社会変動はあまりなかったように思われます。しかし近代のはじめ頃は不安定で新旧の宗教を巡っての内乱状態や戦乱が一時期あったくらいです。それにたいして隣国イギリスでは、革命ととも内乱状態になったことがあります。こういったイギリスの例の方がわかりやすいかと思われます。
On peut impunément égorger son semblable sous sa fenêtre ; il n’a qu’à mettre ses mains sur ses oreilles et s’argumenter un peu pour empêcher la nature qui se révolte en lui de l’identifier avec celui qu’on assassine.
<文法>qui se révolteは挿入。empêcherA de inf.はAがinfするのを邪魔する。
<意訳>哲学者の家の窓の下であれば彼の同胞を殺害しても罰せられずに済む。彼がすることはせいぜい、反抗する自然を抑えこんで、殺される人の身になることなどないようにと、手で両耳を塞ぎ、心の中で多少の議論をするくらいであろう。
<解釈>
なにぶん極端な例です。ここで同胞とあるのは、兄弟というよりも同じ人間という意味での同胞です。ただいかに哲学者とはいえそこまではなかろうと思います。本当の兄弟ならば、そんなときには哲学者とはいえ、全てを忘れて、嘆き悲しみ、怒り、兄弟のことを不憫に思うことでしょう。兄弟でなくてもやはりある程度は感情があるでしょう。ルソーのいうような哲学者など、変人のような哲学者に違いありません。しかし、それでもやはり哲学者が思弁の世界に籠もって、自然な人間性が希薄になっていく傾向があるのでしょう。ルソーは皮肉ってそんな極端なことをいっているのであって、あるいはルソーは哲学者が持ちがちな傾向を弾劾しているのでしょう。
それにしても人間は考える人であると共に実践する人であることが両立するのでしょうか。それに哲学にもいろいろなタイプがあって、いわゆる論理学的で思弁的なタイプの哲学があるものです。どんなタイプの哲学がそんな傾向が強いというのがあるのでしょうか。また哲学だけでなく、科学者その他の様々な分野の学問の人も気をつけなければなりません。理性を盛んに使っていれば人間性が希薄になるのでしょうか。いわゆる蛸壺にこもってあれこれ思弁的に考えるのがまずいのでしょうか。
もっと広大に考えてみると、これは近代人の有り様の特徴、そして現代人においてはもっと強まるかも知れません。より一層他者のことに無関心になります。我々は自分の世界、思考の世界に籠もって人間性が希薄になってしまうことがないように気をつけなければなりません。
ルソーは今では哲学者の一人に加えられています。哲学をすることによって彼はより人間性が向上したのでしょうか。彼は10代に各地を放浪した時期に、いろいろな善き人と出会った経験はきっと大きかったと思われます。ルソーの哲学はそれまでの哲学とはやはり異なったタイプです。日々の日常生活から見聞きしたことや実践の中から生まれてきたような哲学なのです。彼は部屋の中で考えるのではなくて、歩きながらしか考えることができなかったと自ら語っているのも以上のようなことと関係があるのでしょう。
L’homme sauvage n’a point cet admirable talent ; et faute de sagesse et de raison, on le voit toujours se livrer étourdiment au premier sentiment de l’humanité. Dans les émeutes, dans les querelles des rues, la populace s’assemble, l’homme prudent s’éloigne : c’est la canaille, ce sont les femmes des halles, qui séparent les combattants, et qui empêchent les honnêtes gens de s’entr’égorger.
<文法>ここではsagesseはraisonと同義語として用いられています。ずる賢さという皮肉のニュアンスも少し入っているでしょう。また、étourdiment(軽率にも)、prudentなど、皮肉を込めたような表現が散見されます。purudentは現代語では慎重な、用心深いですが、古い使い方では思慮に富んだという意味があります。
<意訳>
野生人にはこのような立派な才能など全くない。野生人は賢くもないし理性が欠けていているから、軽はずみなことに人間的な最初の感情に基づいていつも行動してしまうのである。暴動のときや、通りでの喧嘩のとき、庶民は集まってくるが、思慮深い人たちは遠ざかる。ゴロつきやがさつな女たちが、ぶつかり合っている人たちを引き離し、紳士同士で殺し合うのを止めにはいる。
PDFではp38の中央あたりからです。 2019年9月25日
Il est donc certain que la pitié est un sentiment naturel, qui, modérant dans chaque individu l’activité de l’amour de soi-même, concourt à la conservation mutuelle de toute l’espèce.
確かに、憐れみの情は、利己愛の動きを各人の心のなかで和らげる自然の感情なのだ。そして種全体の相互の保存にむけて協力する。
<以下は並列的に並んでいます>
C’est elle qui nous porte sans réflexion au secours de ceux que nous voyons souffrir : c’est elle qui, dans l’état de nature, tient lieu de lois, de moeurs et de vertu, avec cet avantage que nul n’est tenté de désobéir à sa douce voix : c’est elle qui détournera tout sauvage robuste d’enlever à un faible enfant, ou à un vieillard infirme, sa subsistance acquise avec peine, si lui-même espère pouvoir trouver la sienne ailleurs ; c’est elle qui, au lieu de cette maxime sublime de justice raisonnée : Fais à autrui comme tu veux qu’on te fasse, inspire à tous les hommes cette autre maxime de bonté naturelle bien moins parfaite, mais plus utile peut-être que la précédente : Fais ton bien avec le moindre mal d’autrui qu’il est possible.
<訳>ここは訳は省略。憐れみの情についての説明を並列的に並べています。
C’est, en un mot, dans ce sentiment naturel, plutôt que dans des arguments subtils, qu’il faut chercher la cause de la répugnance que tout homme éprouverait à mal faire, même indépendamment des maximes de l’éducation.
・éprouver la repugnance à faire qc.~をしてみて嫌悪する。éprouverはé+prouverここでは感じる。
「要するに、巧みな議論(論証、論拠)ではなくて自然の感情のなかにこそ、悪いことをしてみて感じる嫌悪の原因を探さなければならない。それは教育の教え(maximes)とも別のものです。」
<解釈>ルソーは10代の放浪の時期には、盗みをしたり、嘘を言ったり悪いことをしました。特に、彼が住み込みで仕事をしていた家で、盗みをして露見しそうになるとある少女に濡れ衣を着せた事がありました。ルソーはそれを大変後悔して苦しんだのでしたが。またルソーは自分の全ての子供を孤児院に預けましたが、これも大変後悔していました。極貧とは言え、理解しがたいことですが。それは特殊な事例ですが、一般的にみてここでルソーの言っていることは正しいと思います。これは折に触れてわれわれが感じる感情です。
Quoiqu’il puisse appartenir à Socrate, et aux esprits de sa trempe, d’acquérir de la vertu par raison, il y a longtemps que le genre humain ne serait plus, si sa conservation n’eût dépendu que des raisonnements de ceux qui le composent.
・Quoiqueは譲歩的+subjonctifであり、ここでは皮肉です。
「なるほどソクラテスやソクラテスのような資質をもった人なら、理性によって美徳を獲得するかもしれない。しかしそうではあるまい。もし人類 の存続が、人類を構成している諸々のことのなかでただ理性的なものだけに依拠しているのであれば、人類はとっくの昔に存在していなかったことであろう。」
<解釈>
憐れみの情は、理性的なによって獲得されるのではなくて、自然の感情として元々あるものだと考えられます。理性だけに依拠していたら、人間はとっくの昔に滅んでいたのです。つまりお互いに殺し合って自滅していたということです。これはちょっと極端かもしれませんが。ルソーは憐れみの情は動物にもあると言いますが、多くの動物が人間よりは明らかに微弱にしか持っていません。それでも無駄に互いに殺し合うことは少ないです。もしかして、ルソーの言うように動物においても要所要所に憐れみの情あるいはそれに類したメカニズムで働いていると言うことかもしれないとも思うのですが。人間はソクラテス並みの理性をそなえていることはほとんどありませんから、ほんの一部の特殊事例である賢人を基準に考えるわけにも行きません。これは皮肉ですが。しかし人間はそんなに立派ではないものだと言うことは真理です。この立派ではないとはそんなに理性的なものではないということです。
カントは理性の一つに実践理性を加えましたが、ルソーは理性(raison あるいはraisonnement)から憐れみの情を外しています。この区分の仕方の違いもまた興味があります。
第1部の最後を締めくくっているのが(結語の前の部分)が性愛についてです。なぜここに性愛を持ってきたのか、たんなる付け足しなのでしょうか。これまで憐れみの情を論じてきていましたから、憐れみの情から性愛を区別するために補足的に持ってきたようにも思われます。付け足し的な部分であると見ていいのではないでしょうか。この著作の他のところにも愛について書いているところはないようです。要するに憐れみの情は自然状態において強く働き文明化において減弱しますが、それにたいして愛は自然状態においては全く存在せず、文明化によってはじめて作り出された人工的なものです。このようにルソーの中では愛と憐れみの情は明確に区別されています。
また、愛の起源としては二つあって、憐れみの情に由来する愛と性に由来する愛です。前者を通常の愛とすれば、後者は性愛ということになるでしょう。
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以下は中山氏の訳では1150あたりの「まず愛の感情のうちに含まれている精神的な要素と肉体的な要素を区別することから始めよう。・・・」というところからです。
Commençons par distinguer le moral du physique dans le sentiment de l'amour. Le physique est ce désir général qui porte un sexe à s'unir à l'autre; le moral est ce qui détermine ce désir et le fixe sur un seul objet exclusivement, ou qui du moins lui donne pour cet objet préféré un plus grand degré d'énergie.
「愛という感情について身体的なものから精神的なものを区別することから始めよう。身体的なものは一つの性をもう一つの性に結びつけるようにさせる一般的な欲望である。精神的なものはこの身体的な欲望を限定しもっぱらただ一つの対象に固定するものでり、あるいは、少なくともこの好ましい対象に向けてより大きなエネルギーをこの身体的な欲望に与えるものである。」
Or il est facile de voir que le moral de l'amour est un sentiment factice, né de l'usage de la société, et célébré par les femmes avec beaucoup d'habileté et de soin pour établir leur empire, et rendre dominant le sexe qui devrait obéir.
文法:usageは使用という意味ではなくて、慣習、風習などの意味です。
「さて明らかなことだが、愛における精神的なものは、人工的な感情であり、社会の習慣から生まれたものであり、彼女らの帝国を作り上げるためにとても巧みにかつ入念に女性たちによって執り行われ、そして従うべきはずの女性性を制御するdominantものにさせたのです。」
ここでは女性のことを悪く言っているようにも見えます。悪く解釈すれば、女たちは愛という手段を使って巧みに男たちの主人となって支配している、ということにもなるのでしょうか。甘く解釈しても、保守的というよりも偏見が混じったような、性差別の言辞と取られるような文章です。他方、『エミール』では女性性についてはより詳しく述べています。女性は男性に従うものであるが、しかし、女性は男性を操縦する力を持っているということです。男性はそれに従うものなのです。上でルソーが言っている真意はわかりにくいです。エミールの方が、賛否はあっても、かなりリアリティがあります。もしかして上の文章もこれと同じようなことを言おうとしているのでしょうか。難しいです。説明不足というところでしょう。しかし、性愛は、悪いものだと言っているのでしょう。自然にあっては善であったものが、文明の中で悪になったという路線が、愛の議論の中でも主張されていると見るのが普通の解釈でしょう。
Ce sentiment (étant fondé sur certaines notions du mérite ou de la beauté qu'un sauvage n'est point en état d'avoir, et sur des comparaisons qu'il n'est point en état de faire,) doit être presque nul pour lui.
文法:
・カッコ内がétant fondé で始まる部分です。
・たとえばêtre en état de défenceなら、防御態勢を取っている。
「愛の感情は野生人にとってはほとんど何ものでもない。というのも愛の感情は良いところとか美とかのいくつかの考え方に基づいているのだが、野生人はそのような考え方は全く持ち合わせていないからであり、またこの愛の感情は比較に基づいているのだが、野生人はそれをすることなど全くないからである」
野生人は女性の選り好みをしない、ということになっています。野生人の性愛は、どんな女性にも性愛を持つことができます。
Car comme son esprit n'a pu se former des idées abstraites de régularité et de proportion, son coeur n'est point non plus susceptible des sentiments d'admiration et d'amour qui, même sans qu'on s'en aperçoive, naissent de l'application de ces idées; il écoute uniquement le tempérament qu'il a reçu de la nature, et non le goût qu'il n'a pu acquérir, et toute femme est bonne pour lui.
se former des idées:考えを持つ。
se former une opinion.意見を持つ。
S se former qc: --をもつ。
「なぜなら野生人の精神は均整や調和といった抽象的な観念をもつことができないのと同様に、彼らの心は賞賛や愛の感情をもつことができない。人は自覚していないでも、均整や調和の観念から、賞賛や愛の感情は生まれる。野生人は趣味をもたず、もっぱら自然から受け取った愛の身体的なものだけに耳を傾けているのであり、野生人にとってあらゆる女がいい女なのである」
野生人の場合には、男女の結びつきは性交が中核であり、それに愛が伴っています。どんな女性が相手でも、性を楽しみまた愛をもちます。行為が終わったら、もうお別れです。顔も忘れてしまうのでしょう。
文明人においては対象の選り好みがあります。そして固着して心的エネルギーの投下があります。ルソーは性愛が対象に固着する原因として、趣味の水準、均整や調和といった観念を挙げています。たぶんこれは美が均整や調和を本質としているという考え方に由来しているのでしょう。こういった美しい女性に男は性愛を固定化して愛という心的エネルギーを注ぎ込むのです。
ルソーがこのあたりで言っている愛についてですが、これは男女間の愛つまり「性愛」と言い換えた方がわかりやすいです。ここのルソーの性愛についての主張は定まっておらず混乱しているようですし、わかりにくいです。どうしてこの著作の第一部の最後をこういった性愛の項目を持ってきたのでしょうか。数ページですし、十分な考察には至っていないようなのですが。
ルソーにとって、どうやら性愛と憐れみの情は別の起源があるようです。たとえば親子の間の愛情は憐れみの情の側にあります。以前に憐れみの情の例として親子間の愛情が挙げられていました。また、自然状態における人間関係の基礎は理性でもなければ法でもなく、憐れみの情であるとされ、それどころか憐れみの情は理性によって阻害されて弱められ、それが故に理性の発達によって減弱した憐れみの情の代替として法が作られ、こういった状況の全体が、やはり憐れみの情の減弱を固定化させるのにも役立っているという悪循環を構成し固定化しているのでした。このような人間関係の基礎である憐れみの情を阻害する要因として、理性以外におそらく性愛も加えることができるでしょう。性愛は人間関係や社会の成り立ちの基礎ではありません。性愛は抗争を引き起こし、死闘を繰り広げさえします。性愛は暴力とも親和性があるのです。性愛の重要な契機は、ある特定の人物に固着することです。これが他の人々にたいして排他的になり、嫉妬を生じさせその害毒を撒き散らします。こうしてルソーは性と性愛を区別しています。野生人に場合には性愛ではなくて性つまりその身体的な要因である性つまり性欲があるだけであり、この場合にはとくには対象選択がなく、相手は誰でもよくて、性欲を遂げたらまた離ればなれになります。そこで発生するのはほんのひとときのもの、いわゆる行きずりにしかすぎません。それは強いものかもしれませんが。ルソーにとって性は人間関係を形成する契機にはなりません。ほんの一時的にしか過ぎないものです。行為が終わったら相手の顔さえ忘れるでしょう。原始部族が本当にそうだったのか、にわかには信じがたいのですが、これはルソーが文化人類学的に考えて原始部族のなかにそのような事が見られると言っています。もしかしてそうかもしれません。後世の文化人類学においても、原始部族は一夫多妻とか一妻多夫というよりも乱婚が基本だったとする見解があります。ルソーの言っていることも結局はこの乱婚制ということになるのです。ルソーにとって性は人間関係を形成しませんが、文明人の性愛のほうは人間関係を形成します。それはどのような人間関係でしょうか。それは、繰り返しになりますが上で述べたように、選り好みによって対象選択が生じて固定化し永続する性愛です。この選り好みによる対象選択は、文明の中で、文化的なものとして、習俗として趣味として、人工的に形成されたものだということになります。とりわけ均整と調和の観念です。均整と調和の観念が対象選択へと開かれる鍵になっています。また、ルソーによれば、対象選択によって固着や熱中、対象の崇拝そして排他性が生じます。その結果性愛は野蛮で暴力的にもなりました。ルソーの筋書きである、文明化によって理性が発達して人間はより野蛮になったという文明批判は、性愛の領域でもやはり同じような論法となっています。
またより根源的な問題として、性+愛というときの愛の側を暫定的に分離してみるとして、愛にも幾通りかのタイプがあると思われ、どのようなタイプの愛であるのか更に深めて考えてみるのも良いと思われます。性は様々な感情や愛情と結びつきます。性にむすびつく一般的な愛はなんなのでしょうか。またその特殊形は何なのでしょうか。愛の起源には憐れみの情もあり、性+憐れみの情という組み合わせもありえるはずです。それについては全く触れられていません。たとえば、アレクサンドル・デュマ・フィスの『椿姫』で高級娼婦マルグリットがアルマンの愛を受け入れた理由はこの「憐れみの情」でした。虚飾の多い性愛の世界に住んでいるマルグリットにとって、多くの男性関係の中で、アルマンが特別な性愛の対象になったのは「憐れみの情」によるものでした。
結局ここでルソーが性愛について言っていることについてあれこれ考えてみましたが、いまのところ、対象選択による固着が文明によって形成されたということだけかと思われます。男女間の愛は「対象選択」に諸悪の根源があるようです。また均整と調和という観念が対象選択の鍵となっていると主張されています。
【エディプスコンプレクス】エディプス・コンプレクスにおいては混乱を必ず伴いますが、テーマは愛(と性)です。それにたいして法(とりわけ近親相姦の法)が重要なものとして浮かんできますが、法は愛それ自体を消すことが出来ません。愛そのものに対して法は無力でありながらも、というか無力であるからこそ絶対的なものとしても存在しています。法の執行の有力な手段が「抑圧」です。このように法は重要な基礎になっています。
【委託型対象選択】
『新エロイーズ』『エミール』
第2部では人類の発展の歴史を空想を働かせながら、描いていきます。その多くはあまり妥当性がないものかもしれませんが、なかなか良い観点も含まれているとも思われます。
ここでの主なテーマは次のようなもの。
・私有財産
・法律の起源
・社会契約
・新たな自然状態。
私有財産について
Tout commence à changer de face. Les hommes errants jusqu'ici dans les bois, ayant pris une assiette plus fixe, se rapprochent lentement, se réunissent en diverses troupes, et forment enfin dans chaque contrée une nation particulière, unie de mœurs et de caractères, non par des règlements et des lois, mais par le même genre de vie et d'aliments, et par l'influence commune du climat. Un voisinage permanent ne peut manquer d'engendrer enfin quelque liaison entre diverses familles.
contré:地方
voisinage:近所の人たち。voisin:近所の人
ne peut manquer de inf: infすることに事欠かない。
<訳>あらゆるものの様相が一変する。それまで森の中でさまよっていた人々は、定住するようになり(一つの基盤を持ち)、こうして少しずつお互いに近づき、異なる群れになる。そして最終的にはそれぞれの地域に特定の民族をつくる。その民族は習俗や特性の点で、規則や法律によってではなく、生き方や食べ物が同じようなふうだとか、気候の特徴が共通しているだとかによってひとつに結びつけられた。いつも同じ近所の人たちだと、いろいろな家族同士の繋がりを生み出すことに事欠かない。
De jeunes gens de différents sexes habitent des cabanes voisines, le commerce passager que demande la nature en amène bientôt un autre non moins doux et plus permanent par la fréquentation mutuelle.
・de jeunes gens:形容詞が名詞の前につくときに不定冠詞des がくると、desがdeになることがかなり多い。
・en はdu commerce passager:つかの間の交流、言葉は悪いが今で言うところの「行きずりの関係」のようなもの。un autreはun autre commerce.
・non moinsは同様にという同等比較でも用いられるが、ここでは後ろにあるplusとおなじく比較のplusであろう。
<訳>異性の若者たちが隣り合った小屋に住んでいると、自然の欲求である行きずり交流ではなく、お互いにしばしば会うことでより優しくより永続的な交流になってゆく。
On s'accoutume à considérer différents objets et à faire des comparaisons; on acquiert insensiblement des idées de mérite et de beauté qui produisent des sentiments de préférence. À force de se voir, on ne peut plus se passer de se voir encore. Un sentiment tendre et doux s'insinue dans l'âme, et par la moindre opposition devient une fureur impétueuse: la jalousie s'éveille avec l'amour; la discorde triomphe et la plus douce des passions reçoit des sacrifices de sang humain.
・la plus douce:もっとも甘いもの。たとえば、le plus important est---は最も大切なものはーーーと同じ用法。
ひとはいろいろな対象を見つめ、比較するようになり、長所や美の観念を少しずつもち、好みの感覚が生じる。たくさん会うことで、また会いたくて仕方がなくなる。優しく甘い感情がこころのなかに入り込み、ほんのちょっとでも反対されると猛烈な怒りに変転する。つまり嫉妬は愛とともに目覚める。不和が大勝利を収め、情念の中で最も甘いものは人間の血を犠牲に供する。
第1部が「性愛」のテーマで締めくくられていたのがなぜだかわからなかったのですが、第2部ではここに繋がってきています。
これを読んでみて、一方では特段目新しい観点でなくて面白くないように思われるし、しかし他方では、革新的で意外な見方であって面白いようにも思われます。なおかつ重要な観点のようにも思われます。ルソーの論調では性愛に対する強い疑惑の目が感じられます。性愛は優しく甘いのですが、それが嫉妬を引き起こし、人間の血を犠牲にます。その変転ぶりが意外なのです。性愛はその本質からしてそのようなものだというのです。穏やかなものではあり得ないのがその本質です。ただ性それ自体がそうだというのではありません。性は身体的な要因としてもともとありました。しかし性に愛が加わると、つまり性愛になると、その本質は悪に転化するのです。性愛とは本質的に善きものだとされるのですが、性と結びついた愛に重きが置かれると悪いものだとされるのです。この性愛は決してルソーの言う自然のものではありません。自然の本性としてはあくまで性に限定されています。性愛が発生する鍵となるのは、集団の形成あるいはしばしば定住化することです。それ以前は人間たちは離ればなれで森の中を彷徨っていたのでした。
それにしてもルソーの言う人間は本来悪いものではなかったというけれども、人間の本質に関するこの性善説はここまで過去の歴史を遡らなければならないほどに、悪いものなのだ、ということになります。原始部族以上に遡らなければなりません。原始部族といえども、すでに自然状態を抜け出し、文明化に至る途中段階で発展を止めた定常状態です。もっともこの過去の歴史である原初は、本当に実在したのかどうか、かなり疑わしくもあるのです。人間の起源をたどると原初は森の中でバラバラに生活していたのでしょうか。おそらくそんなことはなかったのではないでしょうか。おそらく集団で暮らしていたでしょう。人間は類人猿の頃から集団で暮らしていた可能性が高いと思われます。人間と近いチンパンジーやボノボは集団で暮らしています。とくにボノボは仲間同士の情緒的な繋がりが大変強い点は人間に近くて注目されます。すくなくともルソーのこの想定する善き自然状態は、実証性がないし、このような観点からすれば、ルソーの性善説もかなり怪しくなります。ただ、人間は一人でいたくなることもありますし、とくにそのような傾向が強い人もいるのも確かなのですが。そして実証性ではなく、想像の世界では、自由人のような自然人のような人がいたというのも何となくわかる気もするのです。
ルソーが性愛を目の敵にするときには、到底性善説であるとは言えずに、むしろ実質的には性悪説のほうを強調していると思われます。
性愛が善きものへの導きの糸にはならない。
ルソーの心理学的な考察。
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ルソーは、私有財産の発生をもって市民社会の基礎と考えています。所有の拡大が目指されるなか、文明化および市民社会の形成による野蛮の拡大と戦争状態について描きます。これはホッブスのいう自然状態に近い状況です。ですから、ルソーにとってホッブスの自然状態は、所有の発生、文明化および市民社会の形成を経た後に生じてくる状態であり、真の自然状態、真の人間の本性ではないということになります。また、市民社会の法(実定法)とはただ強者つまり多くを所有する者を正当化して守る法になってしまう、とルソーは言い切ります。貧富の差、持てる者と持たざる者の差が市民社会の法によって固定化されて、疑いなく自明のこととなるのです。
社会契約があったという論理仮説による説明です。これは、為政者の選出、為政者の権力と公益性など、国家の政治体制を定めた基本法を取り決めるために契約します。全ての成員はこの契約を遵守する義務があります。かつてこのような取り決めがあったという論理仮説です。これを社会契約説と言います。これは不安定化した自然法の修復を目的としています。この段階では、貧富の差の固定化を目的としているのではありません。
為政者が基本法を遵守しなければ、そもそもの契約を撤回することができます。これによって当該の為政者の機能を廃止し、自然状態に戻ることもありえます。
統治形態には、君主制、貴族制、民主制があります。しかし、ルソーは、全ての統治形態は、そもそも最初は選挙(あるいはそれに類するもの)で行われたと言います。つまりそもそも為政者は人々によって選出されたのです。しかし、為政者たちは自然状態である無政府状態に立ち戻る混乱を避けるという名目において、権力を私物にして世襲としました。また、ルソーが言うには、権力は必ず腐敗して私物となり、不平等を拡大させ主人と奴隷の関係に行き着くといいます。
専制政治において腐敗の極みに至るとされます。専制政治における腐敗の極みは、「新しい自然状態」です。契約は解消され、強い力をもった専制君主が人々を暴力をもって統治しています。これを打倒するには強い力を持った暴力でしかあり得えず、暴力革命の嵐が吹き荒れます。
『社会契約論』においても、統治者は必ず腐敗して、主権者たる人民をないがしろにするのは避けられず、それは内在する悪であるとしています。(『社会契約論』岩波文庫版p120)人間が死すべき存在として生まれたときから死の要因を内在しているように、国家の政体も崩壊の要因を内在しているとします。