表参道ソフィアクリニック
生前にはこの著作はあまり顧みられることがありませんでしたが、死後に、フランス革命の革命家たちに重要な著作と見なされるようになりました。1793年にロベスピエールとサン=ジュストは、「社会契約論」を参考にしながら国民公会憲法を作成しました。
生前にはこの著作はあまり顧みられることがありませんでしたが、死後に、フランス革命の革命家たちに重要な著作と見なされるようになりました。1793年にロベスピエールとサン=ジュストは、「社会契約論」を参考にしながら国民公会憲法を作成しました。
『学問芸術論』や『人間不平等起源論』よりも論理的なスタイルの叙述になっています。
もう古くなっているような考え方やそもそも非現実的な着想も含まれています。
たとえばp129では、各都市の自治を認め、都市間の従属関係を否定し、首府は各都市を交代で移動すべきであるとしています。要するに中央集権的な体制を否定しています。当時も現代も変わった着想です。
ヴェネツィアのドーシエを頂点とした政治体制、それからジュネーブの自治政治をイメージしたらいいのではないかと思われる。
王権を与えているのは、主権者たる人民であるという考え方である。「王権神授説」には真っ向から対立している。
CHAPITRE 3
Droit du plus fort
最強者の権利
Le plus fort n’est jamais assez fort pour être toujours le maître, s’il ne transforme sa force en droit, et l’obéissance en devoir. De là le droit du plus fort ; droit pris ironiquement en apparence, et réellement établi en principe. Mais ne nous expliquera-t-on jamais ce mot ? La force est une puissance physique ; je ne vois point quelle moralité peut résulter de ses effets. Céder à la force est un acte de nécessité, non de volonté ; c’est tout au plus un acte de prudence. En quel sens pourra-ce être un devoir ?
<意訳>
どんな最強者でも、自分の力を権利に、また服従を義務に変換しないと、ずっと主人でありつづけることなどはありえない。そのことから最強者の権利が生じる。権利は一見すると(力であって権利ではないので)皮肉なものであるが、現実には原則として定められる。しかしながらこの権利という言葉を誰も私たちに説明してくれたためしがないのではなかろうか?力とは身体能力である。私はこの結果どのような道徳が生じてくるのか全く分からない。力に屈することは必要に迫られた行為であり、内発的(volonté)な行為ではない。それはせいぜい慎重さによる行為にすぎない。どのような意味において、これが義務になるというのか?
<コメント>
力(la force)
・le plus fort - pouvouir ----droit
・peuple - obéissance ------devoir
ここでは権利と義務が対置されています。そしてここではあまり明確に書かれていませんが、権利と義務には偽なるものと真なるものがあると考えられます。力に詭弁が加えられると、権利と義務は偽物になります。ここでは主として偽物の権利と義務について語られていて、真実のものではありませんが、背景には真実の権利と義務があるという想定があります。
最強者には権利を付与し、力に従属した人々には、義務を課します。そのようにして最強者は、自分の地位を保全します。そこには詭弁が含まれています。最強者の素質として身体能力も重要ですが、それに加えて雄弁というか詭弁というか、狡知というか、また口のうまさによって人にそのように思い込ませるなどの能力も含まれるはずですが、それについてはここでは触れられていません。
そもそも力に屈して、従った人たちは、逆らったら恐ろしい目に遭うかもしれない、という慎重さや用心深さによるのであって、決して内発的な意思によってではありませんでした。自分の身の安全保障としてやむなく従ったのでした。
この場合の権利は真の権利ではなくて、その本質は力です。その力に詭弁を加えることで、権利として信じ込ませて、服従したものには義務を生じさせたのでしょう。
Supposons un moment ce prétendu droit. Je dis qu’il n’en résulte qu’un galimatias inexplicable ; car, sitôt que c’est la force qui fait le droit, l’effet change avec la cause : toute force qui surmonte la première succède à son droit. Sitôt qu’on peut désobéir impunément, on le peut légitimement ; et, puisque le plus fort a toujours raison, il ne s’agit que de faire en sorte qu’on soit le plus fort. Or, qu’est-ce qu’un droit qui périt quand la force cesse ? S’il faut obéir par force, on n’a pas besoin d’obéir par devoir ; et si l’on n’est plus forcé d’obéir, on n’y est plus obligé. On voit donc que ce mot de droit n’ajoute rien à la force ; il ne signifie ici rien du tout.
<意訳>
いわゆる権利についてしばらく仮定しておこう。そのことからは説明しがたい戯言が生じてくるだけだ。というのも、権利を作るのが力であるとするならば、すぐさま因果関係が逆さまになる。つまり最初の力に打ち勝ったあらゆる力は、その権利を引き継ぐ。もし罰せられずに不服従を行うことができるならば、すぐさまそれが合法的になりうる。そして最強者はつねに正しいということになっているので、最強者であるというふうにすればよいのである。さて、力が終わるときに死んでしまうような権利とは一体何だというのか?力によって従わなければならないのならば、義務によって従う必要はないのだ。だからこの権利という語は力に何も加えることがなく、ここでは権利とは全く何も意味しない。
<コメント>
勝ち抜き方式で勝ち抜いた最強者は、負けた相手の権利を引き継ぎ、最終的には、一つにまとめて手中に収めることになります。こうしていったん獲得した最強者のタイトルは、最強者の論理で、いつまでも自分が最強者であるとしておくことができるようです。このように最強者がいつしか弱体化して実は最強者ではなくなっても、我こそは最強者であるという詭弁によって、最強者としての立場(タイトル)が維持されるのです。またここでは、最強者のタイトルが固定して終身制になり、世襲制になることが暗示されているものと思われます。そして、このタイトルを保全するためには、最強者に挑むものが現れたら不都合なので、現れないように権利と義務をつくりだして予防しているものであると考えられます。力によって勝つということは、この権利と義務を引きつぐことになるのです。いったん最強者に挑むものが現れれば、弱体化したかつての最強者はかなりまずいことになるでしょう。ボクシングなどで世界タイトルを採るのと違って、この政治的な面での最強者は、総力戦を勝ち抜いたが故に自分の理屈(raison)を振り撒いて、包括的な権利と義務をつくりだすまやかしを行うことが可能になるということであろうと考えられます。このようなまやかしを含む永続性を持つ権利と義務を賭けて、力と力が戦いを次々と繰り広げられる時期もあるのでしょうが、固定化して、もう変化しなくなる定常状態へと至ります。このように、力によって獲得できる権利と義務とは、本質的にこのような永続性のまやかしを含んだ権利と義務なのです。しかし、栄枯盛衰と洋の東西を問わず語られるように、この最強者の権利と義務は、一定期間続いたとしても、儚いものであります。これは力の政治学とでも言えるものであろうかと思われます。そして力の政治学を説明するような心理学でもあろうかと思われます。
Obéissez aux puissances. Si cela veut dire : Cédez à la force, le précepte est bon, mais superflu ; je réponds qu’il ne sera jamais violé. Toute puissance vient de Dieu, je l’avoue ; mais toute maladie en vient aussi : est-ce à dire qu’il soit défendu d’appeler le médecin ? Qu’un brigand me surprenne au coin d’un bois : non seulement il faut par force donner sa bourse ; mais, quand je pourrais la soustraire, suis-je en conscience obligé de la donner ? Car, enfin, le pistolet qu’il tient est une puissance.
Convenons donc que force ne fait pas droit, et qu’on n’est obligé d’obéir qu’aux puissances légitimes. Ainsi ma question primitive revient toujours.
Chapitre 5
Faut toujours remonter à une première convention
QUAND J’ACCORDERAIS tout ce que j’ai réfuté jusqu’ici, les fauteurs du despotisme n’en seraient pas plus avancés. Il y aura toujours une grande différence entre soumettre une multitude et régir une société. Que des hommes épars soient successivement asservis à un seul, en quelque nombre qu’ils puissent être, je ne vois là qu’un maître et des esclaves, je n’y vois point un peuple et son chef ; c’est, si l’on veut, une agrégation, mais non pas une association ; il n’y a là ni bien public, ni corps politique. Cet homme, eût-il asservi la moitié du monde, n’est toujours qu’un particulier ; son intérêt, séparé de celui des autres, n’est toujours qu’un intérêt privé. Si ce même homme vient à périr, son emire, après lui, reste épars et sans liaison, comme un chêne se dissout et tombe en un tas de cendres, après que le feu l’a consumé.
<意訳>
第5章
常に最初の合意に遡らなければならない。
ここまで私が反論してきたことの全てに私が同意したとしても、専制主義despotismeを称揚する者は、それ以上議論を展開することはできない(先はない、未来はないということ)。人々を服従させることと社会を統治することのあいだには大きな違いがある。たとえバラバラの人たちが徐々に一人の人物にだんだんに服従するとしても、それがどんなに数がおおくても、私はそこに一人の主人と奴隷たちしか見いださない。私はそこに、まったく人民や首長を見いださない。言うなれば、それはバラバラの人々の集まり(agrégation)であって、それは協力に基づく集まり(association)ではない。そこには公的な国家(pubulic)もなければ、政治体(corps politique)もない。この人物は人々の大半を隷属させたとしても、あくまで私人(particulier)にすぎず、彼の利益は他の人たちの利益から切り離されていて、あくまで私的な(privé)利益にすぎない。もしこの人物が死んだら、彼の帝国は彼の死後バラバラで繋がりがないままで遺されるだろう。それはあたかも樫の木が火に焼かれてしまえば、一山の灰になって崩れ落ちてしまうかのようである。
<コメント>
ここでも、ルソーは二分法によって偽なるものと真なるものを分けています。一つは隷属させることであり、もう一つは統治すること(régir)です。隷属させることは専制君主の政体であり、ただそれは政体ではあってもその本質は政体の体をなしておらず、一人の支配者と隷属者たち、つまり一人の専制君主と奴隷です。ここでは取り巻きたちも一人の支配者に絶対的に隷属しています。戦々恐々として恐れおののく人々でもあるでしょう。全ての命運は支配者に握られています。このような、きつい政治的状況は歴史上に時々現れるものと思われます。あるいは、歴史の発達段階で、不可避的にこのような段階を経るものなのでしょうか。それはわかりません。ただ、歴史の発達段階において、往々にしてか、時々か、現れがちであったと思われます。また、現代であっても、ときおりこのような状況に政治が陥ることがあります。あるいは権力は腐敗しやすいとも言われますが、腐敗して、流れていく先は、こういったものかも知れません。こう考えると、権力の本質として常に潜んでいると言えるのかも知れません。権力には二通りの本質があって併存しているとも言えるのではないでしょうか。上の二分法で分けましたが、純粋な専制主義もなければ、純粋な法治などの統治があるわけではないでしょう。その両方の本質を含みうるのでしょう。
Un peuple, dit Grotius, peut se donner à un roi. Selon Grotius, un peuple est donc un peuple avant de se donner à un roi. Ce don même est un acte civil ; il suppose une délibération publique. Avant donc que d’examiner l’acte par lequel un peuple élit un roi, il serait bon d’examiner l’acte par lequel un peuple est un peuple ; car cet acte, étant nécessairement antérieur à l’autre, est le vrai fondement de la société.
<訳>
グロチウスの主張では、一つの人民が王に自らを与えることがありうる。したがってグロチウスによれば、一つの人民は王に自らを与える前に一つの人民である。与えること(don)は、市民的行為(acte civile)である。すなわち公の討議が行われたことを前提としている。一つの人民が一人の王を選ぶ行為(acte)を検討するまえに、一つの人民が一つの人民になるという行為(acte)を検討するのが良かろう。というのも、後者の行為(一つの人民になる行為)は、前者の行為(王に自らを与える行為)につねに先行するからである。この後者の行為(一つの人民になる行為)は、社会の真の基礎なのだから。
<コメント>
専制主義がはじまる前に、一つの人民となる市民的行為があったとするならば、グロチウスの意見は正しいことになります。一つの人民が形成されて、次に一人の人物(王)に、全てを与えたということになります。何の理由でそんなことをしたのか、分かりませんが、とにかく、全てを王に与えてしまう。自らの生殺与奪権もあたえる。そなわち、自らすすんで奴隷になるという行為でもあります。ちょっとそれは考えにくいです。
もっとも、ときには人民が独裁者を擁立することがあります。戦争などの非常事態の時には独裁者を置くことがあります。これこそ、一つの人民が自分たちの自由を放棄して、あるいは生命や財産を放棄してでも、独裁者に従うことになっています。古代ローマの共和制においても、平時においては独裁者を排除しつつ、戦時などには臨時独裁官が置かれました。近代、現代の国家においても、これに近いものがあります。またよく言われることですが、ナチズムにおける独裁体制は、そもそも国民の総選挙によって選ばれたものでした。人民は自由を放棄することがあります。人民による強力な支持に基づいて、一人の人物に強大な権力を与えることがあります。ですから20世紀や21世紀においてもなおも独裁制が存在し続けているのです。あるいは完全な独裁制ではなくても、独裁制に近いものです。こう考えるとグロチウスの意見もあながち間違いでもないように思われるのです。そして、ルソーはグロチウスの意見を否定したにもかかわらず、ルソーもまた、最初の合意があって、人民が専制君主に付託したのであるということがいいたいのかと思われます。でもその前には、人民としての成熟があったはずなのです。なるほど力に屈服して隷属した奴隷のようなバラバラの人々の集まりがいきなり現れたという筋道で専制君主が生まれた、というのもあるのでしょうが、もう一つは、一纏まりとなった人民が出現して、その後の合意によって専制君主が現れたという筋道もあるということになります。このように専制君主の出現の筋道は二つある、あるいは二重化されているようです。もっとも後者の専制君主のもとでも、人民はこの専制君主を恐れて戦々恐々として、まるで奴隷のようになるということも有り得ます。それにまた、このような専制君主の出現を招いたことは、人民の成熟度の低さにも起因するのも、また確かであったでしょう。そういったことから、20世紀のヨーロッパで現れた全体主義は、人民としての成熟度が低い位置づけである「大衆」という観点から考えられたりするのです。「大衆」が真の市民的行為(acte civile)を行うとは考えにくいのです。大衆もまたバラバラの存在であり、一見自由に解放されておりながら、その実、より野蛮でより拘束的なものを生み出すと考えられます。また、更に付け加えるならば、この人民(peuple)も必ずしも意識が高いわけではなくて、独裁者を選び出すだけでなくて、民族主義に偏ってしまうこともあります。人民(peuple)という言葉は、政治活動のなかで、次第に使い古されて、歴史の中で汚れて、あまりいい印象がなくなってきて、現代においては、あまり良い意味で用いられないことも少なからずあるのです。
ただ、ここでのルソーのいっていることの重要点を引き出してくるとすれば、「一つの人民が一つの人民になるという行為(l’acte par lequel un peuple est un peuple)」であり、人々が自然状態から、次のステージに移行するのは、非常に重要な重みを持つ行為であるということです。そして、その次のステージとは市民としてのステージです。ただそこには大きな飛躍もあると思われます。ただこのあたらしいステージは原始的ではあっても、それでも市民的なステージであったと想定できます。
En effet, s’il n’y avait point de convention antérieure, où serait, à moins que l’élection ne fût unanime, l’obligation pour le petit nombre de se soumettre au choix du grand, et d’où cent qui veulent un maître ont-ils le droit de voter pour dix qui n’en veulent point ? La loi de la pluralité des suffrages est elle-même un, établissement de convention et suppose, au moins une fois, l’unanimité.
<訳>
実際、もし事前に全員一致で合意が為されていなければ、多数の選択に少数が従うという義務が一体どこにあるというのだろう、また一人の主人を欲する100人がそれを全く欲しない10人に変わって可決する権利をもつというのだろうか。多数決の法は、合意によって確立されるものであって、少なくとも一度は、全員一致を前提とする。
・NB:un, établissement は誤植であってun établissement であると思われる。
<コメント>
ここでは、学生の自治会やクラブ活動等などの少人数のグループで行われることを思い起こせばいいとおもうのですが、たとえば議論をしているときに煮詰まってきたら、決を採ることにしますが、あとで文句が出たら困るので、「これから多数決で決めることにします。それでいいですか。」と全員の同意を得て、多数決を行ったりします。たとえば原始部族でもこのような決め方を行うことも想像できます。そして部族の首長を決めるときも話し合いの後に全員一致に基づいてこの多数決の原理を実行することもあるでしょう。むしろ少人数グループのほうが、この行為acteを行うグループになりやすいと思われます。これを「全員一致に基づく多数決の原理」としておきましょう。そして、ルソーにとってより問題となるのは、強い権力を持った首長を選ぶときも、それこそこういった「全員一致に基づく多数決の原理」をベースに行われたはずだ、というふうに普遍的な基礎として主張せられているということです。そしていったん強い権力を持つ首長が選ばれたあとで、いつしか「全員一致に基づく多数決の原理」の方が忘れられがちなのです。次第に横暴な権力者になったとしても、元をたどれば、皆が選んだものだということになります。つまりそれは最初の合意を忘れられてしまったのでした。権力はそもそも市民的な行為に基づいて生まれたものであって、暴力によって獲得されたものではなかったのです。一体、部活などにおいて、実力行使によって主将の地位を勝ち取るでしょうか。そんなことをしても誰もついて来はしません。たとえ横暴な主将が現れたとしても、最初は皆で選んだはずなのです。こんなはずでなかったというのであれば、また皆で話し合って引きずり下ろすこともできるのです。
このことを一歩下がって大きく見ると、強い権力を持つ首長が現れる経緯には二通りあることになります。一つは、「全員一致に基づく多数決の原理」によって選抜される場合、もう一つは、力と力のぶつかり合いの中で闘って勝ち抜いた場合です。ルソーを読んでいて、この二つの筋道をもっと整理できないものかとも考えます。おそらくは、まず最初は「全員一致に基づく多数決の原理」によって選抜されて、その後で、これに何らかの綻びが生じてしまって、集団は混乱状態に陥って、力と力のぶつかり合いの中で闘って勝ち抜き方式が生じたのかと考えられます。そしてその次には、勝ち抜いたものが権利を独占して固定化して世襲と化して主人と奴隷の状態となる、という筋道なのでしょう。
ですから最初は市民的な行為acteがあって、そのあとその維持に破綻を来すということが次の問題点となります。
この二つの筋道を次のような心理学用語によって区別だてすることもできるかも知れません。すなわち、前者は象徴的な次元、後者の闘争は想像的次元というふうに考えることもできます。
CHAPITRE 6
Pacte social
社会契約
Je suppose les hommes parvenus à ce point où les obstacles qui nuisent à leur conservation dans l’état de nature l’emportent, par leur résistance, sur les forces que chaque individu peut employer pour se maintenir dans cet état. Alors cet état primitif ne peut plus subsister ; et le genre humain périrait s’il ne changeait de manière d’être.
訳
私は人間が次のような到達点に至ると想定する。つまり、自然状態において自己保存を毀損する障害が、各個人が自然状態にとどまろうとして用いる力を、彼らの抵抗によって上回る地点に至るのである。そのとき、この原初的な状態はもはや存続することができない。そして人類は生き方を変えなければ絶滅するであろう。
<コメント>
ここでは、最初の自然状態が無くなってしまうのは必然的であると見なされています。自然状態は、ある限界点に達すれば、必ず次のステージに移行するのです。その限界点とは、自然状態のままでいようと抵抗する人々と、それを毀損する障害が対立関係にはいるのですが、後者の力が前者の力を上回るのです。次のステージがなんであるのか、あるいは複数の道筋や選択肢があるかも知れません。いずれの道筋や選択肢を採るにしても、次のステージに移るのは人類の存続がかかっているようです。つまり人類の自己保存がかかっています。そして以下からすれば、ここで想定されているのは、社会契約に基づく真なる道筋・選択です。
Or, comme les hommes ne peuvent engendrer de nouvelles forces, mais seulement unir et diriger celles qui existent, ils n’ont plus d’autre moyen, pour se conserver, que de former par agrégation une somme de forces qui puisse l’emporter sur la résistance, de les mettre en jeu par un seul mobile et de les faire agir de concert.
訳
さて人間は新しい力をつくりだすことができないので、人間は自己保存のためには、ただ人の集まりagrégationによって力の総体をつくりだすことによって、(自然状態にとどまろうとする)抵抗に打ち勝つことができ、あるいは一つの原動力によって力を機能させ、あるいは共同して力を動かせるのであり、これ意外にない。
Cette somme de forces ne peut naître que du concours de plusieurs ; mais la force et la liberté de chaque homme étant les premiers instruments de sa conservation, comment les engagera-t-il sans se nuire et sans négliger les soins qu’il se doit? Cette difficulté, ramenée à mon sujet, peut s’énoncer en ces termes :
« Trouver une forme d’association qui défende et protège de toute la force commune la personne et les biens de chaque associé, et par laquelle chacun, s’unissant à tous, n’obéisse pourtant qu’à lui-même, et reste aussi libre qu’auparavant. » Tel est le problème fondamental dont le Contrat social donne la solution.
訳
この力の総和は、多数の人々の協力によってのみ生まれうる。しかし、力と各人の自由は自己保存のための最初の力であるのだから、どのようにして、各人は自らに為すべき配慮を傷つけることなく疎かにすることなく確保することが果たして出来るのであろうか。この困難は、私のテーマに連れて行ってくれて、次のように表現することができる。
<<皆が全力で各成員の人格や財産を守り保護する組織形態を見いだすこと。そしてこの組織形態によって各人は全員に結びつきつつ、それでも自分自身にのみ従う。そしてかつての自然状態と同じく自由なままである。>>これが基本問題であり、社会契約がその解決を与えてくれる。
コメント
真相はともかく、ここに最初の社会形態の一つが提示されています。これは全ての社会形態の基礎になるべきものとされています。すなわち、各人が全員に結びつき、なおかつ己にのみ従い、自由である、ということです。
これは、政治的なテーマであり、社会学的なテーマですが、私たちの日常生活に当てはめて考えても、肩の力が抜けた楽な生き方になるであろうと思われます。知らず知らずのうちに、私たちは自己を犠牲にした拘束的な生き方になりがちです。ですから、私たちの生き方の原点について考えてみることでもあろうかと思われます。ここでもルソーの議論は心理学、あるいは社会心理学のようなものであると思われます。単なる自由では無くて、当然、義務に従いつつ自由である、ということですがその有り様は、経験からだんだん習熟することも大切ですし、各人の元々の特性もかかわっていて、実はかなり難しい場合もあります。でもそのような方向であるということだけで少し気持ちが楽になる面もあるのもやはり確かでしょう。急激な変化ではなくて、少しずつ検討する方が良さそうです。
Les clauses de ce contrat sont tellement déterminées par la nature de l’acte, que la moindre modification les rendrait vaines et de nul ef-fet ; en sorte que, bien qu’elles n’aient peut-être jamais été formellement énoncées, elles sont partout les mêmes, partout tacitement admises et reconnues, jusqu’à ce que, le pacte social étant violé, chacun rentre alors dans ses premiers droits, et reprenne sa liberté naturelle, en perdant la liberté conventionnelle pour laquelle il y renonça.
訳
この契約の諸条項は行為の性質によってしっかりと規定されているので、ほんの少しでも修正すれば意味が無く無効なものになるであろう。したがってなるほどこれまで明文化されたことがなかったにしても、それらはどこでも同じであり、暗黙のうちに受け入れられ承認される。いったん社会契約が破られたなら、各人は最初の権利を取り戻し、自然状態の自由を再獲得する。その際には自然状態の自由liberté naturelleを放棄したときの、合意による自由liberté conventionnelleを失う。
コメント
社会組織の基本的な事柄が破られたならば、それを破棄することができる権利があることを述べています。それはいろいろな次元・領域の社会組織で考えることができますが、小規模であれば、あまり困難ではなくて、やめて立ち去れば済むことだったりします。しかし、とくにここで問題となっているのは、逃れようのないような、国家レベルで論じられていて、その場合には、簡単に放棄するといっても、そうはならないので、「革命」を引き起こすにことが視野に入っています。つまり力による国家の転覆です。革命を起こすことは権利でもあるということになるのです。こういった思想が画期的であって、フランス革命にも影響を与えたともされ、その後の共産主義にもつながっています。これは理想的な社会を建設することを目指していました。理念としてはルソーが行っているようなことに近いことかと思います。その思想としては見るべきものがあっても、実践的な面では適切でないばあいも多々あるものです。個人のレベルにおいても、楽な生き方ができればいいのですが、理想的で解放された生き方などなかなかできるものではありません。
Ces clauses, bien entendues, se réduisent toutes à une seule, savoir l’aliénation totale de chaque associé avec tous ses droits à toute la com- munauté : car, premièrement, chacun se donnant tout entier, la condition est égale pour tous ; et la condition étant égale pour tous, nul n’a intérêt de la rendre onéreuse aux autres.
訳
これらの条項は、正しく理解されるならば、全てただ一つの条項に集約される。すなわち、それぞれの構成員がその権利とともに、共同体に向けて完全に譲渡されるということである。というのも、まず第一に、各人は自らの全体を与えるのだから、全員にとって平等であるからであり、つまり条件は全員にとって平等であるから、誰も他者に重い条件を課すことに関心がないのである。
コメント
ルソーの思想はここで更におおきな一歩を踏み出しています。この一歩は驚くべき一歩であろうと思われます。すなわち「それぞれの構成員がその権利とともに、共同体に向けて完全に譲渡されるということである」。これは一つのテーゼということができて、これについて以下でさらに説明されます。こうしてこのテーゼについて検討していくことになります。
De plus, l’aliénation se faisant sans réserve, l’union est aussi parfaite qu’elle peut l’être, et nul associé n’a plus rien à réclamer : car, s’il res- tait quelques droits aux particuliers, comme il n’y aurait aucun supé- rieur commun qui pût prononcer entre eux et le public, chacun, étant en quelque point son propre juge, prétendrait bientôt l’être en tous; l’état de nature subsisterait, et l’association deviendrait nécessairement tyrannique ou vaine.
訳
第2に、譲渡は余すところなく為されるので、結合は完全無欠である。そして誰もそれ以上何も要求しない。というのも、もし個人に少しでも権利が残っていたならば、個人と公共の間で判決を下す共通の上位者がいないので、各人はある意味で自分自身の裁判官であるので、程なく各人は全てについて裁判官であることを強く主張するようになる。
コメント
共同体の構成員は全ての権利も含めて、余すところなく全てが共同体に譲渡されます。それは完全無欠でなければならないというのです。個人には一切何も残してはなりません。この完全主義的なまでの共同体観が、ここでの重要な特徴です。少しでも残っていれば、共同体の中で個人が突出してきます。キリスト教でも人を裁くことができるのは神だけですが、個人が勝手に人を裁くことができないのです。個人に権利が残ると、それをやるようになるということなのでしょう。
そしてまた完全なる共同体が、後々に大きな禍を引き起こしかねないのではないかと危惧されます。
Enfin, chacun se donnant à tous ne se donne à personne ; et comme il n’y a pas un associé sur lequel on n’acquière le même droit qu’on lui cède sur soi, on gagne l’équivalent de tout ce qu’on perd, et plus de force pour conserver ce qu’on a.
訳
第3に、各人は全員に自らを与えるので、特定の人物に自らを与えるのではない。そして全ての構成員は自分自身について全員に譲り渡した権利を等しく獲得するのだから、自分が所有するものを維持するためにより大きな力を獲得する。
コメント
共同体の構成員は、全ての権利と共に自らを与えるので、逆に同じだけ等しく受け取ることができます。譲渡したものと受け取るものは等価です。ある種の等価交換とも言えるでしょう。受け取るものには共同体マークが入っています。等価交換云々はさておき、ここでとくに強調しておきたいのは、所有権の譲渡についてです。ルソーのこのテーゼでは、個人の所有権を認めていません。まるで共産主義の思想のようにもみえます。あるいはルソーがここで語っているのは「原始共産制」に近いものかも知れません。自分のもっているものは全て共同体のものです。そして共同体のものを受け取ります。ですから譲渡するものと受け取るものは等価です。このようなことを行うことで、所有がより一層維持できるようになるというのです。
Si donc on écarte du pacte social ce qui n’est pas de son essence, on trouvera qu’il se réduit aux termes suivants : « Chacun de nous met en commun sa personne et toute sa puissance sous la suprême direction de la volonté générale ; et nous recevons encore chaque membre comme partie indivisible du tout. »
訳
したがって、もし社会契約(pacte social)からその本質でないものを取り除くならば、次のように表現されるだろう:「私たちは各人の人格と権力を一般意思の最高指導のもとにおき、私たちは全体から分割され得ない部分として各構成員を受け入れる」
コメント
どうしても一般意思がなんであるのか、ということは問題として残ります。もちろんルソーの時代には共産主義はありませんが、原始共産制を想定しても良いとは思います。それとこの一般意思も含めて考えると、キリスト教の共同体(とくにプロテスタント)のようなものを想定してもいいかと思います。ルソーの出身国であるスイスのカルヴァン派のあたりも着想の参考にされているのかも知れません。ルソーもプロテスタントの家の生まれです。ルソー自身が信仰心に篤い人でした。しかし、ここではキリスト教のカラーは全く出していません。むしろキリスト教以前の社会の構成のされ方について述べています。キリスト教抜きの社会です。ですから、むしろ原始共産制に近いものであろうと思われます。しかし、この一般意思については、まずはキリスト教的な一般意思を想定しておいて、そのあとで一般意思からキリスト教的なカラーを抜いて考えると比較的わかりやすいかも知れません。あくまで比較的です。重要な点の一つは、「社会」について考えるさいに、キリスト教的な観点から考えない、ということが重要です。脱キリスト教です。ですから、ルソーは、キリスト教的な共同体観を引きつぎながらも、キリスト教的な側面を無くしています。もはや宗教の次元では社会を論じることはできません。キリスト教の流れを引きつぎつつ、キリスト教を脱する方向に向かっています。ですから、ルソーはキリスト教を継承しつつ、社会契約を論じていると考えられます。
話は飛んでしまいますが、日本における統治や共同体の性質が、和を以て貴しとなす、が主調であったのが、戦時中においては、天皇が「一般意思の最高指導」の側面が強まりすぎたのかも知れません。
A l’instant, au lieu de la personne particulière de chaque contractant, cet acte d’association produit un corps moral et collectif, composé d’au- tant de membres que l’assemblée a de voix, lequel reçoit de ce même acte son unité, son moi commun, sa vie et sa volonté. Cette personne publique, qui se forme ainsi par l’union de toutes les autres, prenait autrefois le nom de cité,4 et prend maintenant celui de république ou de corps politique, lequel est appelé par ses membres État quand il est passif, souverain quand il est actif, puissance en le comparant à ses semblables. À l’égard des associés, ils prennent collectivement le nom de peuple, et s’appellent en particulier citoyens, comme participant à l’autorité sou- veraine, et sujets, comme soumis aux lois de l’État. Mais ces termes se confondent souvent et se prennent l’un pour l’autre ; il suffit de les savoir distinguer quand ils sont employés dans toute leur précision.
CHAPITRE VII
Souverain
ON VOIT, par cette formule, que l’acte d’association renferme un engagement réciproque du public avec les particuliers, et que chaque individu, contractant pour ainsi dire avec lui-même, se trouve engagé sous un double rapport : savoir, comme membre du souverain envers les particuliers, et comme membre de l’État envers le souverain. Mais on ne peut appliquer ici la maxime du droit civil, que nul n’est tenu aux engagements pris avec lui-même ; car il y a bien de la différence entre s’obliger envers soi ou envers un tout dont on fait partie.
訳
この定式によって次のことがわかる。結合の行為は公共と個々人の間の相互的な約束engagementを含むこと、それぞれの個人はいわば自分自身と契約するのであるから、 二重の関係のもとで契約している。二重の関係とはすなわち、個々人に対しては主権者の構成員であり、主権者に対しては国家の構成員である。しかし、ここでは民法の基準を適用することができない。つまり誰も自分自身との契約には責任を持たない。というのも自分自身に従うか、自分が属している全体に従うかでは大きな違いがあるからである。
コメント
ここは非常にわかりにくいところです。大分考えて至ったところでは、ここでは3段階の構成になっているということです。
état / souverain / pariticuliers
つまり、個々人は主権者のメンバーであり、主権者は国家のメンバーです。
おそらくここでいっている基本的な図式はこうなっていて、そうすると国家・主権者・個々人が一体不分離なものとなっているということで一応の大まかな理解ができます。それが契約によって成り立っているというのも一応わかります。
つぎにわからないのは、民法の基本的な基準が当てはまらないというところもわからないところです。これは義務の発生と義務の違反についての民法であろうかと思われます。自分自身との契約が問題となっていますが、これは何のことでしょうか。他方、個人が全体に従わなければならないということは一応わかります。これは契約によるものです。下でもそうでなければならないと明言されています。それに対して自分自身との契約については大分後になって、それは本来の契約ではないというようなことがいわれています。それはいわば間違った契約、悪い契約です。他人と契約するのではなく、自分自身と契約するというのは合理性に欠けるということなのではないかとおもわれます。契約はあくまで他人との契約です。
Il faut remarquer encore que la délibération publique, qui peut obliger tous les sujets envers le souverain, à cause des deux différents rapports sous lesquels chacun d’eux est envisagé, ne peut, par la raison contraire, obliger le souverain envers lui-même et que, par conséquent, il est contre la nature du corps politique que le souverain s’impose une Ici qu’il ne puisse enfreindre. Ne pouvant se considérer que sous un seul et même rapport, il est alors dans le cas d’un particulier contractant avec soi-même ; par où l’on voit qu’il n’y a ni ne peut y avoir nulle espèce de loi fondamentale obligatoire pour le corps du peuple, pas même le contrat social. Ce qui ne signifie pas que ce corps ne puisse fort bien s’engager envers autrui, en ce qui ne déroge point à ce contrat ; car, à l’égard de l’étranger, il devient un être simple, un individu.
訳
なおもつぎのことも注意しなければならない。公的な討議は、全ての臣民を主権者に対して義務づけることができる。2つの異なる関係において、各人が検討されるのだから、この公的討議は、逆の理由によって、主権者を主権者自身に対して義務づけることはできない。したがって主権者が違反することができない法を自らの強いることは、政治体の本性に反することである。主権者は(2つの関係ではなく)ただ一つの同じ関係の元手しか自らを考えることができないので、したがって主権者は自分自身と契約する個々人の場合と同じである。そのことから次のことが生じるのがわかる。つまり人民の団体に義務となるような基本的な法は、一切存在存在しないし、存在しえない。そして社会契約さえ為されることはない。このことは、団体が他の団体と契約することができない、ということを意味しない。というのも、外国の団体にたいして団体は単一の存在、つまり一つの個人となるからである。
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ここでの基本図式としては、全ての契約のベースとなるのはAとBという二者間でなされるということのようです。対外的には1つとしてまとまっていても、内部では、他者と分離しつつ他者と契約しています。このような分離と結合がありますが、それでいて全体としては一体不分離です。この一体不分離は契約によってなりたっています。必ず、相互の契約に基づくということになるようです。逆に、たとえば主権者がよかれと思って勝手に自分と契約して自分に義務を課して、自分がこうやって決めたのだから主権者として実行するのだ、ということではいけません。王は主権者として自分自身と契約したのだから、民法の範囲外であるとするというような見解が当時あって、それにたいしてルソーが反駁しているのでしょうか、だから本文のような翻訳になっているのでしょうか。おそらく当時の議論を踏まえた記述になっているのでしょう。このあたりの記述の基本はやはり相互の契約によって成り立つということでしょう。つまり何度も繰り返し述べられたことがここでもみられます。細かいところはまだわからないところもあるのですが、おおむねこのようなところかとおもわれます。
Mais le corps politique ou le souverain, ne tirant son être que de la sainteté du contrat, ne peut jamais s’obliger, même envers autrui, à rien qui déroge à cet acte primitif, comme d’aliéner quelque portion de lui- même, ou de se soumettre à un autre souverain. Violer l’acte par lequel il existe, serait s’anéantir ; et qui n’est rien ne produit rien.
訳 しかし、政治体あるいは主権者は、契約の神聖さによってのみ、その存在を引き出すのだから、この最初の行為に背くことを強いられたりするということは全くできないし、他者に対してもそれはない。たとえば自分自身の一部を譲渡したり、あるいは、他の主権者に服従するということも全くない。自分が存在するようになった行為を損なうことは、自らを無に帰すことであろう。そして無である者は、何も産み出すことはない。
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この契約の神聖さsaintetéとは、神の名のもとに行われるような「一般意思」という意味が込められていて、神聖さがあるということだと考えられます。一般意思とは神の意志とも関連していると思われます。この契約によって、神の意志とも一致する一般意思が産み出されます。こうして一般意思は生成してきたものです。それはいったん生成されたならば、譲渡されもしないし、服従することでもなく、損なわれてはならないものです。一般意思が譲渡され得ないことについてはLivre2chapitre1'Souverainté est inaliéable'の項目で説明されています。
社会契約→一般意思 : 神聖さsainteté,譲渡不可能inaliéable
またこれによって集団およびその運用である政治が生まれるのです。ですから総体corpsとは集団や共同体でありかつ政治体corps politiqueであるということになります。
Sitôt que cette multitude est ainsi réunie en un corps, on ne peut offenser un des membres sans attaquer le corps, encore moins offenser le corps sans que les membres s’en ressentent. Ainsi le devoir et l’intérêt obligent également les deux parties contractantes à s’entraider mutuellement ; et les mêmes hommes doivent chercher à réunir, sous ce double rapport, tous les avantages qui en dépendent.
訳 この多くの人々がこのように一つの総体(団体)に集められるや否や、一人の構成員を傷つけることは総体を攻撃するということであり、総体を傷つけることは構成員がそのことで恨みを持つことになる。このように義務と利益は契約する双方にお互い助け合うということを等しく義務づける。そして同一の人々が、この二重の関係において、この二重の関係に基づくあらゆる利点を集結するように努めなければならない。
(corpsはよく出てくる言葉ですが、団体と訳してもよいと思われますが、総体というのが一般的な意味になってよいのではないかと思われます。)
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このように集団が形成される際の、集団の質がテーマとなっています。集団の質こそが重要です。社会契約によって作られた集団は一つの総体として個人と集団が密接に結びつくことができます。そのような共同体が形成されるのです。それは一つの宗教的な共同体を想像するとわかりやすい面があると思います。とくにプロテスタントの宗教的な共同体です。これはルソーの社会契約論の発想の源泉の一つだと思われます。ルソーの出身地はジュネーブで、そこではカルヴァン派が自治政治を行っていて、彼はジュネーブに対する愛国心も強かったようです。
プロテスタントなどの宗教的な共同体が発想の源泉の一つ
Or, le souverain, n’étant formé que des particuliers qui le composent, n’a ni ne peut avoir d’intérêt contraire au leur ; par conséquent, la puissance souveraine n’a nul besoin de garant envers les sujets, parce qu’il est impossible que le corps veuille nuire à tous ses membres ; et nous verrons ci-après qu’il ne peut nuire à aucun en particulier. Le souverain, par cela seul qu’il est, est toujours ce qu’il doit être.
訳 さて、主権者は主権者を構成する個々人からのみ形成されるのであるから、個々人に反するような利益はないし、あり得ない。したがって、主権者の権力は臣民に対して何ら保障する必要もない。なぜなら総体が全ての構成員を傷つけることなど不可能だからである。そして後ほど明らかにされるように、総体は個々人として誰も傷つけることはできない。主権者は、それが存在するというだけの理由で、いつもそうであるべきもの出なければならない。
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このあたりはとりわけ、この集団の質が均質であるものとして描かれています。それは単純なものです。質の形成こそが重要なのであって、それによって集団の政治とは、無理がなく、作為的なところがなく、後であれこれと補うことなく、自然に運用することができるのです。そのような基礎がここでのテーマです。社会契約に基づく集団においては、「あるがまま」であるということです。政治とは、そのあるがままを運用するだけです。
社会契約に基づく集団の政治=あるがままで運用が可能である。
Mais il n’en est pas ainsi des sujets envers le souverain, auquel, malgré l’intérêt commun, rien ne répondrait de leurs engagements, s’il ne trouvait des moyens de s’assurer de leur fidélité.
En effet, chaque individu peut, comme homme, avoir une volonté particulière contraire ou dissemblable à la volonté générale qu’il a comme citoyen ; son intérêt particulier peut lui parler tout autrement que l’intérêt commun ; son existence absolue, et naturellement indépendante, peut lui faire envisager ce qu’il doit à la cause commune comme une contribution gratuite, dont la perte sera moins nuisible aux autres que le payement ne sera onéreux pour lui; et regardant la personne morale qui constitue l’État comme un être de raison, parce que ce n’est pas un homme, il jouirait des droits du citoyen sans vouloir remplir les devoirs du sujet ; injustice dont le progrès causerait la ruine du corps politique.
訳 しかし、主権者に対する臣民たちsujets(の関係)は、このようなふうではない。公共の利益にもかかわらず、主権者が臣民たちの忠誠を保証する方法を見いださない限り、臣民たちの行った約束を保証す者は主権者にとって何もない。
実際、個々人は人間として個別意思を持ちうる。これは各個人が市民として持つ一般意思に反したり異なっていたりする。個別的な利益が公共の利益とは全く違うことを彼(自分)に語りかけるかも知れない。個別的な存在は絶対的であって、当然ながら独立しているので、公共の大義における義務を見返りのない寄付のようなものと見なされるかも知れない。彼にとっては費用が高くつくのだが、それに比べて、他者は損が少ない。そして国家を構成する精神的人格を理屈上の存在とみなして、彼は市民の権利を享受するが、臣民の義務を果たさないであろう。こうした不正が進めば政治体の崩壊を引き起こすであろう。
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これまでは、社会契約による一般意思の浸透した均質な社会が想定されていて、それだとあるがままの運用でかまいません。この社会の政治はシンプルです。しかし、これはあくまで理念的な社会です。このあるがままでも大丈夫であるという基礎はやはり基礎として重要であり、その意義は非常に大きいのですが、現実はそうではありません。それにまたあまりにこの均質は社会を作ろうとすることは、なにか犠牲を伴うものです。いわゆる全体主義的な社会に陥るというリスクも考えておかないといけません。ルソーは「人間というものは」というようなふうにして、人間である限り必ずや個別意思la volonté particulièreがあるものだと考えて、それは一般意思la volonté généraleとは必ずしも一致しません。この一致しないということが、面白いところでもあり、悩ましいところでもあり、雑多なところでもあります。一般意思が浸透した均質にして純粋な社会や個人ではなくて、個別意識が雑多にある社会と個人です。この個別意思とは個人の意思と訳してもよいと思われます。
ここでは臣民sujetという言葉が出てきています。sujetは両義的な言葉であって、単なるsujetであればそれは裏切るかも知れない信用のならないものです。つまり忠誠の裏返しが裏切りであるというような不安定な基盤のうえにあります。しかし、個別意思と一般意思の両方を備えているsujetもあります。ルソーの記述ではこの二つのタイプのsujetがあるようなのですが、この二つがはっきり区分されずに記述されているのでわかりにくいです。しかし、現実も二つは区別されにくいでしょう。ここでは臣民sujetとは個別意思を持っていてしたがって一般意思とは一致しないことがあります。そしてそれは集団の崩壊を引き起こす可能性があります。そうならないためには構成員には、義務が発生します。義務を負う構成員を臣民(sujet)とも呼びます。
人間は個別意思があるから、集団の崩壊を引き起こしかねない。なので構成員には義務や強制が発生する。こういった構成員を臣民(sujet)とも呼ぶ。つまり臣民(sujet)は個別意思があるが故に、義務を負う。したがって、義務を履行しないようならば、臣民sujetを強制することができる。これも契約の一つである。
臣民 = 一般意思+個別意思 = 権利と義務と強制
Afin donc que ce pacte social ne soit pas un vain formulaire, il renferme tacitement cet engagement, qui seul peut donner de la force aux autres, que quiconque refusera d’obéir à la volonté générale, y sera contraint par tout le corps ; ce qui ne signifie autre chose sinon qu’on le forcera à être libre, car telle est la condition qui, donnant chaque citoyen à la patrie, le garantit de toute dépendance personnelle, condition qui fait l’artifice et le Jeu de la machine politique, et qui seule rend légitimes les engagements civils, lesquels, sans cela, seraient absurdes, tyranniques, et sujets aux plus énormes abus.
訳 したがって、この社会契約が空虚な公式集ではないようにするために、この社会契約は暗黙のうちに次のような約束を含む。この約束だけが他の約束に効力を与えうる。すなわち一般意思に従うことを拒む者はだれであれ、総体の全体から強制されるという約束である。そのことは、その人に自由であるということを強いることに他ならない。というのもそうしたことが、各市民を祖国に引き渡しつつ、個々人のあらゆる隷属から各市民を守る条件であり、政治機構の装置と働きをうみだす条件であり、市民の約束を合法的にする唯一の条件だからだ。この条件がなければ、市民の約束は不条理で、圧政的で、より広範な悪用に陥るであろう。
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個々人が義務を果たしている間はいいのですが、義務を果たさない場合には、強制力を働かせて従わせることも、契約のなかの一つです。人間は自然状態における自由がもっとも十全な自由でしょうが、集団生活を始めた人間にとっての自由は、社会契約に基づく一般意思というロジックの上でのみ自由です。これは義務を伴います。誰かが従わなければ集団は強制力を働かせて、従わせなければなりません。こういうと今日ではまったくありきたりな内容のようにも思われます。しかし、これは容易に他のものにすり替わることがありうるということを示唆しています。あやまりの自由主義のまやかしから圧政(支配と隷属)にすり替わるということです。一般意思に従わないことを放置して自由にさせておくと、つまり、これが誤りの自由主義ですが、そこから次第に力を付けてきて、圧政が生じて、全体の自由を奪取して、社会を転覆させるという筋道です。誤りの自由主義によって結果としては、自由を喪失し、人々が隷属するようになるという筋道です。そうならないためには、強制力を含む機構によって、全体を機能させる必要があります。ときにこれは強い強制力を持たなければならないのでしょう。またこの強制力を圧政の道具として使うというすり替えが行われることがあります。全体としての社会体制を維持するために用いられる強制力が、いったいどちらなのか、ということがわかりにくいこともあるのです。自由がなんであるのか解りにくいと共に、この強制力もわかりにくいことがあるのです。
偽りの自由主義→自由の喪失
CHAPITRE VIII
L’état civil
市民状態
C E PA S S A G E de l’état de nature à l’état civil produit dans l’homme un changement très remarquable, en substituant dans sa conduite la justice à l’instinct, et donnant à ses actions la moralité qui leur manquait auparavant. C’est alors seulement que, la voix du devoir succédant à l’impulsion physique et le droit à l’appétit, l’homme, qui jusque-là n’avait regardé que lui-même, se voit forcé d’agir sur d’autres principes, et de consulter sa raison amant d’écoute, ses penchants. Quoiqu’il se prive dans cet état de plusieurs avantages qu’il tient de la nature, il en regagne de si grands, ses facultés s’exercent et se développent, ses idées s’étendent, ses sentiments s’ennoblissent, son âme tout entière s’élève à tel point que, si les abus de cette nouvelle condition ne le dégradaient souvent au-dessous de celle dont il est sorti, il devrait bénir sans cesse l’instant heureux qui l’en arracha pour jamais et qui, d’un animal stupide et borné, fit un être intelligent et un homme.
訳
自然状態から市民状態へのこの移行は、人間のなかに非常に注目すべき変化を引き起こす。人間の行為において本能の代わりに正義を置き換え、かつて欠けていた道徳性を行動に与える。そのときにのみ義務の声は身体的な衝動にとってかわる。権利が欲望にとってかわった。人間は以前には自分自身だけに関心を持っていたが、いまや別の諸原理にもとづいて行動し、自分の好みに耳を傾ける前に理性に照らさなければならなくなった。彼は市民状態において自然から得る数々の利益を自らに禁じるとはいえ、彼はそこからとても大きな利益をふたたび獲得する。彼の諸能力は訓練にて発達し、彼の思想は拡がり、彼の感情は気高くなり、彼の魂は全体として高められる。もしこの新しい状況を悪用して、彼が抜け出した状態(自然状態)以下に魂を悪くさせることがなければ、人間は自分を自然状態から永遠に根こそぎ引き離し、愚かで馬鹿な動物から治世ある存在、人間になった幸福な瞬間を絶えず祝福するにちがいないだろう。
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自然状態から市民状態に移行するにあたって、大きな変化が生じます。ルソーは自然状態は元々よいものだとしていわゆる性善説を唱えていましたが、文明化することによって全てが悪くなったとも言っていたようにおもいます。しかし、ここでは自然状態は愚かで馬鹿な動物であって、市民社会では人間はよい意味で大きく前進をして人間が人間となります。人間は市民社会と共に生きることになります。市民状態と文明化とは異なるものなのでしょう。またここでは市民状態と市民社会とも異なっている。ここでは市民状態になるメリット、利益をここでは強調しています。その際に特に注目しておきたいのは欲望は生まれ変わって権利となるということです。その際には、欲望は犠牲になるところも少なからずあるのですが、それを遙かにしのぐ利益の方が大きいので、もう自然状態に戻ることはできないのです。しかし、上で述べたように、この市民状態においては、自分だけが抜け駆けして欲望を果たそうとする者がでてくるので、強制力を働かせないといけないのですが。ですから、ここで述べられている市民状態とは、純粋な意味での市民状態、理念形としての市民状態です。このような限りにおいて市民状態は、自然状態より遙かによい状態なのです。
市民状態≠市民社会
≠文明状態
自然状態から市民状態への移行によって、人間としての利益が大きいので元には戻れない。
Réduisons toute cette balance à des termes faciles à comparer ; ce que l’homme perd par le contrat social, c’est sa liberté naturelle et un droit illimité à tout ce qui le tente et qu’il peut atteindre ; ce qu’il gagne, c’est la liberté civile et la propriété de tout ce qu’il possède. Pour ne pas se tromper dans ces compensations, il faut bien distinguer la liberté naturelle, qui n’a pour bornes que les forces de l’individu, de la liberté civile, qui est limitée par la volonté générale ; et la possession, qui n’est que l’effet de la force ou le droit du premier occupant, de la propriété, qui ne peut être fondée que sur un titre positif.
On pourrait, sur ce qui précède, ajouter à l’acquis de l’état civil la liberté morale qui seule rend l’homme vraiment maître de lui ; car l’impulsion du seul appétit est esclavage, et l’obéissance à la loi qu’on s’est prescrite est liberté. Mais je n’en ai déjà que trop dit sur cet article, et le sens philosophique du mot liberté n’est pas ici de mon sujet.
訳 この収支(貸借勘定)を比較しやすい用語でまとめてみよう。人間が社会契約によって失うものとは、自然の自由と、彼を魅了し手が届くもの全てへの無制限の権利である。人間が獲得するものは、市民的な自由と所有していること全てについての所有権である。これらの相殺について思い違いをしないために、限界として個々人の力しか持たない自然の自由と一般意思によって制約される市民的自由を区別しなければならない。そして最初の獲得者の力が権利の結果に過ぎない占有と、法律上の証明に基づく所有権を区別しなければならない。
訳 これまでのことに加えて、市民状態の獲得に加えることができるのは、人間を真に自由の主人にする精神的自由(道徳的自由)がある。というのもただ欲望のみの衝動は隷属状態であり、人が自らに課した法に従うことは自由だからである。しかし私は既にこの事柄についてあまりに多くを述べてきたし、自由という言葉の哲学的な意味は、ここでは私のテーマではない。
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自然状態=自由 ・・・ 欲望に従うことが自由である。
市民状態=自由 ・・・ 欲望に従うことは隷属状態であり、自由ではない。
こういうふうに欲望に従うことは隷属であるというのは古代哲学以来の哲学の伝統でもあり、キリスト教でもそものように見なされてきました。欲望への隷属と自由についての考察は哲学的な範囲と言えるのでしょう。自由についての哲学的な考察についてルソーが何のことを指しているか、よくわからないところもあるのですが、ルソーはそれについてはここでは論じないと言います。ルソーが言っているのはより現実的であり、政治のテーマです。つまり、一般意思に従う市民状態において、抜け駆け的に自分だけが欲望を遂げようとすることを許しておくと、結局各人がそのようにしようとして、そのなかで勝ち残った人たち、たとえば人口の1%の一握りのひとたちが自由であって、99%の人々は隷属的で不自由になるという事態へと至ることになります。市民状態はこうして偽りの市民状態となり、これでは市民状態は崩壊しています。人々が隷属的で不自由な状態に陥ることについては、哲学的なテーマではなくて、政治的なテーマだということになります。ルソーが考えているのは、哲学から政治学を分離する方向です。
つぎに所有の問題として、土地の支配権について論じられていますが、今回は割愛しておきたいと思います。
CHAPITRE IX
Domaine réel
割愛
(aliénerとは法律用語で譲渡するという意味があります)
L A P R E M I È R E et la plus importante conséquence des principes ci-devant établis, est que la volonté générale peut seule diriger les forces de l’État selon la fin de son institution, qui est le bien commun ; car, si l’opposition des intérêts particuliers a rendu nécessaire l’établissement des sociétés, c’est l’accord de ces mêmes intérêts qui l’a rendu possible. C’est ce qu’il y a de commun dans ces différents intérêts qui forme le lien social ; et s’il n’y avait pas quelque point dans lequel tous les intérêts s’accordent, nulle société ne saurait exister. Or, c’est uniquement sur cet intérêt commun que la société doit être gouvernée.
訳
先に論証した(明らかにした)諸原理の最初で最重要の結論は次のようなものである。すなわち、全体の意思だけが、公共の利益(公益)という国家体制の目的に叶うよう国家の諸力をを指揮することができる。なぜなら、もし個々人の利益の対立が社会の設立を必要としたならば、その社会の設立を可能にしたものは、まさにこれらの利益の一致だからである。これらの様々な利益のなかにある共通なものこそが、社会の絆を形づくる。そしてもし利益が一致するような点が何もなければ、いかなる社会も存在し得ないだろう。しかるに、この共通の利害に基づいてのみ、社会は統治されるはずである。
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要するに、ここではまずvolonté générale すなわち全体の意思を強調して、それがなんであるのか、これまでの議論よりもわかりやすくなっています。つまり全体の意思とはi'intérét commun共通の利益(公益)に依拠しているということです。これまでvolonté générale について、あれこれと言われてきましたがなんのことはない、結局はそういうことなのか、という感じです。わかりやすいと共に、ちょっとありきたりな感じもします。
volonté générale すなわち全体の意思⇄i'intérét commun共通の利益(公益)
Je dis donc que la souveraineté, n’étant que l’exercice de la volonté générale, ne peut jamais s’aliéner, et que le souverain, qui n’est qu’un être collectif, ne peut être re présenté que par lui-même ; le pouvoir peut bien se transmettre, mais non pas la volonté.
訳
したがって、私が言っているのは主権は一般意思の行使に他ならないのだから、譲渡されると言うことはあり得ないということ、そして主権者は集団的な存在に他ならないのであって、この集団的な存在それ自体によってしか代表されないと言うことである。権力は譲渡されることができるが、意思はそうではない。
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上の流れから、問題とされるのは主権についてですが、ここで明示されたことは、主権者とは集合的な特質であるということです。しかし、「主権が譲渡されることはあり得ない」というタイトルの主張が為されますが、これが実はピンときにくいのです。とくに、一般意思を譲渡することとは何を指しているのか、ということです。それはたぶん、後に明らかになるであろうと期待したいところです。このようにルソーの議論の展開の仕方として、解りづらく難しくいろいろ書いて、あとでわかりやすくなるということもありますので、先を見ていくとよかったりします。
souverain collectif ⇄volonté générale すなわち全体の意思⇄i'intérét commun共通の利益(公益)
En effet, s’il n’est pas impossible qu’une volonté particulière s’accorde sur quelque point avec la volonté générale, il est impossible au moins que cet accord soit durable et constant ; car la volonté particulière tend, par sa nature, aux préférences, et la volonté générale à l’égalité. Il est plus impossible encore qu’on ait un garant de cet accord, quand même il devrait toujours exister ; ce ne serait pas un effet de l’art, mais du hasard. Le souverain peut bien dire : « Je veux actuellement ce que veut un tel homme, ou du moins ce qu’il dit vouloir » ; mais il ne peut pas dire : « Ce que cet homme voudra demain, je le voudrai encore », puisqu’il est absurde que la volonté se donne des chaînes pour l’avenir, et puisqu’il ne dépend d’aucune volonté de consentir à rien de contraire au bien de l’être qui veut. Si donc le peuple promet simplement d’obéir, il se dissout par cet acte, il perd sa qualité de peuple ; à l’instant qu’il y a un maître, il n’y a plus de souverain, et dès lors le corps politique est détruit.
Ce n’est point à dire que les ordres des chefs ne puissent passer pour des volontés générales, tant que le souverain, libre de s’y opposer, ne le fait pas. En pareil cas, du silence universel on doit présumer le consentement du peuple. Ceci s’expliquera plus au long.
訳
実際、個人の意思が何らかの点で全体の意思と一致しないわけではないが、少なくともこの一致が長続きして一定であることはあり得ない。というのも個人の意思はその本性からして好みのほうに向かい、全体の意思は平等のほうに向かうからである。この一致を保証することはよりいっそう不可能であるが、それでも一致は常にあるはずだ。ただそれは人為的な結果ではなくて偶然(運命の巡り合わせ)の結果であろう。主権者はこう述べることができる。すなわち「私はこの人が望むことを現に望んでいる。あるいは少なくともこの人が望んでいると言っていることを私は望む」と。しかし主権者はこう述べることはできない。すなわち「この人が明日に望むことを、私はやはり望むであろう」と。というのも意思が未来にわたって鎖に繋がれるというのは馬鹿げているからであるし、また望んでいる人の利益に反することに同意するということは、意思次第だということにはならないからである。したがって、もし、人民が従うことを簡単に約束するならば、従うという行いによって、人民は解消され、人民としての資質を失う。一人の支配者が存在すると、とたんに主権者は存在しなくなり、それをもって政治体は破壊される。
それは首長たちの命令が全体の意思としては通用できないということではない。ただし、主権者が命令に反対する自由がありながらも反対しない限りにおいてである。
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このあたりは解りにくいところもありますが、おおよそのことは解ります。要するに、服従したり、安易に約束するということではいけないと言うことでしょう。また、このあたりは次のような区分になっているようです。
le maitre 主人であり支配者 / le chef 首長 / le souverain(=peuple) 主権者(=人民)
注意したいところは、このle souverain主権者が、ここでは人民の側に割り振られていますが、後にはchefの側に割り振られたりします。
さて、これを読むと、個人の意思の側にあるpréférence(好み)と全体の意思の側にあるégalité(平等)は必ずしも一致しがたいものがあります。しかし、個人の意思と全体の意思は一致するはずだと断定しています。どのような経緯で一致するのかまでは説明されていません。hasard偶然とも言われていますが、hasardは運命とか巡り合わせという意味もあります。ただそれ以上のことは述べられていません。ここで主に述べられているのは、単に服従したり簡単に約束することによって、個人の意思と全体の意思が一致したかのようにみえても、それは根本から成り立たなくなるのであって、自分自身の意思としてよく受け止めなければならない、というような取り組みの姿勢のことを言っているようです。そしてそれは反対する自由があるという環境のうえにあります。
P A R L A même raison que la souveraineté est inaliénable, elle est indivisible ;car la volonté est générale, ou elle ne l’est pas ;elle est celle du corps du peuple, ou seulement d’une partie. Dans le premier cas, cette volonté déclarée est un acte de souveraineté et fait loi ; dans le second, ce n’est qu’une volonté particulière, ou un acte de magistrature ; c’est un décret tout au plus.
訳
主権は譲渡できないということと同じ理由によって、主権は分割できない。というのも意思は全体的であったり、そうでなかったりするからです。つまり意思は人民の総体の意思であったり、その一部分の意思に過ぎなかったりするからである。前者(全体的な場合)においては、表明されたこの意思(全体意思)は、主権の一行為であり、法を作る。後者(部分的な意思)の場合は、それは個人の意思(個別意思)もしくは行政機関の一行為に過ぎず、せいぜい制令にすぎない。
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第1章では、個人の意思と全体の意思の違いをある程度許容しうるようなグレーの領域、いうなれば遊びの領域もあったようなのですが、ここでは個人の意思と全体の意思を明確に区別するスタンスになっています。これはロジックとしてわけるということですが、今後はそのうえで議論を展開するものと考えられます。ですから、この第2章の冒頭で、今後の議論の展開の土台となる二分法のロジックを提示しています。
Mais nos politiques Il ne pouvant diviser la souveraineté dans son principe, la divisent dans son objet : ils la divisent en force et en volonté, en puissance législative et en puissance, exécutive ; en droits d’impôt, de justice et de guerre ; en administration intérieure et en pouvoir de traiter avec l’étranger : tantôt ils confondent toutes ces parties, et tantôt ils les séparent. Ils font du souverain un être fantastique et formé de pièces rapportées ; c’est comme s’ils composaient l’homme de plusieurs corps, dont l’un aurait des yeux, l’autre des bras, l’autre des pieds, et rien de plus. Les charlatans du Japon dépècent, dit-on, un enfant aux yeux des spectateurs ; puis, jetant en l’air tous ses membres l’un après l’autre, ils font retomber l’enfant vivant et tout rassemblé. Tels sont à peu près les tours de gobelets de nos politiques ; après avoir démembré le corps social par un prestige digne de la foire, ils rassemblent les pièces on ne sait comment.
訳
しかし政治学者たちは、主権の原理においては、主権を分割できないものだから、主権の対象において主権を分割する。彼らhあ主権と力と意思に分割し、立法権と執行権に、課税権、司法権、交戦権に分割する。国内の行政権と外交区との条約締結権に分割する。あるときには彼らはこれら全ての部分を混同し、またあるときには彼らはそれらを別々にする。彼らは主権者というものを、断片がつなぎ合わせさったものと空想している。それはあたかも、目、腕、脚などの幾つもの身体部分から人間を作りあげるようなものである。日本の香具師(やし)は、子供を観衆の目前で切り分けて、体の部分を次々に中に放り投げて、全てを集めて生きた子供となってふたたび落ちてくる、という。政治学者のまやかしもそのようなものだ。すなわち市場の惑わしに相応しく、どうやっているのかわからないが、社会の総体をバラバラにしたあとで、再び断片を寄せ集めるのである。
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ここでは最初の二分法の前提に続いて、次の二分法つまりこの章のテーマとなっている「主権は分割できない」についてのテーゼです。まず「対象」とは分野別ということであり、行政や立法や司法のそれぞれの分野で区分されていたり、意思決定もされていたりしますが、それぞれが別々で動いているのではなくて、一つのまとまりとなって動いているはずです。主権はそれぞれの分野で別々に存在して、それらを集めたものが全体の主権であると考えるのは、誤りであるとルソーは考えているようです。なるほど、そうすると、各行政機関およびそれらを束ねる首長に主権があるということになり、国民はその主権からは外されることになります。主権は、これでは全体の意思ではなく、個別の意思の集合となってしまいます。つまり結局、主権が欠如していることになり、肝心の所が抜けていることになります。
Cette erreur vient de ne s’être pas fait des notions exactes de l’autorité souveraine, et d’avoir pris pour des parties de cette autorité ce qui n’en était que des émanations. Ainsi, par exemple, on a regardé l’acte de déclarer la guerre et celui de faire la paix comme des actes de souveraineté ; ce qui n’est pas puisque chacun de ces actes n’est point une loi, mais seulement une application de la loi, un acte particulier qui détermine le cas de la loi, comme on le verra clairement quand l’idée attachée au mot loi sera fixée.
訳
この誤りは、主権の権限の正確な概念が作られなかったことに由来する。つまり、主権の権限から派生してきたのに他ならないのに、主権の権限の部分だと見なしてしまった見なしてしまったことに由来する。こうして彼らはたとえ宣戦布告と講和の行いを主権の行いと見なした。というのも、これらの行いはそれぞれ全く法ではなくて、ただの法の運用にしか過ぎないからであって、それは法の事例を決める個々の行為なのである。このことは、法という言葉に関する観念をはっきりさせるときにクリアになるだろう。
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表現が解りにくいところもあります。要するに国民(人民)の主権のもとに各分野があるのであって、いろいろな分野が集まって全体として主権を構成している訳ではありません。主権はより高次のものであって、それが法を決めているのであり、それぞれの分野はその法を執行しているだけであって、主権の意思にしたがって下位に属しています。現代の民主主義国家の基本的な考え方であって、私たちにとってはわかりやすいことです。中学の公民にでも出てくる「国民主権」や憲法第1条「国民の総意に基づいて」などもこれにあたります。基本的な考え方としては、当たり前のことで、わかりやすいことです。でも他の国では時に、当たり前でないこともあります。ルソーの時代は、もちろん王政でしたし、絶対王政が隆盛を極めたルイ14世の次の代であるルイ15世の時代でしたので、いかに衰退傾向や綻びも見られたとはいえ、やはり絶対王政の枠でやっていた時代です。ですからこのようなことを主張するのもなかなか大変なところがあったと思われます。ルソーは、いわゆる誤用学者たちを批判したのでしょう。
En suivant de même les autres divisions, on trouverait que, toutes les fois qu’on croit voir la souveraineté partagée, on se trompe; que les droits qu’on prend pour des parties de cette souveraineté lui sont tous subordonnés, et supposent toujours des volontés suprêmes dont ces droits ne donnent que l’exécution.
訳
主権の他の分割も同じように見ていくと、主権が分割されていると見なす場合には、いつも間違っていることが解るだろう。そしてまた、この主権の諸々の部分と見なしている諸々の権利は、すべて主権に従属し、至高の意思を常に前提としていて、これら諸権利はそれを執行するのみである。
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行政・立法・司法は、主権と同等でもなければ主権よりも上にあるのでもなく、下にあって従属しているということが明言されています。またこの主権は全体意思がその本質となって構成されています。
IL S’ENSUIT de ce qui précède que la volonté générale est toujours droite et tend toujours à l’utilité publique : mais il ne s’ensuit pas que les délibérations du peuple aient toujours la même rectitude. On veut toujours son bien, mais on ne le voit pas toujours : jamais on ne corrompt le peuple, mais souvent on le trompe, et c’est alors seulement qu’il paraît vouloir ce qui est mal.
訳
以上のことから、全体の意思はいつも正しくて、いつも公共の有用性を目指す。しかし、人民の決議がいつも同じく正しいとは限らない。人はいつも自分の幸福を望むが、いつも理解しているわけではない。人は人民を腐敗させることはできないが、しばしば人民を欺く。そして欺かれたときに、人民は悪いことを望んでいるように見える。
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「人はいつも自分の幸福を望むが、いつも理解しているわけではない。」という同じような表現がLivre2 chapître6にもでています。
全体の意思volonté généraleとしては正しくても、それはむしろ成員たちが幸福を望むという意味での意思のことを指しているようです。ですから、全体の意思はその指向性が正しいということであって、その具体的な認識とか実行の段階になると、必ずしも正しいとは限りません。
Il y a souvent bien de la différence entre la volonté de tous et la volonté générale ; celle-ci ne regarde qu’à l’intérêt commun ; l’autre regarde à l’intérêt privé, et n’est qu’une somme de volontés particulières : mais ôtez de ces mêmes volontés les plus et les moins qui s’entredétruisent, reste pour somme des différences la volonté générale.
訳
cと全体の意思 la volonté généraleのあいだには、しばしばはっきりとした違いがある。後者は共通の利益だけを目指す。前者は私的な利益を目指し、個々人の意思の総和une somme de volontés particulièresにしか過ぎない。しかし、これらの個々人の意思から相殺し合う過不足を取り除くならば、差異の総和としての全体意思がのこる。
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「全員の意思 と全体の意思のあいだには、しばしばはっきりとした違いがある。」と明瞭に述べられれています。ときには同じこともありますが、大抵は違っているようです。ただ、全員の意思とはことなる全体意思とは具体的にどのようなものなのかは、はっきり説明ができないような難しいものです。個々人の意思は「相殺し合う過不足を取り除く」という経緯を経て、全体の意思になるのです。この経緯がこの表現では解りづらいのですが、さしあたりは次のように言えるかと思われます。議論せずにいきなり投票によって決めるのは、「個々人の意思の総和une somme de volontés particulières」つまり「 全員の意思 la volonté de tous」に過ぎず、それにたいして議論を尽くして決めたことは「全体の意思 la volonté générale」になりうるということです。 la volonté généraleは、通常は「全体の意思」ではなく「一般意思」と翻訳されますが、このような訳にするといったい「一般意思」とはなんであるのか、というのがただでさえ解りにくいのに、更に解りにくくなるように思われます。「全体の意思」と訳した方がわかりやすくなります。「一般意思」は何か哲学的な奥深さをもつようなニュアンスですが、少なくとも今までのところ、まさに今、そして少なくとも当面の間は「一般意思」やり「全体の意思」のほうが解りやすいです。結局は「一般意思」という訳にするにしても、やはり「全体の意思」と当面は訳していたほうが、理解しやすいです。そのほうが具体的に考えられると思われます。
さらに下で「 全体の意思la volonté générale」について述べられています。
Si, quand le peuple suffisamment informé délibère, les citoyens n’avaient aucune communication entre eux, du grand nombre de petites différences résulterait toujours la volonté générale, et la délibération serait toujours bonne. Mais quand il se fait des brigues, des associations partielles aux dépens de la grande, la volonté de chacune de ces associations devient générale par rapport à ses membres, et particulière par rapport à l’État : on peut dire alors qu’il n’y a plus autant de votants que d’hommes, mais seulement autant que d’associations. Les différences deviennent moins nombreuses et donnent un résultat moins général. Enfin quand une de ces associations est si grande qu’elle l’emporte sur toutes les autres, vous n’avez plus pour résultat une somme de petites différences, mais une différence unique ; alors il n’y a plus de volonté générale, et l’avis qui l’emporte n’est qu’un avis particulier.
Il importe donc, pour avoir bien l’énoncé de la volonté générale, qu’il n’y ait pas de société partielle dans l’État, et que chaque citoyen n’opine que d’après lui ;3 telle fut l’unique et sublime institution du grand Lycurgue. Que s’il y a des sociétés partielles, il en faut multiplier le nombre et en prévenir l’inégalité, comme firent Solon, Numa, Servius. Ces précautions sont les seules bonnes pour que la volonté générale soit toujours éclairée, et que le peuple ne se trompe point.
訳
人民が十分に情報を知らされて討議するにあたって、市民たちがごく内輪で話し合うことがなければ、たくさんの小さな相違から常に全体の意思が結論としてでてきて、討議は常に良いものになるであろう。しかし、徒党つまり大きな団体を犠牲にした部分的団体が作られたとき、これらの団体のそれぞれの意思は、その構成員にとっては全体的であっても、国家にしてみれば個人的である。その場合には、もはや人々と同じ数の投票者がいるのではなくて、ただ団体と同じ数の投票者がいるだけだ。相違の数はより少なくなり、その結果はよりいっそう全体的ではなくなる。ついには、これらの団体のうちの一つの団体が、あまりに大きくなって、この団体が他の団体の優位に立つと、小さな相違の総和ではなくて、ただ一つの相違が出てくるだけになる。そうなると全体の意思ではなくて、優位にある意見は個人の意思に他ならない。
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全体で話し合われることによって、全体意思が決定されます。ですから、全員で話し合わなければなりません。もし全体の中で分派のようなものができたり、部分的団体が作られたりしたら、その内部だけで話し合われただけでは、全体での話し合いにはなりません。勢力の強い団体が全体を牛耳ることになります。ですから、ルソーの考え方は要するに直接民主制に近いものと考えられます。あるいは比較的小規模のグループのなかでの話し合いがこれに近いと思われます。あるいは都市国家ならば可能でしょうか。たとえばジュネーブはどうでしょうか。ジュネーブは一部の市民層とくに一定の実力者の階級があったようにも聞きます。しかしいずれにしてもジュネーブの民主制を、理論的に純化すれば、ルソーの考えるような理想的な民主制になるのでしょう。そして、おそらくルソーは政党政治を想定していなかったものと考えられます。現在は、民主主義国家とされる先進国では政党政治になっていますが、はっきり言ってしまえば、それ以外の道はないと思われます。ルソーは直接民主制を想定していたのでしょうが、それはごく小規模の集団にしか通用しません。大きな国土と人口をもつ国家ではかならず中央集権的ですが、ルソーの国家についての考え方は、本質的に中央集権国家には適応できません。自治都市ならば可能かも知れません。しかし、それはよくわかりません。経験的にはっきりしているのは、どこそこの集会や部活のようなものであれば、まさにルソーの主張していることが行われています。それは自然発生的に行われています。当たり前のようにして。そのようなところで分派を作って政党政治のようにして議論を戦わせるのは非現実的です。もちろん現代の民主主義国家でも議論が尽くされることが大切だとはされています。そのような努力も為されているとおもわれます。議論をするというプロセスが大切だというのは、ルソーの「全体の意思」の生成の根幹となっています。
ここでは主権者とは、個々人のことではなくて、為政者です。後々の章では、主権者とは個々人のことを指します。いずれも社会を構成するための政治的な人格だということになります。
本文
SI L’ÉTAT ou la cité n’est qu’une personne morale dont la vie consiste dans l’union de ses membres, et si le plus important de ses soins est celui de sa propre conservation, il lui faut une force universelle et compulsive pour mouvoir et disposer chaque partie de la manière la plus convenable au tout. Comme la nature donne à chaque homme un pouvoir absolu sur tous ses membres, le pacte social donne au corps politique un pouvoir absolu sur tous les siens ; et c’est ce même pouvoir qui, dirigé par la volonté générale, porte, comme j’ai dit, le nom de souveraineté.
訳
もし国家または都市国家が一つの精神的人格にほかならず、その生命が構成員の結合において成り立つとすれば、そして国家の配慮の中で一番大切なものが自己保存の配慮だとすれば、各部分を全体にとって最も相応しいやり方で動かし配置するためには、国家または都市国家は普遍的で強制的な一つの力を持たなければならない。自然が各人に身体の全ての部分に対して絶対的な権限を与えているのと同様に、社会契約は政治体に全て構成員に対する絶対的な権限を与えている。まさにこの権限こそが、全体意思によって指導され、私が述べたように主権と名付けられるものである。
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この章のタイトルは「主権者の境界」ですが、この「境界」は「限界」というふうに訳してもいいかもしれません。つまり主権者souverainは権力pouvoirをもっていますが、それには「境界」ないしは「限界」がある、というのがこの章の全体の主旨となります。そしてこのパラグラフにおいては、章の始めのテーゼとして、主権者には「普遍的で強制的な一つの力」である「絶対的な権限」があって、これは各構成員にたいして強制的に作用するものです。全体意思によって指導されつつも、このような拘束力がはたらくのです。これについて身体の比喩が特にわかりやすいです。中枢神経系が身体の各器官に対して制御をうまくすれば各器官は秩序良くそれにしたがいます。逆に中枢神経系の統制力が弱まれば、各器官が勝手に動きだします。精神医学の中で、ジャクソンが提唱した中枢神経の制御系の基本的な考え方です。
このように主権は制御系の上位にあるものとして位置付けられています。全体意思は、具体性を持たない漠とした意思や志向のようなものであり、それに対して主権者は制御系のトップとして各部分に指令をだす権限をもっています。一般意思と実務の間をつなぐトップに位置しています。各部分は勝手に暴走してはならず、同じく主権者も勝手に暴走してはならず、具体性はあまりないにしても全体意思によって主権は指導されている立場です。
主権者は強い権限をもっていますが、それには境界=限界があります。この境界は、一般意思によって定められた境界です。勝手に動くことは許されません。
主権者の権限の境界についてさらに展開されます。
Mais, outre la personne publique, nous avons à considérer les personnes privées qui la composent, et dont la vie et la liberté sont naturellement indépendantes d’elle. Il s’agit donc de bien distinguer les droits respectifs des citoyens et du souverain,4 et les devoirs qu’ont à remplir les premiers en qualité de sujets, du droit naturel dont ils doivent jouir en qualité d’hommes.
訳
しかし、公的な人格la personne privéeにくわえて、公的な人格la personne publiqueを構成している私的な人格を考察しなければならない。そしてこの私的な人格の生命と自由は、本来公的な人格から独立している。したがってテーマは、市民の権利と主権者の権利のそれぞれを区別するということ、そして臣民としての市民が果たすべき義務と人間として享受すべき自然権droit naturelを区別することである。
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議論の展開として、ここでも重要なテーマについて述べています。ルソーの思い描く社会においては、個々人は私的な人格であるとともに公的な人格です。しかし公的な人格の元をたどれば私的な人格です。その逆ではありません。いきなり公的な人格が誕生するわけではありません。ですから先にあるのは私的な人格であり、私的な人格から公的な人格が発生します。私的な人格は公的な人格に先行しています。このような意味において、私的な人格は、公的な人格から独立しています。起源をたどればルソーが『人間不平等起源論』で描いた「野生人homme sauvage」という着想に至ります。「野生人homme sauvage」は私的な人格の起源です。もっともこの著作『社会契約論』においては「野生人homme sauvage」については少なくともこれまでのところは、何故かしら、ほぼ述べられていません。いずれにしても、私的な人格が集まってそれぞれの意見を互いに議論しあうなかで、次第に一般意思が育まれ、それが主権者という権力へと結晶化して、具体的な方針が考えられ、実行され、各構成員はそれに従うように課せられます。そのとき各構成員は、私的人格であるとともに公的人格となります。また彼らは課せられた義務に従う臣民sujetであり、その資格としては市民citoyentです。主権のありかは、各構成員であり、主権者であり、ということです。
また各人は、私的人格としては自然権を有しつつ、同時に公的人格としては義務を守ります。
On convient que tout ce que chacun aliène, par le pacte social, de sa puissance, de ses biens, de sa liberté, c’est seulement la partie de tout cela dont l’usage importe à la communauté ; mais il faut convenir aussi que le souverain seul est juge de cette importance.
訳
各人が社会契約によって、彼の権力、彼の財産、彼の自由について譲渡するものは全て、共同体にとって重要な用途の一部になる、ということは、皆の意見が一致している。しかし、主権者のみがこの重要性を判断する人だということも皆の意見が一致しなければならない。
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かなりわかり意味を取りづらい文章に感じます。いろんなものを共同体に譲渡しているような印象を受けるような文章です。現在のLivre2の 冒頭(Chapître1)のタイトルは「主権は譲渡できない la souvrainté est inaliéable」でありましたが、共同体に対しても主権は譲渡することは有り得ません。主権を譲渡するのではなくて、財産、自由、労力、時間などを譲渡することは有り得ます。それらの譲渡の重要性を判断するのは主権者le souverainの側です。現代においてわかりやすい例だと、税金です。それは国が決めたとおりに納めなければなりません。しかし、譲渡の項目には主権は含まれていません。犯罪者は主権を奪われることがあります。通常は、主権が取られることはなくて、私有物などは取られるということです。これは主権の行使のために必要なことだからです。もしこれを拒めば罰せられます。このような流れで考えると、この文章もおおむね解るような気がします。加えて、いわゆる「私有財産の廃止」という極端なもの、つまり共産主義の考え方と同じものがここに入っているかどうかはわかりません。
順序だててまとめますと、まず全体意思が主権者として結晶化して(=社会契約による)、主権者のその判断によって、具体的な譲渡を各構成員に求めることができる、ということです。
繰り返しになりますが、税金など私有物の譲渡を強制できたとしても、これは主権の譲渡ではありません。主権は譲渡できません。ですから、諸々の譲渡と主権の譲渡の間には境界borne(タイトルの言葉)があるということにもなります。
因みにここには書かれていませんが、譲渡には兵役service militaireも含まれています。すなわち時には命をも譲渡するということです。とくに、ルソーは古代のスパルタの国家体制を称賛しますが、それは彼が国のまとまりや国力の維持と増進が良いことと考えていたからです。それについては賛否も含めて、別途に議論が必要でしょう。
いずれにしても、上から強制的に「ヤラされている感」だけが先行するのではなくて、国から求められたことが自らの主権の行使でもあるという広い見地に立つということが大切かと思われます。この見地にたって物事を考えることができるかどうかが重要ポイントです。「政治」とは何か、といえば、この全体から見る見地だと思われます。偉そうな言い方ですが、全体から考えることができるかどうかが分かれ目になります。
「全体の意思」と「一般意思」という翻訳のどちらがいいでしょうか。政治的意識は「一般性」という観点がポイントだと言ってもピンとこなくて、政治的意識は「全体性」という観点がポイントとなると言ったほうがピンときやすいです。
ただし、ルソーの用語では、この「全体」はtotalitéではなくて、généralitéです。なぜ、la volonté totaleではなくて、la volonté générale なのでしょうか。たとえば別に「神の意志」というものもあります。これはどこまでも漠然としていて具体性を欠く意思です。この場合、具体性は欠いていても、意志は自然法則のようにして神から流出してくるものです。「全体の意思volonté générale」も漠然として具体性を欠く意思です。しかし「全体の意思」は各個人の意思から出発して、それらが主権souvraintéとして結晶化します。そして、主権者souvrainというポジションが登場します。この主権者が具体的な方策を立案し、実行するように機能します。ですから、このgénéraleは全体の意思であるとともに、具体性を欠く指向性であって、そのために「一般的général」です。généralとは具体性を欠くという意味が含まれているのだと思われます。そして同時に、全体の意思が煮詰められて成熟すると、このgénéralは神の意志にも近似するということになります。
さらに飛躍気味に発展させて考えると、日本の天皇制は、この一般意思および主権の考え方から考えることもできると思われます。
現代民主主義や資本主義のありかたについて考えることもできるでしょう。
また全体主義の問題点について考えることもできるでしょう。
Tous les services qu’un citoyen peut rendre à l’État, il les lui doit sitôt que le souverain les demande ; mais le souverain, de son côté, ne peut charger les sujets d’aucune chaîne inutile à la communauté : il ne peut pas même le vouloir ; car, sous la loi de raison, rien ne se fait sans cause, non plus que sous la loi de nature.
訳
一人の市民が国家にたいしてなし得るあらゆる奉仕を、主権者が求めたらすぐさま行わなければならない。しかし、主権者の側としては、共同体に不必要な束縛を課すことは一切できない。主権者はそうしたいとも思わない。というのも理性の法則のもとでは、原因なく起きることは何もないからである。それは自然法則の場合と同じようなのだ。
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ここでの主権者は、個々人のことではなくて、長(主権を実行する人)の立場にあるような人のようです。そして、ここでは、個々人の主権=主権者の主権という等値の前提があります。この主権者は、自明のこととして理性によって導かれます。不必要な束縛を課すことはしません。そんなことはしてはなりません。しないことになっています。するはずもありません。これは原理的にという意味です。それは自然法則のようなものです。
主権者は強い権限を持っていてもその権限には境界があります。この章のタイトル「Bornes du pouvoir souverain主権者の権限の境界」です。この境界は「全体の意思」に導かれている限りにおいてという意味です。この境界の実体は「全体の意思」にあります。
Les engagements qui nous lient au corps social ne sont obligatoires que parce qu’ils sont mutuels; et leur nature est telle qu’en les remplissant on ne peut travailler pour autrui sans travailler aussi pour soi. Pourquoi la volonté générale est-elle toujours droite, et pourquoi tous veulent-ils constamment le bonheur de chacun d’eux, si ce n’est parce qu’il n’y a personne qui ne s’approprie ce mot, chacun, et qui ne songe à lui-même en votant pour tous ? Ce qui prouve que l’égalité de droit et la notion de justice qu’elle produit dérivent de la préférence que chacun se donne, et par conséquent de la nature de l’homme ; que la volonté générale, pour être vraiment telle, doit l’être dans son objet ainsi que dans son essence ; qu’elle doit partir de tous pour s’appliquer à tous ; et qu’elle perd sa rectitude naturelle lorsqu’elle tend à quelque objet individuel et déterminé, parce qu’alors, jugeant de ce qui nous est étranger, nous n’avons aucun vrai principe d’équité qui nous guide.
訳
私たちを社会体に結びつけている約束が義務となるのは、この約束が相互的であるという理由だけからだ。そしてその約束の性質とは、約束を果たして他人のために働くことが自分のために働くことと同じになるということである。なぜ全体の意思は常に正しいのか。そしてなぜ全ての人が全ての人のそれぞれの幸福を絶え間なく願っているのか。その理由は「各人」という語を我が事としない人がいないからであり、全員のために投票する際に自分自身のことを考えないような人はいないからではなかろうか。このことは次のことを示す。権利と平等とそれが生む正義の観念は、各人が自らのことを優先することから生じるのであり、したがって人間の本性から生じるのである。また全体の意思は、本当に全体の意思であるためには、その本性においてと同様に、その対象においても全体的でなければならない。そして全体意思は、全員から出発して全員に適用されなければならない。そして、全体意思は個人的で限られた対象に向かうとき、その本来の正しさを失う。なぜならそのとき、私たちに関係のないことについて判断するときに、私たちを導く公平についての真の原理を全く持たないからである。
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ここでは全体意思の決定のための2つの要因を組み合わせて述べていると考えられます。一つは全体意思の生成に向けての出発点であり、もうひとつは全体意思の生成が目指すところです。まず、全体意思の生成の出発点ですが、それは必ずしも全体のことではなくて、個々人が自分自身の幸福について考えることです。各人がそれぞれそのように考えているのであって、結局それらが集まり、十分に議論され、煮詰められれば、全体の意思を目指すことになります。それが全体ではなくて、限られたものが対象となるのであれば、全体の意思ではありません。
このようにトートロジー的な論の展開ともなりつつも、やはりあくまで人間の本性である各人が自らの幸福を目指すことが出発点になって、次第に全体性を目指していくというところは、やはり重要ポイントになります。「個々人」から「全体」に向けて、どこかでギアが切り替わるところがあるようなのですが、しかし、それが謎なところもあります。他者を認め、他者の幸福の追求を認め、自分の幸福の追求と平等なくらいに引き上げられるならば「全体性」が現れることになるのでしょう。ここには「公平性」が生じています。しかしこのような公平性が発生するには、なにか飛躍というか跳躍があるに違いありません。どのような要因によって、この跳躍を遂げることができるのでしょうか。しかし、これはとくに述べられていません。
En effet, sitôt qu’il s’agit d’un fait ou d’un droit particulier sur un point qui n’a pas été réglé par une convention générale et antérieure, l’affaire devient contentieuse : c’est un procès où les particuliers intéressés sont une des parties, et le publie l’autre, mais où je ne vois ni la loi qu’il faut suivre, ni le juge qui doit prononcer. Il serait ridicule de vouloir alors s’en rapporter à une expresse décision de la volonté générale, qui ne peut être que la conclusion de l’une des parties, et qui par conséquent n’est pour l’autre qu’une volonté étrangère, particulière, portée en cette occasion à l’injustice et sujette à l’erreur. Ainsi, de même qu’une volonté particulière ne peut représenter la volonté générale, la volonté générale à son tour change de nature, ayant un objet particulier, et ne peut, comme générale, prononcer ni sur un homme ni sur un fait. Quand le peuple d’Athènes, par exemple, nommait ou cassait ses chefs, décernait des honneurs à l’un, imposait des peines à l’autre, et, par des multitudes de décrets particuliers, exerçait indistinctement tous les actes du gouvernement, le peuple alors n’avait plus de volonté générale proprement dite ; il n’agissait plus comme souverain, mais comme magistrat. Ceci paraîtra contraire aux idées communes ; mais il faut me laisser le temps d’exposer les miennes.
訳
実際、全体であらかじめ合意によって決められていなかったことについて、個別の事柄や権利が問題になるとすぐに、物事は係争事案になる。これは利害にかかわる個人が一方の当事者であり、他方の当事者が公衆である、というような係争である。しかし、ここには私は従うべき法律を見いださないし、判決を下すべき裁判官もいない。そんなときに、全体意思による厳しい判決に委ねようと望むことは馬鹿げているだろう。その判決は当事者の一方の決定にしか過ぎず、したがって、他方の当事者にとってはよそよそしくて個人的な意思にほかならず、この場合、不正に至りやすく、また誤りに陥りやすい。このように、個人の意思が全体意思を代表し得ないのと同じように、全体意思の方でも性質を変え、個別的な対象を持つ場合には、全体の意思としては人についても事柄についても判断を下すことができない。たとえば、アテネの人民が首長を任命したり罷免したり、ある人に名誉を授けたり、ある人には罰を科したり、また多数の個別的な条例(デクレ)によって政府の全ての行為を無差別に執行する場合に、人民は本来の意味で全体の意思を持っていなかった。人民はもはや主権者としてではなく執行官として行動していた。これは一般の見解とは逆のようにみえるだろう。しかし私の考えを述べる時間を与えて頂きたい。
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理解しづらい記述になっていますが、この辺りがこの章のタイトル「主権者の限界」にはいってきていると思われます。主権者の限界とはつまり全体意思の限界でもあります。主権者の限界とはつまり全体意思が本来なんであるかから導かれるはずの限界です。しかし、それはこのパラグラフではまだはっきりとはしていないようです。以下のパラグラフで説明をされることかと思われます。
しかし、以前述べられていたのは、全体の意思は個々人に対しては強制力を持って従わせることができるともされていました。これは等しく平等に課す強制力です。これは執行レベルの話です。それとの整合性はどうなっているのでしょうか。一方では個々人の利害には介入できないとし、他方では個々人に対しては一律に強制力を発揮します。
全体意思は、いわゆる全体主義のようなものにもなり得るとも考えられますが、そうではあってはならないとする検討も為されてもよいのではないかと思われます。
分かりづらい叙述はありますが、このあたりの叙述の基本路線は、一人一人の個人は利己的であっても、集まって討議という手続きを経れば、おおよそ全体の意思を決めることができるということなのでしょう。これが基本路線ということで、大体のところが理解できそうです。
そして、全体意思は、一方的に個別的な事案や個人に対して利害の対立を採決することができないといっているようです。全体意思は、条例(デクレ)とは別のものです。
On doit concevoir par là que ce qui généralise la volonté est moins le nombre des voix que l’intérêt commun qui les unit ; car, dans cette institution, chacun se soumet nécessairement aux conditions qu’il impose aux autres ; accord admirable de l’intérêt et de la justice, qui donne aux délibérations communes un caractère d’équité qu’on voit s’évanouir dans la discussion de toute affaire particulière, faute d’un intérêt commun qui unisse et identifie la règle du juge avec celle de la partie.
訳
そのことから以下のことを理解しなければならない。意思を全体のものにするのは、票の数よりも共通の利害であって、これが票となる。なぜなら、この制度においては、各人は他者に課す条件に必然的に従うからである。利害と正義との素晴らしい一致、これは共通の決議に対して公平という性質を与えるが、この公平は全ての個人的事柄についての議論の中で消え去ってしまう。それは裁判官の基本的な考え方と当事者の基本的な考え方を結びあわせ、一致させる共通の利害がないせいだ。
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ここではうまく言った場合について、つまり理想的な状態に達したところを描写しています。個々人の利害の違いを超えて、全体の共通の利害が一致して、これによって全体の意思が決定され、公平性が生じます。
原文
Par quelque côté qu’on remonte au principe, on arrive toujours à la même conclusion ; savoir, que le pacte social établit entre les citoyens une telle égalité, qu’ils s’engagent tous sous les mêmes conditions et doivent jouir tous des mêmes droits. Ainsi, par la nature du pacte, tout acte de souveraineté, c’est-à-dire tout acte authentique de la volonté générale, oblige ou favorise également tous les citoyens ; en sorte que le souverain connaît seulement le corps de la nation, et ne distingue aucun de ceux qui la composent. Qu’est-ce donc proprement qu’un acte de souveraineté ? Ce n’est pas une convention du supérieur avec l’inférieur, mais une convention du corps avec chacun de ses membres ; convention légitime, parce qu’elle a pour base le contrat social; équitable, parce qu’elle est commune à tous ; utile, parce qu’elle ne peut avoir d’autre objet que le bien général ; et solide, parce qu’elle a pour garant la force publique et le pouvoir suprême. Tant que les sujets ne sont soumis qu’à de telles conventions, ils n’obéissent à personne, mais seulement à leur propre volonté : et demander jusqu’où s’étendent les droits respectifs du souverain et des citoyens, c’est demander jusqu’à quel point ceux-ci peuvent s’engager avec eux-mêmes, chacun envers tous, et tous envers chacun d’eux.
訳
どの側かから(おそらく主権者と当事者)原理に遡ろうとも、常に同じ結論に至る。すなわち社会契約によって市民たちの間には、このような平等は確立し、市民たちは同じ条件のもとで全てを約束しあい、同じ権利で全てを享受すべきである。このように、契約の性質からして、主権のすべての行為すなわち全体の意思の真正の行為は、すべての市民に等しく義務と恩恵を与える。したがって、主権者はただ国家の体制だけを知っていて、国家を構成する人たちを分けへだてをすることがまったくない。それでは、主権の行為とは本来何であるのか。それは上位の者と下位の者との合意ではなくて、政治体とそれを構成する一人ひとりの合意である。すなわち合法的な合意である。なぜなら、この合意は社会契約を基礎としているからであり、またこの合意は全員に対して共通であるからだ。この合意が有用なのは、全体の幸福だけを対象としうるからである。そしてこの合意が確固としているのがなぜかといえば、公共の力と至高の権力が保証されているからである。臣民たちがこのような合意に従う限り、誰にも従わずただ自分の固有の意思にのみ従う。そして主権者と市民の各々の権利がどこまで及ぶのかを問うことは、つまりどの点まで市民たちが彼ら自身と約束することができるのか、と問うことである。つまり、各々が全員に対して、全員が各々に対して約束することである。
コメント
さらに理想的な社会状態について述べています。個々人の義務と恩恵は公平です。個々人の幸福は全体の幸福です。個々人の意思は全体の意思に等しいものになります。 個々人には義務がありますが、人から強いられるのではなくて、内発的な意思に従って行います。義務に従うという側面においては、個々人は臣民sujetと呼ばれます。ただし、これには一般意志という基盤があってこそ成り立つものであって、これが主権の限界を画しています。
原文
On voit par là que le pouvoir souverain, tout absolu, tout sacré, tout inviolable qu’il est, ne passe ni ne peut passer les bornes des conventions générales, et que tout homme peut disposer pleinement de ce qui lui a été laissé de ses biens et de sa liberté par ces conventions; de sorte que le souverain n’est jamais en droit de charger un sujet plus qu’un autre, parce qu’alors, l’affaire devenant particulière, son pouvoir n’est plus compétent.
訳
そのことから次のことがわかる。主権は、いかに絶対的であり、いかに神的であり、いかに不可侵であろうとも、全体の合意の限界を超えてはならないし、超えることができない。そしてすべての人は合意によって、彼に残された財産や自由を十分に使うことができる。したがって、主権者はある臣民に他の臣民より多くの負担を課す権利を持たない。なぜなら、そのようなことをすると、事柄は個人的になり、主権者の権限の管轄外ということになります。
コメント
人々は、一般意志を超えた強制を受けることもないし、自分に残された個人的な財産や自由を思いのままにしても構いません。過剰な強制や制限はあってはなりません。これは主権の限界を画しています。
あるいは誰かを優遇して、特別に負担を免除したり、自由や財産の度合いを増やしたりすることもありません。このような不公平なことをすると、一般意志を反映するものではなくて、個人的な次元になってしまいます。これもまた主権の限界を画しています。
原文
Ces distinctions une fois admises, il est si faux que dans le contrat social il y ait de la part des particuliers aucune renonciation véritable, que leur situation, par l’effet de ce contrat, se trouve réellement préférable à ce qu’elle était auparavant, et qu’au lieu d’une aliénation ils n’ont fait qu’un échange avantageux d’une manière d’être incertaine et précaire contre une autre meilleure et plus sûre, de l’indépendance naturelle contre la liberté, du pouvoir de nuire à autrui contre leur propre sûreté, et de leur force, que d’autres pouvaient surmonter, contre un droit que l’union sociale rend invincible. Leur vie même, qu’ils ont dévouée à l’État, en est continuellement protégée ; et lorsqu’ils l’exposent pour sa défense, que font-ils alors que lui rendre ce qu’ils ont reçu de lui ? Que font-ils qu’ils ne fissent plus fréquemment et avec plus de danger dans l’état de nature, lorsque, livrant des combats inévitables, ils défendraient au péril de leur vie ce qui leur sert à la conserver ? Tous ont à combattre, au besoin, pour la patrie, il est vrai ; mais aussi nul n’a jamais à combattre pour soi. Ne gagne-t-on pas encore à courir, pour ce qui fait notre sûreté, une partie des risques qu’il faudrait courir pour nous-mêmes sitôt qu’elle nous serait ôtée ?
訳
これらの違いが一旦認められると、社会契約において個々人の側では((権利の))すべての放棄があるということは全くの誤りであり、彼らの状況はこの契約の結果しだいであって、以前の状況より実際には好ましいものとなり、((権利の))放棄ではなくて、彼ら(個々人)は有利な交換をしただけなのだ。これは、不確実で不安定なやり方から、より良くより確かな別のやり方にするような交換をしたのであり、自然における独立ではなくて、自然になる交換であり、他人を傷つけるような権力ではなくて、自分たち自身の保全になるような交換であり、他人が乗り越えうるような力ではなくて、社会の結束によってびくともしない権利となる、といった有利な交換である。彼らの生命そのものが国家に捧げられ、国家によりいつまでも保護される。そして彼らが国家を守るために生命を危険にさらすとき、それは彼らが国家から受け取ったものを国家に返すことに過ぎないのではなかろうか。ほかに何があろうか。すべての人は必要とあらば祖国のために戦わなければならない。それは本当だ。しかし何人も自分自身のために戦う必要はない。私達の安全が失われるときには、すぐさま私たち自身のために取らなければならないリスクの一部を使って、私達を安全にさせるもののために費やすほうがいっそう得ではなかろうか。
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理想的な社会状態においては、個々人は権利を「放棄」したのではなくて、全体の意思に基づいて「交換」をしたのです。それは、社会契約が締結される以前よりも確かで、より安全を保証するような交換がなされます。損得勘定で考えれば得です。個々人は国家に生命を捧げ、国家は個々人を保護します。ですから、国家が存亡の危機にあるときには、個々人は国家を守るために命をかけます。国家が機能しているときには、国家が守ってくれるので自分のために戦う必要もありませんし、国家が危機にあるときには、自分のためではなくて国家のために戦います。
理想的な社会では、こういったこと全てが、全体意志という主権の限界のもとに行われます。
原文
Par le pacte social, nous avons donné l’existence et la vie au corps politique : il s’agit maintenant de lui donner le mouvement et la volonté par la législation. Car l’acte primitif par lequel ce corps se forme et s’unit ne détermine rien encore de ce qu’il doit faire pour se conserver.
Ce qui est bien et conforme à l’ordre est tel par la nature des choses et indépendamment des conventions humaines. Toute justice vient de Dieu, lui seul en est la source ; mais si nous savions la recevoir de si haut, nous n’aurions besoin ni de gouvernement ni de lois. Sans doute il est une justice universelle émanée de la raison seule ; mais cette justice, pour être admise entre nous, doit être réciproque. À considérer humainement les choses, faute de sanction naturelle, les lois de la justice sont vaines parmi les hommes ; elles ne font que le bien du méchant et le mal du juste, quand celui-ci les observe avec tout le monde sans que personne les observe avec lui. Il faut donc des conventions et des lois pour unir les droits aux devoirs et ramener la justice à son objet. Dans l’état de nature, où tour est commun, je ne dois rien à ceux à qui je n’ai rien promis ; je ne reconnais pour être à autrui que ce qui m’est inutile. Il n’en est pas ainsi dans l’état civil, où tous les droits sont fixés par la loi.
訳
社会契約によって私達は政治体に存在と命を与えた。いまや法律の整備によって、政治体に動きと意思を与えることがテーマとなる。というのも、最初の行為によって政治体が形成され、結合されたのだが、この最初の行為が存続するために行わなければならないことについては、まだ似にも決めていないからです。
善であって秩序に叶っている事柄の本姓からしてそのようなものであり、人間の合意とは無関係である。あらゆる正義は神に由来し、神のみがあらゆる正義の起源である。しかし、もし私達が正義をそんなに高いところから受けつることができるとするならば、私達は政府も法も必要としないであろう。なるほど理性だけに由来する普遍的正義があるが、しかし、この正義は私達の間で承認されるためには、相互的でなければならない。物事を人間的に考察すると、自然の制裁がないのだから、正義についての法は人間の間では虚しいものだ。正義についての法は悪人の幸せと義人の不幸を作り出すだけだ。ただし義人が皆とともに正義の法を守るとき、誰も彼とともに法を守る人がいないならば(訳が不明瞭)。したがって、権利を義務に結びつけ、正義をその対象に連れ戻すためには、合意と法律がなければならない。自然状態においては、全てが共有であり、私はなんの約束もしていない人に全く何も義務を負わないし、私にとっていらない物しか、他人の物であると認めない。社会状態においては、そうではない。そこでは、あらゆる権利が法律によって規定されている。
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このあたりの訳は、意味が通じにくいところが散見されます。
社会契約は最初の政治的な行為acteです。これによって政治体が形成されます。しかし、これだけで政治体が維持できるわけではありません。必要なのは法律をつくること(legislation)です。法律によって政治体は動きます。次のパラグラフでは法律が不可欠であるという理由が述べられています。
まず、法律が必要なのは、正義の遂行のためです。法律なしでは、正義を全うすることはできません。なるほど正義は、理性や神(神は理性の後ろ盾でもある)に由来するという考え方もあるでしょう。それはそれで大切なことであり、真であると考えられていますが、しかし、悪人が罰せられ、善人が報われるというふうに、世の中は必ずしも因果応報が成り立っているとは思われないのです。このことは経験的に周知の事実であり、現実的に考えなければならないというのがルソーの考えです。全員が理性的な義人であればいいのですが、そんなことはありえません。もし義人たちの中にひとりでも悪人が紛れ込んでいれば、彼はあらゆる利益を総取りすることができます。そんな人間が支配者になることもあり得るわけです。正義を遂行するには、相互に合意して決めた法律という形をとらなければなりません。人々は全体の意思として法律を定めるのです。このように社会契約という最初の行為によって作られた政治体が動くことができるのは全体意思によってでありますが、この政治体が維持存続できるのは、全体意思に基づいて定められた法律によってです。このあたりはルソーの現実主義者がよく現れています。
原文
Mais qu’est-ce donc enfin qu’une loi ? Tant qu’on se contentera de n’attacher à ce mot que des idées métaphysiques, on continuera de raisonner sans s’entendre, et quand on aura dit ce que c’est qu’une loi de la nature, on n’en saura pas mieux ce que c’est qu’une loi de l’État.
J’ai déjà dit qu’il n’y avait point de volonté générale sur un objet particulier. En effet, cet objet particulier est dans l’État ou hors de l’État. S’il est hors de l’État, une volonté qui lui est étrangère n’est point générale par rapport à lui ; et si cet objet est dans l’État, il en fait partie : alors il se forme entre le tout et sa partie une relation qui en fait deux êtres séparés, dont la partie est l’un, et le tout, moins cette même partie, est l’autre. Mais le tout moins une partie n’est point le tout ; et tant que ce rapport subsiste, il n’y a plus de tout ; mais deux parties inégales : d’où il suit que la volonté de l’une n’est point non plus générale par rapport à l’autre.
Mais quand tout le peuple statue sur tout le peuple, il ne considère que lui-même ; et s’il se forme alors un rapport, c’est de l’objet entier sous un point de vue à l’objet entier sous un autre point de vue, sans aucune division du tout. Alors la matière sur laquelle on statue est générale comme la volonté qui statue. C’est cet acte que j’appelle une loi.
訳
しかし、ならば法律とは一体何であろうか。この法律という言葉に形而上学的な観念だけを結びつけて満足している限り、お互いに理解し合えないまま理屈をこね続けるであろう。そして自然の法とは何であるのかということを言うとき、国家の法とは何であるのか、ということがより理解できるわけではない。
私はすでに個々人の対象については、全体の意思は全くないと述べた。実際、この個々人の対象は国家の中にあるか、あるいは国家の外にある。もし、個々人の対象が国家の外にあるならば、意思はその対象と無関係であり、その対象との関係においては全く全体的ではない。そしてもしこの対象が国家の中にあるのなら、その対象は国家の一部である。その際には、全体とその部分の間に一つの関係が成り立ち、その関係は2つの分離されたものをつくる。その部分(個人的な対象)が1であり、全体は(個人的対象であり1である)この部分を差引かれた別のものである。しかし、一部分を差し引かれた全体は全体ではない。そしてこの関係が続く限り、もはや全体というものはなくて、2つの不平等な部分がある。そこから生じてくることは、もはや一方の意思が他方との関係において、よりいっそう全体的であるということは決して無いということである。
しかしすべての人民がすべての人民について取り決めをするときには、人民自身のことだけを考える。そしてその際には2つの間に関係が作られ、それはある観点から見た対象全体と別の観点からみた対象全体の関係であって、全体の分割ではまったくない。その場合、取り決めの主題は、取り決めをする意思としては全体的である。この行為(とその行為の結果)を私は法律と呼ぶのだ。
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なかなか、なめらかな訳にはしづらいところです。要するににここでは、法律とは全体の意思を反映したものであるということです。この章のタイトルである「法律について」とは、簡単に言うとそれに尽きると思います。
法律は形而上学的なものではない、といいますが、この形而上学とは特に神学のことです。あるいはプラトン哲学のイデアのようなものと考えてもいいです。形而上学的なものとは、下から組み上げて作るものではなくて、逆に上から下に降りてくるもの、流れてくるものです。ルソーの言う法律とは、そのようなものではなくて、人々が集まって議論をして組みあげられて形成される全体の意思volonté généraleによるものです。神様が法律を与えたり、法律というイデアがあるわけではありません。もっとも個々人の意思(volonté parteculière)と全体の意思(volonté générale)の関係はつねに波乱含みでややこしくなっています。個々人の意思をたやすく棄てられるものではありません。また、個々人の意思がバラバラのまま、それらを寄せ集める、つまりいきなり投票するというものでもありません。そうではなくて、全体の意思を反映する法律を作るには、各人が人民としての立場となって議論することが大切です。これは各人が全体の意志の担い手として考えて議論するということです。それによって個々人の意思もいかされつつ全体の意思を形成していくことができます。こういった一連の流れの出発から到着点(つまり法律)に至るすべてが、行為acteです。この行為は政治的な行為であって、個々人は個々人から抜け出て政治的な主体になります。この全体意思の担い手になる政治的な主体が主権者souverainです。
Quand je dis que l’objet des lois est toujours général, j’entends que la loi considère les sujets en corps et les actions comme abstraites, jamais un homme comme individu ni une action particulière. Ainsi la loi peut bien statuer qu’il y aura des privilèges, mais elle n’en peut donner nommément à personne ; la loi peut faire plusieurs classes de citoyens, assigner même les qualités qui donneront droit à ces classes, mais elle ne peut nommer tels et tels pour y être admis ; elle peut établir un gouvernement royal et une succession héréditaire, mais elle ne peut élire un roi, ni nommer une famille royale : en un mot, toute fonction qui se rapporte à un objet individuel n’appartient point à la puissance législative.
訳
法律の対象は常に全体的であると私が言うとき、それは次のように理解する。法律は臣民たちを一つのまとまりとみなし、決して一人の人間を個々人とか個々の行為とはみなさない。このように法律は特権があるということを決めることはできるが、誰かに名指しで特権を与えることはできない。法律は王政と世襲を制度として定めることができるが、王を選ぶことおも王家を名指することもできない。要するに、個々人の対象に関する全ての機能は、立法権に属さない。
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ちょっと微妙なところもあるのですが、要するに法律では個人名を記載することはない、ということです。法律が特権の制度を定めることはできますが、法律に特権者の個人名を記載することはありません。ここまではわかるのですが、世襲制を法律で定めることはできるが、王家の名称も法律に入れてはいけない、というのがわかりにくいところです。日本ならば、天皇の世襲制は皇室典範という法律によって定められていますし、どの家系が天皇になりうるのか、つまり宮家という形で法律で定められているのではないでしょうか。
ただ、ルソーが言っているのは、法律ではなくて法律以外のもので定めるのが良いと言っているようです。例えばデクレ(条例)というのがあるのでしょう。
Sur cette idée, on voit à l’instant qu’il ne faut plus demander à qui il appartient de faire des lois, puisqu’elles sont des actes de la volonté de faire des lois, puisqu’elles sont des actes de la volonté générale ; ni si le prince est au-dessus des lois, puisqu’il est membre de l’État ; ni si la loi peut être injuste, puisque nul n’est injuste envers lui-même ; ni comment on est libre et soumis aux lois, puisqu’elles ne sont que des registres de nos volontés.
訳
この考えから次のようなことがすぐにわかる。法律を作るのは誰に属するのか、と問うてはならない。なぜなら、法律は法律を作る意思volontéによる行為(actes)であるからであり、すなわち全体の意思による行為だからであるからだ。また君主が法を超えるかどうか問うてはならない。なぜならば、君主は国家の一員であるからだ。また法が不正であるかどうか問うてはならない。なぜならば、誰も自分自身にたいして不正ということがないからだ。またどのようにして人が自由でありかつ法律に服従するのだろうか、と問うてはならない。なぜなら法律は私たちの意思を記録したものに他ならないからである。
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「私たちの意思nos volonté」とは全体の意思volonté généraleのことです。nos volontéというふうに複数形になっているのは、私たち全員が参画して組みあげられた意思だからです。法律が正しかろうと間違っていようと、私たちが決めたのですから、それに従わなければなりません。この見解はちょっと偏っているようにも思われるのですが、基本原理としては正しいのでしょう。
On voit encore que, la loi réunissant l’universalité de la volonté et celle de l’objet, ce qu’un homme, quel qu’il puisse être, ordonne de son chef n’est point une loi : ce qu’ordonne même le souverain sur un objet particulier n’est pas non plus une loi, mais un décret ; ni un acte de souveraineté, mais de magistrature. J’appelle donc république tout État régi par des lois, sous quelque forme d’administration que ce puisse être : car alors seulement l’intérêt public gouverne, et la chose publique est quelque chose. Tout gouvernement légitime est républicain (a) : j’expliquerai ci-après ce que c’est que gouvernement.
訳
さらに次のようなこともわかる。法律は意思の普遍性と対象の普遍性を結びつけるものだから、一人の人が誰であれ勝手に自分の権限で命令することは法律ではない。主権者でさえ個々の対象について命令することも、やはり法律ではなくて、デクレ(政令)である。それは主権の行為ではなくて、行政者の行為である。したがって、法律によって統治されるくべては全て共和国であると私は呼ぶ。たとえ行政の形がどのようであろうとも全てそうである。というのも、その場合(法律によって国を治める場合には)ただ公共の利益のみが国を治めるのであり、公共性は大事なのである。合法的な全ての政府は共和国である。私は、政府とはなんであるかということを後回しにして説明しよう。
Les lois ne sont proprement que les conditions de l’association civile. Le peuple, soumis aux lois, en doit être l’auteur ; il n’appartient qu’à ceux qui s’associent de régler les conditions de la société. Mais comment les régleront-ils ? Sera-ce d’un commun accord, par une inspiration subite ? Le corps politique a-t-il un organe pour énoncer ses volontés ? Qui lui donnera la prévoyance nécessaire pour en former les actes et les publier d’avance ? ou comment les prononcera-t-il au moment du besoin ? Comment une multitude aveugle, qui souvent ne sait ce qu’elle veut, parce qu’elle sait rarement ce qui lui est bon, exécuterait-elle d’elle-même une entreprise aussi grande, aussi difficile qu’un système de législation ? De lui-même, le peuple veut toujours le bien, mais de lui-même, il ne le voit pas toujours. La volonté générale est toujours droite, mais, le jugement qui la guide n’est pas toujours éclairé. Il faut lui faire voir les objets tels qu’ils sont, quelquefois tels qu’ils doivent lui paraître, lui montrer le bon chemin qu’elle cherche, la garantir des séductions des volontés particulières, rapprocher à ses yeux les lieux et les temps, balancer l’attrait des avantages présents et sensibles par le danger des maux éloignés et cachés. Les particuliers voient le bien qu’ils rejettent ; le public veut le bien qu’il ne voit pas, Tous ont également besoin de guides. Il faut obliger les uns à conformer leurs volontés à leur raison ; il faut apprendre à l’autre à connaître ce qu’il veut. Alors des lumières publiques résulte l’union de l’entendement et de la volonté dans le corps social ; de là l’exact concours des parties, et, enfin la plus grande force du tout. Voilà d’où naît la nécessité d’un législateur.
Pour découvrir les meilleures règles de société qui conviennent aux nations, il faudrait une intelligence supérieure qui vît toutes les passions des hommes, et qui n’en éprouvât aucune ; qui n’eût aucun rapport avec notre nature, et qui la connût à fond ; dont le bonheur fût indépendant de nous, et qui pourtant voulût bien s’occuper du nôtre ; enfin, qui, dans le progrès des temps se ménageant une gloire éloignée, pût travailler dans un siècle et jouir dans un autre (a). Il faudrait des dieux pour donner des lois aux hommes. Le même raisonnement que faisait Caligula quant au fait, Platon le faisait quant au droit pour définir l’homme civil ou royal qu’il cherche dans son livre du Règne. Mais s’il est vrai qu’un grand prince est un homme rare, que sera-ce d’un grand législateur ? Le premier n’a qu’à suivre le modèle que l’autre doit proposer. Celui-ci est le mécanicien qui invente la machine, celui-là n’est que l’ouvrier qui la monte et la fait marcher. « Dans la naissance des sociétés, dit Montesquieu, ce sont les chefs des républiques qui font l’institution et c’est ensuite l’institution qui forme les chefs des républiques. »
Celui qui ose entreprendre d’instituer un peuple doit se sentir en état de changer pour ainsi dire la nature humaine, de transformer chaque individu, qui par lui-même est un tout parfait et solitaire, en partie d’un plus grand tout dont cet individu reçoive en quelque sorte sa vie et son être ; d’altérer la constitution de l’homme pour la renforcer ; de substituer une existence partielle et morale à l’existence physique et indépendante que nous avons reçue de la nature. Il faut, en un mot, qu’il ôte à l’homme ses forces propres pour lui en donner qui lui soient étrangères, et dont il ne puisse faire usage sans le secours d’autrui. Plus ces forces naturelles sont mortes et anéanties, plus les acquises sont grandes et durables, plus aussi l’institution est solide et parfaite : en sorte que si chaque citoyen n’est rien, ne peut rien que par tous les autres, et que la force acquise par le tout soit égale ou supérieure à la somme des forces naturelles de tous les individus, on peut dire que la législation est au plus haut point de perfection qu’elle puisse atteindre.
Le législateur est à tous égards un homme extraordinaire dans l’État. S’il doit l’être par son génie, il ne l’est pas moins par son emploi. Ce n’est point magistrature, ce n’est point souveraineté. Cet emploi, qui constitue la république, n’entre point dans sa constitution ; c’est une fonction particulière et supérieure qui n’a rien de commun avec l’empire humain ; car si celui qui commande aux hommes ne doit pas commander aux lois, celui qui commande aux lois ne doit pas non plus commander aux hommes : autrement ces lois, ministres de ses passions, ne feraient souvent que perpétuer ses injustices ; jamais il ne pourrait éviter que des vues particulières n’altérassent la sainteté de son ouvrage.
Quand Lycurgue donna des lois à sa patrie, il commença par abdiquer la royauté. C’était la coutume de la plupart des villes grecques de confier à des étrangers l’établissement des leurs. Les républiques modernes de l’Italie imitèrent souvent cet usage ; celle de Genève en fit autant et s’en trouva bien.(a) Rome, dans son plus bel âge, vit renaître en son sein tous les crimes de la tyrannie, et se vit prête à périr, pour avoir réuni sur les mêmes têtes l’autorité législative et le pouvoir souverain.
Cependant les décemvirs eux-mêmes ne s’arrogèrent jamais le droit de faire passer aucune loi de leur seule autorité. « Rien de ce que nous vous proposons, disaient-ils au peuple, ne peut passer en loi sans votre consentement. Romains, soyez vous-mêmes les auteurs des’ lois qui doivent faire votre bonheur. »
Celui qui rédige les lois n’a donc ou ne doit avoir aucun droit législatif, et le peuple même ne peut, quand il le voudrait, se dépouiller de ce droit incommunicable, parce que, selon le pacte fondamental, il n’y a que la volonté générale qui oblige les particuliers, et qu’on ne peut jamais s’assurer qu’une volonté particulière est conforme à la volonté générale qu’après l’avoir soumise aux suffrages libres du peuple : j’ai déjà dit cela ; mais il n’est pas inutile de le répéter.
Ainsi l’on trouve à la fois dans l’ouvrage de la législation deux choses qui semblent incompatibles ; une entreprise au-dessus de la force humaine, et, pour l’exécuter, une autorité qui n’est rien.
Autre difficulté qui mérite attention. Les sages qui veulent parler au vulgaire leur langage au lieu du sien n’en sauraient être entendus. Or, il y a mille sortes d’idées qu’il est impossible de traduire dans la langue du peuple. Les vues trop générales et les objets trop éloignés sont également hors de sa portée : chaque individu, ne goûtant d’autre plan de gouvernement que celui qui se rapporte à son intérêt particulier, aperçoit difficilement les avantages qu’il doit retirer des privations continuelles qu’imposent les bonnes lois. Pour qu’un peuple naissant pût goûter les saines maximes de la politique et suivre les règles fondamentales de la raison d’État, il faudrait que l’effet pût devenir la cause ; que l’esprit social, qui doit être l’ouvrage de l’institution, présidât à l’institution même ; et que les hommes fussent avant les lois ce qu’ils doivent devenir par elles. Ainsi donc le législateur ne pouvant employer ni la force ni le raisonnement, c’est une nécessité qu’il recoure à une autorité d’un autre ordre, qui puisse entraîner sans violence et persuader sans convaincre.
Voilà ce qui força de tout temps les pères des nations de recourir à l’intervention du ciel et d’honorer les dieux de leur propre sagesse, afin que les peuples soumis aux lois de l’État comme à celles de la nature, et reconnaissant le même pouvoir dans la formation de l’homme et dans celle de la cité, obéissent avec liberté, et portassent docilement le joug de la félicité publique.
Cette raison sublime, qui s’élève au-dessus de la portée des hommes vulgaires, est celle dont le législateur met les décisions dans la bouche des immortels, pour entraîner par l’autorité divine ceux que ne pourrait ébranler la prudence humaine (a). Mais il n’appartient pas à tout homme de faire parler les dieux, ni d’en être cru quand il s’annonce pour être leur interprète. Le grande âme du législateur est le vrai miracle qui doit prouver sa mission. Tout homme peut graver des tables de pierre, ou acheter un oracle, ou feindre un secret commerce avec quelque divinité,’ ou dresser un oiseau’ pour lui parler à l’oreille, ou trouver d’autres moyens grossiers d’en imposer au peuple. Celui qui ne saura que cela pourra même assembler par hasard une troupe d’insensés -mais il ne fondera jamais un empire, et son extravagant ouvrage périra bientôt avec lui. De vains prestiges forment un lien passager ; il n’y a que la sagesse qui le rende durable. La loi judaïque, toujours subsistante, celle de l’enfant d’Ismaël, qui depuis dix siècles régit la moitié du monde, annoncent encore aujourd’hui les grands hommes qui les ont dictées ; et tandis que l’orgueilleuse philosophie ou l’aveugle esprit de parti ne voit en eux que d’heureux imposteurs, le vrai politique admire dans leurs institutions ce grand et puissant génie qui préside aux établissements durables.
Il ne faut pas, de tout ceci, conclure avec Warburton, que la politique et la religion aient parmi nous un objet commun, mais que, dans l’origine des nations, l’une sert d’instrument à l’autre.
Chapitre 8
Peuple
COMME, AVANT d’élever un grand édifice, l’architecte observe et sonde le sol pour voir s’il en peut soutenir le poids, le sage insti- tuteur ne commence pas par rédiger de bonnes lois elles-mêmes, mais il examine auparavant si le peuple auquel il les destine est propre à les supporter. C’est pour cela que Platon refusa de donner des lois aux Ar- cadiens et aux Cyréniens, sachant que ces deux peuples étaient riches et ne pouvaient souffrir l’égalité : c’est pour cela qu’on vit en Crète de bonnes lois et de méchants hommes, parce que Minos n’avait discipliné qu’un peuple chargé de vices.
Mille nations ont brillé sur la terre, qui n’auraient jamais pu souffrir de bonnes lois ; et celles même qui l’auraient pu n’ont eu, dans toute leur durée, qu’un temps fort court pour cela. La plupart des peuples, ainsi que des hommes, ne sont dociles que dans leur jeunesse ; ils deviennent incorrigibles en vieillissant. Quand une fois les coutumes sont établies et les préjugés enracinés, c’est une entreprise dangereuse et vaine de vouloir les réformer ; le peuple ne peut pas même souffrir qu’on touche à ses maux pour les détruire, semblable à ces malades stupides et sans courage qui frémissent à l’aspect du médecin.
Ce n’est pas que, comme quelques maladies bouleversent la tête des hommes et leur ôtent le souvenir du passé, il ne se trouve quelquefois dans la durée des États des époques violentes où les révolutions font Sur les peuples ce que certaines crises font sur les individus, où l’horreur du passé tient heu d’oubli, et où l’État, embrasé par les guerres civiles, renaît pour ainsi dire de sa cendre, et reprend la vigueur de la jeunesse en sortant des bras de la mort. Telle fut Sparte au temps de Lycurgue, telle fut Rome après les Tarquins, et telles ont été parmi nous la Hollande et la Suisse après l’expulsion des tyrans.
Mais ces événements sont rares ; ce sont des exceptions dont la raison se trouve toujours dans la constitution particulière de l’État excepté. Elles ne sauraient même avoir lieu deux fois pour le même peuple : car il peut se rendre libre tant qu’il n’est que barbare, mais il ne le peut plus quand le ressort civil est usé.
Alors les troubles peuvent le détruire sans que les révolutionspuissent le rétablir ; et, sitôt que ses fers sont brisés, il tombe épars et n’existe plus : il lui faut désormais un maître et non pas un libérateur. Peuples libres, souvenez-vous de cette maxime : « On peut acquérir la liberté, mais en ne la recouvre jamais. »
La jeunesse n’est pas l’enfance. Il est pour les nations comme pour les hommes un temps de jeunesse ou, si l’on veut, de maturité, qu’il faut attendre avant de les soumettre à des lois : mais la maturité d’un peuple n’est pas toujours facile à connaître ; et si on la prévient, l’ouvrage est manqué. Tel peuple est disciplinable en naissant, tel autre ne l’est pas au bout de dix siècles. Les Russes ne seront jamais vraiment policés, parce qu’ils l’ont été trop tôt. Pierre avait le génie imitatif ; il n’avait pas le vrai génie, celui qui crée et fait tout de rien. Quelques-unes des choses qu’il fit étaient bien, la plupart étaient déplacées. Il a vu que son peuple était barbare, il n’a point vu qu’il n’était pas mûr pour la police ; il a voulu civiliser quand il ne fallait que l’aguerrir. Il a d’abord voulu faire des Al- lemands, des Anglais, quand il fallait commencer par faire des Russes : il a empêché ses sujets de devenir jamais ce qu’ils pourraient être, en leur persuadant qu’ils étaient ce qu’ils ne sont pas. C’est ainsi qu’un précep- teur français forme son élève pour briller au moment de son enfance, et puis n’être jamais rien. L’empire de Russie voudra subjuguer l’Europe, et sera subjugué lui-même. Les Tartares, ses sujets ou ses voisins, de- viendront ses maîtres et les nôtres, cette révolution me paraît infaillible. Tous les rois de l’Europe travaillent de concert à l’accélérer.
CHAPITRE IX
Suite
COMME LA nature a donné des termes à la stature d’un homme bien conformé, passé lesquels elle ne fait plus que des géants ou des nains, il y a de même, eu égard à la meilleure constitution d’un État, des bornes à l’étendue qu’il peut avoir, afin qu’il ne soit ni trop grand pour pouvoir être bien gouverné, ni trop petit pour pouvoir se maintenir par lui-même. Il y a, dans tout corps politique, un maximum de force qu’il ne saurait passer, et duquel souvent il s’éloigne à force de s’agrandir. Plus le lien social s’étend, plus il se relâche ; et en général un petit État est proportionnellement plus fort qu’un grand.
Mille raisons démontrent cette maxime. Premièrement, l’administra- tion devient plus pénible dans les grandes distances, comme un poids devient plus lourd au bout d’un plus grand levier. Elle devient aussi plus onéreuse à mesure que les degrés se multiplient : car chaque ville a d’abord la sienne, que le peuple paye ; chaque district la sienne, encore payée par le peuple ; ensuite chaque province, puis les grands gouverne- ments, les satrapies, les vice-royautés, qu’il faut toujours payer plus cher à mesure qu’on monte, et toujours aux dépens du malheureux peuple ; enfin vient l’administration suprême, qui écrase tout. Tant de surcharges épuisent continuellement les sujets : loin d’être mieux gouvernés par tous ces différents ordres, ils le sont bien moins que s’il n’y en avait qu’un seul au-dessus d’eux. Cependant à peine reste-t-il des ressources pour les cas extraordinaires ; et quand il y faut recourir, l’État est tou- jours à la veille de sa ruine.
Ce n’est pas tout : non seulement le gouvernement a moins de vi-gueur et de célérité pour faire observer les lois, empêcher les vexations, corriger les abus, prévenir les entreprises séditieuses qui peuvent se faire dans des lieux éloignés; mais le peuple a moins d’affection pour ses chefs, qu’il ne voit jamais, pour la patrie, qui est à ses yeux comme le monde, et pour ses concitoyens, dont la plupart lui sont étrangers. Les mêmes lois ne peuvent convenir à tant de provinces ; diverses qui ont des mœurs différentes, qui vivent sous des climats opposés, et qui ne peuvent souffrir la même forme de gouvernement. Des lois diffé- rentes n’engendrent que trouble et confusion parmi des peuples qui, vivant sous les mêmes chefs et dans une communication continuelle, passent ou se marient les uns chez les autres, sont soumis à d’autres coutumes, ne savent jamais si leur patrimoine est bien à eux. Les talents sont enfouis, les vertus ignorées, les vices impunis, dans cette multitude d’hommes inconnus les uns aux autres, que le siège de l’administration suprême rassemble dans un même lieu. Les chefs, accablés d’affaires, ne voient rien par eux-mêmes ; des commis gouvernent l’État. Enfin les mesures qu’il faut prendre pour maintenir l’autorité générale, à laquelle tant d’officiers éloignés veulent se soustraire ou en imposer, absorbent tous les soins publics ; il n’en reste plus pour le bonheur du peuple, à peine en reste-t-il pour sa défense, au besoin ; et c’est ainsi qu’un corps trop grand pour sa constitution s’affaisse et périt écrasé sous son propre poids.
D’un autre côté, l’État doit se donner une certaine base pour avoir de la solidité, pour résister aux secousses qu’il ne manquera pas d’éprou- ver, et aux efforts qu’il sera contraint de faire pour se soutenir : car tous les peuples ont une espèce de force centrifuge, par laquelle ils agissent continuellement les uns contre les autres, et tendent à s’agrandir aux dépens de leurs voisins, comme les tourbillons de Descartes. Ainsi les faibles risquent d’être bientôt engloutis ; et nul ne peut guère se conser- ver qu’en se mettant avec tous dans une espèce d’équilibre qui rende la compression partout à peu près égale.
On voit par là qu’il y a des raisons de s’étendre et des raisons de seresserrer ; et ce n’est pas le moindre talent du politique de trouver entre les unes et les autres la proportion la plus avantageuse à la conservation de l’État. On peut dire en général que les premières n’étant qu’exté- rieures et relatives, doivent être subordonnées aux autres, qui sont in- ternes et absolues. Une saine et forte constitution est la première chose qu’il faut rechercher ; et l’on doit plus compter sur la vigueur qui naît d’un bon gouvernement que sur les ressources que fournit un grand ter- ritoire.
Au reste, on a vu des États tellement constitués, que la nécessité des conquêtes entrait dans leur constitution même, et que, pour se mainte- nir, ils étaient forcés de s’agrandir sans cesse. Peut-être se félicitaient-ils beaucoup de cette heureuse nécessité, qui leur montrait pourtant, avec le terme de leur grandeur, l’inévitable moment de leur chute.
CHAPITRE X
Suite
ON PEUT mesurer un corps politique de deux manières, savoir : par l’étendue du territoire, et par le nombre du peuple ; et il y a entre l’une et l’autre de ces mesures un rapport convenable pour donner à l’État sa véritable grandeur. Ce sont les hommes qui font l’État, et c’est le terrain qui nourrit les hommes : ce rapport est donc que la terre suffise à l’entretien de ses habitants, et qu’il y ait autant d’habitants que la terre en peut nourrir. C’est dans cette proportion que se trouve le maximum d’un nombre donné de peuple ; car s’il y a du terrain de trop, la garde en est onéreuse, la culture insuffisante, le produit superflu ; c’est la cause prochaine des guerres défensives : s’il n’y en a pas assez, l’État se trouve pour le supplément à la discrétion de ses voisins; c’est la cause pro- chaine des guerres offensives. Tout peuple qui n’a, par sa position, que l’alternative entre le commerce ou la guerre, est faible en lui-même ; il dépend de ses voisins, il, dépend des événements ; il n’a jamais qu’une existence incertaine et courte. Il subjugue et change de situation, ou il est subjugué et n’est rien. Il ne peut se conserver libre qu’à force de petitesse ou de grandeur.
On ne peut donner en calcul un rapport fixe entre l’étendue de terreet le nombre d’hommes qui se suffisent l’un à l’autre, tant à cause des différences qui se trouvent dans les qualités du terrain, dans ses degrés de fertilité, dans la nature de ses productions, dans l’influence des cli- mats, que de celles qu’on remarque dans les tempéraments des hommes qui les habitent, dont les uns consomment peu dans un pays fertile, les autres beaucoup sur un sol ingrat. Il faut encore avoir égard à la plus grande ou moindre fécondité des femmes, à ce que le pays peut avoir de plus ou moins favorable à la population, à la quantité dont lie légis- lateur peut espérer d’y concourir par ses établissements, de sorte qu’il ne doit pas fonder son jugement sur ce qu’il voit, mais sur ce qu’il pré- voit, ni s’arrêter autant à l’état actuel de la population qu’à celui où elle doit naturellement parvenir. Enfin, il y a mille occasions où les ac- cidents particuliers du lieu exigent ou permettent qu’on embrasse plus de terrain qu’il ne pariait nécessaire. Ainsi l’on s’étendra beaucoup dans un pays de montagnes, où les productions naturelles, savoir, les biais, les pâturages, demandent moins de travail, où l’expérience apprend que les femmes sont plus fécondes que dans les Plaines, et où un grand sol incliné ne donne qu’une petite base horizontale, la seule qu’il faut comp- ter pour la végétation. Au contraire, on peut se resserrer au bord de la mer, même dans des rochers et des sables presque stériles, parce que la pêche y peut suppléer en grande partie aux productions de la terre, que les hommes doivent être plus rassemblés pour repousser les pirates, et qu’on a d’ailleurs plus de facilité pour délivrer le pays, par les colonies, des habitants dont il est surchargé.
À ces conditions pour instituer un peuple, il en faut ajouter une qui ne peut suppléer à nulle autre, mais sans laquelle elles sont toutes in- utiles : c’est qu’on jouisse de l’abondance et de la paix ; car le temps où s’ordonne un État est, comme celui où se forme un bataillon, l’instant où le corps est le moins capable de résistance et le plus facile à détruire. On résisterait mieux dans un désordre absolu que dans un moment de fermentation, où chacun s’occupe de son rang et non du péril. Qu’une guerre, une famine, une sédition survienne en ce temps de crise, l’État est infailliblement renversé.
Ce n’est pas qu’il n’y ait beaucoup de gouvernements établis durant ces orages ; mais alors ce sont ces gouvernements mêmes qui détruisent l’État. Les usurpateurs amènent ou choisissent toujours ces temps de trouble pour faire passer, à la faveur de l’effroi public, des lois destruc- tives que le peuple n’adopterait jamais de sang-froid. Le choix du mo- ment de l’institution est un des caractères les plus sûrs par lesquels on peut distinguer l’œuvre du législateur d’avec celle du tyran.
Quel peuple est donc propre à la législation? Celui qui, se trou-vant déjà lié par quelque union d’origine, d’intérêt ou de convention, n’a point encore porté le vrai joug des lois ; celui qui n’a ni coutumes, ni superstitions bien enracinées ; celui qui ne craint pas d’être accablé par une invasion subite ; qui, sans entrer dans les querelles de ses voi- sins, peut résister seul à chacun d’eux, ou s’aider de l’un pour repousser l’autre ; celui dont chaque membre peut être connu de tous et où l’on n’est point forcé de charger un homme d’un plus grand fardeau qu’un homme ne peut porter ; celui qui peut se passer des autres peuples, et dont tout autre peuple peut se passer ;9 celui qui n’est ni riche ni pauvre, et peut se suffire à lui-même ; enfin celui qui réunit la consistance d’un ancien peuple avec la docilité d’un peuple nouveau. Ce qui rend pénible l’ouvrage de la législation est moins ce qu’il faut établir que ce qu’il faut détruire ; et ce qui rend le succès si rare, c’est l’impossibilité de trouver la simplicité de la nature jointe aux besoins de la société. Toutes ces condi- tions, il est vrai, se trouvent difficilement rassemblées : aussi voit-on peu d’États bien constitués.
Il est encore en Europe un pays capable de législation ; c’est l’île de Corse. La valeur et la constance avec laquelle ce brave peuple a su recou- vrer et défendre sa liberté mériteraient bien que quelque homme sage lui apprit à la conserver. J’ai quelque pressentiment qu’un jour cette petite île étonnera l’Europe.
Avant de parler des diverses formes de gouvernement, tâchons de fixer le sens précis de ce mot qui n’a pas encore été fort bien expliqué.
J’AVERTIS LE lecteur que ce chapitre doit être lu posément, et que je ne sais pas l’art d’être clair pour qui ne veut pas être attentif.
Toute action libre a deux causes qui concourent à la produire : l’une morale, savoir : la volonté qui détermine l’acte ; l’autre physique, savoir : la puissance qui l’exécute. Quand je marche vers un objet, il faut premièrement que j’y veuille aller ; en second lieu, que mes pieds m’y portent. Qu’un paralytique veuille courir, qu’un homme agile ne le veuille pas, tous deux resteront en place. Le corps politique a les mêmes, mobiles : on y distingue de même la force et la volonté ; celle-ci sous le nom de puissance législative, l’autre sous le nom de puissance exécutive. Rien ne s’y fait ou ne doit s’y faire sans leur concours.
Nous avons vu que la puissance législative appartient au peuple, et ne peut appartenir qu’à lui. Il est aisé de voir, au contraire, par les principes ci-devant établis, que la puissance exécutive ne peut appartenir à la généralité comme législatrice ou souveraine, parce que cette puissance ne consiste qu’en des actes particuliers qui ne sont point du ressort de la loi, ni par conséquent de celui du souverain, dont tous les actes ne peuvent être que des lois.
Il faut donc à la force publique un agent propre qui la réunisse et la mette en œuvre selon les directions de la volonté générale, qui serve à la communication de l’État et du souverain, qui fasse en quelque sorte dans la personne publique ce que fait dans l’homme l’union de l’âme et du corps. Voilà quelle est, dans l’État, la raison du gouvernement, confondu mal à propos avec le souverain, dont il n’est que le ministre.
Qu’est-ce donc que le gouvernement? Un corps intermédiaire éta-bli entre les sujets et le souverain pour leur mutuelle correspondance, chargé de l’exécution des lois et du maintien de la liberté tant civile que politique.
Les membres de ce corps s’appellent magistrats ou rois, c’est-à-dire gouverneurs et le corps entier porte le nom de prince.1 Ainsi ceux qui prétendent que l’acte par lequel un peuple se soumet à des chefs n’est point un contrat ont grande raison. Ce n’est absolument qu’une commission, un emploi, dans lequel, simples officiers du souverain, ils exercent en son nom le pouvoir dont il les a faits dépositaires, et qu’il peut limiter, modifier et reprendre quand il lui plaît. L’aliénation d’un tel droit, étant incompatible avec la nature du corps social, est contraire au but de l’association.
J’appelle donc gouvernement ou suprême administration, l’exercice légitime de la puissance exécutive, et prince ou magistrat, l’homme ou le corps chargé de cette administration.
C’est dans le gouvernement que se trouvent les forces intermédiaires, dont les rapports composent celui du tout au tout du souverain à l’État. On peut représenter ce dernier rapport par celui des extrêmes d’une proportion continue, dont la moyenne proportionnelle est le gouvernement. Le gouvernement reçoit du souverain les ordres qu’il donne au peuple ; et, pour que l’État soit dans un bon équilibre, il faut, tout compensé, qu’il y ait égalité entre le produit ou la puissance du gouvernement pris en lui-même, et le produit ou la puissance des citoyens, qui sont souverain d’un côté et sujets de l’autre.
De plus, on ne saurait altérer aucun des trois termes sans rompre à l’instant la proportion. Si le souverain veut gouverner, ou si le magistrat veut donner des lois, ou si les sujets refusent d’obéir, le désordre succède à la règle, la force et la volonté n’agissent plus de concert, et l’État dissous tombe ainsi dans le despotisme ou dans l’anarchie. Enfin, comme il n’y a qu’une moyenne proportionnelle entre chaque rapport, il n’y a non plus qu’un bon gouvernement possible dans un État : mais, comme mille événements peuvent changer les rapports d’un peuple, non seule- ment différents gouvernements peuvent être bons à divers peuples, mais au même peuple en différents temps.
Pour tâcher de donner une idée des divers rapports qui peuvent régner entre ces deux extrêmes, je prendrai pour exemple le nombre du peuple, comme un rapport plus facile à exprimer.
Supposons que l’État soit composé de dix mille citoyens. Le souverain ne peut être considéré que collectivement et en corps ; mais chaque particulier, en qualité de sujet, est considéré comme individu : ainsi le souverain est au sujet comme dix mille est à un ; c’est-à-dire que chaque membre de l’État n’a pour sa part que la dix-millième partie de l’autorité souveraine, quoiqu’il lui soit soumis tout entier. Que le peuple soit composé de cent mille hommes, l’état des sujets ne change pas, et chacun porte également tout l’empire des lois, tandis que son suffrage, réduit à un cent-millième, a dix fois moins d’influence dans leur rédaction. Alors, le sujet, restant toujours un, le rapport du souverain augmente en raison du nombre des citoyens.
D’où il suit que, plus l’État s’agrandit, plus la liberté diminue.
Quand je dis que le rapport augmente, j’entends qu’il s’éloigne de l’égalité. Ainsi, plus le rapport est grand dans l’acception des géomètres, moins il y a de rapport dans l’acception commune : dans la première, le rapport, considéré selon la quantité, se mesure par l’exposant ; et dans l’autre, considéré selon l’identité, il s’estime par la similitude.
Or, moins les volontés particulières se rapportent à la volonté générale, c’est-à-dire les mœurs aux lois, plus la force réprimante doit aug- menter. Donc le gouvernement, pour être bon, doit être relativement plus fort à mesure que le peuple est plus nombreux.
D’un autre côté, l’agrandissement de l’État donnant aux dépositaires de l’autorité publique plus de tentations et de moyens d’abuser de leur pouvoir, plus le gouvernement doit avoir de force pour contenir le peuple, plus le souverain doit en avoir à son tour pour contenir le gouvernement. Je ne parle pas ici d’une force absolue, mais de la force relative des diverses parties de l’État.
Il suit de ce double rapport que la proportion continue entre le souverain, le prince et le peuple, n’est point une idée arbitraire, mais une conséquence nécessaire de la nature du corps politique. Il suit encore que l’un des extrêmes, savoir le peuple, comme sujet, étant fixe et représenté par l’unité, toutes les fois que la raison doublée augmente ou diminue, la raison simple augmente ou diminue semblablement, et que par conséquent le moyen terme est changé. Ce qui fait voir qu’il n’y a pas une constitution de gouvernement unique et absolue, mais qu’il peut y avoir autant de gouvernements différents en nature que d’États différents en grandeur.
Si, tournant ce système en ridicule, on disait que, pour trouver cettemoyenne proportionnelle et former le corps du gouvernement, il ne faut, selon moi, que tirer la racine carrée du nombre du peuple, je répondrais que je ne prends ici ce nombre que pour un exemple ; que les rapports dont je parle ne se mesurent pas seulement par le nombre des hommes, mais en général par la quantité d’action, laquelle se combine par des multitudes de causes ; qu’au reste, si pour m’exprimer en moins de pa- roles, j’emprunte un moment des termes de géométrie, je n’ignore pas cependant que la précision géométrique n’a point lieu dans les quantités morales.
Le gouvernement est en petit ce que le corps politique qui le renferme est en grand. C’est une personne morale douée de certaines facultés, active comme le souverain, passive comme l’État, et qu’on peut décomposer en d’autres rapports semblables d’où naît par conséquent une nouvelle proportion une autre encore dans celle-ci, selon l’ordre des tribunaux, jusqu’à ce qu’on arrive à un moyen terme indivisible, c’est-à- dire à un seul chef ou magistrat suprême, qu’on peut se représenter, au milieu de cette progression, comme l’unité entre la série des fractions et celles des nombres.
Sans nous embarrasser dans cette multiplication de termes, contentons-nous de considérer le gouvernement comme un nouveau corps dans l’État, distinct du peuple et du souverain, et intermédiaire entre l’un et l’autre.
Il y a cette différence essentielle entre ces deux corps, que l’État existe par lui-même, et que le gouvernement n’existe que par le souverain. Ainsi la volonté dominante du prince n’est ou ne doit être que la volonté générale ou la loi ; sa force n’est que la force publique concentrée en lui : sitôt qu’il veut tirer de lui-même quelque acte absolu et indépendant, la liaison du tout commence à se relâcher. S’il arrivait enfin que le prince eût une volonté particulière plus active que celle du souverain, et qu’il usât, pour obéir à cette volonté particulière, de la force publique qui est dans ses mains, en sorte qu’on eût, pour ainsi dire, deux souverains, l’un de droit et l’autre de fait, à l’instant l’union sociale s’évanouirait, et le corps politique serait dissous.
Cependant, pour que le corps du gouvernement ait une existence, une vie réelle qui le distingue du corps de l’État; pour que tous ses membres puissent agir de concert et répondre à la fin pour laquelle il est institué, il lui faut un moi particulier, une sensibilité commune à ses membres, une force, une volonté propre qui tende à sa conservation. Cette existence particulière suppose des assemblées, des conseils, un pouvoir de délibérer, de résoudre, des droits, des titres, des privilèges qui appartiennent au prince exclusivement, et qui rendent la condition du magistrat plus honorable à proportion qu’elle est plus pénible. Les difficultés sont dans la manière d’ordonner dans le tout, ce tout subalterne, de sorte qu’il n’altère point la constitution générale en affermis- sant la sienne ; qu’il distingue toujours sa force particulière, destinée à sa propre conservation, de la force publique, destinée à la conservation de l’État, et qu’en un mot il soit toujours prêt à sacrifier le gouvernement au peuple, et non le peuple au gouvernement.
D’ailleurs, bien que le corps artificiel du gouvernement soit l’ouvraged’un autre corps artificiel, et qu’il n’ait, en quelque sorte, qu’une vie empruntée et subordonnée, cela n’empêche pas qu’il ne puisse agir avec plus ou moins de vigueur ou de célérité, jouir, pour ainsi dire, d’une santé plus ou moins robuste. Enfin, sans s’éloigner directement du but de son institution, il peut s’en écarter plus ou moins, selon la manière dont il est constitué.
C’est de toutes ces différences que naissent les rapports divers que le gouvernement doit avoir avec le corps de l’État, selon les rapports accidentels et particuliers par lesquels ce même État est modifié. Car souvent le gouvernement le meilleur en soi deviendra le plus vicieux, si ses rapports ne sont altérés selon les défauts du corps politique auquel il appartient.
P O U R E X P O S E R la cause générale de ces différences, il faut distinguer ici le principe et le gouvernement, comme j’ai distingué ci-devant l’État et le souverain.Le corps du magistrat peut être composé d’un plus grand ou moindrenombre de membres. Nous avons dit que le rapport du souverain aux sujets était d’autant plus grand que le peuple était plus nombreux ; et, par une évidente analogie, nous en pouvons dire autant du gouvernement à l’égard des magistrats. Or, la force totale du gouvernement, étant toujours celle de l’État, ne varie point : d’où il suit que plus il use de cette force sur ses propres membres, moins il lui en reste pour agir sur tout le peuple. Donc, plus les magistrats sont nombreux, plus le gouvernement est faible. Comme cette maxime est fondamentale, appliquons-nous à la mieux éclaircir. Nous pouvons distinguer dans la personne du magistrat trois volon-tés essentiellement différentes : premièrement, la volonté propre de l’individu, qui ne tend qu’à son avantage particulier ; secondement, la volonté commune des magistrats, qui se rapporte uniquement à l’avantage du prince, et qu’on peut appeler volonté de corps, laquelle est générale par rapport au gouvernement, et particulière par rapport à l’État, dont le gouvernement fait partie ; en troisième lieu, la volonté du peuple ou la volonté souveraine, laquelle est générale, tant par rapport à l’État considéré comme le tout, que par rapport au gouvernement considéré comme partie du tout.
Dans une législation parfaite, la volonté particulière ou individuelle doit être nulle ; la volonté de corps propre au gouvernement très subordonnée ; et par conséquent la volonté générale ou souveraine toujours dominante et la règle unique de toutes les autres.
Selon l’ordre naturel, au contraire, ces différentes volontés deviennent plus actives à mesure qu’elles se concentrent. Ainsi la volonté générale est toujours la plus faible, la volonté de corps a le second rang, et là volonté particulière le premier de tous : de sorte que, dans le gouvernement, chaque membre est premièrement soi-même, et puis magistrat, et puis citoyen ; gradation directement opposée à celle qu’exige l’ordre social.
Cela posé, que tout le gouvernement soit entre les mains d’un seul homme, voilà la volonté particulière et la volonté de corps parfaitement réunies, et par conséquent celle-ci au plus haut degré d’intensité qu’elle puisse avoir. Or, comme c’est du degré de la volonté que dépend l’usage de la force, et que la force absolue du gouvernement ne varie point, il s’ensuit que le plus actif des gouvernements est celui d’un seul.
Au contraire, unissons le gouvernement à l’autorité législative ; fai- sons le prince du souverain, et de tous les citoyens autant de magistrats : alors la volonté de corps, confondue avec la volonté générale, n’aura pas plus d’activité qu’elle, et laissera la volonté particulière dans toute sa force. Ainsi le gouvernement, toujours avec la même force absolue, sera dans son minimum de force relative ou d’activité.
Ces rapports sont incontestables, et d’autres considérations servent encore à les confirmer. On voit, par exemple, que chaque magistrat est plus actif dans son corps que chaque citoyen dans le sien, et que par conséquent la volonté particulière a beaucoup plus d’influence dans les actes du gouvernement que dans ceux du souverain ; car chaque magistrat est presque toujours chargé de quelque fonction du gouvernement ; au lieu que chaque citoyen pris à part n’a aucune fonction de la souveraineté. D’ailleurs, plus l’État s’étend, plus sa force réelle augmente, quoiqu’elle n’augmente pas en raison de son étendue : mais l’État restant le même, les magistrats ont beau se multiplier, le gouvernement n’en acquiert pas une plus grande force réelle, parce que cette force est celle de l’État, dont la mesure est toujours égale. Ainsi, la force relative ou l’activité du gouvernement diminue, sans que sa force absolue ou réelle puisse augmenter.
Il est sûr encore que l’expédition des affaires devient plus lente à mesure que plus de gens en sont chargés ; qu’en donnant trop à la prudence ou ne donne pas assez à la fortune ; qu’on laisse échapper l’occasion, et qu’à force de délibérer on perd souvent le fruit de la délibération.
Je viens de prouver que le gouvernement se relâche à mesure que les magistrats se multiplient ; et j’ai prouvé ci-devant que plus le peuple est nombreux, plus la force réprimante doit augmenter. D’où il suit que le rapport des magistrats au gouvernement doit être inverse du rapport des sujets au souverain ; c’est-à-dire que, plus l’État s’agrandit, plus le gouvernement doit se resserrer ; tellement que le nombre des chefs diminue en raison de l’augmentation du peuple.
Au reste, je ne parle ici que de la force relative du gouvernement, et non de sa rectitude : car, au contraire, plus le magistrat est nombreux, plus la volonté de corps se rapproche de la volonté générale ; au lieu que, sous un magistrat unique, cette même volonté de corps n’est, comme je l’ai dit, qu’une volonté particulière. Ainsi, l’on perd d’un côté ce qu’on peut gagner de l’autre, et l’art du législateur est de savoir fixer le point où la force et la volonté du gouvernement, toujours en proportion réciproque, se combinent dans le rapport le plus avantageux à l’État.
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On a vu dans le chapitre précédent pourquoi l’on distingue les diverses espèces ou formes de gouvernements par le nombre des membres qui les composent; il reste à voir dans celui-ci comment se fait cette division.
Le souverain peut, en premier lieu, commettre le dépôt du gouverne- ment à tout le peuple ou à la plus grande partie du peuple, en sorte qu’il y ait plus de citoyens magistrats que de citoyens simples particuliers. On donne à cette forme de gouvernement le nom de démocratie. Ou bien il peut resserrer le gouvernement entre les mains d’un petitnombre, en sorte qu’il y ait plus de simples citoyens que de magistrats ; et cette forme porte le nom d’aristocratie.
Enfin il peut concentrer tout le gouvernement dans les mains d’un magistrat unique dont tous les autres tiennent leur pouvoir. Cette troisième forme est la plus commune, et s’appelle monarchie, ou gouverne- ment royal.
On doit remarquer que toutes ces formes, ou du moins les deux premières, sont susceptibles de plus ou de mains, et ont même une assez grande latitude ; car la démocratie peut embrasser tout le peuple, ou se resserrer jusqu’à la moitié. L’aristocratie, à son tour, peut, de la moitié du peuple, se resserrer jusqu’au plus petit nombre indéterminément. La royauté même est susceptible de quelque partage. Sparte eut constamment deux rois par sa constitution ; et l’on a vu dans l’empire romain jusqu’à huit empereurs à la fois sans qu’on pût dire que l’empire fût divisé. Ainsi il y a un point où chaque forme de gouvernement se confond avec la suivante, et l’on voit que, sous trois seules dénominations, le gouver- nement est réellement susceptible d’autant de formes diverses que l’État a de citoyens.
Il y a plus : ce même gouvernement pouvant, à certains égards, se subdiviser en d’autres parties, l’une administrée d’une manière et l’autre d’une autre, il peut résulter de ces trois formes combinées une multitude de formes mixtes, dont chacune est multipliable par toutes les formes simples.
On a, de tout temps, beaucoup disputé sur la meilleure forme de gouvernement, sans considérer que chacune d’elles est la meilleure en certains cas, et la pire en d’autres.
Si, dans les différents États, le nombre des magistrats suprêmes doit être en raison inverse de celui des citoyens, il s’ensuit qu’en général le gouvernement démocratique convient aux petits États, l’aristocratique aux médiocres, et le monarchique aux grands. Cette règle se tire immé- diatement du principe. Mais comment compter la multitude de circons- tances qui peuvent fournir des exceptions ?
Celui qui fait la loi sait mieux que personne comment elle doit être exécutée et interprétée. Il semble donc qu’on ne saurait avoir une meilleure constitution que celle où le pouvoir exécutif est joint au législatif : mais c’est cela même qui rend ce gouvernement insuffisant à certains égards, parce que les choses qui doivent être distinguées ne le sont pas, et que le prince et le souverain, n’étant que la même personne, ne forment, pour ainsi dire, qu’un gouvernement sans gouvernement.
Il n’est pas bon que celui qui fait les lois les exécute, ni que le corps du peuple détourne son attention des vues générales pour les donner aux objets particuliers. Rien n’est plus dangereux que l’influence des intérêts privés dans les affaires publiques, et l’abus des lois par le gouvernement est un mal moindre que la corruption du législateur, suite infaillible des vues particulières. Alors, l’État étant altéré dans sa substance, toute réforme devient impossible. Un peuple qui n’abuserait jamais du gouvernement n’abuserait pas non plus de l’indépendance ; un peuple qui gouvernerait toujours bien n’aurait pas besoin d’être gouverné.
A prendre le terme dans la rigueur de l’acception, il n’a jamais existé de véritable démocratie, et il n’en existera jamais. Il est contre l’ordre naturel que le grand nombre gouverne et que le petit soit gouverné. On ne peut imaginer que le peuple reste incessamment assemblé pour vaquer aux affaires publiques, et l’on voit aisément qu’il ne saurait établir pour cela des commissions, sans que la forme de l’administration change.
En effet, je crois pouvoir poser en principe que, quand les fonctions du gouvernement sont partagées entre plusieurs tribunaux, les moins nombreux acquièrent tôt ou tard la plus grande autorité, ne fût-ce qu’à cause de la facilité d’expédier les affaires, qui les y amène naturellement.
D’ailleurs, que de choses difficiles à réunir ne suppose pas ce gouvernement ! Premièrement, un État très petit, où le peuple soit facile à rassembler, et où chaque citoyen puisse aisément connaître tous les autres ; secondement, une grande simplicité de mœurs qui prévienne la multitude d’affaires et de discussions épineuses ; ensuite beaucoup d’égalité dans les rangs et dans les fortunes, sans quoi l’égalité ne saurait subsister longtemps dans les droits et l’autorité ; enfin peu ou point de luxe, car ou le luxe est l’effet des richesses, ou il les rend nécessaires ; il corrompt à la fois le riche et le pauvre, l’un par la possession, l’autre par la convoitise ; il vend la patrie à la mollesse, à la vanité ; il ôte à l’État tous ses citoyens pour les asservir les uns aux autres, et tous à l’opinion.
Voilà pourquoi un auteur célèbre a donné la vertu pour principe àla république, car toutes ces conditions ne sauraient subsister sans la vertu ; mais, faute d’avoir fait les distinctions nécessaires, ce beau génie a manqué souvent de justesse, quelquefois de clarté, et n’a pas vu que l’autorité souveraine étant partout la même, le même principe doit avoir lieu dans tout État bien constitué, plus ou moins, il est vrai, selon la forme du gouvernement.
Ajoutons qu’il n’y a pas de gouvernement si sujet, aux guerres civiles et aux agitations intestines que le démocratique ou populaire, parce qu’il n’y en a aucun qui tende si fortement et si continuellement à changer de forme, ni qui demande plus de vigilance et de courage pour être maintenu dans la sienne. C’est surtout dans cette constitution que le citoyen doit s’armer de force et de constance, et dire chaque jour de sa vie au fond de son cœur ce que disait un vertueux Palatin dans la diète de Pologne : Malo periculosam libertatem quam quietum servitium.
S’il y avait un peuple de dieux, il se gouvernerait démocratiquement. Un gouvernement si parfait ne convient pas à des hommes.