表参道ソフィアクリニック
1887年(20歳ごろ)、大学の法学部に通う傍ら、パリの画塾アカデミー・ジュリアンに通い始めて画家を志しました。そこで、ポール・セルジュエやモーリス・ドニらと出会いました。ポール・セルジュえは、ボン・タヴェンでゴーガンの教えを受けて描いた小品をアカデミー・ジュリアンに持ち込んで仲間に見せました。このことがきっかけになってナビ派が誕生しました。彼は、ナビ派の中心的なメンバーとされた画家です。
・ボナールはなぜか非常に制作が遅かったらしいです。複数のカンバスを壁にピンで留めて、同時に取り組んでいたとのこと。同じ一つの作品を数年にわたって描き続けることもしばしばでした。ときには10年以上たって再び着手されることもありました。
・ボナールは、豊かな芸術的ジャンルがあります。人物、室内空間、静物、自然です。
手帳には、「芸術作品 ー 時間の静止」と書き込まれていました。美術作品は、時間の静止をその重要な側面あるいは本質に関わるものとなっているようです。そういえばボナールの作品は静止しています。当たり前ですが。
時間の静止とは、ある種の世界観の静止とも思われます。ボナールは、モデルなど対象を目の前にして描くのではなくて、スケッチと記憶を頼りに描いていました。彼は対象となっている人物たちの世界観を抽出して描いたく、つまり裏を浮き彫りにさせるものであったり、あるいは逆に自分の世界観の側に寄ったものであったりします。つまり対象の世界観をえがくのか自分の世界観を描くのか、その作品によって、違います。それに加えて、様式を描くということが付け加わります。
かなり大きな作品です。日本風ではありますが、総じて、まだここではさほど日本的でもありません。日本画にはないような厚塗りです。平面的であり、また造形的に美しいです。
犬にはスピード感があります。
ボナールたちは1890年エコール・デ・ボザール(国立美術学校)で開催された「日本の版画展」を観て大きな刺激を受けました。ナビ派が日本の絵や版画に影響を大いに受けたために、美術批評家のフェリックス・フェネオンに「日本かぶれのナビ」と評されました。特に1890年代はナビ派としてのボナールの作品は、装飾的、平面的、日本的です。ただ日本的とは言っても日本の絵とは異なり、すごい厚塗りです。また、1900年以降は、ボナールの画風は大きく変化し、また日本風の度合いは減ります。
デトランプ、カンヴァスで裏打ちされた紙 (4 点組装飾パネル) 160.5×48cm(各) オルセー美術館 © RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF
装飾パネルであり、装飾性をより一層前面に押し出した作品です。1891年に初めてアンデパンダン展に出品したものです。人物の顔や身体、猫や犬は高度に装飾化されています。総じて造形的にたいへん優れていると思われるのですが、およそ伝統的な完成の理念からは程遠いです。
とりわけジャポニズムの傾向が強い作品です。ジャポニズムの要素としては、版画風、平面的、格子柄、装飾性、省略法、抽象化、変改の仕方、余白などがあげられます。
デザイン的です。平面的であり、格子柄の縦横の直線、それに曲線を組み合わせています。格子柄が人間を装飾的絵画の中に溶かすかのようです。
色調は落ち着いています。
総じて穏やかな雰囲気です。
猫が可愛い。猫も装飾的絵画の中に溶け込みかかっています。
この絵にも何ら象徴的な意味はないでしょう。装飾性が良好です。
小品である「格子柄のブラウス 」1892年と同系列の作品です。サイズも大きく、1890年代の彼のナビ派の総まとめ的な代表作の一つ。
夕暮れの明るいオレンジ、そして踊っている女性たちの髪を逆光が照らしています。草木の緑色を主体として、補色のオレンジ色がコントラストをなしてポイントを形成しています。そしてこのオレンジ色に照らし出されています。クロッケーの試合も熱が入っているのか、黄昏時にさしかかり、また背景の女性たちは、いよいよ激しくダンスを楽しんでいて、このオレンジ色が効果的です。それに対して、前景の人々は格子模様の服であり、静的であり、透明化して、融解して、形態的に自然に溶け込んでいます。背景 の女性たちは動的で躍動的であり、これもまた動的に自然に溶け込んでいます。自然には静かな側面と動きのある側面があります。この自然の両側面ともに人間が違った形で溶け込みます。
写実的造形と装飾的造形が混合しています。格子の縦横の線と、くねった曲線も良好です。また黄昏時の少し暗い照度も良好です。
ジャポニズムの要素が多く混入されている作品です。
猫の脚は異様に引き伸ばされています。その意味や理由は不明です。
色遣いは、暗めで、彩度が低く、汚いとともに美しいです。この猫は可愛いとともに醜いです。対立項を融合させ、美醜を超えているようです。
・絶妙でハイセンスな小品群です。
・画面は総じて暗く、室内でランプに照らし出される光景が多い。
・やはり平面的だったり、前景・後景の差が強調されていたりします。
・一体これをナビ派のひとつのあり方というのでしょうか。また別系列でもあるような。
これも上の「1890年代の暗い室内の小品集」と同じカテゴリーにあると見なせます。ただサイズはほかのものよりは比較的大きいです(30から50号くらい?)。
男と女の関係つまり性的な関係に、存在もかかわるような重要な側面を見いだしていたようです。
極めて私的な場面を描いています。セックスをした後の情景です。男の存在感は薄くなっていて、虚無的です。上半身は透明人間と化しています。なぜ生きることや実在の充実がないのでしょうか。それに対して女は日常に戻っているようです。猫をあやしています。また女のリビドーはまだ醒めやらず、男の方はもう消尽されています。ただ女の愛だけが実在して救いであるかのようです。
中央の衝立は二人を隔てています。大きすぎる隔たりです。生のルーチーン化。女は幸せなのか。自分は幸せなのか。これで良いのか。二人の関係の意味はなんなのか。味気ない。人生の意味は。潤いや充実は。
これはボナール自身と彼のパートナーのマルトです。ボナールとマルタの関係の重要な側面を表しているようです。これが全てではないにしても。
ついたてを境にして、対照的になっています。
男/女
明/暗い
日向/日陰
表/裏
存在/非存在
生命/非生命(死)
生き生き/精気のなさ
性的エネルギーの残存/その枯渇
自然/非自然
豊かさ/乏しさ
大きいサイズの作品です。1900年という年に当たって、この作品も総決算的であり、ボナールのこの時期の代表作の一つです。
この作品で描かれているのは、毛党の世界、暴力性さえ秘めたようなドギツさや棘があります。シャルル・ペローなどの童話などのように、残虐性さえ交えた童話的世界でもあります。ブルジョワ的世界にこのような側面を見出したのでしょうか。いやそれよりもヨーロッパの文明にこのような側面を見出したというべきでしょう。それは狂気も混じっています。
愛情があって醒めている。明るくて暗い。理想的で理想がなく。集まっているがバラバラで。美しいが醜い。こういった両極が入り混じっているようです。
・デモーニッシュと諧謔の結合。
・いびつな精神世界。
・ある種の倒錯的な世界。
・この作品はひとつの雰囲気として統一された全体像を描いていますが、これは世界の全体像と言うよりは、構成された世界観、とりわけ階級が生み出す世界像です。階級社会のいびつな世界観。それは人間の本質や文明的な広がりさえ持ちます。このような意味で、精神的、文明論的な絵画です。
1889年コダックは、現在あるような柔軟性のあるフィルムを開発しました。それまで写真は特殊な撮影技術でじっくり構えて撮影をするプロの仕事でしたが、これ以降、プロだけでなくアマチュアでも写真撮影が可能となりました。しかも、瞬間を捉えるスナップショットが可能となりました。ボナールも1890年初頭から写真撮影を始めました。人物、裸婦像、その他のものが遺っています。しかし、1916年以降の写真は一枚も残っていません。なぜ急に写真をやめたのかは、謎なところです。
それにしても19世紀半ばからの写真は、なかなか細密なものでした。現在ではほとんどがデジタルカメラですが、その当時から特段大きく進歩していないのではないかと思われるくらい、細密でした。驚嘆するほどでした。しかし、ボナールの撮影した写真は、なんとなくピントも印象がぼやけているというか、総じて写真それ自体としては、あまり冴えないようにも思われます。フィルムのせいもあるかも知れません。
ボナールは、1889年、フランス・シャンペーニュの広告コンクールで受賞しました。下がその受賞作品です。
1889年
このポスターは、受賞してからパリの街中に貼りだされて話題を呼んだと言います。これによってボナールは画家として世に出ました。またこれをきっかけに、父親から画家の道を容認されたのでした。その後もグラフィックアートや挿絵の仕事もはいってきましましたが、それだけでなく、世間の人たちや父親から認められることがボナールの精神や人生にどのような影響を与えたでしょうか、どのような転換をもたらせたでしょうか。
1900年頃以降は、色彩が暖色系になり、和らいで、棘が少なく、角も取れて、かつてよりは安心して見やすい明るめの作風になります。1890年代のナビ派からは脱却して違うステージに進んだのでしょう。ナビ派からの脱却して独自の路線を目指し、バランスも取れて、自分のペースもつかめているようです。充実した作品群です。
しかしそれとともに、彼がリスペクトしているであろう画家たちの影響力に対してもオープンに開かれたようです。影響を受けることは、独自性の確立とはそぐわないところがあります。そのような意味でも、1890年代のナビ派としての彼の諸作品を振り返ってみれば、より先鋭的であるように見えるのです。
1900年代以降は、次のような画家の影響を受けたような作画になっています。つまり、ムンク、ドガ、マチス、ピカソ、フェリックス・ヴァロットン、表現主義者たち、ロートレック、モネなどです。こういう影響のされ方は、当時の前衛的な画家の初期にもありがちだったかもしれません。新しい方向性を求めていろんな方法論や主義主張が乱立傾向にある中で、その模倣となりやすく、あるいはそれらを組み合わせたり、制作作品によってあれこれの流れに乗り換えたり、そうこうしながら、さらに自分の独自性を模索していったのです。これは失われた独自性の回復の試みでもあります。しかし、彼にはもともと、他者のものを真似るところが強かったのかもしれません。以下では比較的独自性の高いものを挙げてみたいと思います。
ボナールは、こういった美術界の渦中にあって、比較的成功した方です。つまり新しい自らの絵のスタイルを作り出したかのようです。叙勲もされました。しかし、1900年以前と比べれば、絵の印象が薄くなりがちです。ジヴェルニーのモネを訪問して1910年にはジヴェルニーの近くのヴェルノンというところで、別荘を構えて、1938年まで定期的に滞在しました。それはあからさまなくらいのモネの真似のようにも思われます。
また1907年に彼は、初めてサン・トロペを訪れ、彼は南仏を好みました。これも他の画家の真似だったかもしれません。結局は、南仏の自然が、彼の絵画に直接的な影響と生命力を与えることになったようです。
桟敷席 1908年
ボナールは日常の断片と一瞬を切り取ります。これは写真とも通じるところがありますが、絵の方がメタモルフォーゼを効かせることがでいます。つまり、焦点化、拡大、強調、省略、変形、裏を浮きだたせるなどです。この日常の空間への関心には次のような要素があります。
・室内のことが多い。
・テラスのこともある。
・人物のことがある。
・人物がいない静物のことがある。
・以上のような場面では、モデルに格段のポーズをさせることもありません。それ以外の場面も、ありのままに近いようです。
これらの作品はドガの作品を思わせるものがあります。ドガは娼婦の入浴シーンを多く描いています。それにたいしてボナールは、日常生活の中の裸婦を描いています。たとえば、入浴のシーンです。ボナールのパートナーのマルトは入浴が大好きであり、その場面を描いた作品も多いです。エロティシズムは少なめであり、日常の女性の身体を描くのが目的です。そこに現れる、一種の自然を表現しているようです。エロティシズム自体を描くことを描くことをボナールはあまりしません。女性をエロス的存在として描くことを描くことをしません。日常生活の中における女性の裸体、もちろん、そこにはそこはかとないエロスが漂い、日常に生命感をもたらすようです。またそれはある種の安心感さえもたらします。要するに、日常生活、エロス、自然、生命感、安心感などが交錯している、いい作品です。
展覧会では、これを「水の精(ナイアス)」と呼んでいますが、あまりピンときません。
ボナールがマルトと出会ったのは、1893年。そのときボナールは26歳、マルトは24歳。それから二人はずっと一緒に暮らしていました。結婚したのは1925年。出会ってから32年の歳月が流れていました。このときボナールは58歳になっていました。
ボナールは、1916年に、マルトの友人の画家ハリー・ラックマンの若妻ルネ・モンシャティと愛人関係になりました。二人の関係に嫉妬していたマルトは、1925年にボナールと結婚を果たし、この結婚の翌月にルネは自殺しました。発見者はボナールでした。
「庭の若い女性たち」1921- 1923,1945-46に仕上げ。
中央にいるのがルネ。手前がマルト。
古典古代では人間と自然の組み合わせです。人間と自然がより不分離であったろう時代です。世界観よりも優位にある自然。自然と一体のようになっていた古典古代の文明。人間に対する自然の優位。
大富豪の食堂を飾るべく制作された4点装飾画のうちの2つが展示されていました。これはそのうちの1つです。これは古典古代の世界を描いているらしく、また物語的なな雰囲気もあり、あるいは叙事詩から題材を取ってきたのかもしれませんが、しかし、実際には特定の典拠はないらしいです。中国風を思わせせるところもあります。
豪華な雰囲気があります。
この時期にはパリと北フランスと南フランスを渡り歩きながら日々制作に励みました。
1909年にジヴェルニーのモネを訪問しました。翌年にはジヴェルニーの隣町に家を借りて、やがてその家を購入しました。
また、ドーヴィル、トルーヴィル、などのノルマンディを訪れました。
1909年にサン・トロペを訪問しました。
1939年、南フランスのル・カネに隠棲しました。
・またフランス南西部のアルカションにも。
自然を描くことにおいては、世界観を描くのではありません。自然は、人間の作った世界観とは異なる世界です。
地中海の庭 1917−18年
黄金色に輝く豊かな自然と光。この庭は一種のアルカディアです。美しい黄色であり、黄金色に輝いているのはミモザの満開です。遠景には地中海が望まれます。
1939年から1947年に没するまで、ル・カネという土地で過ごして制作をしました。