表参道ソフィアクリニック
明治41年(1908年)生ー平成11年(1999年)没。
・東京美術学校の日本画家へ進学。
・昭和8年(1933年)から昭和10年の2年間、ドイツに留学していました。西洋美術史の勉強のためだったようです。しかしなぜドイツだったのでしょうか。ベルリン大学(現在フンボルト大学)です。東山魁夷の作品は油絵風のようにも見えます。北方絵画に関心があったのでしょうか。留学中に知ったカスパー・ダーヴィト・フリードリヒを初めて日本に紹介したとのこと。
・戦後は主に日展にて作品を発表していました。
学校を卒業する時に「魁夷」という号をつけました。「東山」は生まれつきの名前で、なんとなく日本的なやさしい感じです。それは私の生来の性格でもあるのですが、芸術はなかなかやさしさだけでやっていける問題ではないという自覚も出はじめて、山国などに行って厳しさを追求している時代ですので「東山」の後へ優しい感じの雅号をつけると骨がなくなってしまうような気がして、思い切り反対の雅号をと考えて「魁夷」とつけたんです。「槐 えんじゅ」という字が好きなのですが、大正時代に早くなくなった画家の村山槐多 (かいた)(本名)」の字をまねするのも具合が悪いと思い、「魁 (さきがけ)」という字を選びました。
また、「東山」が非常に字画の少ない字ですので、そこへ「魁」という画数の多い、ごつい感じの字を持ってくると、次の字は下が開いていないとバランスが悪いので、「夷」という字を持ってきたのです。そしてまた、「東山」は音が長いですから、名前は簡潔に三音ぐらいで読み切る方がいいと思って「魁夷 (かいい)」とつけました。結局、「東山」というやさしさと「魁夷」という厳しさと、その二つのミックスが自分にとっては必要だと考えたのではないかと思ます。
「芸術と私」『美と遍歴東山魁夷座談集』芸術新聞社1997年
1908(明治41年) 東山浩介、くにの次男として横浜に生まれる。本名新吉。
1911(明治44年) 一家で神戸市に転居。
1926(大正15年) 4月、東京美術学校日本画科入学。
1929(昭和4年) 兄国三死去。10月、帝展に初出品した《山国の秋》で、初入選。
1931(昭和6年) 東京美術学校卒業。同校研究科に入学。
1933(昭和8年) 研究科を修了、ドイツに渡航。
1934(昭和9年) ヨーロッパ一巡の旅。日独交換学生に選ばれ、西洋美術史を学ぶ。
1935(昭和10年) 父浩介病気のため、留学を中断し、帰国。
1940(昭和15年) 川崎小虎の長女すみと結婚。
1942(昭和17年) 父浩介死去。
1945(昭和20年) 招集され、熊本で対戦車攻撃訓練を受ける。母くに死去。
1946(昭和21年) 弟泰介死去。
1947(昭和22年) 第三回日展で《残照》が特選、政府買い上げとなる。
1950(昭和25年) 第六回日展に《道》を出品。
1960(昭和35年) 東宮御所の壁画《日月四季図》完成。
1962(昭和37年) 夫婦で、北欧の旅。
1968(昭和43年) 皇居新宮殿の大壁画完成。「京洛四季」を発表する。
1969(昭和44年) 夫妻で、ドイツ・オーストリアの古都を巡る。文化功労者となる。
1975(昭和50年) 唐招提寺御影堂第一期障壁画《山雲》《濤声》完成、奉納。
1980(昭和55年) 同寺第二期障壁画《黄山暁雲》《揚州薫風》《桂林月宵》完成、奉納。
1981(昭和56年) 東京国立近代美術館で「東山魁夷展」開催。
1995(平成7年) 長野県信濃美術館 東山魁夷館ほかで、「米寿記念 東山魁夷展」開催。
1999(平成11年) 死去。
展覧会では、この3つが戦前の東山魁夷の作品として展示されていました。
戦後の東山魁夷の絵画の流れのいくつかがここで表れています。
1.王朝風
2.ファンタジー
3.ただそこにある自然
昭和16(1941)年 自然と形象 雪の谷間
昭和16(1941)年 自然と形象 秋の山
昭和16(1941)年 自然と形象 早春の麦畑
風景によって心の眼が開けた体験を、私は戦争の最中に得た。自己の生命の火が間もなく確実に消えるであろうと自覚せざるを得ない状況の中で、初めて自然の風景が、充実した命あるものとして眼に映った。強い感動を受けた。それ迄の私だったら、見向きもしない平凡な風景ではあったが──
また、戦争直後、全てが貧しい時代に、私自身も、どん底にいたのだが、冬枯れの寂寞とした山の上で、自然と自己との繋り、緊密な充足感に目覚めた。切実で純粋な祈りが心に在った。
風景画家として私が出発したのは、このような地点からであった。その後に描いた「道」にしても、ただ、画面の中央を一本の道が通り、両側にくさむらがあるだけの、全く単純な構図で、どこにでもある風景である。しかし、そのために中に籠めた私の思い、この作品の象徴する世界が、かえって多くの人の心に通うものらしい。誰もが自分が歩いた道としての感慨をもって見てくれるのである。
「一枚の葉」『日本の美を求めて』東山魁夷著、講談社学術文庫、1976年
残照 昭和22年 1947年
この時期から東山魁夷の作品は本格化してきたのでしょうか。油絵ふうであり、グラデーション、遠近法(西洋絵画で言うところの空気遠近法)、けぶったようなニュアンス。きりりとした空気感でまるで朝のようです。
夜が来て、そしてまた朝が来て、新しい一日が始まります。それは終戦から2年後という時代にもふさわしいです。
ここでは、無意味性と自然の大きさを併せ持たせることができた名作です。超越的です。ただ、そこに意味も持たずに、そこにある不動のものです。
しっとりとした湿度のある空気感があります。
それにしてもどんな内容がここにあるのでしょうか。ふつうの美しい農村の風景かとおもわれます。この画家はもともと絵にあまり内容らしきものを込めません。
これは戦前の「昭和16(1941)年 自然と形象 早春の麦畑」の系列にある進化形でもあります。
昭和28年 1953年 45歳
「たにま」
抽象的な形象化とともに、中世王朝文化の継ぎ紙、琳派による水流の表現が取り入れられています。
光昏 昭和30年 1955年 46歳ごろ
晩照 昭和29年 1954年
この二つの作品はペアとして組ませて展示されていました。そして一つのタイプとして、系列としての領域を形成しています。
両方とも空に金色(同じもの)を配置しています。かなり鮮やかな金色です。銀の混合の割合が低いか、混じってない金なのでしょう。
油絵のような厚塗りになっています。かなり盛り上がっています。岩絵具で盛り上げているのでしょうか。
「光昏」は、木々の鮮やかな色彩も良いです。この写真ではそれはわかりません。堂々たる存在感があり、豪華です。金持ち主義的ともいえるかも知れません。
堂々としてたおやかです。
風景のなかから道だけを抽象化しています。そもそもは、青森県八戸市の海岸をスケッチしたものでした。それは戦時中1942年(昭和17年)のことでした。そこから色々な事象が取り払われて、8年後に、このように道だけを残して作品として制作したものです。未来を見据え、戦後復興の道筋への願いが込められてるのでしょう。凛として正されるべきです。緑色がしっとりと明るく美しいです。穏やかで、たおやかです。
しかし、心のなかがこんなにシンプルなのでしょうか?不安混じり地の疑問も感じもします。このように美しいものだけ取り出して、今後の進むべき道をまっすぐに指し示すものであるとすれば、現実離れしているようにも思われます。何かしっくりとこないものがあります。
あるいは日本人として一つになる道であり、また人生としての道、絵の道などとも考えられます。これは個人だけではなく集団性という特徴を含む道です。しかし、どの領域であれ、このような一本道があるのでしょうか。ふつうは紆余曲折があるものです。何のための一本道なのでしょうか。こんなきれいな道があるのでしょうか。不純なものをそぎ落としすぎではないでしょうか。
日本画は作画するにあたって抽象化しますが、それは美化を伴うものです。東山魁夷はとくに純粋に美化をする度合いが強いようです。それを突き詰めすぎると、あえて言えば、そこにいかがわしさはないのでしょうか。
大きなサイズです。この写真では分かりづらいですが、とても発色の良い美しい緑青の陰影が重なり、きらめき、鮮やかで、深いです。樹々は抽象化されています。山の樹々の緑青の響き合いとして抽象化されています。それと滝の流れの対比です。静かな緑の響と滝の流れる動きの対比です。しかし滝はほとんど動きを止めています。動かない樹々が精神的に響き合い、動くものが止まっていて、両者が並びます。
画家が中国古代の青銅器の図案化された怪獣の文様に痛く魅了されたことにも、この作品は由来していると言います。
絵の具は盛り上がっています。樹々の抽象化は、角張ったようになっています。平たい筆を使っているのでしょう。
またこの作品も「道」同様に余分なもの、不純なものを全てそぎ落とされています。樹々の集団は、人間の集団でもあり得ます。無数の個々人の霊、魂、精神あるいは仏としては、各人は自分の個性をほとんど全てを失います。生きている人間においては、顔のない大衆でもありますが、きたるべき理想的な集団でもあります。集団の中の個人、個人の中の集団です。
これもまた発色の良い岩絵の具です。写真ではわかりませんが空には金(金泥)を混ぜています。紅葉した木々には、とても小さくキラキラ光る鉱物あるいはガラスの粉を混ぜています。
これを頂点のある集団性、つまり完成された集団と個人の有様、とみることができるでしょうか。
映象 昭和37年 1962年
この辺りがのちの東山魁夷の絵の方向の枝分かれが見られます。
北欧の旅で、闇の中で白樺やモミの樹々が白く発光し、それが水面に反射し、あたかも水面に根が張っているように見えるという不思議な光景を見たと言います。彼は「北欧特有の厳しさと神秘の世界」と表しました。
おそらく胡粉で描かれた、木の幹と枝。背景のグラデーションも美しいです。鉱物かガラスの細かい粉を混ぜているのでしょうか、キラキラと細かくきらめいています。
この作品も北欧の影響があるのでしょうか。
濃い胡粉を使って、油絵の具のように盛り上げています。これが木の質感とマッチしています。キラキラ光る鉱物の粉がちりばめられていて豪華さを引き立たせています。多くの作品で、このような鉱物の粉が使われています。
この作品はフィンランドの森の光景を観て制作されたものです。
木々の陰影の重なり、硬質に輝く冷たそうな水面。水面への太陽光の照り返し。全体に白夜光に照らし出された雰囲気が出ています。抽象化された筆触の反復であり、よく見ると簡潔です。抽象化と具象化のコンビネーションが良好です。とても優れた色合いです。近くで見ると油絵のような筆触です。
名作であり、東山魁夷がもっとも優れた作品を制作したのが50歳代の時期であることを、まさしくこの作品が示しているのでしょう。
北欧の地で、集団性を離れ、自然そのものへと向き合った作品です。
月明かりに照らされながらも、花が発光している、ということでしょう。月の光と花の光の美しい呼応です。
また、これは北欧で樹々が闇夜のなかで発光しているように見えたことに似ているところもあります。
昭和39年から昭和41年(56歳から58年)にかけて「京都の四季展」のための作品の制作を行いました。
京都四季展の翌年にドイツ、オーストリアの旅に出ました。
ただこの旅をめぐる作品は、もう峠を越えているのではないか、ピンと張り詰めたものが少し緩んでいるようにも見えます。
晩鐘 昭和47年 1971年 63歳
抽象化しつつ具象を表しています。それの雲と光のグラデーション。近くが暗くて遠くに行くほど明るくなっていて、拡がりが強調されています。街並みと神々しい光とが交錯しています。神とともに形作られた街は、歴史が重層となり現在に息づいています。彼方の明るく穏やかな色あいと、手前の暗い陰の教会が対比になって、厳かな世界を表しています。
「メルヘンシリーズ」という呼称が一般にあるわけではありません。しかしそうとでも呼びたくなります。白馬が登場する作品群(白い馬が見える風景)です。60歳代から70歳代にかけてです。70歳代には特により一層そうです。これは唐招提寺御影堂障壁画の製作に取り組むのに並行して描かれてもいました。白馬とは祈りも意味しているようです。
この白馬は何の意味があるのでしょうか。何ととらえるのでしょうか。それがなんであるのかわからないのですが、何かに導いているように思われます。「導きの白馬」とも呼べるでしょう。
寺から外して、ここに持ってくるというのもしっくりきません。どことなく精彩を欠き、絵画を描く力能としては、衰えが見られるようにも思われます。観ていてもピンと張り詰めたものがありません。ある種の無理もして描き上げたようにも思われます。あるいはこの仕事は必ずしも東山に合うものではなかったのでしょうか。現地で見たいところです。
(部分)
昭和50年(1975)
唐招提寺所蔵
御影堂について
国宝鑑真和上坐像を奉安する御影堂は、唐招提寺境内の北側にあり、土塀で囲まれている。もとは、興福寺一乗院に建てられた江戸時代の寝殿造の建物で、昭和39年(1964)に現在地に移築された。平成27年度より始められた解体修理作業は今後数年間かかるものと見込まれている。
唐招提寺御影堂障壁画 山雲(部分)
昭和50年 唐招提寺蔵
(部分)
昭和55年(1980)
唐招提寺所蔵
唐招提寺の仕事で、東山は生涯初めての水墨画に挑みました。
白馬に導かれるように唐招提寺御影堂障壁画を完成させる中で、東山は、描くことは「祈り」であり、どれだけ心を込めたかが問題であり、上手い下手はどうでもいいことなのだという思いに至ったといいます。信じがたいことですが、東山は自身には才能がないと思い続けていたけれども、ようやく自分が描き続ける意味を悟ることができたと言います。
ただ、70歳以降の作品は、一見して、あまり見栄えがしないようにも思われます。もっとも、ここには、また違ったある種の枯れ方もあって、独特の雰囲気もあります。そこには一種独特の素晴らしさがあるように思われます。
70歳を超えて、写生に出るのも難しかったようです。画家は記憶やスケッチなどをもとに描き続けたといいます。
昭和56年(1981)
長野県信濃美術館 東山魁夷館
昭和61年(1986)
東京藝術大学所蔵
通期
平成11年(1999)
長野県信濃美術館 東山魁夷館所蔵