表参道ソフィアクリニック
人それぞれに備わるドラマ。歴史上の人物のドラマに人間の真実が現れる。レンブラントの自画像にはレンブラント自身のドラマが表れる。レンブラントは仮装するのも物語性の現れであろうか。レンブラントは一種の演出家のようでもある。人間の精神を表に浮き立たせる演出をする。
黄金色へのこだわり。絵の具が金色をしているわけではない。金でないものが金色になるという錬金術。これは絵画の錬金術である。当時の錬金術は失敗したが、しかし、絵画の領域ではこの錬金術に相当するものが成功した。あるいは黄金以上のものができた。一種のtromp d'oeil.
経済的な繁栄とは別の世界で黄金を築く。絵画の世界で経済社会の向こうを貼る。もっともレンブラントは金銀、エメラルド、ダイヤなどが好きなようだが。
ドラマティックさを強調。ろうそく一本の光であったりします。コントラストが高い。総じて誇張気味に強調されている。
仮装という一種の遊びを取り入れています。歴史上の人物を身にまとうという遊びです。
1631年
こうして写真で観るとすごく見栄えもします。実物は、見栄えがするもの、何か感動を引き起こすようなものではありませんでした。
これは羊毛商人を描いています。だから毛皮を描いています。
この時、若きレンブラントは、ライデンからアムステルダムに引っ越してきたばかりです。
作画としては、若々しい細密さです。若いからこそここのようにとても細かく描くことができるのでしょう。レンブラントは円熟期にはこんなに細かくは描きません。
また光と影の効果も。
この作品は、これからアムステルダムに住み、肖像画を受注すべくプレゼンテーションをしていて、広告的な意図もあるようです。ビジネス的な側面もあるのではないでしょうか。当時、オランダは、画家のパトロンになるというような王侯貴族社会はありませんでしたから、絵画の注文を受けたり、絵画を販売して生計を立てなければなりませんでした。
因みに、この人物もよく観ると、やはり彼の目はこれといって何も観ていないようです。画家の前でポーズをとっているような目つきをしています。
(Frick Collection 2018)
黄金色の光と色、そして全体の巧みな表現が観られますが、この絵を前にして、さほどの感銘を受けるものではありません。
(メトロポリタン美術館2018年)
レンブラントの超豪華黄金絵画モード全開の一品です。美術館の照明の具合にもよるとは思うのですが、宙に現れる光る文字の明るさのコントラストの高さはすごいものがあります。この絵画には光点が2つあるようです。黄金の描写力は素晴らしく、金を押してあるのでなくて、色彩だけで表現したtromp d'oeilです。金の部分に近寄って見ると、意図的にかなり粗く描いているのがわかります。このように粗く描くことで、少し距離をおいて鑑賞すると金の部分が強調され浮きだちやすいです。逆にあまり丁寧に描きすぎると、沈んでしまうのです。上の写真は自分のスマホで撮ったのですが、そのほうが、あの時見た印象がよく伝わると思います。
上の写真は自分のスマホで撮ったのですが(向こうの美術館は写真撮影可のところが多いです)、そのほうが、あの時見た印象がよく伝わると思います。スマホでもかなり綺麗に撮れるものです。照明や撮影時の色温度の調整などで写真はその都度かなりいろんな風に違って見えるものですから、あの時見えたまま撮ったほうがその時の印象通りだったりします。ちょこっと撮っただけなのですが、その時の印象が撮れていて我ながら満足です。でも少しボヤけています。
ターバンの描写もなかなかのものです。
とてもドラマチックで物語的です。(2018年1月ナショナル・ギャラリー)
黄金とターバンと装飾の描写の巧みさ。それでこの作品の優れていることが大体言い尽くせています。後の半分は、物語性、絵画的な演出のレンブラントらしい表現です。
Nalional gallery, 2020.1.
52歳ごろの自画像。やはり仮装をしていて、演劇的です。大きな手や仗は威厳を表します。絵の具に宝石を混ぜているとも言われ、豪華主義です。衣装は金色に輝いています。
レンブラントは一体何を見ているのでしょうか。よく見ると特に何を見ているわけでもなさそうです。
また、例えばヴァン・ダイクが描くスペインの王は、私がどの位置から見ても不思議なことに王は私の目をじっと見下ろしています。しかし、レンブラントのこの目は、どこから見ても、私を見ていなくて視線をそらしています。彼の視線はある意味で虚ろであることが多いです。それは演劇的な特性にも関係しているかもしれません。
しかし52歳とは思われないたるみと劣化です。
(メトロポリタン美術館2018年)
1954年 フローラ
ティツィアーノの「フローラ」の影響を受けています。
モデルは1634年に結婚をしたサスキアだともされているようです。
ティツィアーノの画風とは全く異なります。
フローラ ティツィアーノ 1517-1517
水の描写が巧みです。下着を捲り上げているのは猥雑です。豪華な衣装が背景に描かれています。それと対照的に下層の女性のようにも見えます。この水に足をつけて、とても冷たいといった表情です。自然な表情です。思わず素のままの表情になっていて、その一瞬間に、人や人生の営みの愛おしいような一面を垣間見ているようです。
(ナショナル・ギャラリー2018年1月)
自画像
<ウィーン美術史美術館にて>
レンブラントの多くの自画像の中でも頂点にあるか、少なくとももっとも良質なものの一つです。
画家という職業人としての堂々としたレンブラントを描いています。
この自画像は画家がもっとも経済的困難に直面していた時期に描かれました。
このとき46歳なのですが、二重あご、たるむ頬、深い皺(しわ)など、老化が進み、だいぶん年齢がいっているように見えます。質素な仕事着です。
かなり差し迫った感があります。厳しい表情です。ポーズは立ち向かう姿勢です。まだまだエネルギーが残っています。
画家が経済的な困難にあって、自分を売り込むための肖像画でもあったのだろうともされています。
52歳ごろの自画像。やはり仮装をしていて、演劇的です。大きな手や仗は威厳を表します。絵の具に宝石を混ぜているとも言われ、豪華主義です。衣装は金色に輝いています。
レンブラントは一体何を見ているのでしょうか。よく見ると特に何を見ているわけでもなさそうです。
この世のものではないものを見ているのでしょうか?
また、例えばヴァン・ダイクが描く王は、私がどこから見ても王は私の方をじっと見下ろしています。しかし、レンブラントのこの目は、どこから見ても、私を見ていなくて視線をそらしています。
52歳とは思われないたるみと劣化です。
(Frick Collection 2018)
渋みがあります。枯れた感じです。苦汁をなめたような表情です。特に財産を失う事は大きいでしょう。華やいだ生活も終わった。欲、失敗、失意。やりたいことをやり、頑張り努力と探究を続け、今もなお絵画への情熱を持ち続けています。人生を噛みしめるかのような目をしています。
光は左斜め上からさしてきています。特に額の光の照度が高いです。(ナショナル・ギャラリー2018年1月)
ナショナルギャラリーでは、レンブラントが描いた肖像画をずらりと並べていて壮観です。それらには画家の何らかの思いが込められているようです。ひとかたならぬ思いです。それをその人の「存在」と言うべきかと思われます。しかし、レンブラント自身の自画像はそれとはまた異なっています。ほかの人々の「存在」が前に出てくるような「存在」であるのに対して、レンブラントの自画像は「存在」が引っ込んでいます。いったん「存在」が抜き取られていて、そうして「存在」が表れているような。他の人たちは、一面的に存在が突出しているのに対して、レンブラントの自画像はそのようになっています。それだけに、一種の柔軟さと軽やかさもともなっているような現実感があります。これが老成したレンブラントの自画像であり、「自我像」です。それはおそらく苦悩をともなう人生の経過を経た後に至ったところであろうと思われます。
2020.1