表参道ソフィアクリニック
1882年(明治15年) - 1911年(明治44年) 享年28歳 結核にて死去
福岡県久留米市の出身。旧久留米藩の下級武士の長男として生まれました。父親は厳格でありながらも、下級武士であるが故に経済的にも苦労をしたようです。また繁は早くから文学にもいそしむ文学少年でいた。学業も優秀で中学に進学しましたが、そこでは反抗的であり勉強もしなくなりました。在学中に進路に迷って末に、画家の途にすることを決心しました。父親はそれに反対でした。「美術ではなくて武術の間違いではないか」という父親の言葉は有名です。
上京して1900年明治33年に東京美術学校に入学し黒田清輝に絵の指導を受けました。当時もかなり経済的に困窮していました。また上野図書館にも通い、知識を広め、神話についても学びました。
坂本繁二郎とは小学生の頃からの同級生であり生涯の友人でした。
上京して3年、黒田清輝らによってはじめられた「白馬会」における第1回白馬賞を受賞しました。これによって、美術界に彼の名が知られるようになりました。作品『神話画稿』にて。
美術学校在学中に描いた自画像。
「かつて東京美術学校に在るの日 青木生」という書き込みが見られます。
青木は『古事記』を愛読していました。また古代についての諸々の文献を図書館で読んでいました。古代への関心は、青木を一気に芸術上の高みへともたらせてくれました。古代神話においては人間の情念が渦巻き、そして他方では、古代の人間の生活様式は長い安定期があったのです。
自画像 1903年
この自画像は、自らの代表作と見なしていたようです。
1900年に一念発起して上京し、急成長を遂げた青木です。強烈な個性と自負心がうかがわれます。
青木の短いピークの時期を迎えるにあたり、エネルギッシュで一種独特な異様なほどの気配が漲っています。この時期に日本の絵画史上に残る作品が産み出されます。記念碑的な自画像でもあります。
1903年《黄泉比良坂》
優れた絵画性があります。
気迫が滲み出ていて、上り調子にある画業とも重なっています。その頂上において光りに照らし出され、そして墜落するという画家の早い歩みも象徴的に表しているようにも思われます。
古代神話においては人間の情念が渦巻いていたのでした。それは青木の波瀾万丈な人生とも相通じるものがあります。
海の幸 1904年 美術学校卒業の年に制作。
こちらに顔を向けている女性にフォーカスがあります。モデルは彼のパートナーである福田たねだともいわれています。
太古的で神話的な光景です。原初からある人間のオリジナルな姿を描いています。集団的、共同体的な特性がテーマです。
未完の作品ですが、彼の代表作の一つです。この地点に上り詰めて、青木は一気に落ち着きを見せ安定の度合いを見せています。そして古代世界における安定的な人間たちを描くことを青木は見いだすのでした。古代の人間の生活様式は長い安定期があったのです。
大穴牟知命 1905年
神話の一場面において、女の情念を表しています。
この作品もまた印象的です。青木の画業のピークはやはり神話に題材を得たものです。
神話の世界では、暴力的な争いやエロスが溢れるのでした。
わだつみのいろこの宮 1907年
ラフェエル前派の影響が見られます。
秋の声 1908年
やはりいい絵だと思うのですが、描画の荒さも目立ちます。それが味だとも言えるのですが。
漁夫晩帰 1908年
青木はすでにピークは過ぎているとみる向きもありますが、この絵を実物で観るとなかなかの表現力です。薄塗りです。
「海の幸」とも若干呼応しているようです。ただ海の幸の方が、未完成ながらも絵として充実して力が漲っています。方向性の迷いがあって定まらないようなところがあります。
朝日 1910年 絶筆
それまでの青木らしくない筆遣いと画風です。そのことから描画についての迷いも現れているのかも知れません。見ようによっては安っぽいありきたりな絵にこのようなタイプもありそうです。また見ようによっては坂本繁二郎のような筆遣いと色の使い方を想起させるところも少しあるかも知れません。でも、やはり巧いです。
最期の朝日の光景に万感の思いがこもっているようです。
彼はそれまでの諸作品においてあまり完成を求めて描き込むというタイプではありませんでしたが、この作品ではキッチュなまでに細かく描き込んで完成をさせています。それはかれが早世するにあたって、彼のそれまでの至らなさを補うために、万感の思いをもって、総決算として絵画に完成の理念を込めたのでしょうか。