表参道ソフィアクリニック
エトルリアの王
初代ロムルスの紀元前753年から7代タルゥィニウスの紀元前509年まで。
5、6、7代目はエトルリア人の王であった。エトルリアは今のトスカーナ地方にあり当時は先進的な地域であり、建築技術もあった。
7代タルゥィニウスは独裁的であり、ローマの大下水道工事に民衆を使役し反感を買い、また王の息子が貞淑な人妻ルクレティアを強姦し、ルクレティアは自殺するという事件が発生した。これらをきっかけに、ブルトゥスらが独裁者のエトルリアの王家一族を追放した。
エストニア人の王の追放後、ローマは共和制を選んだ。
前509年、共和制の確立。
・政務官(マギストラトゥス)。任期1年で再選禁止。
・執政官(コンスル):任期1年で、2名を選出する。相互に監視させ独裁を防止。最初の執政官は、ルクレティアの夫と、王族追放の立役者であったブルトゥス。
ブルトゥスは、第7代ローマ王タルクィニウス・スペルブスを追放して共和政を布き、初代執政官(コンスル)に就任した。
・民会(コミンティア):貴族と平民で構成されるが貴族が優勢であった。政務官や執政官を選出する。
・元老院(セナトゥス):有力貴族から300名選出。終身制である。実質的な実権を握っていて、有力貴族たちが国政を支配していたことになる。
・護民官:貴族階級と平民の間の階級闘争から、平民を守るための護民官が創設された(前494)。
祖国を思う気持ちが強い。名誉は、故国のために尽くした人にあるとされ、戦いで英雄を数多く生み出した。また貴族たちは祖国の防衛や統治に尽力し、英雄が生まれ、英雄の家が後に氏族から有力貴族となった。貴族による階級社会であり、これによって共和制へと発展した。
ローマでは、自由の意識が高いとともに、集団の結束や組織化を重んじる。 ギリシアにもそのようなところがある。ただ、ギリシアはまた身分の差の意識が低かった。その典型がスパルタ。ローマは氏族社会から貴族社会になった。たいしてギリシアでは直接民主制へと発展した。民主制はテミストクレスやペリクレスが指導者であったときには、うまく機能していたものの、およそ50年で機能不全に陥って、混乱した。弁論・雄弁(ソフィストらの活躍)と民衆感情の相乗効果のようになって、いわゆるポピュリズムつまり民衆の感情に引きずられて政治家が人気取りに走った。ソクラテスは民主制ではなく哲人政治を、アリストテレスも民主政治ではなくて、貴族集団による統治をすすめた。
インド・ヨーロッパ語族のイタリック族に属するラテン・ファリスキ族の一派。ラテン語を使用。前1000年ころイタリア半島に南下して中部イタリアのラティウムに定住。ローマ,アルバロンガなどの都市を建てた。まずアルバロンガを中心に都市同盟を結んだが,主導権はローマに移り,次いでローマを除いた同盟が結成されて,ローマと争ったが,前338年同盟は解体し,以後ローマの支配下に置かれ,ラテン人の呼称はある種のローマ市民権保持者の称となった。おもにマイペディアより
マルクス・フリウス・カミッルス
bc.446-bc365 共和制ローマの軍人、独裁官
独裁官に任命された高潔の武将カミルスがbc387年にエトルリアに勝利した。その後、イタリア北部のケルト人がローマを占領し破壊したのにたいして、撃退しローマを再建した。彼は「ローマの救済者で第二の建国者」と呼ばれた。
山岳民族サムニウム人に敗北して「カウディウムの屈辱」を経験(第一次サムニウム戦争)を経て、第三次サムニウム戦争で征服した。
前2から前3世紀。カルタゴとの戦い。前264−241第一次ポエニ戦争では勝利。
第二次ポエニ戦争(前218−201)では、ハンニバルがアルプスを越えて攻め込みカンナエの戦いでローマ軍を包囲殲滅しローマは歴史的大敗を喫した(カンナエでの1日の会戦で7万の戦死者をだした)。対する当時若干25,6歳のスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)が指揮して、ハンニバル軍と交戦するのではなく、カルタゴ本国を攻め、引き返したハンニバルとザマで会戦し大勝した(以上が第二次ポエニ戦争)。これによりカルタゴは地中海の覇権競争から姿を消した。
しかし、カルタゴは急速に経済復興して、前149年再び戦争になり、4年間の籠城戦の後、小スキピオが城壁を破り、カルタゴは容赦なく破壊され殺戮され消滅した。以上第三次ポエニ戦争。
大スキピオ
(スキピオ・アフリカヌス
大スキピオ)
もともとは貴族のみが戦争を行ったが、共和制になってからは(?)、平時は農民であり、戦時になると兵士となった。そのことで農民も市民の仲間入りをした。戦争に参加する市民は、政治的な発言権を持ち国政に参加することができた。ローマ共和国は、政治と軍事が一体となっていて共和制軍国主義であった。何か危険を感じたら、攻撃によって生存権を防衛する。また、貴族だけでなく民衆もローマという「祖国」への帰属意識が非常に強く、名誉と不名誉についての公的な行動規範の意識が強かった。これは当時はローマに特有のことであったという。「父祖の遺風(モス・マヨールムmos maiorum)」があり、ローマの家庭には大抵は先祖の彫像があり、大人たちは子供たちに、父祖の名誉ある物語を繰り返し語り聞かせていた。正々堂々と戦うことを義とした。また軍の規律が厳格で、違反にたいしては厳罰に処した。息子であっても処刑した。また「10分の1刑(デキマティオ)」は、一つの隊がうまく機能しなければ、そのうちの10分の1の兵士を籤引き(これは神の裁きと見なされた)で選び処刑した。これに対しては不満は出なかった。
スキピオ家はギリシアの流れを汲む改革派であり、大カトーらは保守派であり、対立していた。この流れで、改革派のカエサルと保守派の元老院の対立も生じた。
相次ぐ戦争、とくに第3次ポエニ戦争が終わると、農村が荒廃し、上流貴族が土地を買い占め、奴隷を使った「奴隷制ラティフンディア」が生まれ、上流貴族にさらなる富をもたらした。農民たちはローマなど都市に流入し、彼らは兵士となって、政治的発言権を有する平民となった。そのため、ローマなどで貧富の格差とともに階級対立が先鋭化した。また、祖国への愛や献身が減じていった。こうして国全体として内乱へと激化していった。
クラックス兄弟はスキピオ家の流れをくむ先進的な気風をもっていた改革派でした。まず兄のティベリウス・グラックス土地改革として大土地所有に制限を設けていた古くからの法律の遵守を強化し、法定面積以上の土地は国家に返納させ、それを都市市民となっていた農民に分配して農村に帰すことを目指しました。そのことから元元老院派と平民派の対立が先鋭化しました。護民官は階級対立を緩和して平民の権利を守るために拒否権を発動できる権限を持っていました。ティベリウス・グラックスはそれに就任していた。その後、ティベリウス・グラックスは、護民官の任期が切れ、法律に反して再選を目指しましたが、暗殺されました。そのため民衆が怒り、内乱状態になりました。そこで、元老院はティベリウスの改革案を承諾せざるを得なくなった。弟のガイウス・グラックスが護民官に就任し、さらに改革を推し進めました。貧しいものが穀物配給を受けられるように穀物法をもうけ、また法廷の陪審員を占めていた元元老院議員を排除して騎士身分だけに限定しました。さらに、イタリア全土の住人にローマ市民権を付与することを提案し、これは否決されました。保守勢力によりガイウスは次第に追い詰められて、自害しました。
BC157 - BC86
鼻が欠損しているマリウスの胸像
グリュプトテーク所蔵当時はグラックス兄弟の改革が失敗した直後で、中小農民の没落が進んだため、市民軍は弱体化しており、ローマ軍の苦戦が続いました。たとえば、北アフリカでのユグルタ戦争が泥沼化したとき、北イタリアではゲルマン人が南下する勢いをしめし、さらにガリアではケルト人が蜂起し、ローマ兵が8万人も殺害されるという事態が起こりました。ローマ軍が危機的状況にあるときに平民出身のガイウス・マリウスが登場し、前107年に執政官に選出されると、全面的な軍制改革を断行して、ローマの危機を乗り越え、ローマはさらに拡張しました。軍功としては、たとえば、ユグルタ戦争を終結させ、ゲルマン人を撃退しての南下を阻止し、前101年ウェルケッラエの戦い キンブリ・テウトニ戦争でも歴史的勝利を収めました。
マリウスの軍制改革:軍制改革では市民兵制から職業軍人への切り替え、武器自弁から装備の一律支給、訓練内容や指揮系統の改革、退職金制度や鷹章旗の制定まで多岐に亘る改革を成し遂げました。この制度は帝政時代を含めて長らくローマの軍事制度として継承されました。
彼自身は政治には無関心だったようですが、政治的にはポプラレス(民衆派)の英雄として人気を勝ち得て、異例の計7回の執政官就任を果たしました。その支持層は、騎士・エクイテスと言われる新興勢力であり、従来の貴族層(新貴族・ノビレス)が占める元老院に権力が独占されていることに不満をもっていました。この新興勢力は、マリウスの名声を利用して元老院の権威に対抗して実権を握ろうとしようとしていました。彼らは平民派とも呼ばれ、元老院に依拠する貴族(新貴族も含め)たちは既得権を守ろうと、閥族派を形成しました。
前91-87
ローマはイタリア半島に支配を広げていく過程でイタリア人の都市や諸部族にローマ市民権を与えず,同盟者の地位を与えてしました。彼らは独立を保持していたとはいえ,独自の外交政策を展開することは認められず,またローマの要請に従ってさまざまな軍事援助を果たさなければならなりませんでした。ローマの強大化に伴い内政干渉も行われ,同盟諸都市の不満は増大しました。前91年、 ローマ市民権を要求してイタリア諸同盟が蜂起した「同盟市戦争」が勃発しました(前91-87)。同盟諸都市は、コルフィニウムに独自の政府をつくりました。G.マリウス,L.スラを出動させ大殺戮を行いました(とくにマリウスの軍による)が鎮圧できず, 前 90,前 89年には武器を捨てる者への市民権賦与を公告するという譲歩策をとりました。結局、ポー川以南の同盟市にもローマ市民権が与えられ,ローマは都市国家から脱皮しました。
周辺国との戦争に次ぐ戦争ですが、ローマの生存権を賭けるとともに、拡張主義による利権の増大が絡み合っているように思われます。
これだけ広大な領地に拡大したということは、戦争を盛んに行ったということです。またこのように領地が拡大しても、なおも異民族によりローマが脅かされがちでした。そして最終的にはローマは異民族に滅ぼされました。
ローマの生存権を賭けた戦いは、新しい領地、利権、富、奴隷の獲得という剰余価値を獲得したのでした。そしてこの剰余価値の獲得が自己目的化もしていました。
当時は、どの国も、生存権を賭けた戦いと剰余価値の獲得、つまり防衛と侵略が密接に絡み合っていたようです。なので、お互い戦い合っていた。
平民派のマリウスと元老院派のルキウス・コルネリウス・スッラ(BC138 - BC78)の対立は激化していました。マリウスの病没によりスッラは独裁官に就任し、マリウス派を大粛正し、元老院の強化、護民官の権限縮小などを行った。スッラは残忍であったと評価される。
元老院派に対抗して平民派が優勢にり、平民派からカエサルの独裁制が誕生するという流れのように思われます。
その後、奴隷制ラティフンディアで奴隷たちはとくに過酷な扱いを受けていましたが、スパルタクスの指導の下で故郷への期間を求めて反乱を起こしました(「スパルタクスの乱」)。この反乱を鎮圧した功績によりクラッススとポンペイウスが執政官に就任しました。もともと軍功で功績が大きかったポンペイウスがその後も戦果を挙げ、元老院と対立する。そのときにユリウス・カエサルが執政官に就任した。カエサルは姻戚関係もマリウス派であり、その後イベリア半島遠征で戦功を挙げ、さらにクラッススとポンペイウスを仲間に引き込み、元老院に対して共闘する密約を結び、こうして第1次三頭政治がはじまりました。
しかしカエサルがガリアの遠征に就いていたころ、ポンペイウスは元老院に説得されて反カエサルの中心的地位に据えられた。それを知ったカエサルは、BC49年、ローマに帰国するときには武装解除しなければならないと定められていたルビコン川を、武装したまま渡りました。このとき「賽は投げられた」という言葉が発せられたという。両軍は激突して、カエサルが勝利し、ポンペイウスはエジプトに逃れたが殺害されされました(BC46)。元老院派の小カトーも同年にアフリカで自害しました。寛容(=クメンティア)を信条とするカエサルはブルータスなどポンペイウスの側についた元老院派たちを誰も罰しませんでした。彼は、元老院を支配下に置き、数々の改革を行いました。BC44年、カエサルは終身独裁官に就任し(元来は任期半年)、共和制のシステムを温存しつつも、事実上独裁者となりました。しかし同年、元老院派によって(BC44年)暗殺されました。
BC43年、第3次三頭政治が行われた。つまり、カエサルの養子オクタウィアヌス(カエサルの暗殺時には19歳)、カエサルの遠征の盟友アントニウス、執政官マルクス・アエミリウス、レピドゥスの3人。その後、オクタウィアヌスがエジプトでアントニウスを破り、レピドゥスを国外追放処分にしました。元老院はオクタウィアヌスに「尊厳なる者」を意味する「アウグストゥス」という尊称を与え、アウグストゥスはその後もずっと共和制を維持したまま、事実上の「皇帝」として独裁を行いました。
パトロヌスは富裕な貴族であり、それに保護される平民がクリエンテスでした。平民は自由にパトロヌスを選ぶことが出来て、パトロヌスは相談に乗ったり、恩恵を与えたりして、その代わりに、クリエンテスは選挙や公職の時には一肌脱ぎました。その絆は強く、何世代にもわたって関係が続いたりもした。
軍隊もパトロヌスとクリエンテス関係に基づいて構成されていました。そして軍事力を有した派閥同士は、抗争や騒乱をおこしました。これは不安定やひいては内乱を引き起こすローマの不安定要因にもなって、やがてくる皇帝を頂点としてヒエラルキーの一元化による安定化と強化が招請されたと思われます。そのためには、既存の既得権益層である元老院による上からの支配に基づくよりは、元老院を温存しつつも新興貴族や平民からも支持される中央集権的な挙国一致体制が政治的にも軍事的にも不可欠だったと思われます。
アウグストゥスに世継ぎがいなかったため、義子ティベリウスを後継者に指名した。彼はアウグストゥスの妻の連れ子であり、血縁がありません。ティベリウスの実父がクラウディウスという名前だったことから、アウグストゥスからネロ帝までにいたる5人の皇帝を「ユリウス・クラウディウス朝」と呼びます。ティベリウスは55歳で帝位に就きました。そのときアウグストゥスの姉の息子ゲルマニクスは28歳でり、ティベリウスの養子になるようにアウグストゥスから命じられていました。アウグストゥスはティベリウスを中継ぎだとし、本命のゲルマニクスに帝位を継承させたかったかったのでした。ゲルマニクスは武勇に優れ、学識があり、雄弁で、暖かな人間性を持ち、ローマ市民からも愛されていました。しかし早世しました。ゲルマニクスが死んだとき、民衆の間では彼が毒殺されたという噂が立ち、ティベリウスに嫌疑がかけられられました。ティベリウスはゲルマニクスの息子で唯一生き残っているガイウスを帝位の後継者に指名し、カリグラ帝となりました(BC12-41/在位BC37 - 41)。カリグラ帝はゲルマニクスがゲルマニア遠征の時に軍営で生まれ「小さな靴」という意味のカリグラはあだ名です。カリグラは帝位に就いた当初は民衆にも配慮した姿勢を見せましたが、半年して大病を患い、これを機に性格変化が生じて、常軌を逸した散財をしたり、被害妄想に取り憑かれて多くの人々を次々と大逆罪で処刑するなどして、暴君になってしまい、しまいには暗殺されました。またカリグラの生前から親衛隊が権力を握るようになり、カリグラの死後、親衛隊は自らの既得権益を守るために、宮廷内にゲルマニクスの弟クラウディウス(Bc10-53/在位BC41-54)がいることを発見するや、即日のうちに新皇帝への就任を宣言しました。ゲルマニクスはローマ帝政期の官僚体制をほぼ完成させた功績があります。クラウディウスはゲルマニクスの娘(カリグラの妹)であるアグリッピナと結婚しました。アグリッピナは皇帝の実子を外して、自分の連れ子ルキウスを皇帝の養子にして皇位継承者に任命させ、そのとき「ネロ」という名を与えました。その後、アグリッピナは皇帝を毒殺し、ネロは16歳で帝位に就任(BC37-68/在位BC54-68)。アグリッピナは、当時島流しに遭っていたセネカを呼び戻し、ネロの家庭教師にしました。ネロは最初は悪い皇帝でもなく、セネカの意見も聞き入れていましたが、5年たった頃から暴君となりました。口出しするアグリッピナをネロは殺害。その後もネロは疎ましく思った人を次々に殺害。セネカにも自殺するように命じました。彼は当初は民衆からは慕われていましたが、悪評が立って評判が落ち、最後はローマ近郊の軍隊が反旗を翻したことで、自らの命を絶ちました。暴君ネロが死去して、これでユリウス・クラウディウス朝は終わりました。
メッサリナの役に扮する女優シャーロット・ ヴォルター
ハンス・マカルト
1875 年 Wien Museum
メッサリナは、由緒のある家系に生まれ、たいへん裕福でした。20歳弱でクラウディウス帝の3番目の妻となりました。彼女は皇妃でありながら性の快楽に耽溺していろいろな人々と交わり、また売春宿にスキッラという名前で売春婦として働いていたといわれています。また皇帝をそそのかして敵対者たちを処刑させるという冷酷な女性として知られています。さらにクラウディウス帝を暗殺しようとして露見してしまい、処刑されました。28歳の若さでした(48年)。
アウグストゥスがひらいた帝政ローマは、アウグストゥス以降、さっそく腐った皇帝つまり暴君が二人続きました。
ウェスパシアヌス
ネロの死後、3人が帝位については次々に殺されて、混乱状態のなかからウェスパシアヌスが帝位についた。彼らは、由緒のある貴族の家柄というよりは、軍事力を背景にして、元老院が帝に就くことを承認した。彼の政策は、増税、緊縮財政、古風な生活、公明正大、質素(吝嗇)、戦争被害者への再分配、コロッセオの建設など。
ティトゥス
ティトゥス帝の時代には、ベスビオスの大噴火でポンペイが壊滅し、また彼は善政を敷きました。その弟ドミティアヌスが帝を継ぐと悪帝になりました。こうして、3人の悪帝としてカリグラ、ネロ、ドミティアヌスがいます。一般に五賢帝のまえに3人の悪帝がいたと言われます。ドミティアヌスは不貞や同性愛のかどで処刑をしたりして、また猜疑心が強く粛正を繰り返す恐怖政治を行いました。最後は暗殺されました。短い期間に三悪帝がでたことから、共和制に戻そうかという議論も為されたが、結局皇帝には人格を最優先で選ぼうと言うことになり、五賢帝時代にはいりました。
ネルウァ帝
トラヤヌス帝
トラヤヌス帝はイベリア半島出身者でした。トラヤヌス帝のもとで、ローマはさらに領土を拡張し、「パクス・ロマーナ pax Romana(ローマの平和)(イギリスの歴史家エドワード・ギボンの言葉。この時代が人類が最も幸福な時代であったとした。パクスとはローマ神話に登場する平和と秩序の女神のこと))とよばれる時代を迎えた。彼は五賢帝のなかでも最大の賢帝であり、またローマ皇帝のなかで最善の皇帝とも評価される。パクス・ロマーナはトラヤヌス帝が開き、後の3人の皇帝がそれを維持した。トラヤヌスは「最善の元首/プリンケプス・オプティムス・マクシムス」と呼ばれ、また民衆にクレメンティア(慈愛・寛容)をしました。
・アリメンタ:貧しい子供のための育英基金。その後200年にわたって実施された。
・民衆のために、道路、橋、などのインフラ、生活向上のための施策。
・サーカス、剣闘士興行など。
・大酒飲みで、また同性愛者でした。
・ルーマニアでのダキア戦争に勝利した。これは「トラヤヌスの記念柱」になっている。このルーマニアという言葉は、このときローマの属州になって「ローマ人の国」つまり「ローマニア」になったことによる。
ハドリアヌス帝
トラヤヌスの後継としてハドリアヌスが選ばれた(75-138/在位117-138)。
・アルメニア、メソポタミア、アッシリアからの撤退。反乱が多く防衛費がかさむなど維持に困難を来したため。彼は拡張政策ではなく、属州秩序の安定に尽力し、治世の後半には帝国の各地を巡回したことから「旅する皇帝」とも呼ばれた。また帝国内の軍隊の忠誠を得ていました。彼は属州各地で盛大に歓迎されました。この訪問を記念して各地で記念貨幣が鋳造され、現在は「ハドリアヌス・シリーズ」と呼ばれ、また記念の建造物が作られそれは「ハドリアヌス・ルネッサンス」と呼ばれる。イングランド北部の「ハドリアヌスの長城」も名高い。
・パンテオンの建設。パンテオンとは万神殿という意味。アウグストゥスの腹心アグリッパが建てたが焼失したため、ハドリアヌス帝が再建した。
・ユダヤ人の反乱。このとき50万人が犠牲になったとも言われる。ソロモン神殿の西の壁は「嘆きの壁」として残った。
アントニヌス・ピウス(86-161/在位138-161)
この皇帝は温厚であり、また特に大きな出来事もなく、安定していました。
マルクス・アウレリウス
・養子に入ったアントニウスのもとで、帝王学を受けました。
・もう一人の養子であるウェルスを尊重していて、ローマ史上初の共同統治を行いました(8年間)。もっともウェルスは政治にはあまり関心がなかったものの、ウェルスはアルメニアを巡る戦争で勝利してトラヤヌス以来の50年ぶりの凱旋式が行われた。
<情勢の不安定>
しかし、この戦争のときなぜか疫病を持ち帰り10年以上にわたって猛威を振るい、ローマの人口の3分の1が失われたともいわれます。
・ドナウ川あたりでゲルマン人の侵攻が頻発するようになりました。
・皇帝は、ゲルマン人の侵攻に対する戦いのために、そして疫病から逃れるために北方戦線で過ごすようになり、その頃『自省録』を執筆しました。子供の頃から哲学者に預けられ、ストア派の哲学に傾倒し、「哲人皇帝」として知られていました。公務をきちんとこなした上で、個々人の「オーティウム(暇)」を大切にし、また享受すべきであるというストア派の考え方がローマでは受容されました。そのように皇帝も、北方の陣地で公務をしつつ、個人の時間を『自省録』の執筆にあてていました。
・民衆にたいする施策、そして賢明な人格。
・奴隷への虐待を禁止する法律を制定。
・妻ファウスティナを亡くしたのを機に、「ファウスティナ財団」を設立して、貧しい家庭の子供たちを支援した。
三悪帝の反省から、よい皇帝が選ばれました。しかし、これは帝政のシステムがうまく機能するには、個人の資質に頼るところが大きかったようです。
コンモドゥス
マルクス・アウレリウスは、コンモドゥスを後継者に指名しました。コンモドゥスは父親アウレウスによって帝王教育を受けていました。彼は18歳で帝位に就き、当初は政治、軍事で活動をして、彼は政治的な能力に欠けているものの、大きな失点もなく悪くはなかった。しかし実の姉ルッキラが帝位を簒奪しようとコンモドゥス帝の暗殺未遂事件を起こし、それにたいしてコンモドゥスは粛正の嵐を巻き起こし、これ以降、クレアンデル という側近(近衛隊長になる)に頼ったが、クレアンデルをその横暴により殺害し、これに連座させる形でまた多くの人々に粛正の嵐を吹かせた。彼はヘラクレスの化身だと自称して、皇帝のトーガではなくライオンの毛皮をかぶって人前に現れたり、弓術師や剣闘士となって出場し並外れた技量を示した。恐怖政治と乱行により、最後は31歳にして暗殺されて、「ローマ史上最悪の皇帝」とも呼ばれました。
ペルティナクス
彼は解放奴隷の子供であったが、非常に優秀で、首都長官の地位にあり、元老院によって皇帝に据えられた。彼は財政や秩序の回復を急ぎ、そのために元老院と親衛隊から多大の反感を買って、幾度かの暗殺未遂事件ののち、わずか3ヶ月で親衛隊によって暗殺された。そして親衛隊は、親衛隊に最も多くの金を出した人物を皇帝として擁立する旨を公示して、それを金貸し業で富を築いたユリアヌスが射止めた。こうしてローマ帝国の帝位は競売にかけられたと言われます。
ユリアヌス
彼は皇帝に就いてから僅か66日後に元老院によって処刑されました。
セウェルス朝
セプティミウス・セウェルス
彼はローマ人でもなければインド・ヨーロッパ系でもなく、北アフリカ系の人種であり、言葉もアフリカなまりがあったと言われています。かれはローマの伝統や家柄に一切こだわりなしに次々に徹底した改革を断行しました。
・彼はそもそも軍隊によって擁立された皇帝でした。
・皇帝の伝統的な権威よりも、軍事の統帥権を皇帝権力の基盤にすえました。彼は後の「軍人皇帝時代」の先駆けとなった。
・軍隊内の身分差別を撤廃、実力さえあれば高級武官に出世できるようにした。親衛隊の入隊資格を属州出身者に開放した。
・帝国内の全ての地域を平等として、「空前の民主化、均等化」を生じさせ、ローマ人の帝国からローマ帝国になった。
・元老院は弱体化して、皇帝は多くの元老院議員を処刑した。もっとも暴君のようにはならなかった。
カラカラ(188 - 217/在位198-217)
・わずか10歳にして皇帝になる。
・カラカラ(フード付きのマント)を好んで来ていたことからつけられたニックネーム。本名はセウェルス・アントニヌス。
・当初、父セプティミウス・セウェルスの遺言に従い、兄弟による共同統治を行っていたが、わずか10ヶ月で、カラカラは自らの手で弟ゲタ皇帝を母親の目の前で刺殺した。それ以降、カラカラは弟を支持していた友人、親衛隊長、元元老院、召使い、一般民衆を粛正し、犠牲者は2万人にも及んだと言われる。また弟に関する記録、碑文、絵画などすべての存在を消去した。これを「ダムナティオ・メモリアエ」(記憶の断罪)と呼ばれる。
・父親の遺産をつかって、兵士の給与を1.5倍に引き上げた。
・父親の遺産をつかって、建造物を次々に建てた。カラカラの浴場は遺構でみられるように大規模なものであった。
・湯水のように金を遣い、ローマの国庫も財政難に陥った。それを打開すべくカラカラは「アントニヌス勅法」(212年)を発布した。この法律により、帝国内の全ての自由人にローマ市民権を与え、ローマ帝国を世界帝国とし、それとともに、ローマ市民に課せられていた相続税を、全ローマ帝国の市民に義務として課すことにした。これによって財政難を打開しようとした。
・治世19年(若干29歳にして)にして親衛隊長マクリヌスの指示により暗殺された。
マクリヌス(165-218/在位217 - 218)
請うての死を悼むふりをして皇帝に就任。たった1年後にガリア軍(指揮官14歳)との戦いで戦死を遂げた。
エラガバルス(204 - 222/ 在位218-222)
カラカラの母は賢母として評価されていたようですが、彼の親族であるエラガバルスが14歳にして帝位に就任。彼は女装を好み、政務もおろそかにして、娼婦になりすまして男の客を取ったりしていたといわれる。222年に、親衛隊が母親もろとも斬首し市中引き回しにしました(罪人に対する刑罰と同じ)。
アレクサンデル・セウェルス(208-235/在位222-235)
・13歳にて帝位に就く。穏やかな性質で、母親の言いなりであったが、母親は良識のある元老院議員を顧問に据えて、ローマの情勢も安定化してきた。
・属州のシリアにペルシアが侵入。
・ゲルマン人の神鋼が相次いだ。
・軍記の乱れ、統治が困難になっていた。アレクサンデルはすぐに和平を持ち出したりなど、軍部の考えとそぐわず、軍部の支持を得られずに、26歳にて暗殺された。
・この暗殺によってセウェルス朝は終わった。
(いわゆる「三世紀の危機」)
・50年間に70人もの皇帝が乱立した。
・この時期の皇帝はほとんどが軍人であった。元老院が認めた正式な皇帝は27名。そのうち半数くらいは暗殺それ以外は自殺、戦死、事故であった。平均在位期間は3年未満。各地の軍隊が勝手に軍の司令官を皇帝として擁立した「僭称皇帝」のほうが数多くいた。皇帝が乱立したが、信憑性の低い史料に頼らざるを得ないために不正確になるきらいがあるようだ。
・初代アウグストゥスから最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスまで正式な皇帝は77名。そのうち30パーセントんお24名がバルカン半島出身者であった。バルカン半島出身者の皇帝のほとんどが下層民の出身であったり成り上がりの子供だったりであり、軍隊によって推挙された。バルカン半島は、北にゲルマン民族がいるなどで、軍事的に重要であったというのも大きかったよう。軍の支持がなければ皇帝になれないし、軍に見放されればたやすく皇帝派殺された。
・軍人皇帝時代の最初のころである、マクシミヌス・トラクスに対抗して元老院は二人の共同統治皇帝をたててたが、結局、殺害、自殺によって次々に皇帝が消えていった。
・こうしてみると、ローマ帝国はもはや国家としての体を為していないといえるであろう。ローマ帝国がなぜ滅んだのか、というよりも、ローマ帝国はなぜ国家の体を為さなくなったのかと問うた方がよいのかもしれない。一時的に国家の体裁が整っても、すぐに騒乱状態に戻りがちであったので、その基盤はいつも脆弱だったとみるべきである。
・いったん、混乱状態になってしまって、回復しないようならば、その混乱の状態をこれ以上詳しく見ても仕方がないように思われる。
・もっともこのように軍人が皇帝になって、軍人は何をしていたかというと、ガリア帝国(フランス)、パルミラ王国(中東)、ゲルマン人(北方)などと戦っていた。つまりローマ帝国をなんとか守ろうとしていた。やはり古代ローマの遺伝子が機能していたのか。
ドミティウス・アウレリアヌス(214-275/在位270-275)
271年ゲルマン人が中央イタリアにまで進撃し、幸いローマへの侵入を阻止しましたが、危機感を強く感じた皇帝は、すぐさまローマの城壁である「アウレリアヌスの城壁」を建造に着手しました。高さ6m、全長20kmであったが、完成は次世代である。それまで紀元前6世紀に造られた「セルウィウスの城壁」だけしかなかった。
皇帝はゲルマン人と戦いを展開。パルミア王国とガリア帝国を打ち破り、失地を回復した。パルミラ王国は滅亡し、絶世の美女と讃えられた女王ゼノビアは、ローマでの凱旋式でさらし者にされたあと、皇帝によって与えられた別荘で余生を送ったとい。また、274年ガリア帝国を撃破して皇帝テトリクスをローマに連行し、やはり凱旋式で引き回しにした。これらの勝利および帝国の再統一の功績によって、274年アウレリアヌスには「ローマの復興者」という称号が与えられた。しかし翌年275年に遠征に向かう途中で側近によって殺害された。
ディオクレティアヌス(244-311頃/在位284-305)
最後の軍人皇帝であり、軍人皇帝時代に終止符を打ち、ローマを安定に導いた(しかしそれ以前にウァレリアヌスから改革に着手されていてその功績があるという説もある)。ディオクレティアヌスは、それまで行われた改革の総まとめをしつつ、数々の改革を断行した。「4分割統治(テトラルキア)」を行い、さらに管区に細分化し、官僚制度を再整備。正帝と副帝をおき、正帝が引退したらただちに副帝が継承することを制度化した。また文官と軍事を専門とする武官を分けてて軍事力も強化した。この分割統治の頂点がディオクレティアヌスであった。「カピタティオ・ユガティオ制」と呼ばれる税制改革を行い、帝国全土で人口調査および土地測量が行われ、収穫に応じた合理的な徴税を導入した。またとてつもないインフレに対策として、千数百品目にわたる「最高価格令」によってインフレを抑制した(もっとも、これはうまくいかなかった)。
またユピテルを中心としたローマ古来の神々への信仰を復古させ、信仰心によってローマ人であるという同一性と愛国心を回復させ、ユピテルの子としての皇帝の権威を呼び戻そうとした。こうして宗教の力を借りて皇帝権威を基礎づけて、ドミナトゥス(専制君主制)を形成しようとした。それに伴って彼はキリスト教徒を認めつつも、ローマの神々も礼拝するように義務づけた。キリスト教徒はそれを拒否。当時はキリスト教徒は人口の1割以下だったようである。しかしローマ軍にはもっと割合が多く、それがもとで逃亡する兵も目立った。304年、ローマ神を礼拝しない者全員を処刑するという勅命を発した。それでも従わないために、キリスト禁教令が発布された。
彼は最後は自ら引退して別荘で静かに余生を送ったといわれる。彼はストア哲学にも傾倒していたらしい。復帰を請われて「わたしが菜園のキャベツの世話にどれほど心を砕いているかを知れば、そんな頼み事は出来ないはずだよ」とこたえたとのこと。
ヴェネツィアのサンマルコ広場
テトラルキアを表す彫像
内乱
ディオクレティアヌス退位後つまり305から313年まで何人もの皇帝が覇権を争う内乱状態となった。そのなかから、コンスタンティヌスが勝ち上がり、324年ローマを再統一した。
コンスタンティヌス1世の頭像(カピトリーノ美術館所蔵)
コンスタンティヌス(272or273 - 337/在位306-337)
コンスタンティノープルに遷都した。
・行政官の制度を皇帝直属とした。軍政と切り離して民政を強化。
・「野戦機動部隊」と呼ばれる騎馬隊や戦車部隊の強化。
・小作農の移動の禁止。
・職業の世襲化。
・超インフレにたいしては、通貨改革の徹底。「ソリドゥス」という金貨をつくり、金の含有量を厳守させ高純度(95%程度)の良貨であることを保証した。そして帝国内のとくに地中海地域で流通させた。これによってローマ帝国のインフレは次第に緩和してきた。
・313年、ミラノ勅令をローマ帝国全土に発布。「キリスト者に対しても万人に対しても、各人が欲した宗教に従う自由な権能をあたえる」という文面であり、信教の自由を認めてキリスト教を公認した。そして自らも337年に死に臨み洗礼を受け、キリスト教の葬儀が執り行われた。遺骸は自身が建立した聖一二使徒教会に埋葬された。
・ローマは依然として首都ではあったものの、荒廃する傾向にあり、次第に首都としては機能しなくなった。
・330年、コンスタンティノポリスのちのコンスタンティノープルを建設し、東ローマの首都に定めた。
コンスタンティヌス1世を描いたソリドゥス金貨
また、兵士(ソルジャー、soldier)という語は、「ソリドゥスのために戦う者」という意に由来する。 また英語のソリッドsolidの語源となったラテン語であり、「びっしり詰まって固まった状態」を意味する。金がびっしり詰まっているという意味である。その後も700年間この品質が守られて、最も信用される「世界通貨」として流通した。ドル記号$は、このソリドゥスのように世界通貨になるようにという願いをこめてこの記号になった。
キリスト教
1パーセント未満くらいだったキリスト教徒は、3世紀半ばの軍人皇帝時代に爆発的に増えた。
ユリアヌス
コンスタンティヌスが死去すると、覇権争いが勃発し、3人の息子以外の親族はほとんど殺され、3人が分割統治を始めたものの、長く続かず、三兄弟の権力闘争が始まり、最後に勝ち抜いたのが三男のコンスタンティウス2世であった。彼は副帝として従弟のユリアヌスを就任させたが、軍事的にも政治的にも有能で人気が高まり、皇帝が討伐の途上で死去すると、以外にも遺言によってユリアヌスが帝位を継承した。ユリアヌスは信教の自由を認めていたが、ミラノ勅令から50年、キリスト教徒が腐敗し寄進を促すだけでなく、不正に証文を偽造することが頻発して、私腹を肥やし、業を煮やしたユリアヌス皇帝はキリスト教徒を厳しく批判するようになった。皇帝自身は、哲学、ミトラス信仰に傾倒していた。皇帝は批判だけであり、弾圧することはなかった。ユリアヌスはわずか2年の統治で急死して、その後の皇帝たちはおおむねキリスト教を保護してさらに発展した。
テオドシウス
ユリアヌス死後、再び帝国は30年におよぶ混乱状態に入った。最終的には379年テオドシウスが帝位に就きローマを再統一した。しかし、この間地球規模の寒冷化によって中央アジアのステップにフン族が西に移動し、それに押されるようにしてゲルマン人(東ゴート人、西ゴート人)が一気に南下し、もめ事、暴動、反乱が頻発するようになった。これが「ゲルマン人の大移動」である。
かつてローマは異民族に寛容の精神をもって処するところが特徴的であったが、
・テオドシウスは敬虔なキリスト教徒であり、379年の即位とともにカトリックの洗礼を受け、翌年380年にカトリックを国教とする勅法を発布した。また異端を禁じる勅法も出した。392年には異教を全面的に禁じる勅法を出した。当時のミラノ司教がアンブロジウス (340? - 397)でありカトリックのトップであった。彼は、テオドシウスが行った残虐行為にたいして破門し、それにテオドシウスが服するほどに強かった。
アウレリウス・アウグスティヌス (354-430)
彼はミラノ司教のアンブロジウス から大きな影響を受けて、387年に息子とともに洗礼を受けた。
東西ローマ帝国への分割
これまで東ローマと西ローマに分けられて分割統治されたことはあったが、一つのローマであることに変わりはなかった。しかし、テオドシウスが二人の息子に継承させるにあたって、帝国をはっきりと二分割した。西ローマ帝国は、あらゆる点において弱く、異民族の侵入を防ぐ力が乏しくその後100年で滅亡。それに対して東ローマ帝国は1000年続いた。つまり15世紀にオスマン帝国によって滅ぼされた。もっともその頃にはローマ人の帝国ではなくなったのだから、後世からはビザンツ帝国とも呼ばれた。
ローマ略奪
西ローマ帝国内には、小規模ながら様々な民族国家が誕生した。アラリックはローマ軍のゴート人部隊長であったがローマ軍に反旗を翻し西ゴート王を僭称し勢力を拡大させ、410年首都ローマを占領し略奪と破壊の限りを尽くした。この時点をもって西ローマ帝国滅亡という見解もある。
これはキリスト教化したからこのようなことが発生したのだ、という非キリスト教徒たちによるキリスト教批判が噴出することにもなった。この頃アウグスティヌスが『三位一体論』や『神の国』といった著作を書いた。
ローマ帝国滅亡
476年にゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ帝国の実権を握り、皇帝ロムルスを退位させた。そして帝位は東ローマ帝国に返却した。皮肉なことに、ローマ建国の王がロムルスであり、西ローマ帝国滅亡もロムスル皇帝であった。