表参道ソフィアクリニック
ジャコメッティの諸作品の全体像が見渡せる展覧会です。しかしあまり彫像の作品数は豊富というわけではないにしてもポイントを押さえるのにちょうどいいくらいの分量かもしれません。デッサンが多いですが、それらを大作と等しいくらいの公平な目で見るのも悪くはありません。
(2017年ジャコメッティ展、国立新美術館)
父親は画家。
スイス出身。
1922年(20歳ごろ)にパリにでる。ブールデル(彫刻家)のアトリエに通いました。
1926年パリのイポリット=マンドロン通りの1階アトリエ(23㎡)に映りました。そこで40年住み続けました。
作家のジャン・ジュネがそこを訪れた時の印象を書き残しています。全てが廃品のようであり浮き立つような崩壊寸前のようなところがあったといいます。しかしジャコメッティはその近辺が素晴らしいこと、そしてこのアトリエを大変気に入っていたようです。
妻と向き合っているポートレート。とても美しいポートレートです。二人ともとてもいい表情をしています。信頼関係で結ばれているように見えます。素敵な女性ですね。
動画の資料も色々ありますので以下でご覧いただければと思います。
(12) Alberto Giacometti - Ein Portrait 1/6 - YouTube
彼を映し出す動画を見ると、彼がとても真剣に創作に取り組んでいることがわかります。
また彼の写真も結構たくさんあります。友人の矢内原の撮影による写真集(出版されている)もありますが、なかなかのものです。
ジャコメッティは生涯をかけて創作活動を続けましたが、どのようなポジションで立ち位置で創作していたのでしょうか。何を探求していたのでしょうか。
監督
2018年1月公開 イギリス
原題 Final Portrait
1964年つまり彼の死の2年前くらいのエピソードを描いています。パリで、アメリカ人青年のジェームズ・ロードはジャコメッティに肖像画のモデルになることを頼まれました。ジャコメッティは彼の肖像画を描き始めましたが、この作品に対する不満足ぶりが強調されます。彼は今までの作品はすべて未完成だと言います。自分は神経症だと言います。
また、ジャコメッティにはジェームズが暴力的に見えるようで、凶悪犯とも表現します。彼は見たままに描こうとします。しかし完成しそうになったら、元に戻る、つまり描かれた絵を消してしまいます。上手く行くときには自らを否定します。彼は失敗神経症でしょうか。これを何度も繰り返して、ジェームズが帰国しなければならないギリギリになって最終的には一枚の絵が完成しました。反復強迫的に無限に続くものに、ピリオドを一つ打ちました。
カップル (Man and Woman)
プリミティブである。
女の象徴である、乳房と外陰部。男の象徴であるファルスの突起。そして男の目は大きく、見つめている。男の目に対して、女の目は口をすぼめたような目である、口かもしれない。女には足も生えている。
アフリカかオセアニアのプリミティズム由来の造形でしょう。彼はそういったことに興味を持っていました。原始部族の発想とはどのようなものなのか、原始部族の抽象化のあり方がどのようなものであるのかも考えているのでしょう。考えているというよりも、そうなりきっているところもあるのかもしれません。(2017年ジャコメッティ展、国立新美術館)
女=スプーン Spoon Woman
アフリカの原始部族のスピーンから着想を得たものです。これは女性の体をスプーンに見立てています。腰部から大腿部がスプーンの拡がった部分です。ここは存在と存在の窪みの組み合わせをバランスよく形成しています。この丸みを帯びた形状に対して、ウェスト、胸部、頭部はなぜかしら直線からなる機械的なまでの立方体を基にして作られています。腰部から大腿部にかけてたおやかな豊かな女性らしさを表しています。生命の源でもある女性を強調しています。当時の女性のセクシーな体形のイメージとも対応してもいるようです。つまり、プリミティブでもあるとともに、ファッショナブルでもあり、マン・レイの写真の中に出てくるようなセクシーなファッションとも対応していると思われます。また時代は異なりますが、ミッドセンチュリーの理想的な女性の体型にも似ているようにも思われます。
トーテムポールの一部分のようでもあるかもしれません。
(2017年ジャコメッティ展、国立新美術館)
見つめる頭部 Gazing head
シンプルモダンです。たおやかでゆるやかです。先端的なデザインでもあります。
無限も表しているように思われます。
(2017年ジャコメッティ展、国立新美術館)
くつろぐ女 Reclining Woman
女を図形の組み合わせに抽象化されています。
下半身は薄っぺらなスプーン状になっています。この凹みは存在に凹み。それは包容性と空虚の両方があるかもしれません。そしてこの凹みの中に三つの小膨隆がありますがこれは何でしょうか。もしかして女性の生殖器との関連でしょうか。
そして方は棒状の突起担っていて、それには物質の存在感が見られます。この突起はブロンズの表面の質感が良好に浮き出ています。
顔は平たく立っています。
全体にヘンリー・ムーアの彫像と似ているようにも思います。ヘンリー・ムーアは大戦後のイギリスで活躍しましたからだいぶん後の人です。ジャコメッティの先駆的なところの一端が見られる作品の一つです。
(2017年ジャコメッティ展、国立新美術館)
1930年代からブルトンらシュールレアリストのグループと交流がありました。1924年がシュールレアリズム宣言ですから、少し遅めです。しかし1934年にはシュルレアリズムから離れたとされます。遅めに交流して早めに離れたということになるでしょう。つまりその頃からモデルを前に制作に打ち込むようにようになりました。(2017年ジャコメッティ展、国立新美術館)
ジャコメッティは、人体をいかに見える通りに表現するかという戦いに挑み続けたと言います。しかし、「見える通りに表現する」とは一体どのような意味であるのか、それが今ひとつわかりません。もしかして発達障害的な側面もあって、その上で対象における真実を見ているのでしょうか。見える通りに表現するとは真実を表現するという意味にも解釈することもできます。
彼が肖像画を描くとき、盛んにモデルと絵画を交互にみる。彼は非常によく対象を見ています。しかし描かれている肖像画は対象とは全然異なっています。人間を立体的に捉える際に、通常の実測的な立体表現を放棄してしまっています。彼は「見える通りに描く」ことが唯一のことだというのだが、対象と肖像画のギャップはあまりに大きく、彼は一体何を見ているのか、わからない。真実通りに描くというのに、見た目とは全然違います。一体どういう観点で描いているのでしょうか。どの真実を見ているのでしょうか。真剣そのもので、モデルを見ているのにこんな絵を描いているとはびっくりです。ジャコメッティの心象風景を描いているようでもあります。
またジャコメッティはこうも言っています。「私はモデルの間にある距離を絶えず増大する傾向を持っている。「もの」に近づけば近づくほど「もの」が遠ざかる」。この言葉を参考にすると、彼が近づいているのはある種の「もの」ということになるでしょうか。人間のどんな真実を見ているのでしょうか。
彼の絵画には、胴体と首の位置が大きくずれているものさえあります。
あるいは生者を死者から分け隔てるもの、死者を起点にしてどの点で生きてることになっているのか、生きながら死んでいる人間が、どの点で生きているのかをジャコメッティは見ているのでしょうか。(2017年ジャコメッティ展、国立新美術館)
大戦後のアイルランドで活躍したフランシス・ベーコンと雰囲気がずいぶん似ているように思われ、ベーコンがジャコメッティを参考にしたのか、あるいは違う道筋をへて同じようなところに至ったのか、どちらであるのかはわかりません。(2017年ジャコメッティ展、国立新美術館)
キューブ
プリミティブにして宇宙的、そしてまたジャコメッティが生まれ育ったスイスの故郷に転がっていた岩でしょうか。キビキビして、そしてまた先進的な形態をなしています。
鋭角の先端の一点に集中しています。ボリューム感があります。内部の存在感が充実しています。
(2017年ジャコメッティ展、国立新美術館)
鼻
プリミティズムの影響。
頭部は頭蓋骨です。
あまりに長い鼻。前方から鼻を見ると速度を感じさせます。
胴体は一部だけ残存しています。
死んでいるのに一定の生命が付与されています。何かのプラス(+)が突出しているものと思われます。
悦楽、喜び。鼻が伸びることによる喜び。あるいは鼻が伸びることが喜びそのもの。そこに生命があります。
これはジャコメッティ自身の顔でもあるのでしょうか。顔が似ていなくもありません。特に口元が似ています。ジャコメッティ自身をも表していると考えてもよいのでしょう。
悪魔的です。通常の人間的な社交性をふくめたペルソナが全て剥ぎ取られて生身の内部が露出しています。その結果頭蓋骨のようになっています。そしてそこから長い鼻という剰余物が露わになるになっているというところがポイントです。この剰余物が人間の本質の一つでもあります。多様な意味での「剰余物」、ここに悦楽が関わっています。そこには遊びという側面も一つあります。
(2017年ジャコメッティ展、国立新美術館)
Group of Three Men 1
1940年代後半からパリの街を歩く人々をさかんにスケッチしてそれらをもとに群像形式の彫刻を製作しました。
パリの道ゆく人々の中で、男たちがすれ違う瞬間を捉えて描いています。彼らの相互の関係性と無関係性。これは現代の都市に住む人の特徴を捉えたものです。原始部族の特徴ではありません。サルトルの思想(pratico-inertなど)にも近いかもしれません。そしてまたこの都市に住む人々の特徴からプリミティブなものを再発見しているようです。
(2017年ジャコメッティ展、国立新美術館)
The Forest, Square, Seven Figures and a Head
溶解しているような表面。形状を失うことと、形状が保たれていることがあるバランスを保って直立している群像です。後ろには一つの頭部が群像とコントラストをなしています。一つのシュールな世界。
これは『三人の男のグループ』とは異なった観点で作られています。普遍性とプリミティズムを主要なモチベーションにしているようです。携帯の誘拐、人々の集団形成のありよう。個々の普通の日常的な関係はすべて除去されれています。
(2017年ジャコメッティ展、国立新美術館)
犬
ジャコメッティは動物の彫像はあまり作っていませんが、これはその中の数少ない作品の一つで、彼の出来栄えのよい作品の一つに数えられています。
(2017年ジャコメッティ展、国立新美術館)
《ディエゴの胸像》
1954年
ブロンズ 39.5 × 33 × 19 cm
豊田市美術館
(2017年ジャコメッティ展、国立新美術館)
ヴェネツィアの女
この作品はヴェネツィア・ビエンナーレに展示するために制作されました。
ここには全部で9体並べられています。並べ方は三角形です。
小さな頭部。迫力と存在感。壮観です。
美の群像です。一種の幸福があります。
ジャコメッティの言葉「世界は日毎ますます私を驚かせる。世界は一層広大で素晴らしく、一層把握し難く、一層美しくなった」と。その美がこれでしょうか。ジャコメッティの美の世界とは、至高の美のニュアンスが漂い、言葉では言い表せないような高度で普遍的な美であるようです。
皆一体どこに向かっているのでしょうか、どこに眼差しを向けているのでしょうか、何を見つめているのでしょうか。それは明らかではありませんが、厳格な緊張感を持っています。眼差しは水平よりも少し上に向かっています。
この作品群はジャコメッティによれば一つの骨組みと粘土で制作されたとのことです。そして満足のいく一定の形ができるたびに粘土の形態を弟ディエゴに石膏で型取りさせました。こうして全部で15体石膏像が出来上がり、9体がブロンズにされました。ここで展示されているのはこの9体のブロンズです。
ということは9体はもともと内部が同じだということです。効率よく制作するためにそうしたのでしょうか、それとも別の意図があってでしょうか。分身ということでもあるのでしょうか。あるいは質料(ヒューレー)が芯から同じであることでしょうか。
それにしてもブロンズ像のそれぞれの高さが同じものもありますが異なってもいます。わざと高さを変更するべく骨組みをカットしたのでしょうか。
(2017年ジャコメッティ展、国立新美術館)
ジャコメッティはチェース・マンハッタン銀行前の広場に設置するための彫像群像を製作することで契約しましたが、結局その全体像は完成しませんでした。そのうち3体の彫像は出来上がったため1960年の展覧会に出品されました。そのとき高い評価を受けたといいます。
Walking Man 1
作者のジャコメッティ自身の歩きも思い起こさせます。
Large Standing Woman 2
大変大きな彫像です。
生きているものと死んでいるもののあいだのようです。ミイラ的でもあります。でも胸と腰部はたおやかで豊かです。
(2017年ジャコメッティ展、国立新美術館)