表参道ソフィアクリニック
カラヴァッジョはミラノにて1571年に出生。
ミラノで絵の修行をしたが、ロンバルディア地方やヴェネツィアで作品の研究をしたらしい。
彼は1591年に1年間投獄。暴力事件だったようだが詳細不明とのこと。
1596年にはローマにいたことが確認されているらしい。当初は貧乏であり、生活のために、複製画なども描いていたという。
その後、数々の粗暴な行為のとはおよそ釣り合わないような、静かでドラマティックな宗教画も含めた数々の作品を描いた。
1606年に、2つのグループが喧嘩をして、カラヴァッジョが相手方の一人を死に至らしめた。これによってカラヴァッジョに対しては死刑が宣告され、彼は逃亡しナポリのコロンナ公爵家の領地にてかくまわれた。そこでは「エマオの晩餐」や「法悦のマグダラのマリア」が描かれた。
ナポリに滞在したのは8ヶ月のみであり、1607年にはマルタに移りました。そこでは代表作に数えられる「洗礼者聖ヨハネの斬首」が描かれ、またマルタ騎士団で従順の騎士に任命された。しかしその数ヶ月後の1608年に暴力事件が発生してある伯爵に深手を負わせるに至った。これにより投獄されたが、間もなく誰かの手助けで脱走し、シチリアに1年間滞在。その後、マルタ騎士団が放った刺客に脅かされながら、幾つかの主要都市を転々と逃走しましたが、行く先々でカラヴァッジョのもとに注文が押し寄せる凱旋となるという有様だった。1609年には刺客らしき者たちに、ひどく傷つけられた。その頃はカラヴァッジョにとって大変恐ろしく精神的に不安定だったという。
教皇の恩赦を求めローマに向かうが、その途中で1610年に病死。
カラヴァッジョ展、国立西洋美術館2016年にて
'Caravage à Rome'
au Musée Jacquemart-André
en janvier 2019
果物籠を持つ少年
ローマ、ボルゲーゼ美術館 Michelangelo Merisi da Caravaggio Boy with a Basket of Fruit 1593-94 Rome, Galleria Borghese
豊穣を表しているのでしょうか。ヤン・ブリューゲル( 2世)などの北方絵画の影響もあるのでしょうか。ブリューゲルの過剰なまでの豊穣。
ブドウはバッカスを表しているのでしょうか。この葉っぱはブドウだと思われます。
この男性の表情は自己愛的にも見えます。右肩がはだけています。同性愛的な側面があるのでしょうか。
この若者は少しくすんでいます。やはり顔の描写がくすんでいます。それは明暗のコントラストが低いからです。そして、色彩も乏しいです。静物の方は、色彩が鮮明でメリハリがついていて、細かく描かれています。描写の中心は人物ではなくて静物ではないかと考えられます。これについては、解説によればゼクシウスという古代ギリシアの大画家の逸話も絡ませていることも考えられるとのことです。ゼクシウスが描いたブドウを持つ少年の絵を見た鳥がブドウついばもうとしたので、人々はゼクシウスの描写能力の高さを称賛しました。しかし、ゼクシウスは、ブドウとともに描かれた人物像を見て鳥が逃げなかったので、人物が上手く描かれていない、と大変に残念に思い落胆しました。カラヴァッジョはこの逸話にちなんで果物を鮮明に描き人物をくすんで描いたとも考えれます。
ただ、この少年は首を少しかしげ甘い表情をして流し目でこちらを見ているようですがこれは何でしょうか。また肩がはだけていて露出しています。
カタログによれば、自分を差し出し犠牲にするという愛の象徴キリストとしてこの少年をみなし、そして自分の犠牲によっては救済の見込みがない人類に対しては無益であることを悟っているとする解釈があるとのこと。カタログの筆者は解釈を支持しています。こういった路線の解釈も有望なものかもしれません。
カラヴァッジョ展、国立西洋美術館2016年にて
2018年1月ナショナル・ギャラリーにて撮影。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ トカゲに噛まれる少年
フィレンツェ、ロベルト・ロンギ美術史財団 Michelangelo Merisi da Caravaggio Boy Bitten by a Lizard c. 1596-97 Florence, Fondazione di Studi di Storia dell’Arte Roberto Longhi
カラヴァッジョ本人がモデルと言われています。
カラヴァッジョは20歳前後でローマにやってきて、貧困で不遇な時期でした。この作品は、このような状況で描かれた彼の最初期の作品の一つです。カタログによれば、売るために描かれた作品であったとのことです。
決闘でもしかねないような人間が、たかが小さなトカゲごときに噛みつかれただけで、驚きと恐怖のオーバーリアクション。愚かでもあり、喜劇でもあります。
しかしトカゲには何か象徴的な意味があるのかもしれません。
例えば、トカゲは蛇と同類であって罪の象徴という観点から考えることもできるかもしれません。それ以外の意味があるかもしれません。
画面は荒々しいところと緻密で繊細なところが混在しています。荒々しいのはこの人物の動きや筆致です。それに対してガラスのカラフに入った水の描写は質感もありとても緻密で、水滴も描写され、映った窓には人物らしき影も見えます。葉っぱも質感があります。当時はカラヴァッジョは静物画を得意としていました。人物は動的であり、静物画の方は静的です。
また構図においても安定のピラミッド構図とアトランダムな身体の動きが混在しています。このピラミッド構図とクネクネした手の動きの組み合わせているところが面白いです。
光と影のコントラストの強さも特徴的でしょう。
所蔵の一品としてユニークで所有欲を持たせるのではないでしょうか。
カラヴァッジョ展、国立西洋美術館2016年にて
びっくりしていることを表す指の形を誇張して、混乱と驚きを喜劇化していると共に、絵画に造形性を与えています。しかしこの驚きは、ほとんど苦痛となり、それは生きていく中で生じる苦痛、あるいは生きることの苦痛にまで高まっているようにも見えます。
このれは愛に伴う苦痛のアレゴリーと解釈されることもあります。
これはカラヴァッジョ自身を描いています。またカラヴァッジョの今後の人生を表しているところもあるのではないかと思われます。2018年1月ナショナル・ギャラリーにて
バッカス
フィレンツェ、ウフィツィ美術館 Michelangelo Merisi da Caravaggio Bacchus c. 1597-98 Florence, Galleria degli Uffizi
ブドウの葉をで頭部を飾るバッカス像ですが、これは画家自身が扮したものを描いたともされます。そうであれば大分年齢を若くして表現されています。左手で差し出したのは、カラヴァッジョが右利きだから鏡像ではないかという説もあるようです。
ここで描かれている人物も自己愛的で、中性的です。眉毛を描いて、口紅をさして、頬を朱に染めている、つまりお化粧をしているのでしょうか。肉体の肌は滑らかです。顔は鮮明に描かれていますが、化粧しているせいもあるのか、ちょっと作り物っぽいくらいです。またワインで少し酔って顔が赤くもなっているかもしれません。この男はこちら側に、ワインを差し出し、誘っているようです。目をとろりとしてこちらを見つめ、ワイングラスを差し出すのは享楽への誘いのように見えます。パンがないので、このワインはキリストの血の象徴ではなくて、この絵画にはキリスト教の要素は特にはないようにも思われます。古代ギリシアという異教の世界かと思われます。ただ割れたザクロはあります。ワインと割れたザクロは関連があるでしょうか。また、古代ギリシアそのものというよりは、古代ギリシア文化を真似た古代ローマのように見えます。ギリシアのような爽やかさがなくてローマの頽廃の雰囲気が滲んでいます。ですから、ここでは、古代ギリシア、古代ローマ、そしてカラヴァッジョの時代の三つの時代が重なっているようです。
右手に持っている黒いリボンのようなものは何でしょうか。
カタログによれば、やはり同性愛的な意味を指摘する研究者もいるようです。もっとも様々な解釈があるとされています。
・自然の摂理にしたがった、質素な生活の行き方を勧めるホラティウス的道徳観が現れている。
・何らかのキリスト教的意味合いがあるのではないか。
・友情の証としてデル・モンテ枢機卿が大公フェルディナンドへ贈ったものではないか。
・・・・カタログで紹介されているこれらの解釈についてはよくわかりません。
ガラスの瓶に人物が写り込んでいて、これは画家自身の姿だとされていますが、十分には確認できませんでした。思うに、これは画家自身の姿かもしれませんが、この男性が視線を投げかけている人物、つまりこの作品の注文者あるいは購入者である可能性もないでしょうか。
いろいろな事物の描写がなされ、全体としても充実している印象もあります。
カラヴァッジョ展、国立西洋美術館2016年にて
Le Joueur de luth
他の似た作品のシリーズになっているのでしょうか。音楽と詩情。しかしどんな内容の音楽であり情感なのでしょうか。悲しみの涙が滲んでいます。女性的な若い男。艶めかしいほどまでのエロティシズム。きめ細かい肌、しなやかな指、厚く性的なニュアンスを帯びた唇。どうみてもこの男性も両性的で、同性愛的です。あるいは恋する女性に同一化しているのでしょうか。
楽譜も克明に描かれていて楽曲が再現できそうです。
花の描写も美しいです。
'Caravage à Rome' auMusée Jacquemart-André en janvier 2019にて
1 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 女占い師 1597年 ローマ、カピトリーノ絵画館 Michelangelo Merisi da Caravaggio The Fortune Teller 1597 Rome, Musei Capitolini - Pinacoteca Capitolina
世間知らずの若者は、身分が高く金持ちです。それに対して女は身分が低く世間擦れもしているようです。この女占い師は若者の手相を見ながら、指輪を抜き取ろうとしています。女が指で若者の手のひらを撫でるようにしています。
若者は、この女の手の感触を心地よく感じているでしょうが、ただこの女に魅せられているほどでもないとも思われます。というのもこの女性はそんなに美しくもなく魅力的にも見えません。むしろ描写の中心は若者の方にあると思われます。
カラヴァッジョ展、国立西洋美術館2016年にて
ルーブルには下の一回り小さな作品があります。
vers 1595 - 1598
La Diseuse de bonne aventure.
明らかに男性側を描いています。美しい若者です。この描写が重要です。豪華で美しい衣装。おしゃれをしています。カラヴァッジョふうのエロスが滲んでいます。
全体に明るい雰囲気です。
Louvre 2020.
メドゥーサ 1597-98年頃 個人蔵 Michelangelo Merisi da Caravaggio Medusa Murtola c. 1597-98 Private Collection
ウフィツィにあるヴァージョンよりは小さめです。滑らかな色つけです。この作品も結構生々しいです。
罪を得た人間の斬首でしょうか。
女ではなく男に見えます。
おそらくはウフィツィにある作品の方が良い出来でしょう。
カラヴァッジョ展、国立西洋美術館2016年にて
メドゥーサ
カラヴァッジョ展でみたメドゥーサよりも生々しいです。
首を切られた激しショックで驚愕とパニックになっています。
これはカラヴァッジョ自身の恐怖心の表れでしょうか。
頭部の多数の蛇は、罪の象徴でもある蛇だろうかとおもわれます。
自分も斬首されるかもしれない立場の画家です。
カラヴァッジョは自分の夢のなかで斬首されるシーンがあったのでしょうか。そうならば大変衝撃的な夢です。
首を切断された瞬間にまだ意識があり、それは死を目前にした驚愕の瞬間です。
2016年国立西洋美術館で展示されていたものも似たようなものが出展されていましたが、こちらの方が一回りおおきくて、またインパクトがあります。
フィレンツェにて。 たぶんウフィツィ.
1597年 音楽家たち
これを実物で見ると、あまり冴えない印象を受けます。描写が硬くて軽いような感じがするし、修復も少し過度なくらいにだいぶんしているようだし、妙にカチッとしすぎています。これは今ひとつの作品にありがちだとおもいます。ただメトロポリタン美術館公式ホームページのこの写真を見るとなかなかのものです。全体の構図がよくて充実感があるのと、写真撮影において、少し暗めにトーンを落としてあるので全体に落ち着いて重みが増しているものと思われます。また、明暗の階調、陰翳の表現もよいです。展覧会場は明るい光の下に置かれていたので、今ひとつに見えたようです。実物はもっと暗い室内に置かれることを想定されていたのでしょうか、どうかはわかりませんが。写真を見るほどに、いい作品です。
これは一見して同性愛的傾向のある少年たちが集っているようです。官能的な雰囲気です。自己愛的なニュアンスが滲んでいます。これらの点においてもカラヴァッジョの絵として理解するうえで参考になります。
当時26歳のカラヴァッジョが、最初のパトロンとなったデル・モンテ枢機卿のために描いたものです。芸術を庇護していたデル・モンテ枢機卿は、若者たちが音楽や演劇の集いを開いていたらしく、それに因んで描いたようです。カラヴァッジョもこの枢機卿の食客になっていたし、当然種々の集いに参加もしていたことでしょう。ただ聖職者のためにこのような同性愛的な官能の漂う作品を描くというのもなにか意味深なところがあります。この絵はデル・モンテ枢機卿のそういった好みに即したものであったのでしょうか。これはカラヴァッジョの他の作品にも通じるものがあるので、カラヴァッジョの好みでもあったのでしょう。
左の背景にいる少年はキューピットであり、愛の象徴です。右の背景にいる人はカラヴァッジョ本人ではないかといわれています。彼は角笛を手にしています。聖と俗、光と影、美と醜という対比もあると思われます。
中央の少年の目つきが少し異様で、半開きの口からは舌が覗かせて、エロチックなニュアンスです。とても女性的に描かれています。
結構細かく描かれている作品です。
→メトロポリタン美術館のサイト https://www.metmuseum.org/art/collection/search/435844
メトロポリタン美術館展 国立新美術館 2022年2月~
ナルキッソス 1599年頃 ローマ、バルベリーニ宮国立古典美術館 Michelangelo Merisi da Caravaggio Narcissus c.
Rome, Gallerie Nazionali d’Arte Antica di Roma Palazzo Barberini e Galleria Corsini
このナルキッソスという若者は水面に映った自分の顔を見つめています。この若者の顔は端正ですがすごい美男に描かれているわけではありません。むしろありふれていると言えるかもしれません。左手は水につけていて、対象(つまり自分の像)と融合しているようです。これは「同一化」とみなすことができるのでしょう。また膝にも注目すると、これは肥大化したファルスと見ることもできるかもしれません。自己愛の肥大化を表しているのでしょうか。この膝に比較的強い光が当てられています。
水面の自分の姿に見入っているだけでなく、口唇は半ば開き、口づけをしようとしてるようでもあります。没我の状態になっています。
構図としては、実像と鏡像は上下が反転した形で組み合わさって、円環になっています。循環する一つの内的に完結した円環と考えられます。しかし、水面の像はほとんど消えかかっています。そこに虚しさも現れているように思われます。
画面全体は静けさもカラヴァッジョの重要な特徴だとみなせるでしょう。ナルキッソスの着ている衣類の文様の描写も優れています。
オウディウスからの引用(カタログより)「ああ、いくたび、偽りの泉にむなしい口づけを送ったことだろう!水にうつった頸に抱きつこうとして、そんなことができるわけもないのに、いくたび、水の中へ腕を沈めたことか!・・・(水にうつった)あの若者も、この胸に抱かれたいと望んでいる。こちらが水に唇を差し伸べるたびに、彼も仰向けになって、口をさしのべてくるのだ」カタログで言及されているように、この文章をヒントに描いた可能性があります。
カラヴァッジョ展、国立西洋美術館2016年にて
『ホロフェルネスの首を斬るユーディット』
細かく描かれていますが、描写は硬めです。
死ぬ瞬間の生々しさを描写しています。首は半分切れかかっています。敵方の司令官であるこの大男は、絶命の瞬間の重大事態にのぞみ、目をむき、ジュディス(ユディト(Judith))と目が合っています。この激烈なシーンを、侍女は目をむいて眺めながら、首を入れる袋を手にしています。ジュディスの表情はミケランジェロのダヴィデを思わせます。ジュディスを魔性の女のように見なす場合がありますが、カラバッジョの場合にはむしろ英雄的とみているのでしょう。情事の後だと見立てているのでしょうか、乳首が立っていて、体の反応によって艶めかしさの余韻が残っています。
血液の吹き出し方は、わざとらしいくらいであり、カラヴァッジョ風のドラマ仕立てになっています。もの凄くよくといだ刃物らしいです。武器の刃物に決してなじみが薄かったわけではないカラヴァッジョならではの側面もにじんでいます。
'Caravage à Rome' auMusée Jacquemart-André en janvier 2019にて
2018年1月ナショナル・ギャラリーにて撮影。
聖書の中に書かれている物語が重要な作品です。
復活したキリストに気がついて弟子たちがびっくり仰天しています。
細かいところまで割としっかりと描かれています。
画面全体は茶色で彩度を落としてあります。
ナショナル・ギャラリー2018年1月
Le jeune Saint-Jean Baptiste au bélier, Peindre d'après nature
Saint-Jean Baptisteの絵としては当時は画期的であったでしょう。スフマートでけぶった髪の毛、なめらかなで的確なリアリティを持って描かれた肌、肩から腕に当たる太陽の光の緻密さ。羊の描写もことさらに緻密で巧みです。
植物も緻密で巧みに描かれていることにも注目です。
これもカラヴァッジョの傑作の一つに加えることができる作品です。
bélierとは雄の羊のことです。どう見ても、同性愛的なニュアンスが漂う作品です。
'Caravage à Rome' auMusée Jacquemart-André en janvier 2019にて
洗礼者聖ヨハネ
ローマ、コルシーニ宮国立古典美術館 Michelangelo Merisi da Caravaggio Saint John the Baptist 1602 Rome, Gallerie Nazionali d’Arte Antica di Roma Palazzo Barberini e Galleria Corsini
実物はこの写真ほどはコントラストが高くはありません。あまり精彩に富んでいるようにも見えませんでした。何気ない作品という印象です。
カラヴァッジョ展、国立西洋美術館2016年にて
イサクの犠牲
1603-1604
暴力的であると共に、心理的な表現が優れています。切られるのは頸動脈なのでしょうか。その表情はただひたすら死に対する恐怖心で満たされています。トカゲにかまれた男やジュディスに殺さる司令官、それからメドゥーサの首なども連想されます。こういった死への恐怖心はカラヴァッジョ自身が折に触れて自分が殺害されることを想像することがあったからか、と推察されます。対するイサクはただ義務として、実直に神の命令を行っているようです。内面の葛藤と悲しみは、あまり顔の表面に現れていませんが、そのまなざしの奥深くにあることが察せられます。
ウフィツィ2019.5
la mort de vierge
1601年に注文され1605/1606に完成されたようです(ルーブルの情報から)。
この作品は注文主の教会から引き取りを拒まれました。生々しい描写であるが故に、聖なる場所に設置するのに不適切だと判断されたようです。カラヴァッジョがどんなタイプの絵を描くかはあらかじめ知っていたのでしょうが、まさかここまでとは予想していなかったのでしょう。この作品は、聖母の死を描いていますが、主に聖母を祭る教会側としては、聖母の死とというテーマについて、聖母被昇天のような栄光と喜びに満ちたマリア像とまで理想化することをまさかカラヴァッジョに求めはしなかったでしょうが、少なくとも崇高で特別な存在として描いてほしかったでしょう。しかし、ここでは、哀れにも生々しい死体となって横たわる一人の人間マリアが描かれています。マリアは人間以外の何ものでもありません。しかもなぜかしらおなかが大きくて妊娠しているようにも見えます。マリアはイエスを生んだ後に妊娠したということは、人間の男と交わったということになりますしあり得ないはずなのですが。
この作品は充実した巧みな巨大画です。巨大画にありがちな大味な感じがしません。画面上で人々の流れがあります。余白と描き込みのバランスが良いです。上から吊り下げられた赤いヴェールが効果的です。人々の悲しむ様子も痛ましいです。カラヴァッジョの教会向けの作品としては代表作の一つでしょう。ドラマティックです。それにしても、もし教会がこの作品を受け入れていたならば、その後数百年あるいは千年、観光客が後を絶えな名高い教会になっていたことでしょう。
au musée du Louvre en janvier 2019.
エマオの晩餐 1606年 ミラノ、ブレラ絵画館 Michelangelo Merisi da Caravaggio The Supper at Emmaus 1606 Milan, Pinacoteca di Brera
イエスだとわかった時に姿を消しますから、この場面は姿を消す直前を描いたものです。イエスはパンを割いて、前に置いていますが、その様子を見て二人の弟子がイエスと気がつきました。イエスの背景は深い黒色で一種の闇のようなものが描かれています。イエスは下方に目を落として、何か苦悩や悲痛も混じったような深遠な表情をしています。イエスの頭部には後光がありません。イエスは何を語ろうとしているのでしょうか。何の目的でここに現れたのでしょうか。
周囲の人たちは、これは驚きだ、本当か?といった仕草をしています。また横に立つ男は、まるで居酒屋の亭主のようにもみえ、訝しげに上からイエスの様子を見つめています。あるいは、痛みを抱えるカラヴァッジョの面倒を見る人物のようでもあるかもしれません。少し情けをもった表情にも見えます。
この作品は、1606年にカラヴァッジョがいざこざから人を殺めてしまい、死刑を宣告され、ナポリの支援者にかくまわれていた頃に描かれたものです。カラヴァッジョ自身も傷つき、まだ傷が癒えていない時期だったようで、痛みを抱えているかのようなイエスの表情は彼の痛みの経験が反映されているようにも思われます。痛みだけではなく、彼の罪悪感、自分の置かれた境遇への苦痛など、カラヴァッジョの心境もここに現れているのでしょうか。
驚く弟子たちは、まだ賢そうではありません。
カラヴァッジョの作品に深みが現れるのは、とくにこの頃からでしょうか。
以上、カラヴァッジョ展、国立西洋美術館2016年にて
イエスは深刻で悲痛な、そして崇高な表情を浮かべています。それにひきかえ、弟子たちや店の主人たちは俗な人間たちです。弟子は驚きと疑いをもっています。
明暗が劇的です。
'Caravage à Rome' auMusée Jacquemart-André en janvier 2019にて
エッケ・ホモ
パッと見た目では、あまりこれといって精彩に富んでいるようには見えませんでした。
Ecce Homo(この人をみよ)とはピラトの言葉であり、民衆にイエスを見せて無実を訴えたとされています。
静かなイエスが印象的です。
注文主がカラヴァッジョの作品を気に入らず、チゴリという画家に依頼し直したとのこと。
チゴリという画家と競い合ってチゴリが勝ったという伝説がありますが、これは事実とは違うようです。当該の作品が下の作品です。色彩がゆたかですが、カラヴァッジョの方が深みがありそうです。
カラヴァッジョ展、国立西洋美術館2016年にて
Sain Jérome écrirant
みたかんじ、いまひとつでした。
'Caravage à Rome' auMusée Jacquemart-André en janvier 2019にて
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 法悦のマグダラのマリア
個人蔵 Michelangelo Merisi da Caravaggio Mary Magdalene in Ecstasy 1606 Private Collection
マグダラのマリアは改悛の象徴でもあります。
髪が長く(マグダラのマリアは古くから必ず長い髪と決められています)、肩が露わになり、胸がはだけ、なまめかしくエロチックな身体が露出しています。これは娼婦マグダラのマリアです。法悦の表情を浮かべているということになりますが、この法悦の表情とはうっとりしているのではなくて、死に瀕したような表情をしています。口唇は色を失い、顔色も蒼白にちかいです。生と死の境目にあるようです。マリアはもう半ば意識を失っているのか、朦朧とした状態です。彼女の目は何かを見ることができるのかが怪しいほどであり、ただ左上にボーッと現れている幻視を見ていると思われます。宗教的な極致においては、死と隣り合わせになるのでしょうか。この幻視らしきもは、荒涼とした背景、そしてイバラを掛けられた十字架です。
左肘の下には髑髏が描かれ、右手の下には生地の下に何かが膨らんでいます。髑髏は死の象徴であり、この膨らみはお腹のあたりにあることから新しい生命を宿していることを表しているようにも見えます。マリアは妊娠していたという説もあるのですが、これはそういうことなのでしょうか。
この作品もカラヴァッジョが潜伏中に描かれており、また枢機卿に恩赦を求める意図があったとも言われています。悔悛の気持ちをこの絵画に込めている、と。
カラヴァッジョ展、国立西洋美術館2016年にて
1606年(?)
Madeleine en extase dete <<Madeleine Klain>>
collection particulière
骸骨があるヴァージョンの方が良いと思われます。
'Caravage à Rome' auMusée Jacquemart-André en janvier 2019にて
Saint François en méditation
実物はもっとコントラストが低くて地味です。この写真は細密ですが、全体の印象が引き締まるようにするためか、コントラストを高くしているようです。修道服の毛羽だったような質感はここからもうかがえます。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Saint_Fran%C3%A7ois_en_m%C3%A9ditation
地味に描かれていますが、かなり緻密です。地味に徹しているのか、赤も青もありません。
カラヴァッジョの改悛の情も表しているのでしょうか。
'Caravage à Rome' auMusée Jacquemart-André en janvier 2019にて
ゴリアテの首を持つダヴィデ
<ウィーン美術史美術館にて>
スポットライトが左側から当たっています。コントラストが高く明暗が強調されています。しかし、これがこの作品の若干の安っぽさをわずかながら助長しているかもしれません。
ダヴィデは少し物憂げな眼差しで遠くを見ています。遠くの何を見ているのでしょうか。そして何を考えているのでしょうか。どのような感情なのでしょうか。これは絵の中では明瞭には示されてはいません。
ゴリアテの首は壮絶な表情です。
この二人の登場人物では、カラヴァッジョ自身が二重化されていると考えられます。一方はダヴィデと他方はゴリアテです。ダヴィデは未来を憂いを持って遠くを見つめているかのようです。
ゴリアテのひたいの傷は、ダヴィデが投げた石が命中したことによって生じたものでしょう。またダビデが肩に担いでいる剣でゴリアテの首を切断したのです。おそらくまだ血脂が乗っているでしょう。
眠るクピド
パラティーナ美術館にて 2016年
この作品は、1608年にマルタ島にて制作されました。カラヴァッジョの死の2年前の作品です。
クピドは、キューピット、アムール、エロス(エロース)とも呼ばれます。
このアムールは、ろうそくの炎に照らし出されています。光と影の明暗コントラストが高いです。
死んだように眠るアムール。決して美しくありません。生々しい身体であり、美を失っています。愛も失っています。愛と美に疲れて失ったような状態なのか、あるいは愛を失うほどの打撃があったのでしょうか。眠っているのですが、どうも愛から目覚めた現実であるようです。つまり生々しい現実を露呈しているのです。人間の肉体に堕しています。これは目覚めでもあります。
カラヴァッジョ自身の内面が精神的に疲弊して、性愛が死んだように眠りについているようにも見えます。カラヴァッジョの生命力の衰えがここに反映されているのでしょうか。
通常は、クピドは、美しい青年、少年あるいは子ども、そしてときには幼児として描かれます。ここでは5歳から7歳くらいの間ではないでしょうか。つまり小学1年生前後であろうと推察されます。
これについては、次のようなことも考えられます。カラヴァッジョの精神は単純ではありません。この年齢層で描かれているのは、なにか意図があってのことと考えられなくもありません。つまりこの年齢層はフロイトが20世紀に入って間もなく提唱したエディプス期と関連する可能性もあるかもしれません。この時期は、小児の性愛が活性化される時期、とりわけ幾つかに分散した性欲動が統合されて「性器統裁」とも呼ばれるものが形成される時期であるとされています。これは短命のうちにほどなく抑圧されて潜伏期に入ってしまいます。こういった特別な時期に、種々の外傷的な体験が生じやすい時期でもあります。抑圧されることは、この性活動の減退とともに外傷体験も未解決のまま忘れ去られますが、思春期にはそれが息を吹き返して再活性化されるとされます。それまでは眠らされているのです。途中で目を覚まさせられると、それはそれで外傷体験となるのです。
これは超高画質です。
ロザリオの聖母
ナポリにて製作。
364,5 × 249,5 cm
<ウィーン美術史美術館にて>
大きな作品です。実物は写真で見るようり大味に見えます。
イエスとマリア、聖ドミニコ、民衆が階層になっています。マリアは聖ドミニコと眼差しを交わしています。民衆にはイエスとマリアが見えないが、ドミニコには見えます。民衆は熱狂的にドミニコにすがるように懇願しています。
代理人である教会を通してのみ、マリアやイエスと関わることができるという当時のカトリック系の考え方を表しています。
上から垂れている赤い生地は栄誉を表しているとのことです。
また民衆の足の裏が汚れていますが、カラヴァッジォ以前の絵画ではこのようなものは描かれたことがなかったとのことです。これはアンチ美化の表れかと思われます。またマリアやイエスには後輪も見られないのみ、二人を比較的人間に近いものとして描いているということにもなります。しかし民衆には見えない超現実的な存在です。そういった点でなおも、宗教的な美化から完全に脱しているわけではありません。
また、宗教改革と対抗宗教改革の対立の中で、アウトサイダーあるいはチンピラのようなカラヴァッジョでさえも、やはりカトリックの世界の秩序と考え方にどっぷり浸っているような内容の作品となっています。カラヴァッジョは決して反逆者でも革新主義者でもありません。
聖ドミニコは両手にロザリオ(カトリック教徒が祈りに使う数珠)をもっていますが、マリアはドミニクに目配せしロザリオを指差し、民衆に配るように指示しています。民衆は神の恵みとともにこのロザリオを欲しているようです。またそれは信仰(あるいは信仰すること)を求めるということでしょう。
向かって右側は聖ペテロで聖母子を指差しています。彼は初代のローマ法王でもあります。
向かって左側の禿げた男がこちらを振り返っていますが、これは寄進者です。彼は聖ドミニコのマントの端を掴んでいますが、このマントは庇護マントであり、こちらに向かって聖ドミニコの庇護マントに身を寄せることを勧めているようです。