表参道ソフィアクリニック
父方は先祖は北ドイツ出身であり、プロテスタントであった。祖父は鉄道の敷設の監督官であった。父親は駅長であり、シーレの生家は駅舎の上にあった。ウィーンから30kmくらいの近郊で、第3子として出生。シーレは汽車・鉄道を情熱的に好み、子供の頃から汽車の絵を描いていた。父親の仕事柄、シーレは無料乗車ができ、旅が大好きであり、「旅行中毒」とも言われた。
父親は精神的に不安定であった。早期退職したが、その後も不安定であり、自分の株券を燃やしたり、いない客の幻視を見て、その食卓の準備をすることもあったという。父親はシーレが15歳の時に死去した。その後叔父のレオポルド・ツィハツェックがシーレの後見人になった。父親の妹の夫であった。彼は鉄道の上位監督官で、富裕な中産階級であり、彼は学問と芸術に通じており、また厳格な人物であった。
母方の先祖は南ボヘミアの田舎の農民であった。
エゴン・シーレ (タッシェン・ビッグアートシリーズ) 大型本 – ボルフガング・ゲオルグ・フィッシャー
この画集は、シーレの画業の全体を扱っています。
参考になりますが、主観的なところもあるように見えて、どの程度の妥当性があるのか、保留としたいところも散見されます。
思春期の少女たちの未熟な身体
↓
淫らで扇情的な女性たち
↓
女性の落ち着いた表現、古典的なものもとりいれる。
フィッシャは次のようにも区分しています。
・1911−1915年:表現主義の絶頂期。
・1916年ー1918年:落ち着いた時期。
・ここでは、シーレのたくさんの素描画が展示されています。
・色彩と形態のメタモルフォーゼが顕著です。
・綺麗な色彩です。色々な色彩を身体にシミのようにのせています。体の上で色々な色彩を交えています。しかも、このシミのような色彩は透明感があります。
・色彩に透明感があるのは、シーレの素描画の大きな特徴の一つでしょう。また、アルベルティーナ美術館以外で見たシーレの油彩画は厚塗りのものも目立ちましたが、一見すると厚塗りには見えず、透明感があるようにも見えました。
・シーレが女性を描くことの豊かさと幸せを垣間見ることができました。
・色々な側位を組み合わせて描いている作品も散見されて、参考になりました。
・シーレが描く多くの女性の目は総じてだいたい綺麗であることに気づかされます。もっとも女性の目が閉じられていることもありますが。
・数多くの素描画の時期による変遷を見る限り、1913年や1914年ごろに特に大きな変化はなさそうに見えます。
・1914年頃の素描画はまとまりがあります。1915年の素描画には迫力があります。
1897年 ウィーンでセセッション(ウィーン分離派)が結成された。
1906年ウィーン美術アカデミーに入学。叔父は喜んだ。
1907年 クリムトと出会い、クリムトはシーレの才能を認めた。シーレはクリムトの絵画の影響を受けるようになる。シーレにとってクリムトは父親のようでもあったのか?
1909年アカデミーを退学した。数人の同志たちと「新芸術家集団」を結成し、展覧会を開催した。この展覧会でアルトゥール・レスラーという美術批評をしている人物に見出された。しかし苦しい経済の助けにはならなかったようである。またハインリッヒ・ベネッシュが1910年ごろにシーレに接触してきて、彼はシーレの最も熱烈な支持者になった。彼はシーレの多くの作品や資料を集めて個人コレクションを築き、ウィーン・アルベルティーナ素描版画館のシーレ・コレクションの基盤となった。
1911年に叔父はシーレの後見人であることをやめた。母親もシーレには無理解であった。1910年には『死する母』という作品を描いた。P126
1909-1910
ひまわり
ほとんどシーレの死体のような枯れたひまわり。骨と皮が残って、おおかたは失われています。
ウィーン・モダン 国立新美術館
死する母1
シーレが19歳の頃の作品。
色彩は鮮明です。タイトルは「死する母」であり、母親の方は生命感を失っています。幼児(または胎児)は生命感があります。母親はこの子を見つめています。しかしこの子は奇妙な塊のようになっています。なぜかしらまつ毛が長く、赤い唇で、色気があって、なぜかしらこちらを見つめています。あたかも享楽する女がこちらを見つめるかのように。この幼児(または胎児)は男女(おとこおんな)であり、すでに性的な存在です。しかし何か異様な生き物として描かれています。この子は分厚い布か胎盤で覆われていていて、その中で自己愛的で充足しています。
母親はシーレには無理解でした。そのことが反映しているようにも思えます。
<Leopord museumにて 2017年>
上の作品は、ムンクの作品と類似しています。
1911年からモデルのヴァリー・ノイツェル(本名 Walburga Neuzil、1894-1917)と同棲生活を始めた。そこは南ボヘミアのクルマウという町でしたが、母親の出身地でした。また、彼の市街風景画の主要モチーフでもありました。あるいは、その町は彼の原光景のようなものであったのかもしれません。当時ヴァリーは17歳であり、21歳のシーレとは4歳違い。このころのシーレの素描はラジカルなものを感じさせます。モラルと真っ向から反対した作品が目立ちます。このようなシーレの作品を見て、彼のもとから離れていく人物も少なくありませんでした。もっとも、ココシュカは他の理由から、シーレの敵対者になりました。他方では、多くの支持者が集まり、高い評価も得ました。
逮捕
当時、彼はモデルとして女らしくなり始めた少女を特に好みました。1912年に未成年者誘拐の容疑で逮捕。3日間の禁固刑でした。そのころの素描には格言風の言葉が書かれることもありました。また裁判のときには、彼の粗描の1枚を燃やされました。一連のこの経験はかれに大きな影響を与えたことでしょう。
んだようでもある。
1912年の手紙「絵は、自ら光を発しなければならない。肉体は独自の光を持ていて、生きている間にこれを消費する。やがてこの光は燃え尽き、消滅してしまう」「私は体全体から発散される光を描く。」はたしてこの光りとは、なんの光りでしょうか。
彼の絵に登場してくる新生児や子供の表現の仕方が生々しくもグロいです。カサカサで潤いを欠いています。既存の子供についての価値観とも異なる。シーレはこのような子供に真実を見いだし描こうとしていたようです。
自画像
シーレの自画像は、生きているものと死んでいるもの間であり、生きながらに死んでいるものです。それは人間であるとともに物体です。「全てのものは生きながら死んでいる」とシーレは詩の中で述べている。しかし、それはおそらく偏った観点です。
裸の自画像
彼は裸の自画像を描きます。それは真実の自分自身、エロスとタナトスの交錯を描きます。
殉教者としての芸術家
彼は芸術家を苦行者や殉教者として表すことを好みました。このモチーフは、独房で描いた自画像から、『隠者たち』など、そして1914年のポスターにも採用されている。
二重構造
1910
Porträt des Karl Zakovsek
両性的であり、またナルシシックです。手指はほとんど骸骨のようになっています。形は巧みにモディフィエされていて、センスがいいです。エロスとタナトスの交錯が滲み出ています。
(Neue Galerie 2018)
1910年
座る男の裸体(自画像)
<Leopord museumにて>
手首と足首がないのと対応しているのでしょうか、ファルスがありません。あるいは逆にファルスがないことに対応して、手首、足首がないのでしょうか。毛の生え方が動物的であるのも特徴的です(頭髪、脇毛、陰毛、脚の毛など)。捕らえられ命を奪われ、処理された、獣のようでもあります。獣性は色濃く残っています。またファルス的享楽ではなくて、女性的な享楽であるかのようです。女性の乳房に似た胸部、この身体像の中で唯一豊かさを備えているのはこの乳房です。睾丸は女性の外陰部の形態に似せてあります。発生学的な起源からすれば、睾丸は大陰唇に近いです。
何かの厳しい現実の中でこのように手足を失ったように思われます。
動物的で獣のような身体であり、そして解剖学的でもあります。まるで、食肉に供されるために動物が解体されているかのようです。画家が家畜の解体を見て触発されて描いたかのような。それに自らを重ねてイメージしたような。鹿のようにも見えます。
身体は極端に痩せて角張ってゴツゴツしています。木彫りのようでもあります。また十字架の上の痩せ衰えたキリストの身体像にも近いか。あるいは、ダンスのようでもあります。「死の舞踏」との関連はあるのでしょうか?
この作品は多面的に見ることもできます。
外性器、臍、乳首、目が赤色でアクセントとなっています。
1910年
二重の自画像
これもまた分身が背後に分身らしきものが描かれています。前者は自己愛的な恍惚とエロスと傷心が入り混じっています。また左腕が切断されているかのようにも見えます。後ろの人物は眼球、鼻の穴、口(歯)がなぜか白く、そこには死体のイメージが込められていると思われます。彼の霊体のようにも見えます。
やはり乳首やへそや唇に赤系の色でアクセントをつけられていて、またこの作品では耳も赤くアクセントをつけられています。これは性的な高潮も表していているかのようです。
この作品もエロスとタナトスの交錯を描いています。
1910年
自己観察者Ⅰ
所在不明
1911年
The Self Seers Ⅱ (Death and Man)
自己観察者Ⅱ(死と男)
下から伸びる手は誰の手かわかりません。背後の死に神のごとき男の手が回されているのかもしれませんが、それにしても、だいぶん不自然な位置です。もしかしてこの画面では描かれていない第三者の手のようにもみえます。
前に位置する男には命があるものの、見開かれた目は何かしらただならぬほど緊迫しています。背後の男は生命を失い、そして緊張を失っています。そして寄りかかり覆いかぶさっています。このように生命と死、緊張と弛緩という対極の要素の併存が見られます。ここでは、生命ある者は緊張していて、死せる者は弛緩しています。その間がありません。
緊張と弛緩の両極端が並存するあるいは交代する現象は20世紀初頭の前衛芸術の特徴です。
腕が交差しているのは十字架のイメージと重なっていることが考えられます。北方絵画の伝統では、十字の形になっているものは何でも十字架を暗示します。生きる者の腕と死せる者の腕が交わることによって十字架が形成されているのでしょう。
因みに、シーレはオーストリアという伝統的にカトリックの宗主国でありながらも、プロテスタントの家庭(父方)に生まれ、一般にプロテスタントは道徳に厳しいものですが、彼は道徳に反抗し、ボヘミアンな生活をしていました。いわば社会のはぐれもの、アウトサイダーでした。それでも、彼は中産階級の生活から抜け出れなかったし、またプロテスタントの思想も背景に流れていることが考えられます。彼には精神の二重構造があります。彼の出自は彼の精神から決して消えることはなく、彼は保守的な革新者でした。当時のオーストリアの多くのアーティストがそうであったように。そしてやがて、かれは自分の出自に戻っていこうとしたのでした。
< Leopord museum2017年>
1911年
黒い壺のある自画像
シーレの肖像の背後には黒いツボがあります。この壺の輪郭は人間の顔のようになっています。壺はヤヌスの顔らしいです。シーレのテーマの一つである二重性あるいは分身というテーマがここでも認められます。また手は何事か意味不明の信号を送っているようでもあります。前衛芸術家らしく、意識の前進にむけての闘いの最前線から私たちに合図を送っているかのようでもあります。矛盾と葛藤をはらみ続けるなかから、私たちに合図を送っているかのようです。
(ウィーン2017)
油彩でありながら、水彩のように薄く塗っています。メタモルフォーゼと色彩のコンビネーション。左側には陶器製のポット。人の顔の形をしていて、二面性を表しています。指の形は何かを示すかのようです。Victoryという意味も含まれているかも知れません。画家としての野心と円熟の自覚があるのかも知れません。
あるいは2でしょうか?
(ウィーン・モダン 国立新美術館2019)
・幾何学的な色面も特徴です。
・生きているものと死んでいるもの、生きながらに死んでいるもの、など生と死のあいだを揺れ動いています。「全てのものは生きながら死んでいる」とシーレは詩の中で述べています。
1911年
Dead CityⅢ (City on the Blue River Ⅲ)
死んだ街Ⅲ(青き河岸の街Ⅲ)
<Leopord Museumにて2017年5月>
しっかりと描かれています。油彩でありながら水彩のようであり、このような描き方もシーレの描画法の特徴の一つでもあります。
なんだか街がコンパクトにまとまっています。まるで胎児の世界観のようです。人気はありません。というか人が住むようなところではありません。その窓を見ると死が住まうような所のように思われます。
刻印として貼られたようなEGON SCHILLE 1911の署名が見られます。
1911年
青き河岸の街
・・・・この作品は個人蔵かもしれない。
川は黒色ではなく、タイトルがブルーとなっているように、青っぽい、というか青黒い感じです。街並みは図像化されてたようになって、抽象的なところも少なくありません。油彩でありながらも水彩のように彩色が滲んでいて、色とりどりのシミのようにして色をつけています。油のなかで走らせたのでしょう。全体に渋い雰囲気の作品となっています。この作品でも、人の住む空間というよりは何かミニチュアの人気のない模型的な世界です。心のなか、幻想のなか、夢のなかにある街並みのようでもあります。胎盤の中で羊水に浸ったような街です。
(ウィーン、ベルベデーレ宮殿2017年5月にて)・・・・果たしてこの作品であったかは保留する。
1911年
妊婦と死 (母と死)
フィッシャーによれば、「死神が修道士を装って妊婦のものとを訪れている。」となっています。
というか、修道士は、生の祝福と死の内包の両方を含んでいると思われます。また母親は妊婦ですが、マリアのようでもあります。東方三博士の礼賛のエピソードとも重なっているのかもしれません(もちろん東方三博士の礼賛は、キリストが生まれた後だし、三人ですが)。通常、古くから、聖母子を描く時には幼子のみずみずしい生命感と運命付けられた死の象徴を一緒に描くのが一般的です。その限りでは、この絵画は伝統的なモチーフでもあるようにも思われます。しかし下の『アゴニー(断末魔)』は伝統的なモチーフではありません。
やがて生まれてくる赤子は、この僧の支配下に入るのでしょうか。
1912年
self-portrait with raised bare shoulder
<Leopord museumにて>
激しい筆触です。色は鮮明で、色彩感覚が良いです。筆触と色彩は巧みです。ほとんど無意識的にかいているのかもしれません。
1912年
<Leopord museumにて>
色がまるで水彩のような透明感が綺麗です。服の塗りの筆さばきもうまいです。
1912年
ヴァリーの肖像 Portrait de Walburga Neuzil (Wally)
<Leopord museumにて>
目を大きく描き、とても肯定的に表しています。目が輝いているようです。
1912年
★アゴニー(断末魔)
年老いた僧が若い僧の断末魔を前にしています。
宗教的な意味を持った父親と息子の関係でもあるようです。
力強いエネルギーを持った年配の僧が若い僧に、何か力を及ぼすようなあるいは催眠暗示を与えるようにも見えます。あるいは父親が息子に及ぼしているのか。若い僧はセンシティブに反応している。それとともに至福で恍惚としてるようにも見えます。
逆に解釈しますと、死のイメージを持つ父親が催眠暗示を与えて、それにやられて、息子は断末魔の苦しみとともに意識が朦朧としている、というふうにも見えます。父親は、大きな脅威でもある。
若い僧の手は、効果が精神に及ばないように拒み寄せ付けないようにしつつも、許し開いてもいて、慈悲を求めて哀願をしつつも、至福のうちに祈ってもいるようにも見える。
若い僧は目を大きく開いているのか、閉じているのか。年老いた僧も、目を大きく開いているのか、閉じているのか。目を開く、目を閉じる、という両方かもしれない。
また、何か悪魔的なものがあるようにも思われる。
年上の修道僧はクリムトを暗示しているともいうが。
アゴニーagonyの辞書的な意味とは、苦痛、 苦悶、 また、臨終の苦しみ
1912年
枢機卿と尼僧<<愛撫>>
<Leopord museumにて>
当時としてはスキャンダルかもしれないが、今となって見ればそこまででもありませんし、そのような意味合いはないでしょう。反抗の時代の表れでもあります。二人とも『死と乙女』と同じような足です。あるいは『死と乙女』と近いテーマかもしれません。ヴァリーがこの尼僧かもしれません。また、二人は祈っていますが、『死と乙女』にも祈りのテーマが含まれていると思われます。
ここでは枢機卿と尼僧が描かれている。明らかに二人の距離は近く接近して、密着している。枢機卿は尼僧を上目遣いに見つめていて、尼僧はこちらを見つめている。尼僧の目は見られていることを警戒しているようでもある。二人とも合掌しているように見えなくもない。二人の性関係を表しているともに、二人の心情には祈るような、哀願するような心情が滲んでいるようだ。裸足の足で跪いているのは、二人の素のままの人生を暗示しているようにも思われる。
カトリックの国でこのような作品(罪深い性的な関係や性欲)が描かれることはタブーを犯すことでもある。しかし、フィッシャーがいうように「革命的」とは言えない。この種のテーマでは何百年も前からの定番のテーマであろう。例えばボッカチオの『デカメロン』では当たり前のごとくにカトリックやカトリック系の修道僧の腐敗ぶりを暴いて見せている。シーレがこのような古くからのテーマを選んでいるのは、彼の当時のポジションを表しているということに過ぎないようでもある。つまり当時の彼は暴露的、仮面剥奪的、規範に反抗する立場である。しかし、彼は必ずしも革命的ではない。実際この2、3年後には保守的な性格を露わにさせる。シーレは反抗的ではあっても、保守的な反抗者といったところであろう。革命的であることを目指したとは思われないし、そのようなことは全く念頭になかったのではないか、「革命的」という言葉を彼が使ったとしても、それは言葉だけを利用しただけであろう。彼は人間の真実を表現したいということであったろうと思われる。
なお、この作品はクリムトの『抱擁』に近いものである。クリムトの方は、美化され、装飾的である。
参考:クリムト『抱擁』
1912年
隠者たち
<Leopord museumにて>1917年
既に芸術的には死んだ骸(むくろ)にまでなったクリムト。それでもシーレはクリムトに背後から覆いすがられています。それを反抗者シーレは睨み上げるようにして拒んでいますが、それでも払いのけることができずにいます。シーレは死んだ過去に対決します。
二人が着ているのは、修道僧の服でしょう。肩のマークはユーゲント・シュティールです。
写真では見づらいですが、画面左下に、EGON SCHIELE 1912を3回繰り返して署名されています。
手の描写は形と色彩が綺麗です。
クリムトの頭には秋の果物、シーレの頭にはアザミでできた冠、地上には萎れたバラ。これらは無常を表すのであるらしいです。
これはクリムトとシーレである。また父親と息子のような関係でもあるのか。そしてまた支配と服従の関係もあるのか。
シーレの表情は斜め情報を睨みつけるのは、権力に対する反抗であるのか。
服従は死を意味するということかもしれない。父親の支配力に屈服する息子は死を意味し、それに対する反抗なのか。
死んだような父親がシーレに覆いすがる。それに対して断固と反抗するが、しかし、その反抗は無駄でもあって、覆いすがるものを払いのけようにも、払うことができない、それでも反抗し続ける。クリムトは覆いかぶさる死でもあるのか。すでに正気を失っているように見える。死んだ表情のように見える
クリムトの頭には秋の果物、シーレの頭にはアザミでできた冠、地上には萎れたバラ。これらは無常を表すのであるらしい。
「生きることに飽き飽きした人間の肉体、つまりこれは自殺者の肉体のことですが、それでもこれは感覚を持った人間の肉体なのです。この二人の人物たちは、何かを築き上げようとして力なく崩れてしまう、この世界によく似た塵の山なのです。p121」しかし、シーレも塵の山なのか、この作品を見て塵の山のようにも見えないが。この言葉はわかったようなわからないような、やはり一つ一つの言葉がわからない。
署名はエゴン・シーレが3つ書かれている。自分の存在を示す。自分のあり方も示しているのか。これが自分の肖像であることを示している。
クリムトの表情はゾンビのようである、生ける屍である。
1913年ミュンヘンの青騎士(BLAUE REITER)との合同展覧会ではシーレの「枢機卿と尼僧」は表紙を飾った。そ多くの展覧会に出品するようになり、評価も高めた。
1913年はヴァリー・ノイツェルが頻繁に現れるようになるらしい。
1914年第一次大戦が勃発。
1914年ごろから17年、素描は、新しい展開を見せている。1914年あたりからシーレの素描は穏やかでおとなしく安定的で、ピラミッド構図あるいは三角形の構図や身体の古典的なフォルムに回帰する傾向の諸作品も見られた(要確認)。これは保守的な回帰とも言えるかもしれない。身体表現においては、三次元的な立体的表現、陰影の強調、力強さ、肉体のボリューム感、そして身体の存在感を際立たせる。この場合、色々な色彩で身体の上にシミのように表現されて存在感を際立たせている。これはより一層にシーレらしい素描となっている。物体としての身体、物と化した身体。女性器の強調は影を潜めている。また扇情的ではなくなってくる。ラジカルさより充実が見られるようである。角張ったような身体の輪郭線から丸みを帯びた輪郭線に変わってくる。そしてかつての未成熟な少女よりは成熟した女性を描いているようである。社会のタブーに反抗し、アカデミックな絵画に反抗しながら、新しいフォルムを追求する時期は終わっていった。シーレのこの流れの変化と、ヴァリーとの別離(ボヘミアンな生活の終わり)とエディットとの結婚(堅実な生活)は対応しているのではないか。
1917年の裸婦像のポーズのとりかたは、全て学校の授業で教授が決めるのと同じものであるとのこと。それは覗き見趣味も終わったということである。ポルノグラフィ的なところも終わった。また性交よりは抱擁の方にシフトしているようである。
1913年 聖家族
これはシーレとヴァリーが描かれている。またお腹のあたりには胎児らしきものが見られる。シーレとヴァリーの手振りは、記号的、暗号的でもあるような図形となっていて、それは胎児の手振りと呼応している。この三者の間には共通のものがあって、同族間で一種のコミュニケーションも成り立っているようである。
1914
盲目の母 Blind Mother
<Leopord museumにて>
母親はなぜ目が見えないのでしょうか。子供は二人で、双子です。これもドッペルゲンガーでしょうか。
女の股間から生まれてきた二人。自分の女でありつつ、自分の子供たちの母親。二重性を持って生まれてくる子供、死の運命を持つ子供、生命を持つ子供。
写真ではわかりませんが、この絵の実物を近くで見るとだいぶん厚塗りであることがわかります。だいぶん厚いです。
1914年
若い母親 young mother
<2017年 Karlsplatz museumにて>
厚塗りで、重厚な印象があります。シーレには、やはり、母親と子供というテーマがあることを再認識させてくれます。そしてこのテーマは家族を作ることというテーマにも繋がります。シーレは翌年の1915年に結婚しました。子供は母親の乳房を探しているようにも見えます。母親はそんな子供を、優しく愛しむように見つめています。
1915年3歳年下のエディット・ハムルスと結婚。1912年からシーレが構えていたアトリエ兼自宅の向かいに住んでいた姉妹のうちの妹だった(姉アデーレもシーレのモデルを務めていたが、シーレと性的な関係を結んでもいたとアデーレはのちに証言している)。この結婚を機にヴァリーと別れる。シーレはボヘミア的な自由奔放な生活に嫌気がさして結婚したのかもしれない。もともとシーレは展覧会、コレクターとの接触、アトリエ探し、日常生活において冷静な判断と行動をする人であったようだ。現実的な感覚と思考ときちんとしたところがあったのか?エディットの父親は機械工の親方であり母親はシーレの叔父には及ばないが中間層の出身である程度の大きさの住まいを持っていた。ヴァリーは結婚相手としてふさわしくないと考えていたらしい。それはなぜか?
この結婚の前後には、ヴァリーの肖像では別離に対する不安が綴られ、エディットの肖像では明るくても新しい結びつきに対する不協和な不安が滲んでいる。後者は明るい狂気とでも呼ぶか。その双方に二つの異なるタイプの狂気の傾向が見られるようでもある。
1915年
Edith with striped dress, sitting
<Leopord museumにて>
この作品のエディスは、美しい目です。エディスはシーレの方は直視はしていないものの、つまりシーレを名指しこそしていないものの、何かを問いかけるような眼差しです。指輪と首飾りはルビーのようであり青色と緑色の色彩のアクセントになっています。
この作品はシーレの画業の転換期を表します。シーレは落ち着いた画風になっていきます。かつてのシーレではありません。
しかしエディスは少し狂気じみた目をしています。不安と緊張があります。
1915年から1916年
『死と乙女』
<ウィーン、ベルベデーレ宮殿2017年5月にて>
実物を見ると、他のシーレの作品と同様に、渋い落ち着いた色調である。そうではあっても渦巻くような蠢(うごめ)くような情感が込められている。
男の目は非人間化して死を見つめてさえいるようである。彼は鏡を見るでもなく女を見るでもなく、運命を見つめているようである。
女は愛にとりつかれている。彼女は自分とシーレの両方を見ているようである。人間的な優しさと愛情を持ってしがみつく女。その女の気持ちをはっきりと汲み取りつつ、足と肩を抱きかかえているが、もはや精神的な死に瀕している。別離の方向に向かう以外にはない運命として。
当初この女はお尻だけをむき出しにしていたが、それはのちに加筆されて着衣によって隠された。そうなると絵画全体が全く意味合いが異なってくると思われる。
今生の別れ、これっきりの別れ。二人の最後の場面を描く。
運命的な出会いと運命的な別れ。
反抗精神の旺盛な時期の同士でもあったヴァリー、反抗の時代は終わり方向転換したシーレはヴァリーと別れる。
「死」である男は、修道僧の服を身にまとっている。そしてその男に女はしがみついているヴァリーは22歳くらい。
宿命的な何かがあるようだ。
祈りのテーマが含まれていると思われる。
1917年
『抱擁』
1917年 4本の木
秋から冬にかけての夕陽の光景。死が滲んだような光景である。
(ウィーン、ベルベデーレ宮殿2017年5月にて)
シーレにしては大変大きな風景画です。ただシーレらしさを前面に押し出しているわけではありません。それでもヨーロッパ、オーストリア、シーレの1910年代の風合いがよく表されています。
(Neue Galerie 2018)New York
『立っている画家の妻の肖像』
結婚して以降は、主に妻のエディットがモデルを務めた。
結婚式の4日後から7ヶ月遠方での後方部隊の軍務に服したが、ウィーンに戻って非武装の軍務を続けることが認められた。ドイツ(フランスもではないか?バジールは従軍して死亡)などでは芸術家といえども前線に送られていたが、オーストリアでは芸術家は前線に送られなかった。シーレは第一次大戦については大変批判的な考えを持っていた(日記より)。
1918年第49回ウィーン分離派展で大成功を収めた。注目を集め、そして肖像画の注文が増えた。シーレは大型作品用のアトリエに入居した。それまでのアトリエは学校にしようと考えていたというが?
1918年
『座っている芸術家の妻の肖像』
実物は、とりたてて特徴を感じなかった。ヴァリーとは異なり、中庸的で落ち着いた感じといったところか。
この作品はオーストリア国立美術館に買い取られた作品である。もともとスカートの色はカラフルであったが、それが大胆であるので国立美術館の館長が描き変えることを提案して、シーレがそれを受け入れて塗り替えたらしい。そしてアクセントとして赤いリボンを胸元に描き加えた。これはエゴン・シーレの抑制された表現の時期にあって、その象徴ともなる作品であろう。シーレにとって国立美術館からの作品の買取は大変名誉なことであっただろうと推察される。かつての反抗に対して今は名誉さえ求めるのか。この作品を見ると、シーレ自身が落ち着く方向へと向かっていったようにも思われる。エディットの妊娠にも気がついていた。(ウィーン、ベルベデーレ宮殿2017年5月にて)
1917年
Dr. Franz Martin Haberditzl
性格描写もしているのか。対象は一点を見つめている。手にしているのはヒマワリの絵か。シーレの絵か。ゴッホへのオマージュもあるのか。
全体に落ち着いた色であるが、青いガチョウの青色が渋くアクセントとなっている。全体が地味で渋い。
(ウィーン、ベルベデーレ宮殿2017年5月にて)
1918年
Hugo Kollerの肖像 ベルベデーレ美術館蔵
格段精彩を放っているわけではなく、地味とも言える。しかし、センスは良い。直線がなくて、全てが曲線とうねるようなゆがみからなっている。全体に落ち着いた雰囲気である。霞んだように見える。知性と感性のある表情である。
(ウィーン、ベルベデーレ宮殿2017年5月にて)
1917年
母親と二人の子供 Mother and two children
<Leoprod museumにて>
母親には死相がみられます。子は一方は死んだようになり、もう一方は生きています。そして母親は死んだような子の方を見ています。また母親は生きている子の方に首を傾け、意をもって介しているようです。先ほどの絵画「盲目の母」(1914年)と呼応しているのでしょうか。
またこの作品もものすごい厚塗りです。
1918
「 家族(うずくまる人物群像) 」
ウィーン、ベルベデーレ宮殿2017年5月にて
シーレという変わった人間が作った家族。昔から世代の連鎖は連綿として形成維持されてきたが、特に3人という形は人工的でもある。子供は何も知らずにこの女の股間から生まれてきたが、父母は裸なのにこの子供だけが着物を着ている。アダムとイブの子が服を着ているのか。もうアダムではないシーレ。反抗という楽園から失墜し、地上に降り立ち、家族を作るシーレ。シーレの指の形は赤ん坊の指の形と呼応させているのであろう。父親から息子へと引き継がれるものがある。父親は誓い、子は受け継ぎ、そして子は希望を持ち斜め上方を見つめている。
サルのようなオリジナルな人間としてのシーレとその家族。
シーレは何を誓っているか。
フィッシャーによれば、男性の方はシーレだが、この女性は妻のエディットではないと言う。そうだとすればそれはなぜなのか?ただ実質的には妻エディットであろうと思われる。というのもこの作品は当初は赤子が描けれていなかったが、エディットが妊娠していることに気がついた後に、この赤子を描き加えたものと思われる、とフィッシャーは述べているからデアある。またこの絵は未完成だという。1918年にウィーン分離派のカタログに<<うずくまり1組の男女>>というタイトルで掲載された。シーレとエディットの死後に<<家族>>という題がつけられた。この子供を書き加えることで、意味合いが全然異なってくる。
1918年秋には大流行したスペイン風邪でエディット(妊娠6ヶ月)共々死去した。
【上方からの視点】
高い位置からアングルを構える。シーレはアトリエで梯子を使い、その上から床やソファーに横たわるモデルを素描した。
シーレは鳥のように空を飛びたいと言っていたらしい。空から見たような街並みの光景も描いている。南ボヘミアのクルマウという町であったが、そこは母親の出身地であったし、彼の市街風景画の主要モチーフでもあった(?要確認)
【遠近法】
・遠くから望遠レンズで見るかのようだったり。
・広角レンズ的で遠近感が強調されたり。
・標準レンズでスタンダードであったり。
・一点透視図法ではなくて、複数の視点もありうるかもしれない。
【余白】
特に素描において。
余白は日本の絵画の影響も受けているのか?
【浮遊】
余白とも関係しているが、浮遊しているようにも見えることがある。
【思春期の少女】
・男性の裸体を描くのはシーレ自身くらいであり、ほとんどが女性の裸体を描く。また男性の裸体を描くとき、女性の裸体とともに描く。男女のエロチックな関係を描いている。ただしシーレは着衣の男性肖像画は描いている。
・シーレは女性性及び女性の性についてどのように関心を持っていたのか。
・19世紀末から20世紀初頭における女性性に対する関心がどのようなものであったかについて。
・思春期に芽生える性的な願望。
・多かれ少なかれ、少女による扇情的なニュアンスがある。
・クリムトは成熟した女性を描いたのに対して、シーレは少女を描くことにも強い関心を示した。
・痩せて骨ばった少女。
・成熟した女性とは異なる肉付きの貧弱さ。痩せている。女性としての豊満さがない。女性としての身体が成長しきっていない、あるいは成長の途上であるが、それにしても貧弱にも見える。弧を描いた線とともに、むしろ角張った線で描くのも特徴である。
・むしろ少年の体型に近い。
・子供を産む能力の乏しい少女。
・シーレの妹のような中流階級は性の目覚めから守られていたところもあるが、労働者階級の少女はより早くから性に目覚める傾向があり、シーレの関心をひいたらしい。
【成熟した女性】
・モアという名の踊り子。1911年ごろからシーレの素描に登場する。
【覗き見】
・女性のスカートの中を見たい願望。性が目覚めた身体を見たい願望?
【露わにされた女性性器】
・露わにされた女性性器を絵画の焦点にもってきたりもする。
・股を開いたポーズで、性器に彩色を施して際立たせる。
・クリムトもそのような素描を描いていた。
【レズビアン】
【自慰】
【ポルノグラフィ】
特定の集団からポルノグラフィックな作品の注文に応じていた。露骨に表現されている。他の諸作品では性的な表現については暗示的であり、このような諸作品とはコントラストがあるか。
例:水彩素描『夢見る女』1911年 p52
【性】
・生理的な欲求でもある性欲に捕らえられた人間の物化と哀しみ。乾いた冷たさ。
【孤独】
【メランコリー】
【メタモルフォーゼ】【デフォルメ】
・1910年ごろは、縦への身体の引き伸ばし。これをゴシック的とも呼ぶ?
【画材】
・透明水彩、グアッシュ、鉛筆、チョークなどを一枚の絵に混ぜて使った。
(グアッシュ・グワッシュ:水彩絵具の一種で,とくに厚塗りや不透明な彩色に適したもの,またこれを用いて描いた絵をいう。不透明水彩ともいう。)
【風景画の特徴】
・俯瞰
・鳥の視点
・死の雰囲気。逆に生き生きとした感やリズミカル、音楽的なところ。カンディンスキーの影響。音楽はストラヴィンスキー?
【人気のない死んだような街】
【中産階級に対しては?】
【影響関係】
・クリムト:クリムトは新興の新興の中産階級をベースとしているようでもある。その点はシーレとは異なっているか。もっともクリムトも中産階級の道徳から逸脱するような表現もする。中産階級に好まれる装飾性、しかし中産階級の枠内に縛られない。
・ムンク
・ゴッホ
・カンディンスキー:
・ストラヴィンスキー?
【いつからシーレらしい絵画を描くようになったか】
1910年ごろからか。その頃シーレがどのようであったのか。
【表現主義】
1910年ごろからシーレらしい絵画になるが、それは表現主義的とも位置付けられているのか。
なえ表現主義として位置付けられるのか。
【戯画的】
【色彩とフォルム】
・アカデミックな絵画と異なり、色彩とフォルムのコンビネーションにはるかに重視されている。
【美的基準】
・女性を描く際の当時の美的基準から外れている。しかしこれにはフランス絵画にロートレックやドガなどのの先達がいる。
【アウトサイダー】
・彼は一面では習慣や宗教(プロテスタント)に関して保守的なところがあったかもしれない。彼は日常的な生活においては保守的なところがあったかもしれない。しかし、行動、考え方、思想、芸術の考え方はアウトサイダーでもあった。そして彼が描く対象も、普通の人たちではあっても、アウトサイダーの内面を描いていたと思われる。普通の人の内面にある社会のアウトサイダーな側面、特に性に関するアウトサイダーな側面。
【素描が絵画のジャンルの一つにまでに高めれているのか】
【鏡像】
【修道僧】
・シーレはプロテスタントの家に生まれたが、彼の絵画には修道僧がなんども登場してくるのはなぜか。
修道院は、腐敗していた歴史もあり、そのイメージが引き継がれているところもあるのかもしれない。そしてまたそれが自分とも重なっている。
【手】
シーレは手を強調して描く。
ここでも「手は口ほどにものを言う」とも表すことができるかもしれない。
【肖像画】
人物の特徴、個性を大変よくとらえているようである。
1910年くらいからすでに、賢明な把握の仕方で、早熟であると思われる。
【自画像】
彼は28年の生涯でおよそ100点の自画像を製作した。