表参道ソフィアクリニック
北ドイツのハンブルクから北西100kmほど離れた北海沿い、現在のデンマーク国境近くの田舎町、ここで祖父は旅館と食料品店を営み、長男が家業を受け継ぎ、質屋や古物商にも広げました。その次男ヨハン・ヤーコプがブラームスの父親ですが、彼はにわかに音楽家になりたいと宣言をした。家族の反対を押し切って、彼は1826年に音楽の職を求めてハンブルクへと移り住みました。彼は様々な楽器を演奏することができて、楽団員の仕事をしていた。そのころ下宿先の娘クリスティアーネと出会い、一目惚れのようにして結婚を申し込みました。クリスティアーネは、素朴で豊かな人間性を持っているとして皆を魅了するような人柄であったようです。また彼女は偽ない信仰心を持っていました。社会道徳をしっかりと守るひとでした。1830年に二人は結婚しました。そのときヨハン24歳、クリスティアーネ41歳でした。年の差は17歳です。ヨハンは下層階級であるのに対して、クリスティアーネは中流階級。ヨハンは上昇志向があり、またクリスティアーネは安定した市民生活を望んでいました。ヨハンはクリスティアーネの中流階級に仲間入りをするための足がかりを求めた面もあるようです。実際、彼女は夫の期待にもよく応えて、中流階級に定着することができました。
1833年、ヨハネス・ブラームス誕生。同胞2人の2番目です。姉と弟がいます。生まれたところは貧民街の一角で、父親の収入ではまだ5人を養うには十分ではありませんでした。それにもかかわらずヨハネスにきちんと教育を受けさせました。また学業と並行して、ヨハネスは音楽の手ほどきを父親から受けていましたし、それ以外に非常に熱心な音楽教師コッセルも付けてもらいました。10歳の時には父親が主催する演奏会で彼はモーツァルトやベートーベンを演奏してデビューし、天才ぶりをあらわにしました。さらに10歳から18歳までエドヴァルト・マルクスゼンという作曲家に作曲についての個人授業を受けました。結局ヨハネスは学校での正規の音楽授業を受けませんでした。
また少年時代から文学へ傾倒し、自分が読んだ本で気になったところなどをノートに書き写して、それを「若きクライスラーの宝物の小箱」と名付けていました。クライスラーとはE.T.Aホフマンの小説に出てくるデモーニッシュなところのある音楽家の名前です。
少年時代から20歳までには数多くの楽曲を書きましたが、自己批判の傾向の強いヨハネスは、破棄をしたのでほとんど現存していません。1853年(20歳頃)に『ピアノソナタハ長調』を「作品1」となる作品として出版に踏み切りました。
その後若きブラームスはメレーニというヴァイオリニストと演奏旅行(ブラームスは伴奏者)を繰り返す時期がありました。また19世紀の代表的なヴァイオリニストの一人であるヨーゼフ・ヨアヒム(2歳年上)の知遇を得ることとなりました。1853年にはヨアヒムの紹介で今をときめくフランツ・リストも紹介されました。しかしブラームスはリストのサロンでの派手な生活様式や周囲の崇拝者そしてヴァイマールの雰囲気を好みませんでした。またそれ以降メレーニに見捨てられ、ヨアヒムを頼って2ヶ月の共同生活をしました。1853年、彼はシューマンとクララの自宅を訪ねました。シューマンは既に晩年でした。シューマンはリストのような華美な生活ではなく、ごく普通の市民的で家庭的な生活をしていました。その頃から彼ら二人は相互に高く評価し合う関係になりました。まだブラームスは20歳でした。
20歳の頃のブラームス
シューマンが『新しい道』という論文の中でブラームスを高く評価する論評を公表することで、若く無名のブラームスが一躍有名にはなったものの、ほとんどの人が彼の作品も演奏も知らないために、彼を好奇と猜疑の眼差しで品定めするような雰囲気のなかで、もとから引っ込み思案で自己批判の強い性格のブラームスには大きな重荷になりました。しかし、結果は良好なものでした。
1854年にシューマンはライン川で投身自殺を試み、錯乱状態のために精神病院に収容された。ブラームスはこの精神病院を訪れたり、手紙を交換しました。ブラームスはシューマンとの再会のときに極めて悲痛な思いを抱きました。ブラームスは5人の子供と胎児を抱えるクララに援助をしましたが、それとともに急速にクララと親密になりました。当時、クララは34歳でした。10歳年上です。
シューマンは1856年に死去して、その後間もなくしてブラームスとクララの2年あまりの関係は終わったようです。どのように親密であったのかは定かではないところがあります。ブラームスはクララと結婚してもおかしくないような関係だったようですが、彼は結婚を決意することができませんでした。ただ二人の親交は生涯続きました。
1858年にはアガーテという女性と恋愛関係になりましたが、婚約の直前になって、ブラームスは自分で決めることができず判断を相手の女性に委ねました。そのことでこの女性から関係を絶たれました。
1862年にウィーンに到着。それ以降世を去るまでウィーンに住むことになりました。といっても保養地や演奏旅行などあちこちにも行っていたので、ウィーンが定住の地と言うよりも停泊の地であり母港のようなものであったようです。1827年にベートーベンが、1828年にシューベルトが死去して以来、ウィーンでは音楽界は沈滞気味でしたが、ブラームスの登場によって再活性化しました。もっともウィーンが再び音楽の街になるのは19世紀末です。ブラームスはシューマンによる高評価によっていったん広く知られるに至ったもののその後の知名度は低下していましたが、ウィーンに来てからはブラームスは再び高く評価されるようになりました。このウィーン時代から創作が上昇機運となっているようです。ただブラームス自身は故郷のハンブルクに定住して、結婚もして市民的な生活をしたいと願っていたようで、地元のオーケストラの指揮者に選出されなかったがために、自分の希望した市民的生活にはならなかったと後年にも憤慨していたといいます。そのかわりに1863年ウィーンのジングアカデミーの指揮者の職を得ました。ジングアカデミーでは自ら作曲した歌曲を演奏したりもしました。また女声合唱の一人に惚れ込み、彼女に16曲の自筆譜を送りました。彼女は他の男性と結婚をしたことでブラームスは自分の惚れ込みやすさを自戒した、というようなことをクララに手紙を書いています。またピアノの弟子の美しい娘に恋をしたらしく、そのことでむしろ彼女の指導を人に任せてしまったといいます。1863年は保養地でもあるバーデン・バーデンのクララの近くに滞在していました。1864年にはジングアカデミーの契約の更新を断りました。彼の主たる収入源は演奏旅行でした。
1865年に母親のクリスティアーネが死去。シューマンや母親の死は、翌年1866年の完成の『ドイツ・レクイエム』にも結びついていると考えらます。
1866年、普墺戦争(プロイセン対オーストリア)が勃発したが、その間(65年、66年)にはスイスの自然のなかで『ドイツ・レクイエム』などの創作に打ち込んでいたし、スイスでブラームスの一大ブームがおこりました。
1868年に『ドイツ・レクイエム』がブラームス自身の指揮により北ドイツのブレーメン大聖堂で初演されて、大成功のうちに、彼はようやくドイツにおいて大作曲家として認められるに至りました。遅れてやってきたブラームスは、『ドイツ・レクイエム』初演成功以降、先発のワーグナー(ワーグナーは20歳年上、つまり1世代年上)と肩を並べるまでになり、「ワーグナー派」対「ブラームス派」の抗争が始まりました。そもそもシューマンとブラームスは、リストやワーグナーらの文学と音楽の相互関係を重視し表題をもつ交響詩・楽劇への運動である「新ドイツ学派」に反対する立場であった。因みに、この「新ドイツ学派」はブルックナー、マーラー、R・シュトラウスにもつながっていきました。シューマンがブラームスを世に紹介したときにも、ブラームスは反・ドイツ学派の立場で同じ意見だったからであり、ブラームスは60年の『新ドイツ学派への宣言文』にも積極的に署名しました。ただしブラームスの主要な敵はリストでした。『新ドイツ学派への宣言文』にサインしたのも「反リストの論陣を張ろうと、僕の指はむずむずする」からだったと書いています。もっともブラームスはあまり闘争的な性格ではありませんでした。しかし世は「ワーグナー派」対「ブラームス派」として議論を戦わせ、陰湿な闘争が展開されました。ブラームス派は音楽は音楽だけで成り立つ領域であるという純粋性や伝統の遵守を重んじていました。ワーグナーの見解によれば、ブラームスのことを、もう古い音楽形式のなかで、まだ為せることを見つけようとしている非凡な流れと見ていたが、あまり関心がなさそうだったり、ことあるごとに批判したりもした。
1870年にブラームスは『ラインの黄金』と『ワルキューレ』の初演を聴き、「僕はおそらくワグネリアンと自称することになるだろう」と友人に書いています。彼がもっとも注目していた同時代の作曲家がワーグナーでした。ワーグナーの革新の刺激を受けつつ、ワーグナーとは違う領域で自己のスタイルを確立しました。こうして、「ドイツ・後期ロマン派」の2つの主軸ができました。『ドイツ・レクイエム』はドイツ芸術が未だ滅びずに素晴らしいものに再生されるものとして捉えられました。
1869年に、秘かに強い想い寄せいたシューマンの三女ユーリエが婚約したことで失恋しました。クララはブラームスの想いに気がつかないままユーリエを結婚させました。
1869年『ハンガリー舞曲集』出版。
1870年から71年に普仏戦争。プロイセンのビスマルクを讃える『勝利の歌』を作曲。
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世により、楽友協会大ホールが完成しました。現在とほぼ同じものです。
1872年にウィーン楽友協会の芸術監督に就任した。
1874年かつての弟子であったピアニスト、エリザベート・フォン・ヘルツォーゲンベルクに再開して、以後彼女は「魂の友」となりました。
1875年ウィーン楽友協会の芸術監督を辞任。
1876年『交響曲第1番』を完成させました。20年ほど温めていた構想でした。これはベートーベンの第九を意識されたものだとも言われています。第九の発展形でもあります。
『交響曲第2番』は『1番』とは対照的に短期間に書け上げられました。自然が豊かな保養地での滞在中に書かれました。「田園交響曲」とも呼ばれてます。またこの保養地では、『ヴァイオリン協奏曲』も作曲を開始しました(89年初演)。これはヨアヒムの助言も得ながら書き上げました。この作品もまたベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」を意識していました。
1881年『ピアノ協奏曲第2番』が完成。このころにはリストとも交流があって、リストのこの作品にたいする評価が高かったようです。
※ ブラームスと鉄道
・ブラームスはウィーンに住んでいるとはいえ移動が多かったが、鉄道が整備されてからは、鉄道網を利用して各地を演奏旅行や保養地などで巡りました。
※ ブラームスとお金
・収入が多くなっても、華美な生活を望まずに、金銭に対しては淡泊だったといいます。また彼は名前を伏せることを条件に様々な団体に寄付もしていました。
※ ブラームスとイタリア
1878年に初めてイタリアを旅行しました。ローマ、ナポリ、フィレンツェ、ヴェネツィア。大変気に入って、以来生涯のうちに8回イタリアを訪れました。
※ 「三大B」
友人のハンス・フォン・ビューローの造語。バッハ、ベートーベン、ブラームスの3つの頭文字。これは当時の音楽界のブラームスの地位を示すとともに、ブラームスを古典として位置付けていることにもなります。ハンス・フォン・ビューローは、19世紀後半を代表するピアニストの第一人者、指揮者であり、コジマの元夫であり、コジマがワグナーと結ばれてからは、ブラームスの作品を演奏して世に広めました。
※ ブラームスの部屋
ブラームスは生涯、自分の家を持たずに、間借り人のままの生活を送っていました。演奏旅行、保養地での滞在、イタリア旅行、その他で移動が多く、あまり定住性を持ちませんでした。また「赤いはりねずみ」というレストランが楽友協会の近くにあって、音楽関係者のたまり場になっていましたが、ブラームスはよくそこに居ましたた。友人や知人と会うときにも、自宅ではなくて、赤いはりねずみでした。
1883年ワーグナー死去 それによってブラームスが当時の唯一の巨匠になりました。
その年には『交響曲第3番』に完成させました。
※ 交響曲における「ブラームスの霧」
主題が展開して変容していくのを、当時「ブラームスの霧」と呼ばれていましたた。交響曲においてもそういったふうであり、交響曲を通じて何か主張・メッセージを伝えるという性格はなく、むしろ個人的な感情の流れの差分を描写する。そういった傾向はとくに交響曲第3番によくみられるともいわれます。
※ ブルックナー
ワーグナー派はブラームスの対抗馬としてブルックナーを担ぎ出してきたものの、当時においても対抗しうるほどではありませんでした。しかし、次第に台頭してくるブルックナーに対してブラームスは手厳しく、彼の交響曲と「交響的大蛇」と評したことが有名です。しかし、他面ではブルックナーを認めてもいたようです。
※ ドヴォルジャーク
ブラームスは、ドヴォルジャークを高く評価していました。
1885年
『交響曲第4番』を完成させました。
※ 反対派からの批判
形式面でも秩序や平衡感覚を重んじていて反動的であり「時代遅れの堅物」とも表された。それとともに想像力と情感の豊かさに難点があるとされた。とくに『交響曲第4番』は反動的とされました。
※ ヴォルフ
ヴォルフ自身作曲家でありドイツロマン派の歌曲を多く残しています。彼はブラームス批判の論陣を張って、その烈しい攻撃ぶりによって「凶暴な狼(ヴォルフ)」と呼ばれました。「(ブラームスの作品は)太古の時代の遺物であり、時代の潮流とは全く関わりがない」など。
※ 晩年の暗い影
1891年
58歳の誕生日に遺言書を作成しました。第5交響曲の構想もしましたが、結局『弦楽5重奏曲第2番』を作曲し、一時期この作品をもって創作活動に終止符を打とうと考えていたという。しかし同年に優れたクラリネット奏者を見いだしていくつかのクラリネットの作品を作曲し、なかでも『クラリネット五重奏曲』が著名です。これをきっかけに再び創作に向かいました。
1896年
クララが死去。そのため失意に陥りました。
1897年
死去(肝臓癌)
※ エピローグ: シェーンベルクによるブラームス
1933年シェーンベルクは、ブラームスの生誕100年祭で『ブラームス、進歩主義者』と題した講演を行い、彼の作品は過去からの反映だけでなく、作曲技法の面で根本的な改革を成し遂げたと主張しました。また彼は論文『国民音楽』のなかで、ブラームスから学んだことを次のようにまとめました。
「1 モーツァルトを通じてわたしのなかに無意識のうちに入り込んでいた多くのもの。とりわけ不規則な拍節法、およびフレーズの拡大と縮小。」
「2 表現の創造性。つまり明瞭性を確保するのに大きなスペースが必要なとき、それを節約したり惜しんではならない。いかなる構造も細部まで仕上げること。」
「3 楽曲構造の体系化」
「4 節約、それでいて豊かであること」
これは作曲の職人芸的な側面を指摘しているか。
アルバン・ベルク、ウェーベルン、ストラヴィンスキーもブラームスに関心を持った。