表参道ソフィアクリニック
ルーブル美術館収蔵 セネカ像(Psuede-Seneca) この彫像とほぼ同じ彫刻が紀元前2世紀に存在していたので、ヘレニズム期のオリジナル作品を、2世紀頃に複製したものではないかとされています。この彫像が発見されたのは、フランス南西部、スペインに近いAuchという町の川でした。ですからこの彫像は”Psuede-Seneca(偽りのセネカ)”ともされています。
ナポリ考古博物館所蔵。ブロンズ。
ポンペイ近郊の遺跡であるヘラクラネウムからの発掘。
セネカ像
プラド美術館所蔵
BC1年ー65年
紀元前1年頃ヒスパニア(スペイン)のコルドバにて出生。父親セネカは弁論家として当時有名であったため、「大セネカ」と呼ばれ、このセネカは「小セネカ」と呼ばれることがあります。父親の家柄は資産家であり、父親は騎士階級(エクエス)に叙せられ、名家となりました。これは元老院階級に次ぐ高い身分でした。兄は属州総督や執政官を歴任しました。弟はゆったりとした生活を好んで哲学研究にも没頭していたようです。
セネカ自身は幼児期に伯母にローマに連れられて育てられました。その頃はアウグストゥスの治世でした。アウグストゥスが死去したのは、セネカ13歳のころ。そしてティベリウスが2代皇帝として即位。
青年時代はアウグストゥスの後継者ティベリウス帝の治世でした。父親はセネカを弁論家にしようとして弁論術を教えましたが、セネカは哲学の方に興味があり、そちらの勉強に没頭するようになりました。何人かの先生に学びましたが、とりわけストア派に関心を寄せました。
しかし、父親は、セネカが政治家になることをのぞみ、そのためには官職に就かなければなりませんでした。しかし無理がたたって、結核を患い、24歳から数年間をエジプトで過ごし療養しました。回復を遂げ、帰国して後、財務官に就任し、国家の財務管理に従事しました。この役職は執政官の補佐役に位置づけられていました。またこのとき元老院議員にも就任しました。こうしてセネカは政治家としてデビューしました。セネカが財務官として従事していたときはカリグラ帝の時代です。当時の政治家たちはカリグラ帝に戦々恐々としていました。そしてカリグラ帝は、セネカを処刑しようとしましたが、周囲の者がなだめて思いとどまらせたといいます。カリグラが暗殺されたときにも、反カリグラ勢力とも通じていたようです。次のクラウディウス帝のときにセネカはコルシカ島へ8年間流刑にされました。罪状はカリグラの妹(この妹もアグリッピナとともに反カリグラでした)との姦通罪でした。コルシカでは閑暇のなか哲学研究に没頭していたということですから、セネカにとっては良い機会だったのでしょう。この期間に『母ヘルウィアへのなぐさめ』を送りました。
クラウディウス帝の処刑された妻のかわりにアグリッピナが妻になって、セネカは許され、法務官として復帰しました。法務官は執政官の前段階でした。また帰国するとすぐにアグリッピナは、セネカをネロの家庭教師に迎えました。近衛軍長官ブッルスと協力しながらネロの教育に当たりました。このころ『人生の短さについて』を執筆しました。ネロが第5代皇帝に就任すると、セネカとその兄は執政官に就任し、ネロの政治をブルッスとともに補佐しました。ネロが精神的に異常を来すようになり、アグリッピナやブルッスも殺され、セネカは辞表を提出し、政界を引退しました。その後死までの3年間、セネカは隠遁生活をし、精力的に執筆活動をして、多数の著作を執筆しました。やがてピソという貴族を首謀者としたネロ暗殺計画が露見してしまい、これがもとでネロはセネカに死ぬことを命じ、セネカは自害しました(ピソ事件)。その後は、各地に反乱が発生して、ネロは最後に自殺して、アウグストゥス帝の流れをくむ皇帝は途絶え、ローマ帝国は内紛の時代に入りました。
ルカ・ジョルダーノ作 セネカの死 1684年
ダヴィッド作 セネカの死 1773年