表参道ソフィアクリニック
1887年生ー1968年没
ノルマンディー地方の裕福な家庭に生まれました。父親は公証人。同胞7人の3男でした。
高校卒業後、1904年パリに出る。アカデミー・ジュリアンで学びました。
1910年頃、デュシャンは、身近な人たちを親愛の情も込めて描いています。
とても巧みに描いています。色彩のコンビネーションもよいです。少し毛羽立ったような筆触。セザンヌ風です。
厚塗りで、巧みな描写です。構成や色のコンビネーション、風合いがよいです。
二人の兄たちがチェスに興じています。またそれぞれの妻たちです。
同級生の友人です。とくにフォービズム的です。
展覧会会場です。左側の作品は1910-1911年「叢」という作品です。奥はキュービズムの下掲の作品です。
この「叢」という作品は、通過儀礼を著す概念的絵画だとのこと。キャンバスの布地が大変粗くて、タピスリーを思わせるくらい布地の繊維がうきでていますが、それも風合いです。この作品は概念絵画とされますが、画家によってはこの概念は説明されていません。
デュシャンは1911年にキュビズム運動に身を投じますが、ピカソやブラックのキュビズムが多面性へと分解することに主眼があることに対して、デュシャンの方は、運動へと分解することに主眼があり、いわば「力動的なキュビズム」というタイプのものがあります。
一般的に、キュービズムは多面体を強調しているために動きについては考えずに静止しているものがふつうですが、ここでは動きを表しています。キュービズム➕️未来派というふうです。
また、運命的とも伝統的ともいえる絵画の静止を打破の方向でもあります。でも破天荒な実現不能な一時的な試みです。
しかし、この作品は、所属していたキュビスムを研究するグループの保守的な批判(『裸体は階段を降りるものではない』と題名の変更を求められた)に憤慨し、グループ展に出品していた作品を自ら取り下げることとなりました。この1912年には油絵を複数点を制作後、油絵をほとんど放棄しました。1913年にアメリカでの展覧会でこの作品を含めて4点が出品され、それがスキャンダラスな評判を呼び、この作品が「屋根瓦工場の爆発」などと新聞で揶揄され、アメリカにおけるデュシャンの名を大きく広め、ニューヨークに移り住む大きな足がかりとなりました。この作品はデュシャンの絵画作品のなかでは代表作であり、美術史にも残るものとなりました。
左の写真は1952年elias elisofonによって撮影されたものです。単に参考までにです。
1912 処女
彼は絵が巧みでした。しかし、絵画制作を放棄して以降、概念芸術に移行したとは言っても、「作品」なるものははほとんど制作していません。それにもかかわらず、デュシャンがデュシャンとして現在まで世に知られているのは、彼が絵画を断念したきっかけになった『階段を降りる裸体No.2』と、レディメイドなどの変わった作品を制作するデュシャンです。
Philadelphia Museum of Art
渡米してから1915年に手がけて、1923年に未完成のまま放棄しました。
これは完成したら、ひとつの「作品」となったでしょう。もっとも完成しても完成しなくてもあまり関係がないようにも思われます。未完でもひとつの「作品」になりました
ちなみに、このひび割れは、輸送途中のアクシデントで生じたものであり、デュシャンはこのひび割れについて嘆くどころか、喜んだと伝えられています。なるほど、いい具合にひびが入っています。
上部のパネルは花嫁を表していますが、それは機械と昆虫の混成物です。衣服を脱いで裸体になっているそうです。下のパネルは独身者(9つの空洞の雄の鋳型)であり、複雑な機械を通して処理される性的な放出物を送り出しています。
このようにデュシャンを背景として、この作品のひび割れは、見ようによっては、なかなかいいものですね。
既製品(レディ・メイド)にすこし手を加えただけのものを作品として展示しました。既存の芸術の概念からは、全くあり得ないことです。これが1917年ですから、あまりに先駆的です。デュシャンがいかにアイデアマンであったかがわかります。アンディ・ウォホールの「キャンベル・スープ」やマリリン・モンローやジャクリーヌ・ケネディなどのアイコンもこの流れにあります。もっとも、いまなら何ら珍しくもありませんが。
デュシャンのレディ・メイドは「『芸術』ではないような作品をつくることができようか」という、これまたナンセンスで奇妙な逆さま発想の問いにもとづいてその回答として作られました。
1913年
これは自転車の車輪を椅子に固定しただけのものです。
これが最初のレディ・メイドと言われています。
(アルフレッド・スティーグリッツにより撮影)
普通の男子用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt)」という署名を書き入れました。デュシャンは自分の「作品」であるということを隠して、自分が自ら審査員を務めていた「ニューヨーク・アンデパンダン展」の第1回目に匿名で応募したもの。ここが多様性を受け入れるかどうか試すためでもあったようだ。この作品は、大きな物議を醸し、批判的意見のなか、出品を拒まれたため、結局、彼は審査員を辞しました。
ただ、現物は実際には、影で見えないように展示されたとか、反対の委員に破壊されたなどとも言われています。この写真はオリジナルを撮影したものですが、失われています。
デュシャンは直ちに次のような声明を出しました。「マット氏が自分の手で『泉』を制作したかどうかは重要ではない。彼はそれを選んだのだ。彼は日用品を選び、それを新しい主題と観点のもと、その有用性が消失するようにした。そのオブジェについての新しい思考を創造したのだ」
FONTINE 泉ないしは噴水は男性性器から流出する尿の流れに由来しているかも知れません。もっともこのように意味を読み取ることもできるとともに、何の意味もない、つまりナンセンスな作品でもある、というのが新しい概念芸術だということかもしれません。
そしてこの作品は、一般に世に知られるデュシャンの代表作あるいはトレードマークのひとつとなりました。
しかし、デュシャンは、このあとほとんど作品を制作発表しなくなりました。
1917年
エナメルを塗られたアポリネール
これはエナメル塗料の宣伝するブリキ看板。
友人で新人のギヨーム・アポリネールにかけられています。
1961年 瓶乾燥器
これはワインの瓶を乾かすための道具だそうです。そのまま持ってきているだけでのように見えます。デュシャンはこれをパリのデパートで購入したそうです。
1919. L.H.O.O.Q
スキャンダラスでもある、大変有名な作品です。これも随分なアイデアです。
これは女の体を楽器に見立てて、奏でてみる、というスキャンダルな発想をアート作品としています。
デュシャンはチェスに熱中していました。彼はセミプロの腕前でした。
1910年代からチェスに没頭していて、「芸術家」らしい活動はしていなかったようです。1920年代のはじめに、彼は芸術家をやめて、チェスプレーヤーになるとまで宣言しました。しかし、それと同時に、デュシャンはRrose Sélavyという女性の別人格を形成して、新たな試みをしていました。
1924年
デュシャンは、Rrose Sélavy (ROSE C'EST LA VIE) という女性の別人格を創り出しました。
1941年に戦火を避けて、ニューヨークに移住しました。
1941年 トランクの箱 / Box in a Valise 20部限定
デュシャンの過去の主要作品を網羅的にあつめたレプリカや写真などを収めたトランク。20部限定豪華版と300部未満の普及版があります。
アッサンブラージュ・インスタレーショ: 様々な構成要素の寄せ集め。デュシャンの過去の諸要素も組み合わせて作ってあります。デュシャンの集大成的な作品でしょうか。しかし、というよりも、先駆的で、いかにデュシャンがアイデアマンであったかを示すものです。あまりにも現代アートらしい遺作です。
1944-1966年
照明用ガス
表現形式 彫刻、インスタレーション
フィラデルフィア美術館
この作品は世に知れず、密かに制作されて、デュシャンの死後に発表された作品です。遺作の一つです。デュシャンは作品を制作していないで、とも批判されていましたが、実は隠れてこのようなものを制作していました。扉ののぞき穴をのぞくとこのような女性の全裸像がみえてきます。どう見ても、まるで、性犯罪の現場のようになっています。倒錯的かつスキャンダラスで不埒な香りがします。