表参道ソフィアクリニック
ヴェネツィアは強力な海軍力を背景にした地中海貿易の権益によって13世紀から16世紀にかけて経済的に繁栄した。王政を採らずに、元首を中心とした共和制による統治を1000年間続けたのが特異であった。
近代の抗争の歴史
イタリア内では権益をめぐって都市国家間での争いが熾烈であった。また自らの優位性を強めるために、オーストリア、スペイン、フランスとその時々に手を結んだために、コレラの外国勢力を招き入れ、近代の終わりには、ヴェネツィアは低迷しつつ安定し、そしてオーストリアとフランスに支配されることになった。
1198年の教皇インノケンティウス3世の呼びかけによる。
1203年-1204年に陸戦部隊のフランスと海軍力のヴェネツィアが、東ローマ帝国の難攻不落の帝都コンスタンティノープルを攻略し、ヴェネツィア軍は略奪殺戮強姦破壊の限りを尽くした。最も悪名高い十字軍の一つである。ビザンツ帝国はフランスとベネツィアなどのあいだで分け合われ、ビザンツ帝国の皇帝はフランドル伯ボードゥアンが任命され聖ソフィア大聖堂で戴冠式が行われた。それまでヴェネツィアは小さかったのに、ビザンツの領地を多く獲得して、一気に「ビザンツ帝国の8分の3の支配者」の称号が授けられた。それらの領地を基礎として植民地として開拓し発展させ、植民地の統治は、本国から領事が任命され送られ、任期があり、またそれを監査する委員が派遣された。またこれ以降、東西を結ぶ地中海貿易の覇権を握るようになった。
ConquestOf Constantinople By The Crusaders In 1204 15世紀
ドラクロワ作「コンスタンティノポリスの陥落」 1840年ごろ
地中海貿易と植民地の権益を巡ってジェノバと血みどろの戦争を戦い、団結と愛国心の強いヴェネツィアが優勢のうちに1381年トリノで講和が結ばれた。
イスラム勢力に対する防御の役割を果たしていた東ローマ帝国を第四次十字軍が攻撃して、東ローマ帝国は滅亡こそしなかったものの、国力の弱体化を引き起こし、そのためイスラム勢力が勢力を拡張しやすくなった。
オスマントルコ帝国は1452年コンスタンティノープルを陥落させ、さらに拡張して、ヴェネツィアの地中海貿易の権益は縮小傾向をたどった。ただしヴェネツィアは、トルコの膨張のなかで、1479年にヴェネツィアはキプロスを手に入れて、新たな東西交易の拠点にもして、したたかであった。
1284年にドゥカート金貨が発行され、地中海地域の金本位通貨となった。当時の技術の最高水準である99.47%の金を含有していた。
表面:聖マルコひざまずくドージェに旗(ゴンファローネ)を授ける。裏面:星々を背景に立つキリスト。
・複式の「ベネツィア式簿記」の発明。
・為替手形の発明による決済の円滑化(12世紀からあり、その後発展)
東方の海からの勢力に圧迫されて、ヴェネツィアは大陸側に進出して大国として生き残りを計った。イタリア北部には、ヴェローナではデッラ・スカーラ家、パドヴァではダ・カッラーラ家、ミラノのヴィスコンティ家が割拠していた。そのためにイタリア北部のこれら都市諸国家と抗争を繰り返した。
ヴェネツィアは1337年にヴェローナを攻撃した。1404年ヴェネツィアはパドヴァを攻略し、ラヴェンナも降伏した。1420年ハンガリーを攻略していくつかの地域の獲得した。
1420年代、ミラノのヴィスコンティ家が勢力拡大を図って近隣に侵攻したのを契機に、ヴェネツィアはフィレンツェと同盟を結んで侵攻して、ミラノから数十キロとのころにまで境界線を押し広げた。そしてヴェネツィア貴族が城塞都市に移住して、ヴェネツィアが統治した。
1430年代、フランチェスコ・スフォルツァが反ヴスコンティ家同盟の首領として活動した。
1440年代、ヴェネツィア、フィレンツェ、ボローニャが、反ヴィスコンティの同盟を結び、それに乗じてヴェネツィアはミラノの東の近郊の街ローディを獲得。
【ローディの和(伊: Pace di Lodi) 】
1454年 イタリア5大国がローディにおいて集まり和平条約を締結し、それまでの都市国家間の覇権抗争に終止符を打って、以後40年に及ぶ「イタリアの平和」をもたらした。これは1453年に、難攻不落の城塞の帝都コンスタンティノープルを、オスマン帝国のアメフト2世が陥落させた(東ローマ帝国滅亡)ことが極めて大きな衝撃を与えたため、ただちに現状凍結による勢力均衡が図られたものであった。つまり、ヴェネツィアのクワトロチェントはオスマン帝国の勢力拡大に圧迫されて、大陸側にせり出して都市諸国家と抗争を繰り返したが、結局オスマン帝国の勢力があまりに大きくなりすぎた(コンスタンティノープル陥落)ことから、一挙に都市諸国家との団結に転じた。しかしそれでも、オスマン帝国に圧迫されつづてヴェネツィアは総じて勢力が低下して、地中海貿易の権益も縮小した。
1481年にフェッラーラ(ポー川の港町として権限を振るっていた)を攻略したときには、周辺諸都市の同盟によってヴェネツィアは四面楚歌の状態に陥ったが、逆転して領地を獲得。これをフェラーラ戦争という。平和の時代の例外的な戦争の一つ。
それぞれの領地では貴族の既得権益を認めて妥協しつつ、ヴェネツィアの統治機構を置いた。
アフメト2世
1431-1481
フランチェスコ・スフォルツァ
1401-1466
傭兵隊長(コンドッティエーレ)で、スフォルツァ家最初のミラノ公である。
1453年に、オスマン帝国のアメフト2世が、難攻不落の城塞の帝都コンスタンティノープルを陥落させた。これにより、東ローマ帝国が滅亡した。
かねてから東ローマ帝国は弱体化が目立ったが、この滅亡はヴェネツィアにも極めて大きな衝撃を与えたため、イタリア諸都市国家間で直ちに現状凍結による勢力均衡が図られたものであった。
●元首 ドージェ(伊: Doge)
終身制。有力家系の出身で、なおかつ経験豊かであった。11回にもわたって複雑な投票が行われて選出された。また権限は細かく規定されていた。一人で、公的な手紙を出すことも、他国の大使に会うことも出来なかった。
「元首がいなければいかなる問題も取り扱われることがなかったが、元首は自分だけでは何も決められなかった」といわれた。
のちに元首の役割は次第に形式的なものになっていったようである。
元首が国家に損失を与えたならば、元首の死後に「特別審問官」によって遺産が差し押さえられた(1501年アゴスティーノ・バルバリーゴの場合)。
●元首評議会、総理府、内閣
元首と6人の元首補佐官は元首評議会を形成し、これに40人委員会の3人の長が加わって、「共和国総理府」を形成した。これらに各委員や幹事などが加わって総勢26人の内閣が作られた。
●大評議会
1493年には2000人ほどであった。大半は名門家系の出身者が占めていた。例外的な場合を除いて新興の富豪は除外された。こういった成り上がり者には昇進の道が全く閉ざされていた。経験や能力とは全く関係なくて、ただ生まれながらの出身の家柄だけで選ばれた。そのため大評議会の実質的な機能は他に移っていくことになる。
●40人委員会
ヴェネツィアの外で起こる訴訟を担当する法廷であった。
●元老院
もともとは元首が意見を求めた熟練者たちによって構成されていた。15世紀半ばには、120人で構成されていた。再選が可能で、1年の任期で大評議会によって選任され、その職種は多岐にわたっていた。
●10人委員会
治安、風紀、監視、秘密の調査、反乱の防止などの業務。
最高裁判所のような役割も持っていた。
大きな権力を振るうようになった。
「生来の不信癖をもつヴェネツィア共和国」を体現するような機関ともいわれる。
●国家審問官
1539年に設けられた。
●貴族
貴族だけが参政権を独占していた。大評議会に議席が持てるのも貴族だけである。
1513年には貴族の男性は2570人と、史上最高の人数であった。またその頃にはおよそ800の官職があって、それぞれ貴族によって占められていたという。しかし、彼らのなかには経済的な失敗による没落貴族もいて、その数は増える一方であった。
●市民
肉体労働には従事せずに、貴族と同じように、商業、銀行業、製造業に従事した。書記局は市民によって占められていた。
●下級市民
ヴェネツィア人と結婚したとか、ヴェネツィアに長く在住しているとかで、市民権を獲得してなおかつ税金を納めている人々。彼らのなかには、著名な法律家、医者、商人などもいた。
●聖職者
聖職者も税金を払った。裁判を受けたり、時には兵役に服さなければならなかった。そして国務からは遠ざけられていた。
●外国人
ヴェネツィアには大変多くの外国人がいて、貴族や市民は少しだったという。
●ユダヤ人
はじめは仮の居住権しか与えられなかったが、「ゲットー」での居住権を認められた。「ゲットー」という名称はヴェネツィア方言に由来する。
(イタリア戦争第1次-第5次、カンブレー同盟戦争、ウルビーノ戦争、コニャック戦争)
1494年フランス王シャルル8世がイタリアに侵攻して、抗争が再燃した。シャルル8世の後を継いだルイ12世も、イタリアにおいてスペイン-神聖ローマ帝国と覇権を争った。最終的にはスペイン-神聖ローマ帝国が勝ち、ルイ12世のフランスは敗退し、スペインがイタリアの諸都市国家を支配下においた。そのあいだヴェネツィアは独立を保ち続け、それどころかヴェネツィアは、イタリアの各方面を攻略して、東はトリエステを手中にするなどヴェネツィア史上最大規模の大陸領土を拡張させた。
カンブレー同盟戦(反ヴェネツィアの同盟): 1508年,カンブレーにおいて結成された反ヴェネツィア同盟。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世,フランス王ルイ 12世,ローマ教皇ユリウス2世,スペインのアラゴン王フェルナンド2世 (カトリック王) が参加。サボイア公、マントバ公、フェッラーラ侯もこれに同調した。当時イタリア内陸の諸都市に着々と力を張っていたベネチアの覆滅をねらうものであった。孤立したベネチアはカンブレー同盟軍に痛恨の大敗を喫し、征服した領土のいくつか返還を余儀なくされた。
1510年 ペストの大流行
神聖同盟(反フランスの同盟):
ヴェネツィアの勢力を押さえるというカンブレー同盟の目的を達したユリウス2世は、今度はフランスの勢力増大を牽制(けんせい)するために、1511年一転してヴェネツィアおよびスペインと神聖同盟を結成した。こうしてカンブレー同盟は解体した。 同年ユリウス2世の提案で、今度は、教皇、フランス、ヴェネツィアの神聖同盟が出来た。これによってヴェネツィアは失地回復もできたが、結局は押したり引いたりの状態であり、フランソワ1世に優るカール5世によって神聖ローマ帝国のイタリアでの勢力が伸張した。
コニャック同盟およびコニャック同盟戦争:反ハプスブルク同盟
勢力を拡大しているカール5世-神聖ローマ帝国に対して、1526年に秘密裏に「コニャック同盟(1526−1530年)」が結ばれた。同盟参加国は、フランソワ1世のフランス、クレメンス7世 (ジュリオ・デ・メディチ) ローマ教皇、ミラノ公、ヴェネチア共和国、フィレンツェ、ヘンリー8世のイギリス。つまりヨーロッパの列強の多くが反ハプスブルクに翻った。フランス西部コニャックで結ばれた。この戦争では結局、カール5世の神聖ローマ帝国が勝ち、ミラノの論ヴァルディア地方を獲得して、ヴェネツィアもカール5世に領土をいくつか与えて妥協した。
1557年フェリペ2世が王になる。
15世紀終わり頃には、銀行が相次いで倒産した。
カンブレー同盟戦などでの積み上がる戦費、海軍力の増強などの軍事費によって多くの国庫を費やしたために国の財政状況が非常に悪くなった。
ヴェネツィアは、16世紀の全体を通して、海での交易が次第に低下する流れとなった。そして交易以外の産業が発展する傾向が見られた。たとえば生産に関しては、金銀細工、ガラス製品、鏡、レース、比較、金銀糸織、印刷、毛織物業。とくに毛織物業は16世紀の初めから終わりにいたって、5倍以上増加した。また印刷はヴェネツィアがイタリアのなかでダントツに多く、ヨーロッパの印刷・出版産業の中心地の一つであった。
オスマントルコ帝国はヴェネツィアの支配下にある地中海都市を次々に攻略して、1500年代半ばには地中海の覇権を握るようになった。1570年にはオスマントルコ帝国はキプロスを占領した。そのためローマ教皇庁が呼びかけて、フェリペ2世のスペイン、ヴェネツィアとともに連合艦隊を編成して、オスマントルコ帝国に反撃して、1571年レパントの海戦を行い、大勝利を収めた。もっとも結局1573年のトルコとの講和条約ではキプロスを正式にトルコに譲渡した。
・1617年グラディスカの戦い。
・反神聖ローマ帝国同盟(対ハプスブルク同盟)に加わる:フランス宰相のリシュリューによる、30年戦争における反ハプスブルク包囲網。
17世紀には海賊がとくに横行していた。各国の海賊に、マルタ騎士団も海賊業に心血を注いだという。スラブ人の「ウスコック」は、ハプスブルク家の援助を受けており、ヴェネツィアの商戦に被害を与えていた。
1669年クレタ島をトルコに譲渡した。もっともこれは軍事的な喪失ではあっても、経済的にはさほど重要性がなかった。
1630年から31年: 4万6千人の死者
・フランス、オランダ、イギリスがトルコの税関から特権を獲得した。
・イギリスの「東インド会社」、オランダの「西インド会社」の設立。
・これらの国々と競争しなければならなかった。ヴェネツィアは地中海貿易の中心から追いやられた。ヴェネツィアは国際的な港から、地方色豊かな港に変貌していった。
・17世紀半ばのあるヴェネツィア商人のことば「枝や梢はまだ花を咲かせているが、根は今世紀の初めからもう朽ちている。」
・ヴェネツィアの国内産業は、諸外国の工場制手工業との競争を強いられて下降線をたどった。しかし、それでも贅沢品の分野では、ヴェネツィア製品は品質とブランド力によって、圧倒的な人気を保ち続けた。
・1595年、教皇パウルス4世の命によりローマ宗教裁判所から『禁書目録』が刊行される。このとき、125件中80件の印刷所が閉業を余儀なくされた。
資本家たちは、地中海貿易への投資を減らし続け、トウモロコシやブドウの農業のほうに投資を増やし続けた。
政治の機構が形骸化していき、円滑で素早い意思決定が難しくなった。
カルロス2世が死去した後、世継ぎがいないことから、ルイ14世のフランスとオーストリア・ネーデルランド・イングランドの連合軍のあいだで、スペイン継承戦争(1701-1714年)が勃発した。この戦争中そしてそれ以降ヴェネツィアは中立主義を公言したが、すでにヴェネツィアの政治的な存在感が低落していた。イタリアは、オーストリアに支配され、ヴェネツィアはイタリアから手を引いて、地方の一都市国家になっていった。
1714年-1718年トルコがヴェネツィアに対して宣戦を布告した。激しい攻防戦の末に、1718年パッサロヴィッツ講和条約が締結されて、ヴェネツィア領の境界線が最終的に確定して、ナポレオンの登場までヴェネツィアは平穏を維持できた。ヴェネツィアの領土は縮小したままでの確定であった。
制度改革の提案者は、<伝統への回帰>を標榜する保守派などによって阻止され、追放されたりした。
ヴェネツィアには政治の制度改革の基盤となるブルジョワ階級は、そもそもあまりおらず、層が薄かった。
またこのことはさらなる産業の低迷もひきおこしていた。
毛、絹、綿などの織物産業、ガラス産業、紙の生産と印刷出版などが低減した。総じてフランスやイギリスなどの経済発展と比べて、相対的に下落傾向。17世紀に引き続き18世紀も農地所有と農業へのヴェネツィア貴族らの個人投資が盛んであったが、総じて現状維持であった。
イタリア戦役で戦っていたナポレオンのフランス軍とオーストリアの間で、1797年カンポ・フォルミオ条約という講和条約が締結され、ヴェネツィアとヴェネツィア共和国領はオーストリアが領有することとなり、ヴェネツィア共和国は正式に消滅した(1797年)。 それ以降70年間は、オーストリア→フランス→オーストリア→フランス→オーストリアというふうに支配された。ナポレオンは、ヴェネツィアの港湾工事、防波堤修理、ガラス工業の補語、造船所への援助、アカデミア美術館創設やマルチャーナ図書館の援助などの復興事業を行った。しかし、総じてヴェネツィアは荒廃状態であった。人口は10万人を割り込んだ。
主としてオーストリアの支配のもとで、ヴェネツィアは衰微したが、反抗や反乱も行われた。
1866年、圧倒的な賛成によって、イタリア王国に併合された。
道路や通りの新設、主要な通りの幅の拡張、臨港駅開設、コレラ対策など街の浄化などが行われた。しかし伝統を重んじる気風もあって、なかなか進まず、コレラの流行もやはり見られた。
1917年、政府とヴォルビ伯爵が本土のマルゲラという地区に港と工場群を建設し、やがてマルゲラ工業地帯として発展した。
1930年頃リベルタ橋が建設された。
1893年、ヴェネツィアを不振から救い出し、文化都市として再浮上させるべく、「ビエンナーレ」国際美術展が開催された。
1932年ヴェネツィア映画祭を開催された。
1934年ヴェネツィア演劇祭が開催された。
マルゲラのあるヴェネト州は、工業と農業(含・食品加工)が盛んとなり、失業率が低く、国の総輸出の12パーセントを占め、イタリア第3番目の工業地帯となった。