表参道ソフィアクリニック
総じてわかったようなわからないような議論です。考え方が一面的で偏っているようにも思われます。それでも真理の一端を指摘しているように思われます。
かつて、思想の世界では、悪の起源を全能の神に求めることができるのか否かについて意見が分かれていました。全能の神が創造したこの世界になぜ悪がはびこるのか。思うにいずれの立場の説明でもわかったようなわからないような内容だったでしょう。この世の悪の原因を神に答えを求めてもよくわからないのです。大陸合理論のライプニッツも悪の起源の理由を神に求めて、音楽の不協和音のように協和音の美しさを引き立たせる役目があるとさえ考えました。ルソーは、悪の起源を神に求める見方をやめて、それを社会制度や政治に求めました。当時の社会制度や政治だけではありません、ルソーは太古や古代に社会制度や政治が始まった頃から、つまり文明化が始まった頃に遡って、悪が始まったと推論しました。文明化が始まる以前の自然状態は、自由であって、平和であり、悪もありませんでした。人間が社会化し政治化し文明化すると自由と平和が損なわれて、悪が始まります。悪の起源についてのルソーの考察は文明論つまり文明批判でした。
ルソーはさらに次のもう一歩へと進めます。ルソーは学問と芸術が完成に近づくにつれて、「私たちの魂は腐敗した」、とテーゼを立てます。これはある国の出来事であると共に、世界共通でありそして人間の歴史に普遍的なことであるとします。にこれはどういうことでしょうか。
人間の社会化と政治化とともに学問、文学、芸術が、自然状態の自由を奪われた状態を愛する文明人を作り上げます。とくにルネサンス以降の学問、文学、芸術がそれを推し進めます。学問、文学、芸術は、矛盾に満ちた社会にあって現状追認型の精神をより強化するということです。つまり「鉄の鎖を花束で飾り、人間の生まれながらの根源的な自由の感情を窒息させ、人間に隷属状態を好ませるようにすることで、いわゆる文明人を作り出した」といいます。
いったん文明化した以上、もう人間はそれ以前に戻ることはあり得ません。文化は文明化によってもたらされ、文化は文明の弊害を温存させる傾向があるため、文明化された中での文化のありかたの問題を考え直さなければなりません。
世の中には学問、文学、芸術を善きものとして手放しで称賛する風潮があります。ルソーにとってはそれは悪しきものでありますが、かといって学問、文学、芸術を放棄するわけにもいきません。ルソーはそのネガティブな側面を根底的に問います。ルソーは学問、文学、芸術の弊害について散々に悪く批判します。もっとも学問、文学、芸術も社会の役に立つ途はあるともいいます。それには学問、文学、芸術は野放しにしておかずに、よく統制することが必要だとします。『学問芸術論』ではたとえばルイ14世がつくったアカデミーがその機能をよく果たしていることを評価しています。またルソーの時代の王であったルイ15世が発展させアカデミーはその点とくにに優れていると持ち上げます。
ルソーがなぜ、「中世以降」とせずに、「ルネサンス以降」と考えたのでしょうか。なるほどルネサンス以降に文明・文化が発展しましたが、単純に論理的に考えたことなのでしょうか。ルソーは、中世には素朴な文化であったものがルネサンス以降に変質して、ルネサンス以降の文化に体感的に何か違和感を覚えたのでしょう。あるいはルソーのフランスの文化を体感して、それにたいする違和感の起源をルネサンスに見たのでしょう。
そういえばバフチンは中世に見られた笑いの文化が、ルネサンス以降に衰退したことを主張していますが、これとも結びつけて考えることができると思われます。中世のお下劣な笑いの文化は既存の社会政治制度に対する反抗の文化でもありました。それにたいしてルネサンス以降はそのような反抗の文化が衰退したと考えられるのです。それにかわって、あるときには上品だがあるいときには恐怖感さえ引き起こす文化を感じさせるといいます。
学問と芸術が完成に近づくにつれて私たちの魂は腐敗したことを、歴史を遡って古代文明に目を向けます。
たとえば古代アテネ、古代ローマ(東と西の両ローマ帝国)、中国、エジプトなどの例が挙げられています。これらの古代文明においては発祥から発展そして強国に至る間は人々は素朴に生きていましたが、やがて暇と奢侈が生じるとこの悪徳の結果として学問文学芸術がはびこるようになり、人々はこれにうつつを抜かし、こうして自分のことしか考えず、国のことは顧みず、勇気を失い、逆境に弱くなり、(雄弁家や哲学者など)口だけ達者になりました。徳の研究によって徳の実践を失い、信仰を失い、国力が衰退して外国に攻め滅ぼされたといいます。要するにルソーは学問文学芸術は人間を腐敗させ弱体化させるというのです。
それと対照的なのはスパルタです。スパルタは学問、文学、芸術を追放したことから国力が維持されました。
またルソーは当時のアテナイの人々に抵抗して「無知の知」を説いたソクラテスを高く評価します。ローマでは老カトーがこれを引き継いだと言います。
学問と芸術が完成に近づくにつれて私たちの魂は腐敗した、ということの歴史的事実としてルソーが見ているのは学問と芸術が国家を滅亡させたという点です。国家の滅亡をその典型的な弊害の証左とみています。要は学問と芸術にる魂の腐敗とは、自分のことしか考えないという事にあります。これが国を滅ぼすのです。
このように学問芸術文学の弊害について述べていますが、これは結果論です。つぎに学問芸術文学の出自を問います。学問芸術文学とはそもそもどこから始まったのでしょうか。ルソーは暇と贅沢から始まったと主張します。つまり原因論です。
天文学は迷信から、弁論術は野心や憎しみから、幾何学は貪欲から、物理学は好奇心から、道徳は傲慢さからうまれ、これら学問と芸術の起源は結局は暇と奢侈(贅沢・虚栄)にはびこる悪徳である、とルソーは断定します。この悪徳とは、まず、何もしないという悪徳、不作為の悪徳です。時間を浪費させる悪徳。それから祖国、宗教、聖なるものの価値を毀損する悪徳です。
「人々から抜きん出たいという願望」が「奢侈」「虚栄」などをうみ、あるいは学問文学芸術をうみます。それは出発からして自分のことしか考えていません。こうしてできた学問文学芸術は、自分のことしか考えないような傾向をさらに強めます。
ルソーが問題にしているのは国力の弱体化、衰退、滅亡です。ルソーは愛国者であり国を憂う人です。国の経済発展を問題にしているのではありません。外敵に打ち勝つための国民の意識の高さ(祖国愛)、気力、強靱さ、健全さ、勇気です。
またルソーは、奢侈で輝くが短命な国家よりも、有徳であり持続する国家であるべきだと言います。
しかしルソーの政治思想は決して全体主義的ではありません。国家による強制性をネガティブに捉えています。そして次の作品である『人間不平等起源論』では、憐れみの情を原理に据えています。これが他者との関係性の形成のための根本原理となっています。
ルソーの政治思想は、現代で言う欧米型のリベラル派にも通じるものがあるのでしょうか。
学問芸術文学は、人から抜きん出るというモチベーションから生じて、利己愛をより一層強めることに資する側面が確かにあります。この点は正しいと思います。
ルソーのいう、学問文学芸術は人間を腐敗させ弱体化させるといいますが、これはたしかに重要な観点だと思われますが、しかし「腐敗」「弱体化」というのはいいすぎではないでしょうか。ルソーの扱っている問題はとても根源的ですから、根源に遡れば正しいかもしれません。文明化以前にはより生き生きとした精神を持っていたかもしれません。ルソーはそもそも理性の発展=文明化が根源的にネガティブであるといっているようです。たしかにこれによって弱体化した面もあり、また自分のことしか考えずに人のことをあまり考えなくなったとも言えるでしょう。
因みにこれはポスト構造主義にもつながることかと思います。デリダによるロゴス中心主義にたいする批判、フーコーの反理性の立場に近いでしょう。
ただ、ルソーの見解は偏りがあると思われます。ただ、学問文学芸術を手放しで礼賛するものではないにしても、そのネガティブな真理を拡大しすぎてはいないでしょうか。これについてはより充実した考察も意義のあることかと思われます。
また勇敢さの喪失についてはどうでしょうか。因みにフランスは近代以降は戦争に弱い国でした。それはさておき第二次世界大戦の戦死者数を見てもわかるように、文明化によって勇敢さが失われるという考え方はほぼ誤りと言えるでしょう。この大戦で当時の最先端の文明国である国々の軍人の戦没者衆は、アメリカは40万人台、イギリスは30万人台、ドイツは400万人台、日本は200万人台です。因みに早々に降伏したフランスは2万人くらいであり、もしかしてフランスはルソーの言っていることが当てはまっているのかもしれません。対してドイツも日本もとてつもない犠牲を払い負けたのは不作為でもなければ勇敢でなかったわけでもありません。ルソーの言わんとしていることは重要ではありますが、この点ではルソーは間違っています。文明化によって勇敢さが減じるとは思えないのです。ただし、日本では兵隊として取られた人々の多くは農村部などの貧しい人が多かったででしょうが、どうでしょうか、欧米も含めて必ずしもそういう問題でもなかったように思うのですが。
マンデビルの主著『蜂の寓話――私悪すなわち公益』 では私的な利益追求が全体としては公共の利益になるという考え方。ルソーはこれに反対する立場です。ルソーは私的な利益の追求よりは私における公益の意識が徳であるとします。この公益の重要な出発点が『人間不平等起源論』における「憐憫の情」です。これは個人心理のレベルの側から、他者そして共同体や国の全体の公益に至るまでも考えてみようとする試みでした。ルソーにとって、それにたいする阻害要因になっているものが学問芸術文学などであり、つまり理性(raison, raisonnement)す。しかし、どうもこれは抽象的な見解のようにも思われ、必ずしもすっきりはしないようなのです。自分の利益ことしか考えないというのは、むしろ、資本主義経済の論理であろうかと思われます。資本主義経済の論理がグローバル化し、心の内面にまで浸透することのほうがより私益を求める傾向を強めるのではないかと考えられます。
「奢侈」「虚栄心」「人々から抜きん出たいという願望」は学問文学芸術を生み出し、生み出された学問文学芸術を身につけることで、自分のことしか考えないような傾向をさらに強めるストーリーです。ただもっと資本主義経済の活動について論考してもいいのではないかと思います。マンデビルは経済活動の水準として論じています。ルソーは経済抜きで、心理的な精神論的な水準だけで議論しています。ルソーの有徳の国家は持続的であり、マンデビルのいう国家は輝かしいが短命です。このような二分法では片手落ちのように思われます。ルソーのいっていることも正しいし、マンデビルのいっていることもそう間違いではなかろうとも思われます。徳を欠く国家や経済はやがては滅びるのも確かだと思われ、ルソーのいっていることも正しいのです。資本主義経済といども、徳を欠くと自滅的になると思われます。
社交性は人と人との交流の出発点になるものです。
これはたとえば上品な社交界でのことや(上品な服飾や礼儀作法)、アカデミーのような場所での著作や論文を発表し合うことも含まれています。それらは洗練され完成された趣味であり、文化です。その他、社交性とは近所づきあい、人付き合いもこれに含まれているでしょう。しかし何よりもルソーは前者の社交性のネガティブな面を描こうとします。ルソーにとって社交性とは偽物の側にあります。これらは精神と身体の貧弱な内実を覆い隠すための装飾です。外見上は悪徳を戒めますが、別の種類の悪徳を行い、美徳を備えているかのように表を飾り立てます。
社交性と憐れみの情・友情(『人間不平等起源論』)とを比較すれば、社交性は偽物の側に憐れみの情・友情は本物の側にあります。社交性は人為的に作られたものであり、憐れみの情は生得的で自然な感情です。社交性は、他者に開かれているようでその実は自分のことしか考えていません。憐れみの情は他者に開かれたもっとの重要なモチベーションです。徳という観点から見れば、社交性は徳ではありませんが、憐れみの情は徳の根源としてルソーは位置づけています。もっとも憐れみの情は自然人においては、まったく「徳」などとして位置づけるものでもなく自然なものであり、徳は文明化されたものとも言えるのでしょうが。
以上のように社交性はネガティブなものとして捉えられますが、社交性は学問・芸術と同列に位置づけられます。学問・芸術も社交性の一種であり変化形、ヴァリエーションです。
se distinguèrent
ここでは上品さとはとりわけ上品な礼儀作法や服飾を指しています。ルソーはなぜ上品さや礼儀作法を批判するのでしょうか。まず礼儀作法において真の信頼関係や友情はないからです。上品な礼儀作法は虚飾の文化の一種です。この礼儀作法とは、学問、文学、芸術と並べられるものです。
ソクラテスの「無知の知」が真の賢者であり、世間で賢者とされている知者の偽を暴きます。この観点からすると、ルソーの批判している学問芸術文学はどんなタイプか一定のわかりやすさがあります。ソクラテスも哲学者と見なされることもおおいですが、彼は他の似非哲学者たちの無知を暴くという点において、真の哲学者です。偽の知は何か実体を作り出し、真の知は実体を作り出さず柔軟であり、実体の虚偽性を暴きます。この実体的な知が、学問芸術文学であり、それをルソーは批判してます。学問芸術文学を根底的に全否定しているわけでもないと思われます。しかし、学問芸術文学には、知らず知らずに陥る罠もあるということでしょう。そして真の学問芸術文学とはかなり狭き門でもあろうと思われます。そしてまたルソーは無知について知らないことで傲慢さが生まれ「残忍にして凶暴な無知」にもなるといいます。かなり根深いものがあるのでしょう。無知であることができるということは重要です。「無知の知」は学問芸術文学を学び創造するさいのポジションでもあろうかと思われます。ルソーの思想は、そういったことに目を向けてくれるきっかけになると思われます。ルソーは「賢者とは無知になることができる人である」といいます。それならば真の学問芸術文学を生み出す人も無知になることができる人です。創造の源泉であろうと思われます。しかし、この創造された産物がまた固定化されて硬化した知(あるいは理性)になるという筋道もあります。
例えば音楽家にも真と偽があります。音楽全般が偽だとしているわけではありません。ルソーは作曲家になることを目指し、オペラの作曲もしていました。また彼の作品の一つがルイ15世の御前で演じられ、好評となり、国王から年金を拝領することにもなりました。もっともルソーは貧困であるにもかかわらずそれを断ったのでした。ルソーの音楽を聴いたことはありませんが、その真贋はいかがでしょうか。思想と芸術的創造物は違うので、仮に面白くなくても、ルソーの思想の価値が下がる訳ではありませんが。
真の賢者と偽の賢者、真の芸術家や作家と偽の芸術家や作家、真の学者と偽の学者を分けるものはなんでしょうか。そして真の名誉と報酬をどのように与えるあるいは得るのでしょうか。
またルソーは、王立アカデミーに期待を寄せています。これは時の政権におもねる付け足しのような見解であるようにも思いましたが、どうなのでしょうか。
往々にして賢者に対して名誉と富の配分が不公平に行われがちなことをルソーは危惧します。偽の賢者に名誉と富が与えられ、真の賢者には与えられない、そして真の賢者が不名誉を背負わされて「蔑まれつつ貧乏のうちに死んでゆくだけ」になりがちです。ルソーは少なからず論敵や世論から攻撃され、官憲に監視され、そして経済的には恵まれず大抵貧困でした。