表参道ソフィアクリニック
・ルノワールの作品はなぜかしら、頭部が小さいことが多いです。
ルノワールはルノワール風の雰囲気があるとともに、変幻自在に画風というか画質を変えるところがあります。またルノワールの画業の中で、ピークを形成するような大作がいくつかあるのでそういった作品もおさえておくきたいところです。
ルノワールは1862年に国立美術学校に入学し、かなりな成績をおさめたようです。またそれと並行して1861年からシャルル・グレールというスイス出身の画家が主宰する私立美術教室に通っていました。この美術教室でとりわけ重要だと思われるのは、1862年から入門した、フレデリック・バジール、クロード・モネ、アルフレッド・シスレーもいて、親しくなったということでしょう。1863年の落選展では数年先輩であるマネが『草上の食事』を出品したという美術史上の重要な出来事もありました。
ルノワールはまずはアカデミズムの流れが優勢なサロンに出展をして1864年、1865年と入選をはたし、画壇にデビューしましたが、大して評判にもならず、注目もされなかったようです。1866年、1867年には落選。
1867年ごろにはモネとともに金持ちの息子であるバジールのアパルトマンで共同生活をしていました。
1868年から1870年にかけてはサロンに入選。
1866年のモネのサロン入選作品『カミーユ』の表現力と比べても、ルノワールはまだルノワールとして十分に開花していないように思われます。平たく言ってしまえば、この時期は、ルノワールよりモネの方が上手いように見えるのです。
1870年、フランスとパリの大危機である普仏戦争が勃発し、ルノワールも召集されましたが、うつ状態になり除隊しパリに帰りました。パリ・コミューンにはほとんど関心を示さなかったとも伝えらえています。
1873年、大作『ブーローニュの森の乗馬』をサロンに出展し落選。この絵画は、ブルジョワの夫人とその息子の乗馬の姿を描いていますが、迫力のある構図になっています。おそらくこの時期に大きな進展があったと思われます。また、それとともにルノワールはこの作品の頃から、サロンと決別する方向へと進んでいったようです。また1873年には、「落選展」を当局の援助のもとで行うのではなくて、自分たちの手で行おうということになり、「印象派」の画家たちが集まって、共同出資会社が設立され、ルノワールもその社員になりました。この年はルノワールに取っても大きな方向転換の年であったと思われます。つまりサロンと決別して印象派の仲間たちと新しい進路を歩むことにしたのでした。この集まりに基づいて、1874年第1回印象派展が開催されました。ここでは有名なモネの出世作『印象・日の出』が出品され、「印象派」という言葉がつけられました。
1875年は、すでに共同出資社が負債を理由に解散して、印象派展は開催されませんでしたが、ルノワールはサロンに出展して落選。翌1876年には第2回印象派展が開催されました。1877年に第3回印象派展が開催されました。ここにルノワールは1876年製作の『ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット』などを出展しました。金持ちの画家であり、数少ない絵の購入者であったカイユボットがすぐにこれを購入しました。1870年代の初めの方から早くもポール・デュラン・リュエルの後援を受けていましたが、次第に支持者、購入者の数は比較的増えていきました。といっても少数のままです。
1878年には、それまで離れていたサロンに復帰して、1879年には、サロンに出展し、印象派展には出品しませんでした。彼は「印象派」に分類されることにも承服しませんでした。このサロンでルノワールは復帰を歓迎されたばかりか、成功を収めました。とくに『シャルパンティエ夫人と子供たち(1878年)』はサロンで絶賛されルノワールに対する評価を確かなものにしました。この作品はブルジョワの優雅にして豪華な生活を描く構成になっています。しかも何気ない一場面として描いています。これはおそらくルノワールの記念碑的な作品の一つであろうと思われます。サロンの成功は、シャルパンティエ夫人の種々の支援のおかげもあっての成功でしたが、さらに夫人はルノワールを各方面の人々に紹介して、彼は人脈をつくることができ、それをきっかけに肖像画の注文を多数受けるようになしました。こうしてようやくルノワールは貧困から抜け出し経済的ゆとりを得ました。
1879年頃から度々セーヌ河畔を訪れるようになり、1881年に大作『船遊びをする人々の昼食』を完成させました。これは、『ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット』と同サイズで似たようなテーマです。この作品は、これまでのルノワールの表現の延長にあり、さらに巧みで円熟した描写にもなっています。彼の画業の履歴のなかで頂点の一つを形成しています。
1881年から、アルジェリア、イタリア、そしてマルセイユの近くのエスタック(セザンヌがいた)に旅行。とくにイタリア旅行では、古典の作品がルノワールのその後の作品の方向に大きな影響を与えました。1882年に彼はサロンに出展しましたが、逆に第7回印象派展には参加しませんでした。しかし、デュラン=リュエルはルノワールの代表作のひとつ『船遊びをする人々の昼食』をこの印象派展に出品しました。ルノワールは印象派展から距離を置いていたので、この出展は彼の積極的な意思ではありませんでした。
1881年『浴女』ではのちに結婚するアリーヌをモデルにしたらしいのですが、イタリア絵画とアングルに啓発された古典主義への回帰を意味する最初の作品としても位置付けられます。他方、イタリアから帰国して着手した3つのダンスの絵は、1883年に完成しましたが、これまでのルノワールの印象派的な流れにあります。『浴女』はルノワールの先々の絵画群の兆し程度の作品で、まだそんなに出来が良くもないように見えるうえに、まだ単発的です。後から振り返れば、このころからそろそろ古典主義的な作品が出始めていたではないのか、といったところでしょう。でも目利きの、印象派の画家たちからすれば、それまでのルノワールとは違うもの、つまり古典主義をそこに見出したようです。
ルノワール自身の言葉を参考にしますと、1883年ごろに、印象主義をとことん突き詰めて、行き詰まったことに気がついたということになります。なおも、ルノワールは、さらなる試行錯誤の途上にあったのです。このように永続的な試行錯誤と変革には、苦難も伴っていたのではないかとも推察されます。もっともルノワールだけでなく、それ以外の印象派の画家たちも、80年代の前半から、技法の刷新を模索していました。つまり印象派に充足することはもやはできないのです。これは19世紀末から20世紀にかけての美術史の苦難の歴史の始まりでもあったでしょう。たとえば1886年に、点描技法の記念碑的作品であり、最初の大作であり、最大級の作品である『グランド・ジャット島の日曜日の午後』が第8回印象派展(最後の印象派展)に出展されました。点描派は「新印象派」とも呼ばれます。他方、モネは1883年に田舎のジヴェルニーに自然自分の美の空間である人工庭園を作ってそこに住居も建てて移り住みました。これは印象派の大きな変転の潮流のなかで、モネなりの舵取り方法の一つだったと考えられます。ルノワールのほうはといえば、古典主義を取り入れつつ、自身の芸術世界を深めます。ルノワールの諸作品を通覧すると、1883年ごろから古典主義的な作品が増えてきているように思われます。その頂点の一つが足掛け4年もの歳月をかけて緻密に製作された大作『浴女たちー装飾画の試み(1887年)です。4年かけて完成度が高いとはいえ、この画風がルノワールのものとして確立されてその後も同じような画風のものが制作されたわけではありません。また違う画風が現れます。その意味で、この完成度の高い作品は、彼の作品の中での通過点でありつつも、つかの間の頂点の一つでした。
1885年(45歳ごろ)にアリーヌとのあいだに長男ピエールが生まれます。まだ正式には結婚していませんでした。未婚の母であったために、アリーヌはルノワールの「愛人」と呼ばれることもあります。代理の父親はカイユボットでした。その後、アリーヌの生まれ故郷の村(フランス中部オーブ地方のエッソワ)で、住まいを購入し、アトリエを建て、3人で暮らしました。以後そこがルノワールの拠点のようにもなりました。彼は身近に自然と親しみ、そして、絵画には裸婦が自然と溶け合うような作品も目立ちます。こういった傾向は古典主義的な傾向とよくマッチしています。多様性も特徴であるルノワールですから、これまでの自分の流れも温存しながら、対象の性質に応じて、臨機応変に画風を変えながら制作するのが彼のやり方です。また、1883年の『田舎のダンス』と『都会のダンス』というふうに対比的に描いているように、田舎を舞台に描いたり、都会のブルジョワ家庭を舞台に描いたりもします。ルノワールの元からの傾向でもありましたが、彼はますます女性を多く描いています。裸婦像にもより一層熱心に取り組みます。彼は絵画の対象としてことさら女性性に注目していました。そして女性性を多面的に表現して、ある時にはこちらの側面を、また他の時にはあちらの側面を、というふうに。田舎娘と上流階級の娘を見るルノワールの眼差しは異なります。そしてまた、階級特性を超越した、無階級的なアルカディアに憩う女性像も描かれるようになります。裸婦は、衣服という階級を示す重要な指標を身につけていません。アルカディアの中の裸婦像は普遍性がテーマでもあります。
1889年にはルノワール一家はモンマルトルに引っ越してきました。
1890年にアリーヌと結婚式を挙げました。
1901年に末息子のクロードが誕生しました。
顔面神経麻痺と顔面神経痛、手足のリウマチが次第に悪化していきました。またルノワールの老化は割と早かったとも言われています。1895年(54歳)の写真では枯れた風貌で既にもう老人のように見えます。といっても78歳まで生きましたから、当時としては文句無しの「大往生」です。因みに笠智衆も見ようによっては50歳前後で既に老人のような風貌で味がありましたが、89歳まで生きたようなものです。
1890年代は、印象派全体の衰退の時期であるとともに、幸か不幸か印象派にたいする排斥もなりをひそめました。批判がなくなるのも、良し悪し両面があるでしょう。印象派は批判されるから存在意義があった潮流かもしれませんし。ルノワールも次第に公的に評価が高まりました。しかし、ルノワールの方はこれまでの自作は全て失敗作だから自作が展示されるのを観るのは、「心底しのびない」とも話したり、1890年の叙勲の働きかけを断ったりしました。
1900年にレジオン・ドヌール5等勲章が授与されました。彼が公的に認められた一つの象徴的な出来事のひとつです。またそれに先立ちフランス絵画100年記念展に彼の作品が11点展示されたのも同様のことです。また商業的にも成功し、モネやドガの作品と同様に高値で売買されるようになりました。
1907年にニースにちかいカーニュ・シュル・メール市の村に別荘(コレット荘、現在は美術館)を建て、徐々に彼の主な住まいになっていきました。寒さは彼のリウマチに良くなかったという理由もあります。
アポリネールは1913年に「ルノワールは絶えず成長している。一番新しい絵が常に一番美しい。そして一番みずみずしい」と。またマチスは1918年に「ルノワールはわれわれを潤いにかけた、純然たる抽象化から救っている」と語りました。
1912年には歩行を諦めた。そして絵を描くことに全精力を注ぎ、家事手伝いの女がモデルになり、手は変形し、痛みを抑えるために包帯を巻いて筆を握らせた。
1915年に妻に先立たれた。また息子二人が第一次大戦にも出征した。
1918年ルノワール「私の描く風景は付属物に過ぎない。いまはそれを人物像といかに溶け合わせるかを模索中だ」
死の数時間前に絵を描いた後に「ようやくなにかわかりかけたようなきがする」と話したといいます。
ルノワールが描く対象である人物は、様々で、老若男女、階級の上から下まで、いろいろなパーソナリティでして、幅広いです。そしてそれぞれの対象に応じて筆触や画風を自在に変えてきます。風景画にも力を注いでいますが、風景画の方は、たとえば親交の深かったモネに似て、モネ的であったりなど、総じて今一つのところも多いという印象を持ちます。彼は自らを風景画家とは決して位置付けず、早くから人物画家として位置付けていました。しかし、とくに後期には人物と自然の融合したような古典主義的なアルカディアの世界も描かれます。
「絵というものは壁を飾るためにある。だからできるだけ内容を豊かにすることだ。絵とは、好ましく、楽しく、きれいなもの ➖ そう、きれいなものでなければならない」これはルノワール展で壁に掲示されていたルノワールの言葉です。英語も併記されていてきれいは'pretty'でした。フランス語では何なのでしょうか。通常はきれいやprettyに相当するのはbeau(belle)よりは、jollyです。jollyとは通常はbeau(belle)よりは、結構軽めの言葉です。
またbeau(belle)はネガティブな要素とポジティブな要素が混じり合っているものだとすれば、jollyはポジティブな要素だけだったりします。
そしてまたこの言葉が発せられたのは一体いつなのでしょうか。普仏戦争やパリコミューンからしばらくしてからではなかったでしょうか。ルノワールの政治意識はどのようなものであったのか、ということも考察に値するテーマではないかと考えています。
感触の悪い冴えない作品群
ルノワールには、どことなく感触の悪い、冴えない作品群があります。
1868年
猫と少年
オルセー美術館
全裸となった少年の後ろ姿を描いています。
古典古代の彫刻のようでもあります。きめ細かい肌、そして均整のとれた身体です。のちのルノワールの古典古代への回帰とは大分違うやり方での、古典古代的な表現です。画家が若い時代で、基本に忠実に真面目に堅実に取り組むということでもあるのでしょうか。
満足げな表情の猫です。享楽の表情でもあります。こういった表情をした猫は、ルノワールの他の作品でも描かれていますから、このタイプの猫は「ルノワール印」とでも呼べるかもしれません。猫の満足は、誰の満足でしょうか、なんの満足でしょうか。
またこの少年のエロスの面もあるはずです。もしかして、これはギリシア神話に出てくる愛神エロスのイメージと重ねられているのかもしれません。もちろんエロスのように翼とか弓などは持っていませんが。
猫の尻尾は少年の手首に絡みついていて、離れてみるとまるで少年の手首を縛っているようにも見えます。これは少年を離したくないという気持ちが現れているのでしょう。つまり猫の尻尾は優しく拘束しているというというニュアンスさえ含んでいると思われます。
古典古代の彫刻と同様にお尻の形状の表現も重視されています。
この作品全体を少年愛というスキャンダラスな着想にまで結びつけるのはいかがなものでしょうか。
この作品は、印象派的という側面はないこともないとしても、むしろアカデミーの流れからそう遠くに離れていないかもしれません。ルノワールは描く対象によって、筆触や画風を変化させますが、印象派展にだした前年の「エチュード」とこの作品の違いはあまりに大きいように思われます。まだ彼の中には既存の流れと新しい流れが並存していたものとも考えられます。
オーソドックスな表現によって、きめ細かい少年の肌の表現にも注力しています。
ルノワールが駆け出しの頃の作品です。
1874年
『桟敷席』
第1回印象派展に出品された数点の作品のうちの一つです。
この作品はルノワールらしさがとくに現れている、迫力のある構図です。種々のタイプの女性を描くことと、種々の階級を描くこと、というルノワールの方向性があります。この作品の場合には高級娼婦(ココット)という女性像を描いているとされますが、それ以上にブルジョワの一断面を描いています。豪華なニュアンスがあります。
1874年
ジョルジュ・アルトマン夫人 Georges Hartmann
オルセー美術館
まえにたしかオルセー美術館展で来日したので、今回再来日です。人物や画面の大きさともに堂々たるものがあります。やはり人物描写をするにあたって人物の特徴である堂々とした風格を画風によって表現するだけでなく、画面の大きさとも呼応させているのでしょう。
薄く大雑把に描いているようにも見えます。顔だけは丁寧に描かれています。この作品は肖像画として、顔に焦点が当てられています。そして、それ以外は均等に近いのです。早いスピードで意図的に大きめの筆触を残しています。つまり顔だけが際立っていて、それ以外の黒い服を着た身体と背景の諸々の事物の表現上のコントラストが低くて、ほぼ均質に近いのです。もっとも黒い服を着た身体は、背景から若干浮きだって入るのですが。全体に薄暗がりに黒い服を着た身体は沈みがちです。
そしてこの作品のもうひとつの特徴としては、全体に薄暗いということです。この薄暗さが、この作品の雰囲気を作っています。もっとも顔は白く、黒い服や背景からコントラストとして浮き出しています。この人物の顔色は必ずしも血色の良いものではなくて、青白いくらいとも言えるでしょう。不健康そうで顔色が良くありません。もっとも夫人を青白く不健康そうに描くのは古くからの女性肖像画の伝統の一つでもあるかもしれません。それにしても、この青白い顔と薄暗い全体とはマッチしています。それでいて、全体としてはとても堂々たるものがあります。
この女性は、早くからルノワールに目を掛けてくれていたコレクターで音楽編集者のジョルジュ・アルトマンの妻です。背景にピアノが置かれているのは、この人物が音楽に関係していたからです。
お金持ちのように見えます。最初に見た頃には、貴族かと思うくらいの豪華にも感じたのですが、市民階級のようですし、しかも大ブルジョワというほどでもないかもしれません。
ただ上流階級であることには違いはないと思われるのですが、上流階級の血の気を失った顔色を表現しているようにも見えます。
1874年ー1876年
読書する少女
オルセー美術館
柔らかいタッチで、品が良いです。光と影のコントラストが高いです。斜め後ろから光がさして、少しうつむき加減の顔は影になっています。光の効果を表現しようともしているのでしょう。穏やかで豊かな光と色彩です。いろいろな色彩が顔を照らし出しています。
小品ですが、有名な作品の一つです。
マルゴがモデルです。
少女らしい多感さを、性の目覚めから間もなくの初々しさまでもが描かれています。
いろいろな色彩のコンビネーションが見られます。表情におけるこの色彩の豊富さは、この女性のみずみずしいまでの多感さとマッチしているのではないでしょうか。
そしてこの年齢の頃には、読書をすることで、内面はのびのびと豊かになっていくのでしょう。
ルノワールは、この若々しいモデルに温かい眼差しを注いでいるように、光を注いでいます。
展覧会の紹介文には次のように書かれています。
「モデルは、1870年代半ばの作品に多く登場する、モンマルトル出身の少女マルゴ。彼女が若くして命を落としたとき、画家は嘆き悲しみました。」
1875年ー1876年
ヴェールをつけた若い女性
オルセー美術館
はじめて見る作品です。
布が面白い質感で描かれていて、この質感が画面全体にまで及んでいます。
装飾的な表現でもあるかもしれません。
やはりルノワールの変幻自在の側面が見られます。
かといって他にどこという特徴もないようにも思われます。落ち着いていて小綺麗に仕上がっています。
ルノワールはこの女性が被っているような斑点のヴェールが気に入っていたらしいです。他にもこのヴェールを描いている作品があります。
「母と子」というタイトルをつけられることもあるようですが、発表当時は単に「散歩」でした。
大きなサイズの作品です。一見どうってこともないような作品に見えます。しかしこれは、1876年の第2回印象画展に出品されました。
子供が描いたような絵であり、特に少女が抱いている人形の顔の表現は凄まじく子供っぽいです。まるでこの少女が人形を描いたらこんな風になるのだろうな、というような稚拙な描きぶりです。そのように意図と主張を持って、ルノワールは、この人形を描いたのでしょう。不器用なのか器用なのか、よくわからないルノワールです。でも臨機応変性に優れています。
この絵の全体は、ものすごいスピードで描かれたものと思われます。
この二人の娘は年子なのか、もしかして双子なのか、とても可愛らしくあどけなく描かれています。そして二人の後ろにいるのは母親なのか、ベビーシッターのような人なのか、叔母なのか、友人なのか、美しく描かれています。その豪華そうな帽子、毛皮付きのコート、長くおしゃれな髪、上品な佇まいから単なるベビーシッターではないはずです。子供も白ぎつねなどの毛皮をつけていることから、上流階級特に多分、中以上のブルジョワ階級であることがわかります。しかし、実はこの絵を製作するにあたって、ルノワールはわざわざプロのモデルを雇っていたのでした。つまり、これは純粋に作品を作るためのものであったのです。一見何気ない作品に見えるのに、制作にあたってはプロフェッショナルで戦略的なくらいでもあったと思われます。ルノワールは下から上までの階級の人々絵を描きますが、ブルジョワもよく描きます。高級感あふれる豪華作品を描くこともありますが、この作品は稚拙そうなところも含めて可愛らしい作品です。作品ごとに随分と描き方を変えるルノワールです。この作品の場合は、上手に描こうとはほとんどしていません。自分の素のままで描いているように見えます。この少女が描く稚拙な人形の顔のように、素のままで描くこと、それがこの絵の主張のようです。
(Frick Collection 2018)
1876年ごろ
陽光の中の裸婦(エチュード、トルソ、光の効果)
オルセー美術館
第2回印象派展に出展された作品です。それだけに印象派的です。これはエチュード、つまり習作でありますので、完成された作品でないと言えますが、展覧会に出展されています。エチュードというだけあって、全体の完成度や整合性は目指されておらず、主張の方を優先しているように見えます。筆触が荒々しく、絵画のなかの焦点がはっきりしない、通常は顔に焦点が当てられるものですが、そうではありません。また副題には「光の効果」とも出ていますが、光の効果と言っても、かなりまだら模様的になっていて、光が当たっている部分は毛羽立っているように見えるところもあります。こういった特徴も、ルノワールの光の効果の特徴でもあり、また印象派や点描派の特徴の一つであろうかと思われます。
また「トルソ」とも副題にはでていますが、これが今ひとつわかりません。
トルソーとは何かを調べてしれを引用しますと「トルソー(Torso、トルソ)は、イタリア語で「木の幹」や「胴体」を意味する torso に由来するカタカナ語で、人間の頭部・腕・足・脚を除いた胴体部分のこと。 また、日本ではその部分のみを造形した彫刻を指すことが多く、衣服やファッションの陳列に用いるマネキン人形の一種で胴体部分だけのものを指して言うことも多い。」
ということは、もしかして、人間を描いたというよりも、この人物像を通じて、光の効果などを研究しつつ物体を描いたということでしょうか。
この作品は、ある程度有名であるのですが、作品の出来栄えとしては、今ひとつであると言わざるをえないのではないかとも思われます。これといって、どうってこともない絵画とも言えます。
ただ、美術史的意義があるということかとも思われます。ルノワールがこのあと印象派へと入っていく作品として歴史的意味があり、ルノワールの印象派宣言のようなものかとも位置付けられるかもしれません。そしてルノワールの印象派絵画は影響力を持ったと思われます。実験的な作品でもあるのでしょう。この人物を描くというよりも、木漏れ日の表現のほうがメインになっています。確かに美しいのですが。
また肌は緑がかっています。周囲の草木の葉の緑色の反映ということでもあるのでしょうか。
総じてみれば、もちろんルノワールの絵ごころがみられる作品であったればこそ、美術史的な意義もあると思われます。
1876-1877
chemin montant dans les hautes herbes
Paris, Musée d’Orsay
モネと似た印象派的な風景画です。モネとあまり区別がつかないのではないでしょうか。
ルノワールがこの時期いかにモネ的な印象派の側面を持っていたかをうかがわせる風景画ではないでしょうか。
1876年
ブランコ
オルセー美術館
この作品はいまではあまり有名な絵ではありませんが、第3回印象派展に出品されました。
この作品もはじめて見たような気がします。これまで見たとしても気がつかなかったかもしれません。今回注意を引いたのは、これが「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」に似ているからです。だいぶん似ています。時期によってもルノワールは画風が変化しますが、この作品は「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」と同じ年に描かれています。どちらが先に描かれているのでしょうか。「ブランコ」は「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」へと行く途上にあるのでしょうか。この「ブランコ」は小規模ですが、「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」は似たような画風でありながらも大規模化したものです。何れにしても基本的には両者は同じような傾向も見られる作品です。
木漏れ日の表現の仕方は、毛羽立ったようで、すこし不自然であり、男のジャケットの光の描写の具合も毛羽立っているようで特徴的です。これも「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」とも共通しています。筆触の柔らかさ、繊細さ、荒さなども「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」と同じようです。
他方、総じて筆触は点描の前段階のようにも解釈できるかもしれません。
しかし、作品としては、すごく優れているわけでもありません。それでもこの作品はルノワールがルノワールらしく開花する途上にあります。
遠くから見たときにいちばん印象的なのはブランコにのっている女性のローブです。ただ最も描くのに力を入れているのは、後ろ姿の男ではないでしょうか。あるいはこちらを見ている男も。
総じて一定の完成度を備えた作品です。
エミール・ゾラは1878年の作『恋の1ページ』で、女主人公をこの作品の女性と重ね合わせて、可愛らしく魅力的に描写しています。これは参考になります。ゾラは、ルノワールの支持者でもありました。1876年の『じょうろをもつ少女』では「ベラスケスの太陽に照らし出されたルーベンス」のようだ、とこの作品を評したらしいです。
1876年
ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットの舞踏会にて
オルセー美術館
google art and culture : 色彩もきれいで超高画質です。
オルセー美術館の看板を担う絵画の一つです。
この作品を見るだけで、感動をするというものでもありません。どこがこの作品の注目すべきところなのでしょうか。評判に左右されずに素直にみて、それはよく分からないのです。
この作品をみて、良い面悪い面の両面の印象から素直に捉えることが大切かと思われます。
毛羽立ったような不自然な木漏れ日、荒い筆触もふくめて見ていかなければなりません。
これは夕方近くの太陽光が色づいた時間帯の木漏れ日です。夕方になっても皆、なおも踊っているのです。パリは日本よりはるかに日が長いので、結構遅い時間かもしれません。
展覧会の解説によれば、18世紀のロココの時代の重要な特徴のひとつが、たとえばヴァトーも含めて、ダンスであり、この作品もその系譜にあるとのことです。この見解については、そうかもしれないとも思うのですが、しかし、あまりピンとは来ません。
「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」とは、ダンスホールの名前です。
これらの人物は、誰なのか名前もある程度分かっているようですが、集団肖像画という性格はないと思われます。
この作品が描かれた1876年にも注目したいと思います。普仏戦争とパリコミューンというフランス共和国とその首都パリの未曾有の危機が1871年にいったん終わった5年後です。この絵で描かれているところからすれば、かつての大惨事などどこ吹く風の雰囲気です。パリでの生活はもう復興しているのでしょう。
ほとんど自然現象としての人々の活動です。自然の一種としての人々の生命感が溢れています。
黄昏時の木漏れ日。穏やかで、優雅で、楽しい、そして俗的。これらは都会の人々の新生活を描いています。
シンプルに「きれい」と言ってもいいのかもしれません。
ルノワールの初期の大作です。
ルノワールにとって風景画は重要であっても、傍流であったと思われます。かれは自分のことを肖像画家と称してもいました。肖像画と風景画は別のジャンルと考えていたところがあります。ただ彼の後半の古典主義への回帰の傾向において、自然と裸婦像は組み合わせられます。
1876年-1877年
ジョルジュ・シャルパンティエ夫人
オルセー美術館
これもルノワールが肖像画を描くときに、対象の特徴表現のために画風全体をいかに変幻自在にまで変えるのですが、カメレオンのようでもあるといと大げさでしょうか。
ここでは対象の特徴に合わせて、とりわけ端正にバランス良く描きこまれています。
色彩と明暗のコントラストはメリハリがきいています。重厚でダイナミックです。まぶたを少し落として、情感をたたえた表情をしています。やはり対象によって大きく筆触、画風を変えています。これらのこと全体が、シャルパンティエ夫人の性格を反映しているのでしょう。
また巧みな仕上がりです。
この肖像画はシャルパンティエの邸宅の居間の暖炉の上のはめ込まれていました。その写真が残っています。彼女は1879年のルノワールのサロンでの成功の立役者でもあります。
夫ジョルジュ・シャルパンティエはフロベール、ドーデ、ゾラなどを出版していたジョルジュ・シャルパンティエ書房を経営する出版業社でした。しかし、これらの作家の作品を出版したために経営的には立ちいかなくなり、破産しました。しかし気前よく温かい人柄であり、ルノワールも親しみを持っていたようです。
『シャルパンティエ夫人と子供たち』はサロンで絶賛されルノワールに対する評価を確かなものにしました。
全体としてみれば決して丁寧に描かれているわけでもなく、むしろ雑であるようにも見えます。ルノワールにはよくあることです。しかしそれでいて、いかにも高級そうなブルジョワ世界を描いています。そしてそれに応じてこの絵画作品にも高級感が漂っています。柔軟に画風を変えるルノワールですが、こういった柔軟性はヒステリー的であるがゆえなのでしょうか。この作品の構図は絶妙で印象です。またピラミッド構図を採用しているのはやはり安定的であるからでしょう。娘達は美しくかわいく優雅です。微笑みながら子供達を見る母親の顔はこのピラミッドの頂点です。そしてこの母親と子供達の関係が重要であり、また片方の娘がもう片方の娘を見る笑顔も美しく描かれており、この娘は母親と眼差しを交わしているようにも見えますが、少しそれよりも上方を見ているかもしれません。これら三つの表情がこの絵の中心です。それ以外の事物は著しく脇役です。ただしなぜかしらこの犬は存在感がだけが明瞭です。この犬は少し面白く描かれています。娘は気さくにこの犬の上に乗り、この犬は外の世界を睨みつけています(鑑賞者に対して)。いわばこの幸福な世界を守る番犬です。魔よけでもあります。これは画家ルノワールの心情が投影されているのでしょう。そのことから、この犬はルノワール自身とも言えるかもしれません。
(The Metropolitan Museum of Art, 2018)
ルノワールの絵画には政治性を感じさせるものは、ほぼありません。
しかし知らず知らずに、透けて見えるものはあろうかと思われます。
1880−1881年
『船遊びをする人々の昼食』
フィリップス・コレクション、ワシントンD.C.
来日したことがあります。
『ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット』から5年弱の作品です。テーマはそれと同類です。
1880年
シュザンヌ・ヴァラドンの肖像
ユトリロの母親となるシュザンヌ・ヴァラドン15歳ごろです。
若々しく初々しい、そして気品のある女性として、上品に、あるいは上流階級の女性であるかもしれないくらいに描かれています。
3年度の「都会のダンス」という作品と合わせて考えても、これらはルノワールの思い入れでしょうか。
ユトリロの父親は、ルノワールであるという説もあるようですが、いかがでしょうか?ジュザンヌがそのように時々ほのめかしていたと言います。
1880年代の初め、ルノワールは「印象派の限界」に達したと考えるようになりました。
そして古典的な形態の把握、とくに裸婦というモチーフが現れます。
またロココ様式を意識した作品もあります。
1881年
これは実物を観たことがありません。
『浴女』
『浴女』ではイタリア絵画とアングルに啓発された古典主義への回帰を意味する最初の作品としても位置付けられます。この古典主義への回帰は印象派の画家たちの目にも明らかだったようです。
モデルはのちに(1890年に)結婚するアリーヌ・シャルゴだとのことです。
1882年
リヒャルト・ワーグナー(1813−1883年)
小さな作品です。絵画としてそんなに優れているとは思えませんが、モデルがリヒャルト・ワーグナーであるから取り上げたいとおもいます。ワグナーの死の前年の肖像です。イタリアでルノワールはどうにかワーグナーに会うことができたのでした。
あまりに早いペースで描いたと思われます。筆触は荒く、ぎごちなく、固く、冷たく、爬虫類のような表情であり、人間味が少なめです。ざっと書いたかのようです。
写真では表情に赤みがさしているし、すこし優しそうにも見えますが、絵画の実物は顔色が悪く、上記のような印象をもちました。
歴史的な大作曲家に会見することができたのに、なぜにこのように大雑把な書き方で筆を止めたのでしょうか。なにか習作程度のものだったのでしょうか。壮年期や初老期のワグナーの肖像がや写真は精力に満ちて堂々たる風格であるのに、ルノワールが描いたものはその正反対のもの、生命の枯渇のようなものです。
ルノワールは対象によって、筆触や画風を変えたりしますから、これには何か意味があるのかもしれません。そう考えるとこの作品もまんざらでもないようにも思われたりもします。
1883年
イタリア旅行から帰国すると3点のダンスの作品を制作しました。
今回この2つが展示されていましたが、2作品一組ではありますが、もう1点『ブージヴァルのダンス』というものも同じようなテーマの作品、3つを並べて展示されることもあります。3つが並んでいた方が見応えがあります。ただテーマの対比と構図的には2点のほうがよいのでしょう。
ルノワールのこれまでの流れにある作品のように思われます。古典主義的になったという側面は格段大きくは見当たらないように思われます。
2枚並べるとなかなかの壮観でもあります。見応えがあるものに仕上がっています。
またヨーロッパらしい香りがしています。
オルセー美術館
ルノワールの生涯の伴侶となったアリーヌ・シャルゴがモデルです。
「都会のダンス」と比較すると、より下層階級に属する人物として描かれています。それは「田舎」というタイトルが付いているとおです。もっとも、一定の水準があって、晴れ着を着ているものと思われます。それは小市民(プチブル)あるいはそれを真似たようなスタイルではないかと思われます。上の写真ではわかりませんが、実物では、男性のジャケットの色とズボンの色は異なっています。このことはフォーマルとインフォーマルのあいだであることを示しています。
赤・青・黄の色の対比が明瞭でメリハリが効いて色彩が豊かです。動的であり、健康的な生命感があります。粗野であっても、華やかで可愛いいです。
なぜか帽子が落ちています。なんらかの限度を超えているということでしょうか?
ルノワールは下層のちょっと粗野なくらいの女性も描きますし、ブルジョワ向けの高級感あふれる女性も描きます。両方を描き分けます。「田舎のダンス」は前者であり、「都会のダンスは」この後者の方です。また、野生動物的と植物的というふたつの異なる自然の対比もあるかもしれません。加えて、色彩の豊かさと色彩の乏しさという対比によっても特徴付けられています。
オルセー美術館
ここで描かれているモデルは、ユトリロの母親となるシュザンヌ・ヴァラドンという女流画家です。
上品な若い女性がシルクのどれを身につけた、まだあどけなく初々しく、そして憂いを含んだ表情は、いかにも上流階級とくにブルジョワ的な雰囲気を湛えています。そしてこの絵画全体がブルジョワ的です。
シュザンヌ・ヴァラドンはこのとき18歳ごろでした。
彼女は、下層階級出身ですから、ブルジョワの娘のように見立ててこの作品のモデルにしたようです。
貞節に育てられた箱入り娘。あどけなく、純真無垢であり、たどたどしく、男にすがりつくようにリードしてもらっています。
初々しいのですが、枠にはめられた生命感の乏しさによっても特徴付けられているます。
また『田舎のダンス』では木綿のドレスを着けているのにたいして、『都会のダンス』ではシルク(taffetas)のドレスに身を包んでいます。
また背景に描かれている植物は、自然の植物と観葉植物という対比があります。あるいは地植えと鉢植え(鉢植えではないかもしれませんが鉢植えに近い)。自然らしい自然と人工的な自然。人間のタイプの違い、階級の違いが表現されていると思われます。インフォーマルとフォーマル。
また積極的女性と消極的女性、あるいは能動的女性と受動的女性という対比もあります。また壊れにくい、と壊れやすいという対比もあります。
フロイトは男性を能動的、女性を受動的というふうに簡単に割り振ったこともありますが、能動的女性と受動的女性があるものとおもわれます。いずれにしても、女性性の違いを対比的に描き分けています。ルノワールの関心事は女性性の種々のタイプでもあります。
The Large Bathers. Pierre-Auguste Renoir, French, 1841 - 1919. Geography: Made in France, Europe. Date: 1884-1887. Medium: ... Philadelphia Museum of Art
google art and culturには超高画質でとてもきれいな色彩のものがあります。
今回のルノワール展には展示されていません。
フィラデルフィア美術館にある作品です。
4年の歳月をかけた作品です。
ルノワールは裸婦にあたらしい方向性を模索しています。
アングルの作品について検討しながら描かれています。
古典主義的な作品です。
自然の中で憩う女性たち、という古典的なアルカディアです。自然と裸婦たちが調和した、理想郷です。
フランソワ・ジェラルド作『ディアナのニンフたちの水浴』(1668-1670年)というレリーフに形態や雰囲気の着想を得ています。
ルノワールには珍しく、多数のデッサンと習作によって準備されています。それによってこの絵画は形態がよりしっかりしたものとなっています。またルノワールにしては緻密な描き方になっています。完成度が高くもあります。緻密で完成度が高い分、ルノワール風の柔らかさと比べれば、硬質な描写でもあります。このような緻密な描きぶりは、これまでのルノワールにはなく、また今後もそうはならなかったと言えるのではないでしょうか。つまり、この作品は完成度が高いものの、これらの傾向は過渡的なものであったと言えるのではないでしょうか。
いまではルノワールの代表作の一つですが、当時は保守的な人々からも好意的には受け入れられず、概して酷評されたようです。デュラン=リュエルさえルノワールにこの道を歩まないように説得しようとしたと言います。
1885年
『髪を結う浴女』
古典主義的作品
ルノワールにとって子供を描くことは重要なテーマの一つでした。
1887年
ジュリー・マネあるいは猫を抱く子供。
google art and culturに高画質でとてもきれいな画像あり。
猫の表情は、いわば「ルノワール印」の、ご満悦の表情です。
この猫は、こんな可愛くて気立てが良くて優しい子に抱かれて大満足だ、と言わんばかりです。
こころなしか、この子も猫に似ています。猫族に属しているのでしょうか??
ピアノを弾く少女たち
オルセー美術館
google art and culturに高画質でとてもきれいな画像あり。
印象派が完全に消しされているわけではありませんし、今から見ればむしろ印象派の一種のようにみえますが、古典が重ねられています。
ブルジョワの日常生活を描いています。これらはルノワールの世界観のいくつもある袋の一つです。ここで描かれているのは衰退に向かっている階級では決してなくて、新しい階級であり、その階級の安定性でもあります。彼女たちは物質的にも精神的にも安定した基盤のうえにあるように見えます。潤いに満ちた生命感があります。もっともそこはかとない不安定要因、それから虚無感も混じっているかもしれません。
美しい絵です。
画家として、絵画作品として、そしてこの階級の成熟がマッチしているように思われます。
油彩ですがパステル調で描かれています。
肌の美しさを強調しているようです。ルノワールは女性の肌に興味を持っていました。
色調は全体に薄い茶色に傾いています。
この作品はマラルメの説得で美術学校のアンリ・ルージョン校長が国費で購入しました。
レースの帽子の少女 1891年
ポーラ美術館所蔵の一つです。ポーラの看板絵画です。
1895
Baigneuse aux cheveux longs
ルノワールらしさを特に感じる作品の一つです。美しく柔らかく優雅で、穏やか、神秘的でさえあります。筆触もそれに対応しています。比較的丁寧な筆触です。全体に薄い色調。金髪も美しいです。
1870年
画像
ピアノを弾くイヴォンヌとクリスティーヌ・ルロール
これもまたブルジョワ家庭の光景を描いています。
1906年
横たわる裸婦(ガブリエル)
オランジュリー美術館のなかのギヨーム・コレクション
オリエント的なエギゾティズム。
整ったなめらかな肌。
堂々として完成度は高そうな作品です。古典的でもあるようです。
肌の表現に注力しています。マニエリズムのような光沢があります。
またアングルの影響もあるのではないでしょうか。
そしてオリエント的であります。
階級としては、粗野な階級でもあるようにおもわれます。
1907年
大きな裸婦あるいはクッションにもたれる裸婦。
オルセー美術館
この二つの作品は対になっています。
1909年
道化師(ココの肖像)
これはオランジュリー美術館の所蔵作品。
クロードの愛称がココでした。ルノワールはこのクロードの登場する作品を90点以上描いているとのことです。
1911年
バラを持つガブリエル
sauvageな女性です。
ルノワールは女性の肌への関心が高く、この作品にそれが表されているとされています。そういわれるとそのようにも見えます。この写真ではそれは分かりにくいです。
もっともルノワールはいつも女性の肌の美しさを強調してばかりいるわけではありません。
1915年
ルノワールの絵画制作の光景
Unique film connu sur Pierre-Auguste Renoir, extrait de "Ceux de chez nous", de Frédéric Rossif (INA, 1975), réunissant les muets de Sacha Guitry, dont celui-ci de 1915, plus un premier plan d'origine inconnue. Sacha Guitry commente lui-même son travail. Renoir peint et bavarde, en compagnie de son fils Claude, 14 ans et non Jean, comme le dit Guitry par erreur, et de Sacha Guitry lui-même, qui entre dans le champ à mi-film. Deux parties: original et relecture.
サシャ・ギトリが1915年に撮影したものです。これに基づいて1952年にフレデリック・ロッシフが"Ceux de chez nous"というタイトルで作品化しています。日本語タイトルでは「祖国の人々」と訳されています。
闊達な描きぶりです。しかしリウマチによるものと思われる手指の関節の変形、拘縮が顕著です。
1918−1919年
浴女たち
オルセー美術館
写真は色が少しどぎついです。
指が変形して手が不自由になった後の、そして最晩年の時期の作品です。人生最後の数ヶ月を費やし完成させました。ルノワールの画業の中でピークを形成する作品の一つです。そしてルノワールの遺作になりました。
マティスはこの作品をルノワールの「最高傑作」と評しました。またルノワール自身も「ルーベンスだってこれに満足しただろう」と語りました。
これは肉体という物質(あるいは「質料(ヒューレー)」)の止揚。脂肪がたっぷりで、緩み、たるみがあまりに目立つ裸婦像です。田舎娘であり、都会娘に対する田舎娘の勝利でもあります。
明るい画面ですが、色彩の方が多様さが見られ、すこし荒すぎる筆触も目立ちます。
身体の形態には相当のメタモルフォーゼがみられ、女性が肉のたるんだオットセイのような体型になっています。これでは動物からの止揚であるようにさえおもわれます。
ルノワールがルーベンス言及しましたが、この身体像の描写の仕方は、ルーベンスにも近いと考えられます。ルーベンスの描く女性の裸体像は、豊満ですが、かなり緩んだような豊満さです。
しかし、ルーベンスを持ち出すまでもなく、見方を変えれば、ルノワールの場合は、美を新しいステージに止揚したものともかんがえられます。
少し思い起こすのはピカソです。ピカソは女性をものすごいメタモルフォーゼによって変形させますが、それと似たような路線かもしれません。もっともルノワールの方がずっと穏健ですが。
ルノワールは見た目の女性美を描くのではなくて、内面的な美的な世界観を描いているのではないかと思われます。そのためには表層的な美しさがむしろ余計なものになるのかもしれません。
こういうふうに、この作品は、なにか根底的な基礎のところで捉え直し、女性美と絵画の美を新たなステージで表現しているようにも思われます。
多くの諸物が色彩とともに配置されて、豊穣さを表しています。
アルカディアの一種でもあります。
とくに背景などは筆触が乱れているものの、女性の肌の表現には注力しています。