表参道ソフィアクリニック
1712年6月28日 - 1778年7月2日
1750年:『学問芸術論』
1755 : 『人間不平等起源論』
1762 : 『エミール または教育について』
1762 : 『社会契約論』
1770 : 『告白』
1778 : 『孤独な散歩者の夢想』
1750年:『学問芸術論』
1755 : 『人間不平等起源論』
1762 : 『エミール または教育について』
1762 : 『社会契約論』
1770 : 『告白』
1778 : 『孤独な散歩者の夢想』
ルソーの生涯についてよくまとまっています。
フランスの時代背景
1712年生まれ。これはルイ14世の没年です。つまりルイ15世の治世のはじまりです。ルイ14世の治世下において、フランスは中央集権およびそれを支える官僚機構を整備し、軍事力を近代化させ、保護主義的な重商主義や産業の振興により経済が成長した。しかしルイ14世の生前から徐々に進行しルイ15世において徐々に加速していた絶対主義国家の全体的な衰微していた。こういった歴史的背景とルソーの人生は同期していた。ルイ15世の時代には、貴族の没落は促進し、そのかわりにブルジョワジーが経済力をつけて成長していったが、経済政策も失敗しさらなる国家財政の逼迫を招いた。この経済政策の失敗がブルジョワ革命あるいは資本主義革命という側面を持つフランス革命を引き起こす基礎になったとおもわれる。もはや王侯貴族主導では経済の統治は行えないくらいに経済は進歩していた。1774年ルソー62歳の時にルイ15世が死去しルイ16世の時代となった。1778年66歳でルソーは死去した。なのでまさにルイ15世の在任期間が彼の生涯と重なっていた。
ルソーの死後およそ10年を経た1789年にフランス革命が勃発した。
・ルソー家の先祖はパリに住み1549年にプロテスタントの弾圧から逃れるためにジュネーブに移住した。ジュネーブはカルヴァン派の拠点でありユグノーで構成されたプロテスタントの都市共和国であった。ジュネーブの政体は、後の彼の社会契約論にも大きな影響を与えている。当時は共和国だったのはごく例外的であって、ジュネーブ、スイス諸邦、ヴェネツィアがあった。ジュネーブは、階級があって公民のみが政治に参加でき、特権的な有力家系があって事実上の貴族制であった。ルソー家は祖先はフランス系であったものの公民になっていて、ジャン=ジャック自身も公民であることに誇りを持っていた。
・ジャン=ジャックは、1712年ジュネーブ共和国にて出生。生来体は弱い方であった。
・祖父そして父親イザックは時計職人だった。腕が良かったとされている。温和な性格であったが、他方では誇り高く激高しやすかったとかとされている。子供に対しては優しかったという。経済的には中間的であった。母方の祖父も時計職人だった。10歳になるまで、父親がジャンの読み書きや読書の先生であった。母親の遺した恋愛小説を題材に恋愛小説を題材に読み方の練習をさせた。こういった読書にも熱中したようだ。またジャンは古典古代や歴史物など自らすすんで大変難しい書物を読んでいた。ジャン=ジャックの兄は時計職人として修行に出されたが、父親と折り合い悪く、また不良的であったようで、消息不明になった。
・母親は、美貌で快活だったようだったが、ジャン=ジャックを出生後に産褥熱にかかり間もなく夭折(39歳)。ルソーにとって「誕生が不幸のはじめ」という感情も抱いていた。ジャン=ジャックは病弱だったが、父の妹(つまり叔母)や乳母がジャン=ジャックの世話をした。ジャン=ジャックは大切に育てられていたようだ。
<10歳時の転機>
1722年10歳の頃、父親が貴族を相手に喧嘩をした際に剣を抜いたという一件で告発され、この事件によって一家はジュネーブから逃走し離散、ジャン=ジャックは孤児同然となり、親戚(母方の叔父)に引き取られ、近くの村で寄宿生活をした。そこでの田園生活をつうじて自然への趣味を発見したという。また従兄弟との友情もあった。しかし、そこで40代の女性から愛情を注がれる一方で度々平手打ちなどで折檻を受けるようになり、それに憤りつつも、彼の虚言癖がはじまり、またマゾヒズム的性癖が目覚めさせられたという。
<徒弟時代>
1724年、ジュネーブに戻り、翌年13歳頃に彫刻師に徒弟奉公にやられたが、そこの親方は極めて横暴であり、ルソーは虐待を受けた。彼は公民でありながらも、このような徒弟生活になったことを零落と感じつつ、彼は親方の家で、嘘、手抜き、盗みを繰り返すようになった。またこの徒弟時代にも彼は大変な読書家であった。
<親方からの逃亡と放浪、そしていろいろな人々との出会い>
1727年16歳頃、親方からの自由をもとめて逃亡し放浪の旅に出た。その途中で、当時29歳のヴァラン夫人と出会った。16歳のルソーは彼女の優美さと人間性に魅惑されたようだ。「溢れるほどの才気をそなえ、においたつようにあでやかで魅力的な女性(孤独な散歩者の夢想)」という。
ヴァラン夫人
その後、彼はトリノに行き、放浪していたところを救護院に収容され、そこで必要に迫られてカトリックに改宗した。これはヴァラン夫人の意向もあったようだ。
17歳の頃、ある貴族の館で働いていたが、彼には盗癖があったので盗みを働いていたが、あろうことかそれを料理女の女性に罪を着せたことがあった。その罪悪感が生涯彼を苦しめたということが後に告白されている。それ以降彼は盗癖と虚言癖をできるだけ控えるようにしたようである。17歳時にサヴォワで僧侶ゲーム氏と出会い、「小さな義務を果たすことは英雄的行為に匹敵するほどに大切なことで、常に人から尊敬されるように心がけるように」という助言を与えられた。彼を通じてルソーは正直、徳、理性、信仰などを発見したという(ゲーム氏は『エミール』の「サヴォア人司祭の信仰告白」 のモデルであり、思想の中核を占める。
彼は名家であるソラロ家のグーヴォンに見込まれて、その従僕の地位を得て、そこで彼は家庭教師もつけられた。そしていずれこの貴族の重要な地位と職務を与えられることが期待されていた。にもかかわらず、彼は長居することを望まず、ある日出奔し1727年(17歳)、ヴァラン夫人に逢いにいった。そのときヴァン夫人は30歳。こうして彼はヴァラン夫人の元で暮らすようになった。お互い、「坊やpetit」と「ママMaman」と呼びあい、母子のような関係に近くもあり、恋愛感情も交じっていたものの肉体的な恋愛関係にまではならず「愛しているが故に節度にしたがった」という。ヴァラン夫人は彼に神学や音楽の勉強をさせようとした。しかし一方では彼女に愛着が強い彼とは距離を置こうとするところもあって、ある日パリに出かけて消息を絶ってしまった。突如孤独になったルソーはヴァラン夫人の女中が実家に帰省するのに同行するかたちで出奔し、父親イザックの元へと赴き、遂に再会をした。しかし彼には父親と一緒に暮らす意思がなく、その後も放浪を続けた。ある親切な大家さんが面倒をよく見てくれて、そこで音楽教師としても雇ってくれた。彼は音楽の技能がまだ低かったものの、「教えることは学ぶことである」というふうに自ら学んでいった。
こうして10代の後半の放浪の時代に、虐待するような人間にも出会ったが、それ以上に多くの親切な人々に出会うことができた。ルソーが思い返すに、なぜか若い頃に親切な人々に多く出会ったのに、大人になってあまりそういう人々に出会わず、その理由について、階級の違いにあるといい、高い階級は虚栄や利害が満ちているのにたいして、低い階級の方が自然の感情をもっていてると考えていた。彼の放浪時代に出会った人々は、その後の「自然状態」のなかの「自然人」の着想の参考に至ったのではないかとも思われる。都市での定住生活だけではなかなか思い至らないと思われる。彼の思想はいろいろな人生経験から得られたものが大きいだろう。もっとも上述のように上流階級の人々も彼を認めてくれる人が何人かいた。ルソーの聡明さ賢明さ、そしてあまりに若いのにたった一人で頑張っていたこと、その人柄、風貌の良さ、徒歩での旅の苦労などによって、人々は彼を助ける気持ちを持ったのであろう。ルソーは各地を歩いて放浪し、いろいろな人々と出会い、経験と見聞を深め、また自然と密着して生活する人々と接する機会も多かった。ただ、彼のメンタリティとして、他者と一定の距離を置けるのも良かったと思われる。彼の自然状態の構想においては、自然人はおのおの一定以上離れて生活しているのとも同様である。定住状態では、彼は人との距離が近すぎて、精神的に困難を来しやすいのであろう。ほんの一部の人をのぞいて。
また後年彼は歩くことにより思索をするタイプだといっていたが、それは、自分の実際の体験から得られたことから思考するという彼の姿勢を表しているのだろう。大陸合理論とイギリス経験論という二つの大きな流れがあるとしたら、彼は経験論的であり、また想像力を展開させて「こうであるはずだ」という原理を得ていく合理論的な側面の両方を持ち合わせる、独自のポジションにあると思われる。そのようなことが培われたのが青年前期の放浪の体験であったのだろう。
<ヴァラン夫人との愛人生活>
1731年19歳頃、ルソーはパリに出たが、この薄汚い都会に幻滅をした。ヴァラン夫人に出会うことができず、彼女を追って、ほぼ無一文で歩いてリヨンに出発した。この放浪では、農家に泊めてもらいながらであったが、フランスの圧政によって虐げられた過酷の農民の状況を見て憎しみと憤激が生じたと回想している。「自然が美しい豊かな恵みを与えているのに、それを重税が破壊してしまう」。 同年(1731年)、彼はリヨンの東にあるシャンベリーという街でヴァラン夫人と再会を果たした。彼の放浪時代は終わった。彼は、19歳からおよそ10年間ここで腰を落ち着けて、ヴァラン夫人と愛人生活を送ることになる。
ルソーは波瀾万丈の生涯の中で、多くの人との貴重な出会いと交流があった。それも彼の人柄ゆえであったのだろう。
<初めてのパリ>
1731年、ルソーはパリに出たが、この汚い都会に幻滅をした。ヴァラン夫人に出会うことができず、彼女を追って、ほぼ無一文で歩いてリヨンに出発した。この放浪では、農家に泊めてもらいながらであったが、フランスの圧政によって虐げられた過酷の農民の状況を見て憎しみと憤激が生じたと回想している。「自然が美しい豊かな恵みを与えているのに、それを重税が破壊してしまう」。 同年(1731年)、彼はリヨンの東にあるシャンベリーという街でヴァラン夫人と再会を果たした。彼の放浪時代は終わった。このときルソーは19歳頃。彼はここでおよそ10年間腰を落ち着けて、ヴァラン夫人と愛人生活を送ることになる。
<シャンベリー時代-ヴァラン夫人とともに>
シャンベリー時代は穏やかな生活であった。ヴァラン夫人は彼に土地測量技師の書記としての仕事を世話した。このころ仕事の関連から、絵を描くことを好むようになり、また音楽の勉強に熱中した。音楽はヴァラン夫人と同じ趣味であった。測量技師の仕事は長続きせずを辞めて、音楽の教師になり、年頃の女性の生徒たちにモテるようになった。それをみてヴァラン夫人は、童貞であったらしいルソーとはじめて性交渉で結ばれることを決意しそれを行った。もっとも彼は「わたくしははじめて女性の腕に抱かれた。熱愛する女性の腕に抱かれていたのだ。わたくしは幸福であったであろうか。そうではなかった。わたくしはあたかも近親相姦を犯したような気持ちであった 」という。
1737年、夫人の手がける薬品製造の補助で「感応インク」を作ろうとして失敗し、生死をさまようほどになったが、一命は取りとりとめた。それ以降体を壊した。特に耳がかなり遠くなった。彼は自分の生命が長くはないとも思い、また、これ以降新しい人生を歩むべく心機一転再出発することにしたという。とくに宗教、哲学、科学、幾何学に没頭した。哲学ではロックの「人間悟性論」、マールブランシュ、ライプニッツ、デカルトなどをよく読んだようだ。
その年、ヴァラン夫人は18歳の男を愛人として家に入れた。ヴァラン夫人はこれまでと同じくルソーと愛し合うことを話したが、ルソーはこれ以降、ヴァラン夫人の子供という立場を取ることとしたため、ヴァラン夫人はルソーに拒まれたと考えて、彼に対してすっかり冷淡なものになってしまい、同じ屋根の下で暮らすのも難しくなった。またルソーは数字によって音階を表す新しい音符法を発明したこともあって、それを携えてパリに出立した。立身出世と一儲けを当て込んでいた。こうしてルソーはヴァラン夫人から独立した。
<パリ時代>
1742年ルソーはパリに到着した。すでに30歳になっていた。新しい音符法はその有用性を認められなかった。彼は主に音楽の個人教授にて細々と生計を立てていたが、困窮していた。引きこもり傾向であったが、例外的にディドロと親しくなった。また社交界に失望したものの、ブザンヴァル夫人、デュパン夫人と知り合いにもなった。デュパン夫人の秘書にもなってしのいだ。
Madame Dupin
par Jean-Marc Nattier
「恋のミューズたち」というオペラの脚本と作曲を手がけて、上演されて好評を博した。小喜劇「ナルシス」、オペラ「ラミールの祝宴」を作曲。そのころはルソーは音楽家(あるいは音楽家を目指す者)ということになっていた。
1743年モンゲギュ伯爵の秘書としてヴェネツィアに赴いた。熱心に仕事に取り組んだが、大使が横暴であり、職を辞して44年パリに戻った。俸給は未払いであったが、彼はスイス人であったために国家に保護されなかったことも、社会制度に対する憤慨を招いた。
パリでは生涯の伴侶となるテレーズ(当時23歳)と出会った。彼女は文盲であり、数字が読めず、時計の見方もわからない、お金の勘定がうまくできない、言おうとすることの逆を言ってしまったりする。しかし彼が困難にあるときには助言することができた。二人は「けっして捨てもしないし、結婚もしない」という条件で結ばれた。二人の間には5人の子供が生まれたが、貧困者がそうしたようにすべて孤児院に送った。ルソーは後々、苦しい後悔の念を吐露している。
友人ディドロの『盲人書簡』が無神論的という理由で、ヴァンセンヌの監獄にいれられていたとき、ルソーは1日おきにヴァンセンヌの公園でディドロと面会をした。その頃たまたま懸賞論文「学問と芸術の復興は習俗を腐敗させたか、もしくは習俗をよくしたか」を見つけた。彼はそれに閃きを感じ、それに応募する構想をディドロに伝えると、励ましてくれた。これは『学問芸術論』として執筆され、1750年彼が38歳のときに当選した。
ディドロ ルイ=ミシェル・ヴァン・ロー
作成: 1767年
これ以降、彼はお金や地位や名声を求めることをやめて、幸福と自由のために生きることに決めた。
逆説的なことに、こういったことによってルソーはパリの有名人になった。さらにルソーは「村の占者」を作曲すると、ルイ15世の前で公演されて、きわめて好評を博し、国王との拝謁と年金を賜ることになったが、これを辞退した。あるいは言論の自由が損なわれると危惧したからかもしれない。
イタリア語とフランス語のどちらがオペラに優れているかという論争で、ルソーはイタリア語の法が優れていると主張したために、ルソーに様々な迫害が加えられた。
1753年、41歳、「人間の不平等の起源は何か」という懸賞論文に応募した。 これを執筆するにあたって、パリの西のセーヌ川沿いの地域サン=ジェルマン=アン=レーに1週間滞在していたが、そこは自然が豊富であった。こうして『人間不平等起源論』がうまれた。これにたいしてヴォルテールはこっぴどく批判した。
<ジュネーブにて(4ヶ月間)>
1755年、ルソーはテレーズと共にジュネーブに滞在したが、そこではルソーは大歓迎された。ジュネーブは共和制であり、彼はそこでは自由や権利が整っていると見なした。そこでジュネーブ市民になるために、カトリックからプロテスタントに改宗した(16歳の時にプロテスタントからカトリックに改宗していた)。彼はジュネーブへの愛国心が強かったが、しかし後に『人間不平等起源論』や『エミール』の出版によって、ついには市民の資格を剥奪された。
<レルミタージュにて>
1756年、モンモランシーというところでデピネ夫人の提供する「レルミタージュ(隠遁の庵-いおり-)」という小さな家をあてがわれ、そこでテレーズとその母親とで生活することになった。そこには豊かな自然の中での生活があった。彼は歩きながらでしか考えることができないタイプであったので周辺の森を散歩しながら思索をした。そこでは『政治制度論』、『社会契約論』『エミール』の主要部分、『新エロイーズ』が執筆された。
またドゥドト夫人と再会し(当時30歳頃)、ルソーは彼女のなかに「新エロイーズ」の主人公ジュリーを見て、情熱的な性愛の感情をいだいて告白したが、優しい友情関係で終わった。いわば片思いで終わった。
しかしこの一件でデピネ夫人が嫉妬して、不和が生じ、夫人には友人ディドロ、グリム、テレーズが加担した。
1758年「ダランベールへの手紙」を書き、これによって百科全書派の人たちとの仲違いが決定的になった。この「手紙」はヴォルテールによって『人間不平等起源論』への批判に対して答えるものであった。それにたいして『ヴォルテール』は1759年に『カンディド』で答えた。そしてルソーは彼らと決別した。
ルソーは百科全書派の人々と対立して孤立して、そして決別したが、その後、次々に代表作を発表して思想家としての地位が確立した。
大変好評を博した。当時のヨーロッパでベストセラーになった。
「政治制度論」の完成の終わりが見えないために、その一部分を取り出してできあがった。そもそも「政治制度論」はヴェネツィアに秘書の仕事として滞在していた頃に、ヴェネツィアを見聞しつつ、ヴェネツィアの政治体制の欠陥を見て着想されたという。
『エミール』の出版により、同年に、ルソーに逮捕状が発せられ、即日逃亡を余儀なくされた。またジュネーヴでも逮捕状が出された。逃亡先でも追放命令が発せられた。次の逃亡先であるモチエでも、次々に包囲網が狭められ、破滅へと追い詰められているようでもあった。生命の危機を感じたルソーは、1765年、スイスのビエンヌ湖のサンピエール島に逃れたが、そこでも迫害に遭い、同年ストラスブールに逃れたが、そこでは市は彼に保護を与え、また街を挙げて歓待された。そういったなか、ヒュームからの誘いをうけた。途中パリを経由する許可をもらっていたが、パリ滞在中は、あまりに訪問客が多く、実質的にはパリへの凱旋となった。そこで彼を待つヒュームに会った。ヒュームはルソーに大変よい印象をいだいた。しかしドルバック男爵という人物はヒュームに、あなたはルソーの本質を知らない、と忠告したのであった。その意味は何だったのだろうか。
1766年にルソーはヒュームと共にロンドンに到着。ルソーのロンドン訪問は注目されて新聞でも細かく報道され、またかつての迫害が今も続いていて陰謀が企まれて罠が仕掛けられ、追跡されている、しかもヒュームその人こそがその一味であり、その先鋒であり、ルソーを囚えるための監視をしている、どうやら英国人全体が迫害者として一丸となっている、というような妄想が強まった。迫害妄想の渦巻くなかで、ルソーはなすすべもなく、無力を感じつつ、しかし、彼らが私の品位を下げることには失敗するであろうと言いつつ、1767年にフランスに帰国した。
ルソーはイギリスにいる1766年にこの著作を執筆し始めた(第1部)。敵の中傷に満ちた攻撃に対して自分の真の姿を知らせたかったというのもモチベーションがあったようであり「わたくしの告白の本来の目的は、わたくしの生涯のすべての状態におけるわたくしの内面を正確に知らせることである」と語っている。この著作では、彼の善いことも悪いことも書き、公平な評価を求める姿勢がみられる。
アルメニア人風衣装を着た1766年のルソー
アラン・ラムジー
作成: 1766年
フランスに帰ってからは、オノーレ・ミラボー伯がコンテ大公のもとに連れて行き、彼はこの大公の城で身を潜めていた。そこでも、召使いなども含めて、彼を殺す目的で監視しているとか、壁という壁に耳があるというような妄想を抱き、その黒幕はヒュームであるという妄想を持ち続けていた。そんなふうで『告白』の執筆もままならなかった。ただ植物学や植物採集に興味を持って癒やしを求めた。
1768年リヨンに移り住み、テレーズと結婚した。『告白』の執筆を再開した。リヨンでも妄想は続いていた。
1770年、パリに移り住み、そこではなおも逮捕状は生きていたものの、言論活動を自粛するかわりに、逮捕を見逃されて自由に行動できた。パリでは写譜、植物採集、『告白』『孤独な散歩者の夢想』の執筆などを行った。『告白』は出版せずに、そのかわりこの書を朗読会を開催して発表したが、ほとんど何の反応もなかったという。ただ、その頃の彼は59歳であったものの、目に輝きが満ちて、若々しく、愛想が良く、愛嬌があって、上品だったという証言がある。もっとも妄想は相変わらずであった。
1772年には、妄想が再び極大化した。『告白』にたいして反響が見られず、彼は自己弁護の意図も込めて、「ルソー、ジャン=ジャックを裁く-対話」を執筆し、原稿をノートルダム寺院の祭壇の上に、真理への誓いとして奉じようとした。しかし、鉄格子の柵が閉まっていたためにそれが叶わず、そのことを、神が敵側にあることを悟ったという。すなわち迫害者たちの真の黒幕が神ではないかとルソーは疑ったのであろう。
ルソーは多くの迫害に対してあらゆる抵抗が虚しいという無力感と共に、迫害はもう全て為し尽くされた、もう恐れることはない、と心境にさえ至り、それは気持ちの落とし所であったのかもしれないが、孤独の中で「自分は一体何者であるのか」を探求しようとした。こうして『孤独な散歩者の夢想』(Les Rêveries du promeneur solitaire, 1776-78)の執筆を続けた。これがいわば「狂人の書」でなくてなんであろうか。
78年にパリから20マイル離れた地にて、ルソーの愛読者のジラルダン侯爵に保護され、共に植物採取をしたりして自然に親しんだ。その年に急死した。