表参道ソフィアクリニック
・メディチ家興隆の最初であるといえるでしょうか。
・1397年に「銀行商会(メディチ銀行)」を発足させ大成功を収める。メディチ銀行は実質的には彼が創設しました。
・また毛織物業の会社も設立して急成長しました。
・旧勢力に対して、新勢力でした。
・シスマ(教会大分裂)のなか、対立教皇ヨハネス23世 (バルダッサレ・コッサBaldassare Cossa 1370年頃 - 1418年)を擁立しました。そしてこの教皇からジョヴァンニは教皇庁会計院の総財産管理者に指名され、この立場は15世紀末まで維持されました。メディチ銀行のローマの支店がローマ教皇庁とつながっていて、ジョヴァンニは教皇庁の経済的利権を独占し、メディチ家の大きな収益源でした。ヨハネス23世は複数のスキャンダラスな罪状にて告発されましたが、これらはおそらく捏造とも考えられていて、ジョヴァンニが尽力して救い出し、最期にはサン・ジョヴァンニ洗礼堂に立派な墓碑を作って葬りました。この墓碑は、ドナテッロとその協力者のミケロッツォに作らせました。
ヨハネス23世記念墓
対立教皇ヨハネス23世 (バルダッサレ・コッサBaldassare Cossa 1370年頃 - 1418年)
・彼は人情に厚い面もあるともされています。
・息子コジモに古典や人文主義の教育を熱心に施しました。これらは当時フィレンツェで隆盛が始まっていました。
・メディチ家が学芸や芸術に対するパトロンになることも彼から始まりました。コジモ以前のメディチ家はそもそもそのようなものに興味がありませんでした。
・1401年のフィレンツェ洗礼堂の門で、ギヴェルティとブルネレスキが競ったコンクールでも、彼は審査員を務めました。
・1421年にはブルネレスキ設計による孤児養育院の建設工事を推進しました。
・ブルネレスキにサン・ロレンツォ聖堂(メディチ家の菩提寺)の(旧)聖具室を作らせ、ジョバンニとその妻が埋葬されました。
・政治権力を掌握して以降は、表立って重要ポストにつくのではなく、背後から権力を振るっていました。フィレンツェ市内のなかに存在する各勢力と均衡を保ち調停者の役割を担ったりもしました。戦争による財政危機で、1427年に有名なカタスト法、つまり全市民の資産申告に基づいて公平に課税する制度を導入するにあたっても、これに賛成し、反対派の説得に努めました。またフィレンツェの平和と市民全体の利益を優先して行動するという風であったため、市民の大きな信望を得ました。また慎重派でもありました。
▲メディチ家礼拝堂
クワトロチェント(1400年代)の前半とは、ジョヴァンニの最後の方と、コジモのほとんどの統治期間。つまり、大まかに言えば、コジモの統治機関を指す。
【1400年前後におけるイタリア国内の周辺都市国家からの圧迫】
ミラノによる圧迫:ミラノはピサとシエナなどを制圧して、フィレンツェを包囲しました。もっとも王の突然の死により危機が回避されました。
ナポリによる圧迫:ナポリが、シエナ、ローマ、ロマーニャに侵攻。王の突然の死により危機が回避。
ミラノによる圧迫:1824年ロマーニャに侵攻。1832年まで。
フィレンツェは、コロトーナ、要衝となる港町ピサ、港町リヴォルノを支配下に入れる。
毛織物は衰退したが、絹織物が急成長した。
1389年9月27日 - 1464年8月1日。
コジモ・イル・ヴェッキオとも呼ばれる。
1420年父親ジョヴァンニが引退して31歳のコジモがメディチ銀行の正式の後継者に就任しました。1429年にコジモが40歳のときに、父親が死去し、メディチ家当主を引き継ぎました。
「祖国の父」:キケロに与えられたこの称号をフィレンツェ共和国政府がコジモに与え、墓碑銘にそのように刻まれました。
<銀行業>
父ジョヴァンニが発展させた銀行業をさらに大躍進させます。彼は、フランス、スペイン、ポルトガルなどの王侯にも融資をしていました。その縁もあってかフランス王ルイ11世はフィレンツェ家の紋章に小さな百合の紋章(フランス王家の象徴)を3つ加えることを許しました。彼にお世話になってない有力王侯貴族はいないのではないかというくらいだったとも言われていました。彼の時代に、メディチ家の銀行の業績は絶頂期を迎えました。ローマ支店は相対的に重要度が減退したものの最重要であり続け、それ以外にさらに国内外で支店を増やしていきました。各地の支店では金融業以外に輸出業も手がけていました。しかし、晩年になるとこれらの事業は全般に衰退が目立ち始めました。
((CF: そもそも共和国であるフィレンツェでは特定の人物に権力が集中しないように、同業者組合を中心とした代表者9人が抽選で選ばれ、任期は2ヶ月にしか過ぎませんでした。これらの人々で最高協議会を構成して、立法、行政、司法の権力を持っていました。政治機構は非常に複雑であり、また金次第で思い通りの結果が得られたり不正もはびこりやすく、うまく機能していなかったようです。))
<コジモの追放と帰還>
コジモはジョヴァンニの後を継いで数年経った1433年に逮捕され10年間の追放の刑を受けました。フィレンツェの共和制では選挙を行っていたのですが、コジモは選挙で不正を働いたと判決を受けたのでした。これは主としてアルビッツィ家の陰謀によるものであったとされます。
しかしコジモは民衆の支持基盤があったため、追放されたちょうど1年後の1434年に彼はフィレンツェに帰還して自らの権力基盤を強化することができました。
<コジモの権力強化>
フィレンツェは共和制を採っており、独裁や王政は避けられました。コジモは要職に就くことはなく、重要な決定にも表立っては出ませんでした。しかし、彼は背後から強力な影響力を行使して統治して、実質的な最高権力者となり、それどころか独裁者、君主のようであったという評価もあります。またコジモは反対派や政敵に対しては冷徹な粛清を行いました。先のアルビッツィ家の人々に対しては、追放、処刑、財産没収によって没落させました。
・彼は、婚姻関係、同業者、地縁、その他多くの人との連携を強化して、メディチ家やその周辺の人々によって党派的性格を持つメディチ派を形成しました。メディチ派にたいしては税の負担が軽く、それ以外の者たちには税の負担が重くなるという不公平もあったようです。
<同業者組合に対して>
同業者組合は「大組合(大アルテ)」と「小組合(小アルテ)」があり、大組合には合計7つあり、とくに羅紗(ラシャ)業、絹織物業、毛織物業、金融業の4つが重要でした。小組合はその他の庶民的な職業でした。コジモは、大組合に対して課税を強化しつつ、小組合の人々を優遇して連携を強めながら、次第に権力基盤を整えていました。メディチ家は民衆にも積極的に融資を行っていました。これらの行いはメディチ家の評判を高めました。
<租税>
・1447年には富裕市民に対して税率は50パーセントにまで引き上げられた。
<文芸・芸術の保護・パトロネージ>
コジモは、膨大な資金を費やして幾つかの大規模な造営事業を熱心に行い、フィレンツェの街を整備し、美化し、多くの芸術家や建築家を保護しました。花の聖母マリア大聖堂、サン・マルコ修道院、サン・ロレンツォ教会、サンタ・ヴェルディアナ修道院、リッカルディ宮(メディチ家の住居)は、一新されました。彼が保護したのは、ブルネレスキ、ミケロッツォ、ベノッツォ・ゴッツォーリ、フィリッポ・リッピ、ドナテルロなどです。彼は芸術家たちの才能を発揮させるよう、寛大であったと言います。
またコジモ自身が人文主義の教養が高く、プラトンそしてアリストテレスの思想に強い関心を持ち、その研究を援助して、プラトン・アカデミー(「アカデミア・プラトニカ」)の基礎を作りました。そこではプラトン(やプロティノス?)の思想を愛好し学ぶための集いが催されました。また彼は待医の息子マルシリオ・フィチーノに語学の才能を見出し、彼をフィレンツェ郊外の別荘カレッジに住まわせてヘルメス文書やプラトン全集の翻訳と研究を行わせました。フェチーノがプラトン・アカデミーの中心人物になりました。フィレンツェはイタリアのプラトン研究の中心地であり、フェチーノなどの思想は「ネオプラトニズム」の隆盛の元となりました。のちにそこには孫のロレンツォ(後のロレンツォ・イル・マニフィコ)も参加するようになりました。ランディーノ、ポリツィアーノ、ピコもいた。
・・・・プロティノスの流出説。
<写本の蒐集>
コジモは写本の蒐集にも熱中しました。サン・ロレンツォ聖堂のラウレンツィアーナ図書館の蔵書の基礎となりました。
また、借金のかたに手に入れた800冊の書物を寄進して、サン・マルコ修道院内にも図書館(サン・マルコ図書館)をつくって市民に公開しました。
<建築について>
コジモは建築についても極めて精通していたといわれています。サン・ロレンツォ聖堂の設計に大きく関与。
造営建築の大半はミケロッツォ・ディ・バルトロメオ(ミケロッツォ・ミケロッツィともいう)(1396年 - 1472年)に委ねられた。
花の聖母マリア大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)
・サン・マルコ修道院の再建事業:サン・ロレンツォ聖堂の改修事業を完成させた。
・サン・マルコ修道院は、12世紀に建てられた修道院で、15世紀初めにはドメニコ派の拠点となり、1436年にコジモ・デ・メディチの命により、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ(ミケロッツォ・ミケロッツィともいう)が再建。現在はサン・マルコ美術館として公開されている。ギルランダイオの『最後の晩餐』や、同修道会のフラ・アンジェリコの『キリスト磔刑図』、『受胎告知』がある。
建設の全費用をコジモが負担した。
・ブルネレスキの設計
・サンタ・クローチェ修道院修練所
・バディア
・サンタ・ヴェルディアナ修道院
・メディチ=リッカルディ宮殿(パラッツォ・メディチ、メディチ邸、メディチ家の住居):ミケロッツォの設計。
1460年ごろに完成した。
17世紀にリッカルディ家に買収された。
・メディチ・リカルディ宮(パラッツォ・メディチ)のマギ礼拝堂ではベノッツォ・ゴッツォーリに『東方三博士の礼拝』を描かせました。
<古代の遺物のコレクション>
<農業への関心>
農業に関心を持ち、コジモは専門家のようなものであった。剪定や接ぎ木などをしていた。
<ヴェネツィア、ミラノとの関係>
フィレンツェは、ローマやヴェネツィアとの同盟関係を維持して、ヴィスコンティ家のミラノの拡張主義に対抗しました。
・コジモはヴィスコンティ家からミラノ公を引き継いだ傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァ(1401 - 1466)と1451年同盟を結びました。かねてからコジモはフランチェスコ・スフォルツァに資金を提供していてまた緊密な関係を築いていました。フランチェスコ・スフォルツァはコジモより一回り若いくらいで、兄弟分あるいは先輩後輩の年齢差です。フランチェスコ・スフォルツァはは、都市の近代化をはかり、効率的な税制をしき、政府の収入の著しい増大をもたらしました。また彼の宮廷は芸術と文化の中心となりミラノ市民の間でとても人気となりました。
スフォルツァ家がミラノ公になって以降はフィレンツェと同盟的な関係となっていった?
フランチェスコ・スフォルツァ
ボニファーチオ・ベンボ画 (ブレーラ絵画館, ミラノ)
<1453年のローディの和>:オスマン帝国の台頭による圧迫。
・オスマン帝国(「オスマン・トルコ」は通称である)のアメフト2世(1432年- 1481年)は、1453年にコンスタンチノープルを陥落させ自国の首都にしました。これにより東ローマ帝国が崩壊しました(これによって中世が終わったとする見方があるくらいである)。その後もオスマン帝国は1460年にはギリシアを征服、その後も次第に拡張して16世紀には地中海世界の過半を覆うようになりました。イタリアではオスマン帝国に対する危機感を強め、それまで都市国家間の相次ぐ争いから一転して全土がまとまる機運が急激に高まり、コンスタンチノープルの陥落の翌年1454年には、ローディでの和平協定「ローディの和」が締結されました。これにはイタリア全土の5つの主要な都市国家、つまりフィレンツェ共和国、ローマ教皇国、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、ナポリ王国が参加しました。これによってイタリアの都市国家間で頻発していた戦争が終結し、(例外を除いて)およそ40年間平和が保たれました。オスマン帝国の脅威にたいしてイタリアがまとまり、これ以降のクワトロチェントの後半はいわゆる「イタリアの平和」の時代でした。コジモは各都市国家間の勢力の均衡を図る方針でのぞみました。そして、ピエロを挟んでロレンツォも均衡政策の要となる役割をしました。なので、コジモが貢献して「イタリアの平和」ができて、これはロレンツォの存命期間に相当していて、ロレンツォが死去すると(つまりクワトロチェントの終わりに)これが壊れたというふうです。
ですから、フィレンツェはコジモとロレンツォのもとで他国よりもいち早くクワトロチェントにおいて最盛期を迎えましたが、大国がいくつも勃興するなかで衰退傾向に次第に入り、次の1500年代には大国の割拠のなかで明らかに衰退していきました。これはフィレンツェだけでなく、ヴェネツィアやローマも含めてイタリア全体が相対的に下落する傾向があった様である。
・英仏:「ローディの和」の締結の同年に英仏の100年戦争(1337年 - 1453年)も終わりました。これによってフランスはヴァロア朝のもとで統一フランスがつくられ、クワトロチェント末からのシャルル8世(イタリア戦争)、ルイ11世(イタリア戦争)、フランソワ1世(カンブレー同盟戦争)の時代へと向かいます。フランスは1589年に アンリ4世からブルボン朝になり、中央集権化と絶対君主制への道を進んでいました。
・英国は100年戦争で衰退したものの、戦後には、テューダー朝で盛り返し始め、とくに1500年代の伸張期であるヘンリー8世、エドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世と続いた。
・スペインおよび、ドイツ・オーストリア・ハンガリーの神聖ローマ帝国=ハプスブルク家が次第に力をつけ、次の1500年代のカール5世へとつながります。
・オランダの台頭はあったものの経済的にはまだ十分発展していなかったかともおもわれる。オランダは1500年代に伸張したが、とくに1600年代が最盛期であろう。
・イタリア諸国は、少なくなったパイのなかで、クワトロチェントが終わると、権益を確保すべく急に争いがこれまで以上に大きく再燃した。
<弟ロレンツォとの協力>
【ピエロ・イル・ゴットーゾ】
コジモは後継者である息子のピエロの権力基盤を整えるのにも冷徹であり、予断がありませんでした。コジモの死後、当然のごとくにして、息子ピエロが後を継ぎました。75歳でコジモが亡くなった時、ピエロは48歳。
ピエロは重傷の痛風病みであり、あだ名もそのようにされましたが、そのために30代ですでに病床に臥すことが多く、四肢が不自由でした。48歳で当主の地位を継承し、わずか5年の統治を経て53歳で早世し、20歳のロレンツォに当主の座を引き継がせました。
<ピエロの時期の政治・経済>
ピエロの治世下において、コジモほど銀行業は振るわず、財政危機が深刻化し始めた。ピエロはコジモより銀行経営や政治の手腕が劣っていたとされます。銀行不況により、銀行業を縮小するとともに、債権の取り立てを強く進めたため、倒産するところが相次ぎ、人々の反感を買い、政治的にも不安定化しました。1466年ミラノのスフォルツァが死去。フィレンツェとミラノの弱体化と捉えられて、反メディチ勢力が大きくなり、フィレンツェ市内にて、ミラノからの援軍と反メディチ勢力であるフェラーラ軍が対峙して緊迫しました。ピエロはフェラーラ軍を撃退してこれに勝利をして辛くも政治的な危機を脱しました。
ただ銀行の経営はその後も衰退していきます。
1467−68年にフィレンツェはヴェネツィアと戦争状態に入り、ヴェネツィアの支店も閉鎖しました。
ピエロは明礬(みょうばん)という染料の元になる鉱石の専売の許可を教皇から得ました。オスマン帝国の勢力が増大して、それによって明礬が入手しづらくなっていたのですが、教皇領で新たに発見された明礬の専売権を獲得したのです。教皇とその交渉をするにあたって弱冠17歳の息子ロレンツォがバチカンに派遣されました。この明礬の一件以外の案件についても、ピエロはなにかと若きロレンツォを各都市に派遣して交流させ外交的な友好を目指すとともに、指導者としての教育を行いました。ロレンツォは人付き合いの良さもあって、外交に長けていたのでした。
<ピエロのパトロネージ>
彼も人文主義的な教育を受けていました。 彼は壮大な建築よりは絵画、彫刻のパトロネージとなりました。コジモよりはピエロの方が豪奢な装飾性が見られるといいます。
<蒐集>
ピエロは、宝石、珍品の大変に熱心なコレクターで、それらに囲まれて過ごすことに幸せを感じていたようでした。そのための専用の書斎(「スクリットイオ」)を作らせていました(この部屋は現在は消失している)。
クワトロチェントの後半は、大雑把に言えば、ロレンツォの時代です。 メディチ家の安定化と衰退が共存していました。
1449年1月1日 - 1492年4月8日
ロレンツォ・イル・マニフィコ
マニフィコは人間的な偉大さ、鷹揚さを意味する「マニフィチェンツァ」に由来する
<政治・経済>
彼が当主になった時には、人々は、若いロレンツォに対する不安もありつつも、彼は友好的に人と接する外向的な性格であり、ロレンツォに対する信望もあつかったため彼を盛り立てようとする機運がありました。もっともロレンツォは政敵に対しては強い姿勢で臨みました。
1471年ヴォルテッラという町で発見された明礬の採掘権をめぐる争いで、ロレンツォは傭兵3000名に町を包囲攻撃させ、多数の市民の殺傷、略奪、陵辱を行い(ロレンツォがやってきてそれを止めて謝罪したことになっている)、70以上の有力家族を追放して、明礬の採掘権をフィレンツェに帰属させました。 つまり権益を強奪したようにも見える。
フィレンツェに敵対する教皇シクストゥス4世はナポリと同盟を結び、パッツィ家に教皇庁会計院の管理権と明礬の専売権を与え、ピサへの影響力拡大を目論み、それに対抗してフィレンツェはヴェネツィアとミラノと同盟を結びました。このような緊張した状況のなか、1478年のパッツィ家の陰謀が発覚しました。パッツィ家は同じ銀行業の名家であり、かつてコジモの時代にはメディチ家とは友好関係にもありました。パッツィ家の陰謀とは、教皇軍、ナポリ軍、ロマニア軍と結んで、メディチ家を根絶やしにするという大規模で本格的なクーデタ計画でした。フィレンツェ大聖堂内での暗殺は失敗し(このとき弟ジュリアーノは暗殺されたが、肝心のロレンツォ自身は逃げおおせた)、政庁舎を占拠し民衆の蜂起を扇動したものの民衆はロレンツォの側についたのでした。このパッツィ家によるクーデタは完全な失敗に終わり、首謀者は即日に逮捕処刑、その後のロレンツォによる苛烈を極めた対抗措置によって、事件後1ヶ月で100名を処刑、パッツィ家が根絶やしにされて消滅しました。このクーデタの失敗の大きな要因の一つは、民衆がロレンツォの側についたことでした。これはコジモが独裁的な権力基盤の整備を非常に冷徹に行うことができたのは民衆の支持があったからであるのと似ています。共和国においては民衆の支持がなければ滅びてしまうのです。パッツィ家の陰謀があってのちロレンツォはフェレンツェにおける自らの権力基盤をより確固たるものにする方向で国内の各方面に配慮をします。
しかし上記の教皇やナポリなど周辺諸国の反メディチ家勢力はなおも根強く、両陣営が臨戦態勢が続き、フィレンツェ側は劣勢になっており、一旦戦争になれば負ける可能性が高かったのです。この危機を乗り切るためにロレンツォ自身が敵方のナポリに入り国王フィルディナンドと停戦の講和に持ち込むことができました。それとともにロレンツォはオスマン帝国と通じてオスマン帝国軍を活発化させて、1480年ナポリ領の一部がオスマン帝国軍に占拠されると、ナポリは統一戦線を作るべく教皇にプレッシャーをかけ、そこにロレンツォが教皇に戦費を負担することを約束をして、教皇と和睦しました。
しかし1482年、教皇、ヴェネツィア、ジェノバとフィレンツェ、ミラノ、ナポリ、フェラーラの間で戦争状態に入りました。この時にはロレンツォはローマに入り教皇と関係修復を図り、その後1484にシクトゥス4世が死去して、これらの緊張関係は緩和しました。ロレンツォはローマ、ヴェネツィア、ミラノ、ナポリ、フィレンツェの間では勢力均衡維持の調停者「天秤の針」の役割を担い各都市国家から大きな信頼を得るようになりました。もっとも、他方では周辺の小国に対しては軍事力を用いて冷酷に自国の勢力を拡大しました。
また、インノケンティウス8世との間で、金、婚姻、友好によって親密な関係を結んだ。こうして教皇を輩出できる資格を持つ一流の家柄の仲間入りを果たしました。そしてのちに息子ジョバンニが教皇レオ10世として就任しました。
ロレンツォは人柄が良く外交的だったにもかかわらず、このように外国勢の恨みを買っていたのは、他人の商売を邪魔する強欲な一面があったからというのもあるようです。ロレンツォ統治下のメディチ家の商売は、コジモやピエロの時代と比べればかつてないほどうまくいっておらず、メディチ家の財政難は深刻の度合いを増していました。これは、イタリア全体の経済情勢が衰退傾向にあったのに加えて、ロレンツォが祖父のコジモほどは経営手腕がなかったことにもよります。
メフトメ2世率いるトルコ勢力の膨張によって、1453年コンスタンチノープルが陥落して東ローマ帝国が滅亡しました。バルカン半島も占拠され、イタリアの目前に抱いて異国が迫ってきました。たとえメディチ家が明礬の専売権を獲得したとしても、トルコの方がはるかに直接オランダやフランドルなどにも、より安価に明礬を販売しましたから、とうてい太刀打ちできませんでした。メディチ家は経済的にもあちこちで苦境に立たせれていました。
ロレンツォの時代には、フィレンツェの他の銀行家たち多くが経営不振で破産が続いていました。メディチ銀行もローマ、ナポリ、ミラノ、ロンドンの支店でそれぞれの君主たちへの巨額貸付、不良債権、放漫経営によって巨額の赤字を計上していました。ヴェネツィア支店も不調で閉鎖を余儀なくされました。ロレンツォは改革を試みたものの、うまくいかず、結局ロレンツォが死去する頃にはメディチ銀行は破産寸前でした。
それに加えて、あろうことかロレンツォはフィレンツェの巨額の公金を不正に流用していました。
焦りもあってか、強欲的なところもむき出しにしてか、ロレンツォは一方では鷹揚で気さくで友好的でしたが、他方では強欲で人の恨みを買うという二面性があったようです。ロレンツォをはじめとしたメディチ家は真綿で締め付けられるように政治と経済が徐々に衰退に向かう苦しみに苛まれていたと思われます。
当時は、イタリアの前にオスマン帝国が大きく張り出してきて、西欧列強が勃興し、イタリアは経済的にすいた池耕にあり、縮小したパイの獲得を巡って、各都市は抗争の火だねが多く、また腐敗の横行など暗い世相でした。そのためか終末思想も盛んになってきました。 ロレンツォの時代には総じてみれば平和の時代でした。しかし、各都市国家間の葛藤は次第に蓄積されて、16世紀には一気に噴出して戦争が繰り返されるようになりました。
<ロレンツォの人柄>
権力者としての狡猾さ冷酷さ、政治家としての賢明さと慎重さ、貴族としての洗練された優雅さ、庶民的なざっくばらんと奔放さ悪ふざけ、祝祭などにはパトロンとして散財する気前良さ、学問をする人や芸術家に対する保護者、人文的知識人としての勉強熱心で多岐的な知識。そした敬虔なキリスト教徒でもありました。彼は多才な人物でした。しかし皮肉なことに本業の商人あるいは経営者としての資質は低かったようです。
<美術・彫刻>
ロレンツォはコジモやピエロのように芸術家のわがままに応えたり、大盤振る舞いをすることもなかったようです。「美術品」はあまり発注しませんでした。発注しても報酬の未払いさえあったようです。彼は今では失われたもののかなりの数の作品を私的に注文していたとも言います。ロレンツォが特にひいきにしていたのは、ボッティチェリとフィリピーノ・リッピでした。ボッティチェリは遊び仲間でもあり、プラトンアカデミーの参加者でもあり、また『プルマヴェーラ』はロレンツォの意見が反映されているか彼自身の注文によるかもしれません。
ロレンツォは芸術家・建築家の外交的な価値を認めて、フィレンツェの外(ローマ、ナポリ、ミラノ、ヴェネツィア)に画家、彫刻家を派遣するよう推薦しました。芸術家は近隣諸国と平和を維持するため手段とも考えられていたようです。当時はイタリアその他の諸国では、フィレンツェの画家、彫刻家の評判が極めて高く、諸侯たちは喜んで芸術家たちを迎え入れました。ロレンツォはフィレンツェへの愛国的自覚を持って芸術家たちを推薦し、これら芸術家たちはフィレンツェではもはや望めないような大きな仕事が依頼されたのでした。フィレンツェの優れた芸術家たちがイタリア全土で華々しく活躍し、彼らの力量も飛躍的に発展しました。またイタリア美術全体の水準も極めて高いものとなりました。ただ、いったんフィレンツェから出た芸術家たちは再び故郷にもどって仕事をすることはありませんでした。これはフィレンツェの美術の空洞化を引き起こしかねない事態でした。
これらのことは、ロレンツォの治世下でメディチ家及びフィレンツェの経済力が大分弱まっていたことも背景にあると思われます。
ロレンツォは晩年の2年間、15歳のミケランジェロを見いだし住居を与えて勉強させた彫刻家としての第一歩を踏み出させたと言われています。彼はロレンツォの死後もレオ10世やクレメンス7世に庇護されました。
<建築>
ロレンツォは大規模な建造物の造営はほとんど行いませんでした。ロレンツォ自身が施主となった建築物は、ポッジョ・ア・カイアーノのメディチ荘(別荘)とサン・ガッロ修道院(現存せず)の二つだけでした。
美術、彫刻、建築のうちでロレンツォが一番造詣が深かったのは、建築であったとされています。多くの建築家と交流を持ち、自らも設計を楽しんでいたとのこと。
・設計コンクールの場合など、自ら発議したり、依頼されたりして、審査委員や裁定者や顧問を務めた。
<ピサ大学の改革>
ピサ大学の改革に関わりました。フィレンツェ大学の人文学科の強化。
<蒐集>
祖父コジモの頃から始まった写本、古代の装飾品や貨幣などの蒐集に対しては膨大な資金を投入して、コレクションはロレンツォの代になって飛躍的に増大しました。 これらの蒐集は、投資目的でもありました。 親しい学者には写本を公開して研究させました。
<学問の保護者として>
彼は詩人と交流することが多く、自ら人々に愛誦されるような詩をいくつも書いています。フィチーノの新プラトン主義に早くから共感していました。 学芸の保護にも熱心で、フィチーノは当時のフィレンツェを「黄金の世紀」と呼んでいます。しかしなぜかフィチーノへの援助はささやかだったようです。
学問を保護しましたが、文人たちがフィレンツェにとどまることに固執しなかった。
・ピコ・デラ・ミランドラ:新プラトン主義。彼はロレンツォの元で研究した。
・ポリツィアーノ
<詩作>
量が豊富であり、質が高い、主題や形式のヴァリエーションの幅が広く、多面的でり、トスカーナ俗語で書かれていました。
<祭り>
本人が好きだというのもあってか、また政権の基盤の安定化対策もあって、市民の受けが良い祭りには気前よくお金を払いました。
ボッティチェリ、ミケランジェロの後援者として知られる。
1492年のロレンツォの死は一つの区切りでした。それから16世紀半ばまでの50年間は激動と戦乱の時代でした。ロレンツォはイタリア諸国の均衡を保つ役割をしていましたが、彼の死後、この均衡が破られました。イタリアは、スペイン=ハプスブルク家、ヴァロア朝のフランスの間で国際的な覇権争いの舞台になり、結局は、スペイン=ハプスブルク家がヨーロッパ最強の国として確立しました。また、フィレンツェは小国に没落していきながらメディチ家の支配とそれを否定する共和制のあいだを揺れ動き、結局はコジモ1世において君主制が確立するに至りました。
1517年にはルターの宗教改革と、カトリック内での対抗宗教改革によってキリスト教が大きく分裂しました。
ロレンツォには3人の息子がいました。
長男:ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ
次男:教皇レオ10世
三男:ジュリアーノ・デ・メディチ (ヌムール公)
ピエロが弱冠20歳で後継者となりました。
ロレンツォの死後、わずか2年の1494年、フランス=ヴァロア朝の若き王シャルル8世は、ナポリ王が没すると継承権を主張し、ナポリに向けて進撃しました。ガスコンの突撃隊やブルターニュの弓隊を有する強い兵力でした。フランスは100年戦争で英国と戦うなどして強い軍隊を持っていました。それに対してイタリアはこれまで外敵に襲われたことがなく、都市国家間の争いはあったものの、戦争となれば、傭兵が雇われて傭兵同士が戦っていて、まともな正規軍がほとんど整っていませんでした。フィレンツェでもいろいろな職業や同業者組合がありましたが、職業軍人だけはいませんでした。そういったことからフランス軍はいともたやすく進軍することができました。ピエロはシャルル8世のもとに赴き、港町であるピサとリヴォルノの支配圏を放棄する条約に調印し、フランス軍の入城を承諾し、ピエロ自身は独断行動を責められ追放に処せられましたが、フィレンツェ市民の反感を恐れて逃亡、亡命してしまい、こうしてメディチ家の統治はあえなく終わりました。また、この同じ年に、これに連動して、ロレンツォの晩年には既に破産寸前だったメディチ家の銀行ネットワークが崩壊してしまいました。ロレンツェノが死んですぐにイタリア戦争が始まり、またメディチ家の銀行業破綻したわけです。それはロレンツォの時からすでに準備されていたことだったとのでしょう。
フィレンツェ市民はフランス軍を迎えいれるしかありませんでした。フランス軍は南下してナポリに入城してナポリ王となりましたがヴェネツィア、アレクサンデル6世のローマ、スフォルツァのミラノらの同盟軍に包囲され、大敗を喫して撤退しました。フィレンツェは事なきを得たとも言えるのですが、その後のフィレンツェの状況は混乱していました。メディチ家は逃げて、実質的な政治的な体制が骨抜きのような状態でした。この不安定な情勢に乗じて台頭してきたのが、ロレンツォの生前から人々の心を惹きつけてていたサヴォナローラでした。
彼はドメニコ派の修道士でした。1482年からフィレンツェのサン・マルコ修道院に赴任しました。
彼は堕落した教皇を激しく非難し、風俗と文化の浄化、享楽的で現実的な利益の道でなく信仰に生きる道を歩むように市民たちに訴え、キリスト教理念に基づく全市民的な共和制国家の確立を目指しました。サヴォナローラのキリスト教政治は「神聖政治」とか「神権政治」とも呼ばれます。
しかし、サヴォナローラは、警察のような少年隊を組織して、美術品や装飾品や書物や楽器など虚飾と見なされたものを破壊するような横暴を行い、また「虚飾の焼却」や焚書の大規模なセレモニーも行いました。当時は本も高価な財産でした。こうしてサヴォナローラは市民の所有する多くの財産を毀損しました。また、貿易などを振興するような経済政策もないことから、フィレンツェの経済も国庫の財政も悪化する一方であり、フィレンツェの衰退に追い打ちをかけました。肉食の制限などで肉屋の倒産が相次いだりということもありました。食糧不足になりました。また疫病もありました。ピサの再征服にも失敗しました。こうして社会経済的な矛盾がますます拡大しても、サヴォナローラは、すべては神の道を歩む共和国を形成するためだと、自己正当化しつつ、専横的で独断的な統治がなされました。
1498年フランシスコ派の修道士が演説をして、サヴォナローラに「火の裁判」(ないしは「火の試練」)という挑戦状を叩きつけました。もしサヴォナローラが神の加護を受けているというのであれば、火の中に入って無事に脱け出れるはずだ、共に火の中に入ろうと挑戦したのでした。サヴォナローラは、それに対して、神を試すことはできない、として断ったのでした。そこから市民のサヴォナローラに対する不信が噴き出して、サヴォナローラは裁判にかけられ縛り首にされました。こうしてサヴォナローラの神聖政治は4年間で終わりました。
サヴォナローラにはローマ・カトリック教会に反対する宗教改革運動の側面があったとも思われます。また人類の歴史の中で、時々つかの間現れる革命的な政治体制の一つかと思われます。これらは往々にして歪んでいて極端なものとなりがちです。
サヴォナローラの時期には、文化的には乏しいようです。
サヴォナローラの処刑後、フィレンツェはベネツィア共和国に倣って大評議会(共和体制のシンボルとして当時新たに建設された)や終身国家元首を設立し、ピエロ・ソデリーニを選出しました。彼は名家の出身ですが、メディチ家ではなく、メディチ派に属していました。ソデリーニの側近としてマキャベエリが内政、外交で活動しました。自国軍を創設して、1509年になってピサを再獲得しました。
ピエロ・ソデリーニ、チェーザレ・ボルジア、教皇アレクサンドル6世、フランスが組んで、ヴェネツィアに対抗しました。
教皇アレクサンドル6世の後を継いだユリウス2世は、1511年「反フランス神聖同盟」を結び、ジョヴァンニ(のちのレオ10世)、ヴェネツィア、スペイン及びその統治下にあるナポリと組みました。1512年、フランス・フィレンツェ(ソデリーニ政権)側と戦争を行いました。フランスはルイ12世の統治であり、ナポリとミラノの統治権も主張していました。スペイン軍側は辛くも勝利したのちに、フィレンツェを陥落させ、略奪と殺戮を行い、ソデリーニ政権は崩壊して亡命しました。約10年間という短い統治でした。ついに、フィレンツェにメディチ家が復帰して、フィレンツェは神聖同盟に参加しました。 イタリアそしてヨーロッパ全体で神聖ローマ帝国はフランスより優越する地位を得ていきました。
ソデリーニ政権時代は、フィレンツェは文化的に盛り返しました。レオナルドやミケランジェロなどが現れ「盛期ルネサンス」の幕開けの時代でした。
反メディチの共和体制として、大評議会が創設されるにあたって、新たに建造され、そこにはミケランジェロとレオナルドの未完の壁画(戦争画)が描かれました。また政庁舎前には1504年にミケランジェロのダヴィデが設置されました。マキャベリの構想と主導で自国軍が創設されたこともあり、自らの「運(フォルトゥナ)」と「力量(ヴィルトウ)」で戦いフィレンツェを守る強い意志を持った英雄像でもあります。ラファエロもこの時期にフィレンツェに滞在しました。
またピエロ・ディ・コジモ、フラ・バルトロメオ、アンドレア・デル・サルトが活躍しました。都市貴族たちによるパトロネージも再活性化し、次々に作品や礼拝堂などが注文されました。サヴォナローラの時代を境にして、新世紀の幕開けとも言えるかもしれません。
1512年ソデリーニ亡命以降、ふたたびメディチ家が実権を握り、ロレンツォ・イル・マニフィコの時代の共和政治の体制を復古しました。そしてレオ10世(ロレンツォの次男ジョヴァンニ)やクレメンス7世などがローマ教皇庁から指令を出して、フィレンツェを強力に支配する体制が作られました。また、ロレンツォ・イル・マニフィコの「黄金時代」が再興したことを印象付けるかのように、メディチ家の何らかの成果にちなんで、市民たちとともに盛大に祝祭をあげることを繰り返しました。最大の祝祭がレオ10世の就任記念の祝祭でした。
ジョヴァンニはロレンツォ・イル・マニフィコの次男であり、ロレンツォの熱心な教育で主にピサ大学で神学と教会法を学び、ロレンツォが買収工作を盛んに行って弱冠16歳にして異例の枢機卿に就任しました。1494年のピエロのフィレンツェ追放の後は、各地を転々とし、ローマではアレクサンデル6世やユリウス2世のために積極的に働き、1511年の反フランス神聖同盟の教皇軍に同行するなどしつつ、1512年スペイン軍とともにフィレンツェを攻略し、その後1513年教皇に選出されレオ10世になりました。これによってメディチ家はフィレンツェとローマの両方を支配する家柄となりました。
アレクサンデル6世(及びその息子チェザーレ・ボルジア)によって拡張した領土を、軍人教皇とも呼ばれるユリウス2世はさらに拡張させイタリア最強の精力にまで高め、国庫収入も潤沢にさせ、サンピエトロ大聖堂の新築とヴァチカン宮殿の大拡張に着手し、それをレオ10世が引き継ぎました。レオ10世は文化人でありまた父親ロレンツォ・イル・マニフィコの気質を引き継いだのか外交的で温和な人あたりで平和均衡主義的な外交政治を行いました。当時は享楽のウェルヌスであるアレクサンドル6世、軍神マルスであるユリウス2世、そしてミネルヴァのレオ10世という風に例えたりして、ローマとフィレンツェの結婚を歓迎したようです。レオ10世は、1515年フランソワ1世がミラノを占領すると手を結び、ウルビーノ公国を攻め落としました。しかしルターの宗教改革に対抗するためもあって、1521年結局カール5世と手を結びました。
レオは、途方も無い浪費家であり、財政破綻を招き、それを補填するために大量の官職や聖職を売り、免罪符を大量に発行し、罰金を科すなどしました。ローマは歓楽の街のようになりました。ルターをしてローマは「新しきバビロン」であると言わしめ、宗教改革の直接のきっかけともなりました。
ロレンツォ・イル・マニフィコの三男ジュリアーノ(教皇レオ10世の弟)は、優しいジュリアーノとも呼ばれ、政治経済には関心が乏しく、宮廷生活や人文に興味があったため、統治者としての資質はありませんでした。兄のレオ10世の計らいで、フランス王フランソワ1世の近縁の女性と結婚し、王から「ヌムール公」の称号を与えられました。これがメディチ家とフランス王家の最初の姻戚関係の形成でした。しかし、ジュリアーノは結婚して間もなく病を得て早世しました。
Giuliano de' medici
ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチ
Lorenzo di Piero de 'Medici,
1492年9月12日 - 1519年5月4日
ウルビーノ公ロレンツォ2世
1550年
ピエロ・イル・ファトゥオの息子であるロレンツォは、権力欲が強く、レオ10世からフィレンツェの統治者及び教皇軍総大将に任命されました。フィレンツェにおいて彼は独裁者として振る舞いました。マキャベリは『君主論』をこのロレンツォに捧げました。フィレンツェ市民から不評で「ロレンツォ・イル・マニフィコ・メルダ(クソの偉大なロレンツォ)」とも呼ばれました。彼は叔父のレオ10世とともにウルビーノを攻略し、ウルビーノ公の称号を奪取しました。またレオ10世の計らいでフランソワ1世の近縁の女性と結婚しましたが、結婚後間もなく1519年梅毒で死去し、その妻も出産して間もなく死去し、のちのカトリーヌ・ド・メディシスが遺されました。
またレオ10世はミケランジェロに、ヌムール公ジュリアーノとウルビーノ公ロレンツォの墓を制作するように依頼しました。途中中断したがクレメンス7世が再依頼をして完成させました。ロレンツォ聖堂のメディチ家礼拝堂の墓碑像、上の写真。
Henry2 et Catherine de Médicis
Catherine de Médicis, vers1555
Lorenzo Detail from Michelangelo's Tomb of Lorenzo de' Medici
ウルビーノ公ロレンツォ2世
ラファエルによる
クレメンス7世
セバスティアーノ・デル・ピオンボ 1526年
上: 晩年のクレメンス7世
ウルビーノ公ロレンツォの死後フィレンツェを統治したのはジュリオ・デ・メディチでした。彼はロレンツォ・イル・マニフィコの弟ジュリアーノ(暗殺されて死去)の庶子であり、人文教育を受け、また敬虔な宗教心を持っていました。しかし、内向的で陰気なところもあったようです。また彼は従兄にあたるジョヴァンニ(レオ10世)とともに外国を渡り歩いていたことがあって仲が良く、教皇レオ10世からも重用されました。彼は1523年にクレメンス7世として教皇に選出されました。これには皇帝カール5世のバックアップもありました。彼はレオ10世と同じようにローマからフィレンツェを統治しました。しかし、イタリアは、神聖ローマ帝国のカール5世とフランスのフランソワ1世の覇権争いの場になり、ルターの宗教改革が各地に拡がり、ヘンリ−8世の問題、オスマン・トルコのハンガリー侵入もありました。また教皇は1526年のコニャック同盟(教皇、フランソワ1世、フィレンツェ、ミラノのスフォルツァ、ヴェネツィア)によって皇帝カール5世に対抗しましたが、同年に皇帝軍との戦闘が繰り広げられ、その終盤にはルター派信徒で占める皇帝軍によるローマの略奪などが発生しました。さらにこれに連動してフィレンツェではメディチ家が追放され、反メディチ勢力が主導権を握る共和制ができました。それに対してクレメンス7世は1529年にカール5世と和睦を結び、同年29年から翌年にかけて皇帝軍(主としてスペイン軍)によってフィレンツィ包囲戦が行われました。この包囲戦はフィレンツェ史上最悪の凄惨な戦争となり多大の被害を出しました。クレメンス治世下では、こうしてローマもフィレンツェも荒廃する結果となりました。
カール5世の後ろ盾によってクレメンス7世はフィレンツェでの支配権を再獲得しました。1529年にはカール5世はイタリア諸国の代表を集めて「ボローニャ会議」を開き、イタリアをスペインの支配の下に置くという新秩序を承認させ、翌年1530年にはクレメンス7世はカール五世に「ロンバルディア王」及び「神聖ローマ帝国」の称号を授け自らの手で戴冠を行いました。クレメンス7世はフランスにも接近し、最晩年には、カトリーヌ・ド・メディシスをフランソワ1世の第2子、後のアンリ2世と結婚させることに成功もしました。
クレメンス7世はミケランジェロを尊敬していて、ミケランジェロはフィレンツェ包囲戦のときにはフィレンツェに入り反メディチの共和制の側についたが、教皇はそれでもミケランジェロを許した。そして、クレメンス7世はレオ10世が依頼して中断されていたヌムール公ジュリアーノとウルビーノ公ロレンツォの墓(ロレンツォ聖堂のメディチ家礼拝堂の墓碑像)の再開を依頼して完成させました。またシスティーナ礼拝堂の壁画群を依頼しました。
凄惨なフィレンツェ包囲戦が終わった後に、1531年にアレッサンドロ・デ・メディチが支配者になりました。アレッサンドロ・デ・メディチは、クレメンス7世の庶子であり、カール5世の近くにいた人物であり、カール5世とクレメンス7世の強力なバックアップのもと、「フィレンツェ公」の称号を与えられました。以後、200年間メディチ家はフィレンツェの君主の世襲家系になりました。この間にはメディチ家はフランス王家との姻戚関係を結びつつ、さらに教皇を二人だしました。また、パトロネージを積極的に行い、ウフィツィ美術館やピッティ宮殿で今日見ることができるような膨大な美術コレクションを形成しました。もっともフィレンツェという都市自体は衰退傾向にありました。
アレッサンドロは、クレメンス7世の存命中は穏健な政策を取っていましたが、クレメンス7世が死去して以降は、暴君のようになり、恐怖心を市民に抱かせたり放蕩を尽くしました。彼は1537年に暗殺されました。
コジモ1世
アーニョロ・ブロンズィーノ 1545年
アレッサンドロ・デ・メディチが暗殺されてまもなく、反メディチ勢力が勢いづく情勢の中、当時17歳のコジモがメディチ家の当主に選ばれました。当初メディチの要人たちは彼を傀儡にしようともくろんでいましたが、予想に反してコジモは「マキェベリ的」な統治者となり確固とした決断力を発揮し、反メディチ勢力を駆逐しつつ勢力を拡大しました。彼はフランソワ1世ではなくカール5世と緊密に連携しました。またカール5世に勧められたスペインの大貴族でありカール5世の腹心にしてナポリの副王だった家の娘エレオノーラと結婚をしました。
彼は、官僚機構を構築し、ヴァザーリに依頼して総合庁舎(今日のウフィツィ美術館)を建設させました。また官僚の多くはフィレンツェの周辺の従属都市つまりトスカーナの領域から登用しました。これは既存のフィレンツェの政治機構の弱体化を狙うとともに周辺都市との一体化と領土化を狙うものであったようです。国軍の強化にも力を入れ、1557年シエナを制圧し、それに対してカール5世はコジモの領土拡大主義を警戒していましたが、1569年に教皇ピウス5世はコジモに「トスカーナ大公」の称号を与えトスカーナ大公国が建国されました。コジモはフィレンツェを中心としたトスカーナ全体の経済発展を目指し、毛織物業、絹織物業、鉱業、農業を振興し一定の成功を収めました。しかし、イギリスやオランダの経済発展に比して、フィレンツェとトスカーナの経済は徐々に衰えていきました。
コジモはフィレンツェ中心部の都市改造事業に取り組み、今日の重要な建築物が作られました(p265~)。その代表的なものが、総合庁舎パラッツォ・デリ・ウフィツィ(ウフィツィ宮殿)を建造し、パラッツォ・ベッキオ内(旧宮殿)の大装飾群をヴァザーリに作らせました。コジモ一族が移り住むことになるピッティ宮殿とそれに付随するボーボリ庭園も建造しました。またこの3つをつなぐ通称ヴァザーリの通廊(ポンテ・ヴェッキオ)をヴァザーリに作らせました。その他多くの建造物が作られました。
コジモは美術においても大変熱心で、尊敬するミケランジェロはローマにいたものの、ヴァザーリを重用し、ブロンズィーノを宮廷画家に迎えるなど、総じて「第二の黄金時代」の隆盛を迎えました。また、ヴァザーリはコジモとミケランジェロを会長としたヨーロッパで最初の美術アカデミー「アカデミア・デル・ディセーニョ」を設立し、『芸術家列伝』を執筆してコジモに捧げました。
コジモ1世とエレオノーラ・ディ・トレドとの子。 彼は、皇帝とスペイン王から身分を保障されていて、父親とは全く異なり政治的には能力を発揮しなかったようです。また神秘的な化学実験や錬金術、珍奇な人工物の製造に熱心でした。パトロネージュとしては私的な傾向が強く、パラッツォ・ヴェッキオ内に「ストゥディオーロ」(書斎)を作り、錬金術的な世界観を反映させました。彫刻家ジャンボローニャを重用しました。またフフィツィ宮殿に美術ギャラリーを作ってウフィツィ美術館の原型を作りました。また1583年にアカデミア・デラ・クルーカス(クルーカス学会)を設立してトスカーナ語の純化とトスカーナ文学の発展を図りました。
フランチェスコが病死すると1588年にその弟のフェルディナンド1世がトスカーナ大公に就任しました。スペインは1588年にイギリスの無敵艦隊に敗れ、衰退傾向にもあり、彼は皇帝=スペインとフランスのどちらにも偏らない外交政策を展開して、外交的な独立性を獲得していきました。また修道士、修道女のトスカーナへの流入を許容することで、ヴァチカンでの発言権も高まりました。フランチェスコの時代に低下傾向にあった諸産業を振興しました。また彼の最大の経済政策として、軍港リヴォルノを自由化して25年間にわたって税を免除しつつ、あらゆる人々に商業活動を許して開放して、これによって活況を呈しました。これらによってトスカーナ公国の経済は発展し、国庫も飛躍的に増大しました。
フィルディナンド1世はフランス王家の娘と結婚し、フランチェスコ1世の6女、マリー・ド・メディシスとアンリ4世を結婚させ、長男コジモを神聖ローマ皇帝の妹と結婚させました。いずれもフィレンツェで極めて豪華な大祝典をもようしました。こういった大消費をする大祝典はルイ14世など17世紀のヨーロッパで流行する先駆けのようでした。また大公は穀物、塩、エルバ島の鉄などの独占によって潤い富裕化しました。またトルコ人を標的とした海賊行為によって略奪もしていました。
またフェルディナンドは彫刻の注文に力を入れて、コジモ1世(フィレンツェ政庁前広場)や自分のブロンズの大騎馬像(ジャンボローニャ作)を作らせました。サン・ロレンツォ聖堂の背後の八角堂の独立礼拝堂の建造を始めたが完成に3世紀を要しました。