表参道ソフィアクリニック
中公新書
高階秀爾がこの著作で描くこの時代の美術史の概観を、序文とエピローグでおおよそ次のようにまとめています。
フィレンツェは15世紀、特にロレンツォ・イル・マニフィコの統治下において、政治と文化が最盛期を迎えます。これをフィレンツェの1400年代という意味で「クワトロチェント」と呼ばれたり、「黄金時代」とも評されたりします。また「初期ルネサンス」とも呼ばれます(高階秀爾はこの著作で「初期ルネサンス美術」を論じます)。当時、フィレンツェはルネサンス美術の先頭に立っていました。しかし、16世紀にはいると「盛期ルネサンス美術」もしくは「古典主義芸術」が形成されましたが、フィレンツェ全体が急速に衰退して、かわりにローマ、ヴェネツィアが美術の中心となっていき、あるいはその他の都市に拡散していきました。この世紀に活躍した芸術家たちのなかには、フィレンツェ出身の重要な画家もいましたが、彼らの多くはフィレンツェから出て、他の都市で活躍しましていました。
主要な芸術家たちのほとんどが他の都市に招かれて、その大部分は帰国しなかった。その大きな理由としてフィレンツェでは次世代の新しい芸術表現が受容されなかったことが挙げられるという。
ブルネレスキやアルヴェルティはローマの古代建築を研究した。
透視図法は、古代の技法の復活であると考えられた。
フィレンツェでは新しい芸術の誕生が見られる場所の一つでもありました。
クワトロチェント(14世紀)全体から見ても、フィレンツェの芸術は、近代的な表現よりも中世的な表現、ゴシック的表現が底流に流れていたとみなせるという。また顔も横顔から描き斜め(4分の3とも呼ばれるもの)から描くことはあまりありませんでした。まだ近代的なものはあまり展開していなかったようです。
フィレンツェは建築や装飾などに関してしばしばコンクールという形式がとられていた。また、中世のように作品の作者たる職人の名前が不詳ではなくて、作者の名前がはっきりと刻まれるような作品が作られるようになりました。この作者は職人ではなく一人の芸術家として名前を持つ傾向がますます強まりました。コンクールとはこの作者の名声を高めるものでもあります。中世と異なり、市民たちによって個人に賞賛が送られます。また市民たちは作品に対する批評、批判を活発に行うようになりました。市民は作品を見る目を持つようになってきました。
サン・ジョヴァンニ洗礼堂の北門の門扉の制作が1401年にコンクールにかけられ話題になったのもこういったことの表れのひとつであると思われます。ブルネルスキとギベルティの対決になりましたが、ギベルティが勝利しまた。ぶるねるすきはこれいこう建築へと転向しました。ギベルティは審査員たちの意見を聞きながら作成して静的なゴシック風であったと言います。この北門の門扉は4半世紀をかけて完成しました。1401年というクワトロチェントの始まりの時期の記念碑的なコンクールでした。
さらに1452年に東門の門扉もギベルティによって完成されました。
またこの時代の芸術家たち知識人のような「ユマニスト」でもありました。教養に優れ学問的な人文主義者でありました。その点でもやはり素朴とも言える中世的職人とは異なっていました。
クワトロチェントの新しい様式の特徴は、装飾性よりも写実性、華麗さよりは簡潔さ、優しさよりは厳しさ、繊細さよりは重厚さであった。P126 。しかし、人々は、前半部の古いスタイル、工芸趣味を強く残していた。フィレンツェでは工芸性が優位であった。特にこの世紀の半ばに復活してきた。これはボッティチェリにも受け継がれていく。
ゴシック的傾向を残していため、その次のステージに移行することができなかった。フィレンツェの芸術の精華の時期に衰退が見られ始めているという。
哲学者
マルシリオ・フィチーノは、コジモ・デ・メディチを診ていた医師の息子であった。コジモはフェチーノに才能を見出し、フィレンツェ郊外のカレッジをミケロッツォに改修させた別荘に住まわせて翻訳に従事させた。ヘルメス文書(1463年)、続いてプラトン全集の翻訳(1469)。当時は、スコラ哲学にも用いられていたアリストテレスは知られていたが、プラトン哲学はほとんど知られていなかった。コジモが死去した後もフェチーノはここで住み、ロレンツォ・イル・マニフィコの時代にユマニストたちを招いてアカデミア・プラトニカ(プラトン・アカデミー)を形成した。彼はこういったユマニストたちに中心人物であった。そこでは、プラトン、アリストテレス、ダンテ、ペトラルカなどについて語られた。そこは知的な社交界のようなものでもあった。
フェチーノは人間を「神の知性に参加しながら肉体において活動する理性的魂」という風に定義し、人間を神と動物の中間的存在として位置付けた。あるいは精神と物質の間に位置付けた。
・プラトンのラテン語訳を刊行した。
・占星術、魔術などの神秘思想が、プラトン哲学、キリスト教と一致するものとして考えた。
・フェチーノのもとアカデミア・プラトニカでは、古典古代のイデアの世界とキリスト教の唯一神を融合させる試みが行われた。創造主、理性、根元、動因である唯一の神。『プラトン神学』(1482年)では、ネオプラトニズムの世界観からキリスト教神学を確立しようとした。これらはレオナルド、ミケランジェロ、ラファエロなどの盛期ルネサンスの芸術家たちにも影響を与えた。またラファエロがヴァチカン宮殿の壁に『アテネの学園』を描くことができたのも、これに基づいていたからだという。
ヴィーナスとサテュルヌという二つの神を重んじた。ヴィーナスは愛と美の神であり、サチュルヌは老練な思索の神であるとされた。前者は若く行動的な多血質で明るい、それに対して後者は思索的で憂鬱気質である。