表参道ソフィアクリニック
1891年-1953年
一般に、彼はエコール・ド・パリ(パリ派)の画家として位置付けられています。
ポーランド生まれのユダヤ系ですが、19歳でパリにでて、モンマルトルで画家として活動しました。モンマルトルのバトー・ラヴォワール(洗濯船)に入居して、他の画家たちと交流が深かったです。
1918年 窓辺のテーブ(サン=トロペ)
Bunkamura ポーラ美術館展 2021年
1921年にサロン・ドートンヌに出展しました。当時はセザンヌの模写やセザンヌふうの作風であったり、キュビズムとフォービズムが混ざったようなものでした。なかでもフォーブに傾きやすいですが、次第に独自の画風を見いだしました。また彼の全ての画業を通じて具象画の範囲にとどまっています。
エコール・ド・パリには、外国人が少なくありませんでした。かれも外国人画家の一人です。因みに、エコール・ド・フランセーズというものもあって、こちらはドランやブラマンクらが中心的な人物であり、フランスを中心として考えているフランス出身の画家ばかりで、エコール・ド・パリとは別のグループです。
第一次大戦では、志願して外国人部隊で戦いました。戦闘で負傷したものの、その功績により1916年にフランス国籍が与えられました。
1925年に『モンパルナスのキキ』を描きました。キキは彼のモデルでもありました。
多くの作品のなかでも、20年代、とくに30年代の女性の肖像画が優れていると思われます。
モンパルナスのキキ 1925年
モンパルナスのキキことアリス・プラン
1927年 ファルコネッティ嬢
目にフォーカスが当てられています。
Bunkamura ポーラ美術館展 2021年
1929年 赤毛の女
《ベル=ガズー(コレット・ド・ジュヴネル)》 1932-33年 カンティーニ美術館、マルセイユ
赤い長椅子の裸婦 1937年
長椅子の裸婦 1938年
モデルはキキです。
第二次大戦のとくフランス降伏後は、ナチスのユダヤ人弾圧を逃れてアメリカに亡命し、おもにカリフォルニアに滞在しましたが、1946年にフランスに戻りました。