表参道ソフィアクリニック
1886年 明治19年11月27日東京市牛込区新小川町に生まれる。
1893年 東京高等師範学校付属小学校に入学。
1900年 同中学校に入学。
1905年 同中学校を卒業。
東京美術学校予備科に入学。
東京美術学校西洋画科に入学。
1907年 精勤賞を受ける。
1910年 東京美術学校西洋画科本科を卒業。
白馬会第13回絵画展覧会に「山より」「女」が入選。
美術学校卒業後、和田英作教授の助手として帝国劇場の壁画や
背景の制作を手伝う。この頃から3年続けて当時の文展に出品
したが、3回とも落選。
1911年 東京勧業展覧会に「青梅」「山家」「上野原」「駅」出品。
1912年 第2回東京勧業博覧会に「午後の日」「宿裏」を出品。
光風会第1回絵画展覧会に「清水湾」「帝国劇場」「南国」が
入選。
1913年 門司から日本郵船三島丸で渡仏。この年の末モジリアニ、
スーチンと交遊。
1914年 この頃から立体派風の制作を試みる。
1917年 パリのシェロン画廊で初の個展を開く。その後、ブリュッセル、
アントワープ、ベルリンなどヨーロッパ各国で個展を開催。
乳白色の平滑な絵肌に面相筆による線描を生かした独特の画風
を編み出す。ピカソの友人である批評家、アンドレ・サルモン
が目録に序文を書く。
1918年 シェロン画廊で2回目の個展。この頃からフジタの名が広まる。
1919年 初めてサロン・ドートンヌに出品。出品した6点が全部入選して、
その年に会員に推挙され、パリ画壇における地位の確立に第一歩
を踏み出した。
1920年 渡仏以来の研究の結晶である裸体を秋のサロンに出品。
1921年 サロン・ドートンヌの審査員に挙げられ、いよいよ黄金時代が
展開する。画商が藤田の作品を奪い合った。
1922年 第4回帝展に「我が画室」(1921)を出品。
1923年 サロン・ドートンヌ第16回展に「五人の裸婦」を出品。
サロン・デ・チュイルリーの会員となる。
1924年 第5回帝展委員。帝展に「静物」(1922)を出品。
1925年 レジオン・ド・ヌール五等勲章を贈られる。
日仏芸術社主催第二次フランス現代美術展に油絵3点の他版画を
出品。
1926年 サロン・ナショナル・デ・ボザールの審査員となる。
1927年 銅版画1点、ルーブル美術館に収められる。
パリのコメディ・デ・シャンゼリゼで上映された「修善寺物語」
の舞台背景を制作
1929年 17年ぶりに帰国。東京朝日新聞社屋で個展を開き、大作「構図」
(1928)ほか鉛筆デッサン50余点、版画20点を出品。
ひきつづき2回目の個展を日本橋三越で開催。
「舞踏会の前」(1925)ほかデッサン、版画等数十点を出品、
大成功を収める。
1930年 パリに帰る。ニューヨークに渡って個展を開き、またグリニッチ・
ビレッジにアトリエを借りて3ヶ月間制作を行い、さらにシカゴに
1ヶ月滞在する。第二次世界大戦までの間、アメリカ、メキシコ、
フランス、日本など各国を渡り、個展。戦中は日本で従軍画家と
して活躍。
1931年 パリに引き揚げた後、ブラジルに旅立つ。
1932年 アルゼンチンに入り、さらにボリビア、ペルー、チューバなどを
回り、メキシコに着き7ヶ月滞在する。
1933年 ニューメキシコ、アリゾナからカリフォルニアに渡って4ヶ月を
過し、11月に帰国。
1934年 日動画廊で個展。二科会会員に推挙される。
大礼記念京都美術館開館記念京都市美術展に「メキシコ」を出品。
第21回二科美術展覧会に「メキシコのマドレーヌ」「町芸人」
「カーニバルの後」など27点を特別陳列この年、メキシコ風の
アトリエを建てる。
1935年 大阪の十合百貨店特別食堂に壁画を制作。
銀座の喫茶店コロンバンに天井画を制作。
1937年 横光利一原作「旅愁」の挿絵を東京朝日新聞に連載。
麹町下六番町に京風の純日本式住宅を新築。この年「自画像」
(1928)がパリの国立近代美術館に収められる。
1938年 沖縄に遊ぶ。琉球作品発表展に「海辺の墓」「琉球の女」など
20余点を出品。
1939年 渡米したのち、パリに着く。
1940年 第2次世界大戦の戦火の下、パリから帰国。
1941年 良き理解者であった父嗣章が死去する。
帝国芸術院会員となる。国際文化振興会から文化使節として仏印
に派遣される。
1943年 朝日文化賞受賞
1945年 疎開先の神奈川県津久井郡小淵村にて終戦を迎える
1947年 ニューヨークのケネディ画廊で近作の展覧会が開催され、好評を
博する。
1948年 近代日本美術総合展に出品。
1949年 羽田から空路渡米。フランス入国の許可も受けた。「日本画壇も
国際的水準に達することを祈る」というのが故国に残す言葉であっ
た。ニューヨーク滞在中、51番街の画廊で近作を開催する。
1951年 秘蔵の労作「我が室内」「アコーデオンのある静物」など代表作を
パリ国立近代美術館に寄贈。
1955年 フランス国籍を取得。日本芸術院会員を辞任。
1957年 レジオン・ドヌール四等勲章を贈られる
1959年 君代夫人とともにカトリックの洗礼を受ける。洗礼名は「レオナル
ド」。 ベルギー王立アカデミー会員となる
1960年 新宿伊勢丹で藤田嗣治展を開催。
1966年 第2回近代日本洋画名作展に出品。
設計・美術すべての分野に専念したランスのノートルダム・ド・ラ
・ペ・フジタ礼拝堂を自ら建設。
1968年 1月29日、スイス、チューリッヒの病院で死去(81歳)。
遺体はノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に埋葬される。
日本政府より勲一等瑞宝章を追贈される。
展覧会の冒頭には、若き日の自画像と父親藤田嗣章の肖像画が並べられています。
23歳のころの自画像。 芸大の卒業制作です。まさに卒業をして、これから自らの力で切り拓こうとする時期です。強い意志、自尊心、反抗精神、などが見られます。何かに賭けているようであり、ピンと筋が通っていて覚悟があります。また知的です。身なりはお洒落です。
「乳白色の下地」を確立する方向に向かって上昇していく作品群を見ると、緊迫した雰囲気が感じられるのですが、すでにこの肖像画には、緊迫感が特に感じられます。
これは東京芸大の在学中に描いた父親の肖像画です。
父親は陸軍軍医として、台湾や朝鮮の衛生行政に尽力し、後に陸軍軍医総監にもなりました。
嗣治は父親に画家になるための学費や留学の費用も世話をしてもらいました。父親とは距離があるような関係だったようですが、藤田は父親に感謝の気持ちを持ち続けていたようです。
特にこの目に注目したいと思います。この眼は厳格なのでしょうか。強い意志を持っていて、頑固一徹なところもあるかとも思われます。藤田の自画像の眼は、父親とはタイプが異なっていますが、父親の眼のヴァリエーションのようであり、新しい世代らしいです。父親の何かを息子も引き継いでいるかと思われます。強い意志、頑固、一徹なところなど、人間としての基本的なところを引き継いでいるのではないかと思われます。その点は、父親も息子も共通しているかもしれません。
父親、藤田嗣章の略歴。
嘉永7年1月(1854年)生まれ、昭和16(1941)年1月13日没
明治5年大学東校員外生として医学を学び、10年陸軍軍医補。27年第6師団第2野戦病院長、熊本陸軍予備病院長を経て、29年混成第1旅団軍医部長兼台湾兵站軍医部長、31年台湾陸軍軍医部長、35年第5師団軍医部長、37年第4軍軍医部長、39年韓国駐箚軍医部長、43年朝鮮総督府医院長などを歴任、大正元年軍医総監となった。3年退官。
1913年に渡仏してパリに住むようになりました。
当初、つまり1914年ごろの藤田の作品は、独自性が見られないような模倣的な作品を描いてもいました。当時の前衛的な絵画の真似です。これらの藤田の絵については、今からみればほとんど藤田の研究資料くらいにしかならないような作品群です。しかしよくみればそれなりに良いものもあるのかも知れず、断定するのもよくないかも知れませんが、まずはあまり重要性がないと思います。それにしても、藤田はこのような当時のパリの前衛の流れではあっても人のものをそのまま真似るというところが意外です。
乳白色の下地は1920年ごろに考案されましたが、それ以前の2年間くらいは、その「前夜」と表現できるかもしれません。この時期の画風の特徴は、純粋な静けさと静止だと思われます。乳白色の下地の時期に入ると、この純粋さは低減します。一時的に現れた現象のようです。
当初、つまり1914年以降の藤田の作品は、独自性が見られないような模倣的な作品を描いてもいました。当時の前衛的な絵画の真似です。これらの藤田の絵については、今からみればほとんど藤田の研究資料くらいにしかならないような作品群です。しかしよくみればそれなりに良いものもあるのかも知れず、断定するのもよくないかも知れませんが、まずはあまり重要性がないと思います。それにしても、藤田はこのような当時のパリの前衛の流れではあっても人のものをそのまま真似るというところが意外です。
個性の乏しい絵画を経て、1918年のこの作品は、この展覧会を訪れた人々の目を引きます。じっと見入ってしまうような見応えがあります。物寂しい灰色の世界。14区のモンパルナスの南方にあるヴァンヴ門付近を描いたものらしいです。この辺りは、今では、モンパルナスから地下鉄で3、4駅くらいのところですが、かなり端っこのイメージがあります。「パリの風景」と題がつけられていますが、丁度100年前であれば、「パリ郊外」といったところでしょう。藤田はセンターから外れたところを「パリ」と言っているのです。藤田にとってもともとパリとは芸術の先進都市、華やかで、活気があって、というふうです。しかしここでは、そんなパリのイメージとは正反対を描いています。もともと反抗精神の強い藤田ですから、これがパリの本質だというくらいの気持ちがどこかにあったかも知れません。どことなくエキセントリックで、中心から外れています。
盛り土がされて土手のようになっています。うねるような道、遠くには工場と煙を空に流す煙突、人物が小さく二人描かれているのがなんとも雰囲気があります。この時期の他の風景画にも、寂しいパリの周辺地域で、このような小さい人物が描かれています。
全体に、物寂しい、灰色の世界です。空もまた灰色です。何かしらノスタルジックな雰囲気が漂っています。切ないような。それでいてどこか緊迫感も漂っています。藤田の中で、パリはひっくり返ってしまったようです。1914年から1918年の第一次大戦も何かしら心の奥深くに影響しているようにも思われます。
このような空疎な感じは、藤田は心のうちでパリに対する高揚感が静まり、一旦リセットされ、周囲の絵画の流れから切り離されて、次の新しい革新的なステージに進むということではないでしょうか。
空想ですが、もしこの乳母車にのっているのが、藤田だとしたらどうでしょうか。彼の再出生願望、新規まき直しを予感させる作品です。
またこの辺りは、アンリ・ルソーの徴税官吏として勤務していたらしく、それと関係あるかどうかはわかりませんが、どことなくルシー風であるように思われます。漫画的でもあり、シュールでもあります。
比較的小さなサイズです。装飾的で、おしゃれで、豪華です。中世的でもあります。
背景には金箔が使われています。古びたような金箔には、豪華な風情があります。もちろん和風です。
女性たちは、デザイン化され、縦に細長く伸びて、くねくねと曲線を強調されています。これは19世紀末のフランスのアールヌーボーの名残りと見做すことができるでしょうか。微妙ですがそうかもしれません。
当時、色々な方向で模索して試みていたのでしょう。この作品は、結構良いと思うのですが、しかしこの時期に藤田が目指していたのはこのような作風ではありません。彼が目指していたのは「乳白色の下地」の技法です。しかし、この「乳白色の下地」という技法も多くの試みの中の一つだったようにも思われます。実際、この技法も10年くらいで、ほぼ放棄されます。
藤田は試行錯誤をしつつ、実験的で、創意工夫の人です。
1918年ごろは、1920年代に現れる「乳白色の下地」へと向かう前段階です。藤田らしい作品が生み出されている、重要な時期です。そして静けさが特徴的です。絵を観ている空間全体が静かで静止しているような感じになります。
北海道立近代美術館
この人物画の大きな特徴は、静かにじっとしているということです。観る側の動きも止まるような。
この時期の藤田の特徴の一つは、静止した雰囲気です。
かなり良さそうな作品です。
この作品は間もなく現れる「乳白色の下地」に向かう前段階と思われます。
藤田がモンマルトルに住んでいた時の隣人だったモディリアーニの影響も受けているようです。この二人の女性もモディリアーニと関連した女性をモデルとしています。
顔色は悪く病的でもあり、あるいは結核の世界に住んでいるかのようです。モディリアーニが重度の結核であったことを想起させられます。
女性同士がなぜか手を取り合っています。同性愛的ニュアンスがあります。
センスの良さを感じさせる作品です。静けさと静止が重要だと思います。この絵を観ている空間全体が静かで静止しているような感じになります。この写真ではそれが伝わりにくいように思われます。
栃木県立美術館
これも静かで静止している雰囲気が醸し出されています。
穏やかな色彩です。メルヘンチックです。
色彩が優位になると若干薄れますが、これも静けさと静止の雰囲気を醸し出しています。
これもまた女性同士です。そしてどことなく病的なニュアンスを感じさせます。
小品です。
やはり静かで、静止しています。
空疎なところもあります。
静かで、静止しているのは、この時期の美しい「乳白色の下地」の特徴です。
もっとも1920年ごろに考案された「乳白色の下地」を用いて、技法を本格化し複雑に展開させるようになってからは、この静かで、静止している印象は薄れていきます。
割と大きなサイズです。
1921年のパリのサロン・ドートンヌに出品されました。
乳白色の下地。細い線で描く初めての静物画です。1922年には、日本の帝展に出品されました。母国でのデビュー作品となりました。
藤田の画風が現れ始めて、日本に帰国デビューです。しかし藤田が得意の人物画ではなく、私的な空間を描いた絵を母国デビュー作品としたのはなぜでしょうか。
藤田という人間の身体の延長でもある自身の部屋や持ち物。特に眼鏡や靴やパイプという最も私的である持ち物にも注目です。この光景には、実在感と儚さが並存しています。「私の部屋」とは、藤田の身体と自我の延長です。藤田は自らに向き合っているのでしょう。タイトルにもあり、絵の中央に据えられている「目覚まし時計」とは、意味ありげです。メガネ、パイプ、靴の配置からすれば、目覚まし時計は藤田の頭部か顔にも相当するかもしれない重要な位置にあります。ある時間が来れば時を告げるものです。それは実存とも関わるものでしょう。それはどんな時でしょうか。多面的な意味があるように感じられるのですが、その意味は伏せられているようです。
ここには1918年ごろの純粋な静けさや静止はありません。
この自画像は、「私 の 部 屋 、目 覚 まし 時 計のある静物」と同じ時期に描かれたものです。渡仏後初めての自画像でもあります。自分が考案した乳白色の下地の背景です。成功者であり、ゆとりと自信が現れていますが、それとともにメランコリックでもあります。宗教的な敬虔さも滲んでいます。素にもどり、彼の濃い性格も現れ、より個性的であり、それとともに総じて暗めです。
メランコリックで、暗くて重く、そして硬く、ここでの「静けさ」とはなにか濁ったような静けさ、「静止」というよりも固まっていて、一種のカタレプシー(「蝋屈症」とも翻訳される精神医学の用語。固まって動かなくなること)のようでもあります。
自分で作り上げた藤田ワールドを背景として、その中にいる「自我像(つまり自我の像)」です。硬質感のあるバランスの絵画です。成功者の自我は、自信とメランコリーが共存し、固まっています。20年に考案された藤田ワールドの中で彼自身は21年には、何故かしら早くも固まっています。22年も23年も創造の旺盛な時期なのですが。
このように目が座った人が自分の前にいたならば、ハッとします
ここにも時計が置かれています。
この作品は「私 の 部 屋 、目 覚 まし 時 計のある静物」(1921年)と組み合わせて考察していいかもしれません。
乳白色の下地が美しく、上質感があります。
花よりも茎や枝の描写に力点が置かれ、花は、かなり描写がよくなくて、少し雑なくらいです。それも意図的なのかもしれません。
バラにしては葉が少なすぎます。バラの葉は黒点病などで病気になったりしやすいですから、そのせいでしょうか。また花の形が悪いです。全体に健康そうではありません。下の生地は健康そうな花です。
枝の形をしっかりと描いています。
油彩。銀箔・ 金粉を使用。
充実の一品です。
背景は銀箔が貼られています。藤田の作品で、銀箔を用いられたのは本作のみです。豪華で美しい金、渋い銀です。美しい作品です。平面的で装飾的であり、和風がうまく活かされています。
豪華で金持ち向けの肖像作品です。
主人の心と猫の心は通じているようにも見えます。
芸術的なニュアンスにも優れています。
センスが良いです。
背景は漆塗りです。藤田は漆塗りの芸術家に手法を教えてもらったとのこと。乳白色の下地とは異なるアプローチを試みています。藤田にとって背景も重要なのでしょう。
目元がクッキリしているのも印象的です。
これも美しい肖像画です。
写真ではよくわかりませんが、美術館の展示用照明に照らされて、背景が輝く感じがします。まるで人物が逆光になる程に背景が明るいです。
素朴に、そして細かく描かれています。とりわけ和風でもあります。
こうして藤田のこの時期の一連の肖像画を見ますと、藤田の肖像画は一枚一枚がタイプが異なっています。藤田は、様々に試みつつ、アプローチしています。
乳白色の下地1920年ごろに藤田が考案しました。乳白色の下地によって、例えば女性の肌を絵肌を生かして表現します。静物画でもこの技法を用いています。この下地に、細い線と緩やかな薄い濃淡と彩色を施すことも特徴です。
1920年に乳白色の下地を考案して、21年にサロン・ドートンヌに初めて出品して、大評判になり、一躍名声を博しました。このサロン・ドートンヌには3点を出品しました。そのうちの一つが裸婦像ですが、どの作品かはっきりとは特定されていません。おそらく『寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouy)』であろうとされています。
23年「タピスリーの裸婦」あたりからこの技法を使った表現力がさらに増して豪華な作品も制作されました。この23年がピークとみなして良いのではないでしょうか。25年になるとより洗練されるととともに小慣れてきます。
・乳白色の下地は、そもそも胡粉(ごふん)を下地に塗る手法(胡粉下地) がベースにあるとも思われます。胡粉の素材は、貝殻や牡蠣の殻です。
・乳白色の下地には、墨のようなもので薄く濃淡をつけ、細い線で輪郭が描かれる、というのを基本とします。
・ウィキペディアから引用して見ます。かなり詳しく説明されています。なお、下にある「シッカロール」とはベビーパウダーのことです。
藤田は絵の特徴であった『乳白色の肌』の秘密については一切語らなかった。近年、絵画が修復された際にその実態が明らかにされた。藤田は、硫酸バリウムを下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていた[9]。炭酸カルシウムは油と混ざるとほんのわずかに黄色を帯びる。さらに絵画の下地表層からはタルクが検出されており、その正体は和光堂のシッカロールだったことが2011年に発表された[10]。
タルクの働きによって半光沢の滑らかなマティエールが得られ、面相筆で輪郭線を描く際に墨の定着や運筆のし易さが向上し、膠での箔置きも可能になる。この事実は、藤田が唯一製作時の撮影を許した土門拳による1942年の写真から判明した。以上の2つが藤田の絵の秘密であったと考えられている。ただし、藤田が画面表面にタルクを用いているのは、弟子の岡鹿之助が以前から報告している[11][12]。
反面、藤田の技法は脆弱で経年劣化しやすい。水に反応し、絵肌は割れやすく、広い範囲に及ぶ網目状の亀裂の発生が度々観察される[13]。また、多くの藤田作品には地塗り表面に特徴的な気泡の穴が多数散見され(贋作にはこの気泡は無いという)、これは油絵の具に混ぜた炭酸カルシウムと油が反応して発生したガスの穴だと考えられる[14]。
座る女 1921年
墨のような陰影。
細い線です。
京都国立近代美術館所蔵
豪華な大作です。
中央の女性は視覚をあらわします。左から触覚、聴覚、視覚、味覚、嗅覚であり、つまり各人が五感を表象しています。
独特の性の自由が芸術性を高めます。
この時期の代表作の一つであり、全画業を通じての代表作の一つです。
国立近代美術館所蔵
これも大画面の大作です。
藤田が会いにも行ったベルギーのジェームス・アンソールの影響も受けているのでしょう。
仮面が少なくとも5つ描かれています。
しかし素顔絵でもありながら、仮面のようにも見えなくもありません。中央の裸婦が当時一緒に暮らしていたユキです。
国立近代美術館所蔵
乳白色の下地で描かれています。背景にもその手法を使ったらしい絵が2点が飾られています。この乳白色の下地に彩色し、墨で陰影をつけ、細い筆で線を引いています。絵の中の藤田が手にしているこの細い筆に硯(すずり)の墨をつけて描くのでしょう。
ネコが、すごく可愛いですが、ヤンチャで、少し威嚇する様にこちらを見ていますが、得意げです。これは藤田の心情をネコ流に表現したものです。
全体に柔らかく、上質感があり、アーティスティックであり、明るい画風です。水彩画のような、パステル的でもあり、日本が風でもあり、でも、これでも油彩です。当時のヨーロッパの絵画からすれば、新感覚のものでしょう。
この年、藤田は16年ぶりにフランスから一時帰国し、まさにこの絵を同年の第10回帝展に出品しました。その様なシチュエーションでは、藤田は得意げにも見えます。明るい画風がマッチしています。
墨、硯(すずり)、日本の筆、そして乳白色の下地(これは日本がの胡粉(ごふん)を用いた技法の応用かとも考えられます)、こういった日本画の手法を取り入れて、世界に認めらました。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章ももらいました。日本への勝利の凱旋です。
もっとも帰国した後に世界恐慌が始まり、藤田は転落し、パリを去ってしまいます。
この作品は、藤田の転落前の明るい画風の自画像です。
1929年に帰国しました。しかし帰国中の同年10月に世界恐慌が発生し、30年にはヨーロッパに波及しました。藤田はこれによって経済的にも破綻し、またプライベートの生活においてもパートナーのユキと別離しました。1931年にはパリでの暮らしを放棄し、何を思ったか、新しいパートナーのマドレーヌを連れて中南米の旅に出ました。1913年に渡仏して31年に去ったので、およそ18年間の滞在でした。彼はフランスから引き揚げるに祭して、南米の大旅行というのは面白い発想です。胸の踊る大旅行でもあったでしょうが、しかし実際には大冒険、危険がいっぱいです。
パリを去って、藤田の作品は、それまでの乳白色の下地や和風の細やかさを放棄して、対照的にケバケバしいほど強く荒々しく、泥臭く、グロテスクとも言えるほどの画風に大転換しました。これ以降、20年代の乳白色の下地のような作品に戻ることはありませんでした。一世を風靡した乳白色の下地の作品も10年間続いて、終了しました。
1933年に日本に帰国して、東京に定住しました。画風は、泥臭いくらいの和風になりました。また帰国してから、日本の各地を旅行しました。
1939年に再びパリに滞在しました。今回は戦争が勃発したために1年間のみの滞在となりました。日本に帰国しました。
藤田は、自分が戦争と巡り会わせることが多いことを書いています。
彼が初めてパリに行って、間もなく第一次大戦が勃発しました。その時にはパリにとどまりました。日本に住んでいる1938年に支那事変が勃発し、小磯良平らとともに従軍画家として中国に赴き翌年帰国。1939年二度目にパリに行った時には第二次大戦が勃発し、ナチス・ドイツがパリを占領するということになって、1940年に帰国しました。帰国すると大東亜戦争・太平洋戦争が勃発していました。この日本での戦争に、藤田はやはり従軍画家として大作を制作しています。描いているものは日本と米国の戦争についてです。米国や米兵を悪くは描いていません。藤田は、戦前には1930年、1933年、1939年に渡米したことがあります。このように藤田は米国のことを身を以てかなりよく知っていました。また、アメリカで、個展を開いて認められることを望み、実際認められていたようです。この日米戦争について、藤田はどのように考えていたのでしょうか、どのように位置付けられていたのでしょうか。この点はかなり興味深いところです。
以下のPDFは藤田と戦争について扱った論文です。ネット上で公開されていたものです。
ドイツ軍がパリに迫るなか、パリで描かれたものです。
軍からの委嘱によるのではなく、自らの意思で制作し、陸軍に献納し、みずから「尤も快心の作」と満足をあらわした作品です。
サイパン島での住民たちの自決の光景です。
藤田は中心部よりは、中心から逸れた周辺部に興味があるのでしょうか。力強く、自適な風で、印象的です。
ゆったりとしたパリの街のカフェのなかで、自適に過ごす女性。パリで再び暮らしたいと望んでいる藤田の気持ちとも重なっているようです。不安も背景にあるようです。
これを描いたのは渡米中であり、フランスに滞在することを望んで、申請していた頃のようです。