表参道ソフィアクリニック
父親はチェコのボヘミア出身の金工師であった。金についてはクリムトは馴染みがあったか?
ウィーン近郊で生まれて、まもなくウィーンに移って育った。
家計は苦しく、食べるものにも困っていたため、彼は美術アカデミーではなく、専門学校的な応用美術学校に学んだ。
1918年スペイン風邪の悪化により死去。
【クリムトの作品の元々の用途】
・公共機関の内装用の作品。
・展覧会用。
・私的な邸宅の内装用の作品。
・注文による肖像画。
・感興のおもむくままに描かれた風景画。
【肖像画】
彼の後ろ盾には、広大なオーストリア=ハンガリー帝国の財界の大物ブルジョワたちがいた。クリムトは人物画が極めて巧みであり、肖像画で名声を博して、富裕層からの注文を受けた。この注文はクリムトの収入の大きな部分を占めていた。もっともこの肖像画を注文主が気に入らない場合もあった。
ほとんどが女性肖像画である。上流階級の女性たち。
自画像は皆無。
初期の1890年代にはアカデミックであり、極めて丹念な筆致で立体的であり、リアリティが溢れる。アカデミックな肖像画の分野でもクリムトは特に卓越していた。
【風景画】
点描や印象派風の混合であったり。また表現主義的な要素もある。
遠近感のある構図だったり、平面的で装飾的だったり。
これら諸傾向の中で、たおやかに揺れ動いている。
-----------------諸要素-------------------
【エロス】【性愛化】
世紀末ウィーンでの性の発露。
フロイト、性科学者クラフト=エーピング、マゾッホ、シュニッツラー、ペーター・アルテンベルクの少女趣味、オットー・ワイニンガー(『性と性格』)
【理想化・美化】
理想的なもの、美化されたものを描く。
【ユーゲントシュティール】
【象徴主義】
卒業後の1883年、金属彫刻家の弟ゲオルグ、画家の弟エルンストや友人フランツ・マッチュとともに「芸術家カンパニー」を立ち上げた。彼らの師から仕事が回ってきて、3人の合作で相次いで重要な公共施設で装飾画を手がけた。公式の美術アカデミーの作品であり、どこを誰が描いたのかほとんどわからず、クリムトの個性もでていなかった。弟のエルンストの死去に伴い1892年に芸術家カンパニーは終わった。
<この時期のクリムトの特徴としては>
・リアリズム。(一種の「スーパーリアリズム」とも言える)
・アカデミズムの絵画に位置付けられる。
・非常に緻密な描写。
・立体的、三次元的。
・アカデミズムの絵画の極地とも言えるか。
・性愛化による潤し。エロチックな魅惑。しかしその度合いは後年よりは少なめである。
・フランスのアカデミーやビクトリア朝時代の耽美派とも似ているように思われる。
・アカデミズムとしては非常に巧みな描写であるが、その反面、没個性的でもある。
<芸術家カンパニーでの装飾画の主要な仕事としては>
・ウィーン博物館(1884年)
・ブルク劇場(1883ー1888年)
・ウィーン美術史博物館(1890年)
牧歌(『アレゴリーとエンブレム』のための 原画 No. 75)
1884 年
22歳頃の作品です。クリムトの若いときの他の作品は意外に少しぎごちないところもあるようですが、この作品の描きぶりは滑らかです。
この作品は、耽美的傾向をよく表していると思われます。美のためには、あらゆる固定した信条やモラルから解放されて探求し表現する方向であるようです。それは一種の「超越」ともいえそうな芸術観のようです。
その後のクリムトの私生活および芸術に対する考え方が表れていると思われます。
旧ブルク劇場の観客席
1888 年
初めてこの作品を見たときには、ものすごく細密であるように思ったが、国立新美術館2019に見たときには、思ったほどでもない、取り立てて精彩を放つものでもない、むしろ若干ちぐはぐではないか、という印象さえもちました。照明があまり当たっていないせいか。
これらの壁画を見るために、大きな単眼鏡が設置されている。艶やかに細密に描かれた身体と表情。そして潤んだような目でこちらを見つめてい
Google Art Project.jpg 超高画質がある。
Seated Young Girl
<Leoport museumにて>
実物はハガキの大きさくらいしかありません。
それでも極めて細密です。目元は筆触が残っていません。
クリムトの初期の細密画の腕前を発揮している一枚です。
1894年
Portrait of Marie Breunig ヴェルベデーレ美術館
やはり細密に描かれている。白い胸元とドレスのシックな黒色が美しいコントラストをなしている。特に顔や胸元の肌は筆触を残さない。胸元や手首の装飾品の金細工は、省略法で、筆触を露わにすることで輝いて見えるようになっていて、tromp d'œilとなっている。背景は古典古代的にして和風な画面の取り方である。
少し夕暮れ時なのか、黄昏時にふさわしいような光のあり方である。それと情感のあり方がマッチしているようである。少し憂いと悲しみもひめたようにも見える。
胸元はエロチックで中年にさしかかりながらも、艶かしくエロチックで滑らかな美しさ。耳の形も巧みに描かれている。
手袋は左に着けているが左は着けていない(左手首は手袋の上から装飾、右手首は素肌に装飾をしていることから、手袋を外したのではなくて最初からそうしているということのようだ)。このように非対称になっているのはなぜかわからないが、これはおしゃれであったのだろう。
1894年
portrait of an unknown woman
<2017年Wien Museum Karlsplatzにて>
小さいサイズの作品です。
極めて細密で滑らかな肌の表現です。
縮毛の質感もよく表現されています。
<国立新美術館2019.7>
あまり精彩を放つものでもないような印象を受けました。細密ではありますが。
1895年
愛 Liebe
美しい愛と性愛が重ねられています。
上方には色々な表情が浮かんでいます。これは何を表しているのでしょうか。少女、若い女性、初老の女性、老婆というふうに、女性の一生を描いているのでしょうか。若い女性が一番幸せそうな表情です。春を謳歌してうっとりしているようです。
左右には金が押してありますが、和風です。描かれている薄いピンクの花はバラですが、桜のような和風となっています。
<2017年Wien Museum Karlsplatzにて>
背景のいくつもの顔は亡霊のようです。手前の男女の生命にたいして背景は死の世界のようです。
全体としては美と不気味が組み合わせられています。相反するものが併存しています。この男女の愛は現在において最高潮に達し、生命を謳歌していますが、それとともに背景には死の世界があって、そこには老い、呪い、嫉妬、理性の喪失なども含まれています。
(ウィーン・モダン 国立新美術館2019.7)
6月(ユノ)(『アレゴリー:新連作』のため の原画 No. 53)
1896 年
緻密に描かれています。
髪飾りがきれいです。
ウィーン・モダン 国立新美術館2019.7
これはユーゲントシュティールand/or 象徴主義として位置付けられるか。
1897年、クリムトは同士8人とともに、キュンストラーハウス(「芸術家の家」の意味)という公的な展覧会を仕切る美術アカデミー系機関を脱退して、「オーストリア芸術協会」を設立した。これがいわゆる「分離派(ゼツェッション)」である。クリムトが初代会長になった。これは1892年ミュンヘンでの分離派に触発されて結成されたものである。ウィーンの後ではベルリンでも分離派が結成された。これらの分離派はドイツ語圏での進歩的美術の象徴的な存在となった。
分離派の仕事としては①分離派館の建設、②展覧会、③分離派の機関誌『聖なる春』の刊行であった。
そもそもオーストリア美術の伝統はなかった。ウィーン美術史美術館には、自国の美術が欠けていた。オーストリア分離派の場合は、古い美術にたいして新しい美術を置くことであるというよりも、もともと乏しい美術界に対して、新しい美術を興すことのほうに重点があった。1897年の第1回分離派展について、批評家ヘルマン・バールは、この展覧会を称賛するとともに、以上のことを強調した。この展覧会は1点の駄作もなく、ウィーンに優れた美術が誕生したと。もっとっも美術教育は保守的であり、またクリムトの作品に対しては論争が巻き起こった。
クリムトは、アカデミーの絵画の頂点の一つを自ら作り出し、それに対していわば「分離」して新しい絵画を作ったと位置付けることができるかもしれない。時代にふさわしい絵画であり、尚且つ彼らしい画風を創造した。あるいは彼の創造下絵の世界が新しい時代を切り開くものであったかもしれない。
分離派館の完成。用地はウィーン市が提供するなど公的な協力もあった。こういった協力はフランスの印象派(アンデパンダン展)とはずいぶん異なる。
分離派館の入り口に今も掲げられている「時代にふさわしい芸術を、芸術には自由を」は、彼らにふさわしかったと思われる。
クリムトには格別師匠がいたわけではなかった。またシーレやココシュカは、クリムトの近くで成長したが、彼の弟子ではなかった。
分離派結成の年である1897年、18歳のアルマとの最初の出会い。クリムト35歳。これ以降、恋愛関係になる。
1898年分離派館が完成。
1899年分離派展に出品したベルギーの画家レイセルベルグの影響で、点描を描き始める。
「黄金様式」:細密で凝りに凝った作品。
1897/1898年 ソニア・クニップスの肖像
ヴェルベデーレ美術館(上宮)にて。
動きと緊張が見られる。何か動きそう、そして緊張感をもっている。その点はこの人物画にリアリティを持たせることにもなっている。
全体にソフトフォーカスがかかっているようにけぶっている。それがドレスや髪の質感とマッチしている。
顔も軽くソフトフォーカスがかかっていて、かろうじて目はソフトフォーカスの度合いが少なめであり、比較的明瞭な黒い瞳である。特に左の黒い瞳はソフトフォーカスがなくて、黒い瞳がポイントになっている。よく見ると、その左目は少し不自然なくらいに見開かれている。左右非対称の顔(ふつう人間の顔は左右非対称が多いだろう)だが、そこにもリアリティがある。そしてこの左目には一種の緊張感がある。この左目はこの絵の世界からすれば外的世界に属する。この左目はこの絵の焦点になっているが、それとともに静止しているのかもしれない。
かつてのような細密なものではなく、むしろ印象派に近いかもしれない。アカデミズムの極地のような作品では筆触がほとんど見えなかったが、いまや筆触が露わになってくる。
1897年に分離派を結成して以降、新しい時代の表現であり尚且つクリムトらしい肖像画を描く方に向かうことになる。
その過渡的な時期の代表的作品がこのソニア・クニップスの肖像であったようだ。
Pallas Athene パラス・アテナ
1898
象徴主義的な作品です。 目がすごです。黄金の兜の金色が特に鮮明です。右手に持っているものは一体何を表しているのでしょうか。 特に左腕にスフマートのようにぼかしが強いです。<2017年Wien Museum Karlsplatzにて>
戦争の神にして街の守護神であるアテナは正義の存在なのでしょうか。冷徹の極みであり、その全体が美しいです。その美しさはエロスとしっかりと滲み合っています。その目は人間離れをしていて、崇高な次元で統一されています。
背景に描かれているギリシア風の装飾にも注意。
ウィーン・モダン 国立新美術館 2019.7
1901年
ジュディス
金色を装飾的に用いることを主要なモチベーションにしているようである。額もこの作品に併せて製作されており、額の上部にはJUDITHとタイトルがデザイン化されて打ち出されている。この額は金色に見えるが、実物はくすんだ色であり真鍮(黄銅)であると思われる。
ジュディスは艶かしく、立体的で、ソフトフォーカスでけぶったような身体である。
上からこちらを見つめている。これは美術史博物館の壁画像とも似ている。恍惚として性的情熱をたたえている。首輪は何かに従属していることを示している。
男の首はカラヴァジョを思わせる。
またおそらくサロメとも掛けあわせられているのだろう。
エミーリエ・フレーゲの肖像
portrait of emilie flöge
この写真の法がより実物に近かったかと思います。
弟の妻の姉。彼女は富裕層を顧客としたモードサロンで成功した。彼女はクリムトの親友のような愛情関係であり、肉体関係はなかったようだ。死の床にあったクリムトの最後の言葉は「エミーリエを呼んでほしい」だったという。
顔だけが立体的で、スフマートのように、けぶってぼやけています。それ以外は図案化されています。そして身体は細長く伸びて変形されています。
<2017年Wien Museum Karlsplatzにて>
絵画全体は装飾的です。衣装の文様は、有機体的であり、それは植物的であるような動物的であるような機械的幾何学的であるように見えます。
(ウィーン・モダン2019.7)
分離派館(セセッション館)のために『ベートーベン・フリーズ』を制作。窓のない地下室の壁画で展示されています。
タイトルには、ベートーベーントいう名前がつけられているのに、ベートーベンにはあまりない側面が大きく強調されています。それは、性愛化、黄金化、装飾化です。
構成は、「幸福への憧れ」(左の壁)、「敵対する勢力」(中央の壁)、そして「歓喜の歌」(右の壁)にわかれています。
騎士が美しい金の鎧を身にまとっています。英雄です。
第九の第1楽章は、交響曲第3番の英雄にも似ています。
「敵対する勢力」
ゴリラはクリムトに似ています。
大蛇はモンスター。骸骨があります。
太った女性の東部の金の装飾、腰巻の装飾の美しさ。石もはめ込まれています。
背景の金の装飾も美しいです。このすぐ近くの女性はエロチックなポーズで魅惑的です。
中央には日本の幽霊画のような痩せた女性が描かれています。
3人の若い女性が全裸で立っているが、その上から半分禿げたような気味の悪い女性が覆いかぶさっている。正気のようには見えない。あるいはこれらの女性たちはゴリラのような怪物への生贄か。ゴリラはこれらの女性たちに魅了されているのか
安らぎの世界。そして最後は抱擁で終わります。
美と調和の世界です。
以上から、ベートーベン・フリーズは、どうやら第9の楽章に重ねられなくもありません。
1. 英雄
2. 悪魔
3. 安らぎ
4. 歓喜の歌(合唱)
1903年ウィーン工房設立に参加。
ブリュッセルのストクレ邸:1建築家ヨーゼフ・ホフマン、クリムトをはじめとするウィーン工房が904年に受注して1911年に完成。実用と美を兼ね備えた邸宅。外観は分離館を思わせる、シンプルで幾何学的。クリムトはモザイクを担当した。世界遺産にも登録された。
1905年、それまでの公的施設の作品が評価されて1894年から制作依頼されていたウィーン大学講堂の天井画(『哲学』、『医学』、『法学』の『学部の絵』3点)を巡って「反クリムト感情」が噴出した。あまりの大きな反撥にクリムトは制作辞退と制作費返還。分離派内で意見が対立し、同年クリムトとその一派18人は分離派を脱退。残った側は「印象派」、クリムト一派は「様式主義」つまり様式芸術である草食性、デザイン性の高い様式化された家具、食器、装身具、それに絵画、彫刻を加えたユーゲントシュティール(フランスのアールヌーボーに相当)に近い人々であった。
1906年 フリッツァ・リートラーの肖像
写真で見るよりも実物は地味な印象である。自己主張をしない。しかし、その形態は、変わっている。表情は少し不自然なくらいである。また、頭部は一応は立体的であるがあまりリアリティーを優先しているようには見えない。
明らかにかなりの程度に和風である。背景の金の壁紙は掛け軸の一端のようでさえある。床のひし形も浮世絵からモチーフを取ってきたのであろう。また椅子の図柄も日本の着物の生地からモチーフを取ってきたのであろう。
金色が背景に配されているものの全体に銀色の側に傾いている。全体に自己主張せず控えめではあるが、破格で奇抜な図柄である。
平面的で装飾的なのは19世紀末以降の絵画の特徴の一つである。この作品はその特徴がとりわけはっきりしている。
また特に背景の金色は和風そのものであり、例えば琳派などの日本美術の影響が見られる。また頭のうしろの装飾部分は浮世絵などに描かれた生地のモチーフからヒントをえたのかもしれない。もっともこの部分はかなりヨーロッパ化されていています。とても曲線のモチーフは新奇な印象である。縦横の直線と曲線の配合がうまくなされています。余白もたっぷりととってあるのも日本的。
顔や手は、細密に立体的に表現されていて、写実的な生々しさがあり、他の平面的な部分と好対照となり、レリーフのように浮き出ています。
クリムトは注文肖像画として富裕な上流階級の貴婦人たちを主に描きました。そしてこれはとてもゴージャスで新しい時代の雰囲気を醸し出しています。髪の毛の装飾はベラスケスの王女マリア・テレサの引用でもありますが、貴族性を表しているのであろう。
これは1908年の『抱擁』とほぼ同時期を形成しているとみなせる作品である。
この絵はウィーンの銀行家で実業家のフェルディナント・ブロッホ=バウアーの妻、アデーレをモデルに描いており、彼の注文により同地で描かれた。フェルディナントは製糖業で富を得た裕福な実業家であり、多くの芸術家のパトロンとなっていた。クリムトもその一人であり、1912年には『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 II』を描いている。(以上ウィキペディアからの引用)
1906年の『フリッツァ・リートラーの肖像』の方向性をさらに前方に進めていると思われる。クリムトのこの様式ではピークを形成していると思われる。金をふんだんに押してあり、極めて豪華である。彼がブルジョワの画家であることが明白であるとみなせるであろう。
日本風。
目のようなモチーフが反復されているのは、これは何であるのか?
しかしこれ以降の肖像画は次第に枯れていっているかもしれない(要確認)。
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クリムトの金ピカ絵画の最高のもののひとつが、ニューヨークのNeue Galerieに展示されています。絵画の画面上に凄まじいほどの金を用いているのは、他にほとんど例がないくらいでしょう。西洋絵画史上最高に金を用いているでしょう。金が多いものの、実際には比較的落ち着いた金色です。そして装飾性を追求しています。平面的でデザイン化されています。このデザインはユーゲントシュティールないしはそれに近いものでしょう。
美しい紋様です。奇妙にもみえる紋様がありますが、それも効果的によく馴染んでいます。
日本的であり、蒔絵風です。琳派。とくに背景はいかにもそのように見えます。
これは1908年の『抱擁』とほぼ同時期を形成しているとみなせる作品です。
<以下、ウィキペディアの情報>この絵はウィーンの銀行家で実業家のフェルディナント・ブロッホ=バウアーの妻、アデーレをモデルに描いており、彼の注文により同地で描かれました。フェルディナントは製糖業で富を得た裕福な実業家であり、多くの芸術家のパトロンとなっていました。クリムトもその一人であり、1912年には『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 II』を描いています。
(Neue Galerie 2018)
1907年−1908年 『ダナエ』
1908年抱擁
ヴェルベデーレ宮殿(上宮)では、少し薄暗いほどの場所に展示されているためか、この画面で見るような光り輝く感じではなく、くすんだように見える。これを渋みがあるとも言えるのかもしれない。
装飾と立体描写の組み合わせは、この時期のクリムトの特徴でもある。相当に図案化された装飾である。
新しい芸術としての主張がなされている。
特にブルジョワに好まれるかと思われる。
背景の金のまぶし方は特に明らかに和風である。
離れて見るぶんには、画家のサインさえも金色である。もっとも実際には、近づいて見ると金を使っているのではなくて茶系の絵の具でサインされている。サインに金色を使っていたら嫌味な印象を与えるかもしれない。レンブラントも金を使わずに金色を描けたのだし、絵の具だけで金色をある程度表現することもできる。それは腕次第である。このように画面全体が本物の金が使われているのは、そしてサインもこのように金色に見えるようになっているのは、画家が金細工の家に生まれたのであるから、当然の行いであったろう。ある意味後を継いだとも言える。もっとも現実に父親の後を継いだのは弟のエルンストであるが。エルンストは1892年かそれ以前に死去。
ヴェルベデーレ宮殿(上宮)にて。
1908-1911年 1915-1916 reworked
死と生 Tod und Leben
<Leoport museumにて>
荒い筆触で、よく省略もされています。
死神の寒色系と人間たちの暖色系が対比されています。
幼児を幸せそうに慈しむ二人の若い女。この幼児も安心して眠っています。
人間がひとかたまりになっています。幼児を入れて9人います。それを死神が狙っています、9人まとめて一網打尽のチャンスであるかのように。死神が両手で持っている棒状のものはなんでしょか。死神の体は死を表す黒い十字架が多数あって、墓地の十字架の一群ように見えます。人間が複数であるのに対応して、お墓も複数あります(もっと多数です)。9人のうち8人が目を閉じて眠っています。そして一人だけが目を大きく開いています。その目は狂気じみたような眼差しをしていて、死神と眼差しを交わしているようにも見えます。眠りの中には死の要素がある他(ほか)、目を見開く彼女は死へと目覚めたのです。眠りは小さな死ともされますが、彼ら彼女らは、夢にまどろみ、あるいは夢を見さえしない深い眠りに落ち、生と死の境目を彷徨っています。彼ら彼女らは、同じ夢の住人であり、そして一塊の死体です。
エゴン・シーレのようにシミのある身体像です。