Salvador Dalí
表参道ソフィアクリニック
Salvador Dalí
サルバドール・ダリ
Salvador Dalí
1904年5月11日 - 1989年1月23日
フルネームはカタルーニャ語でサルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク(Salvador Domènec Felip Jacint Dalí i Domènech)
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【パラノイド、ヒステリー、強迫】
パラノイアというよりヒステリー的な傾向。つまりパラノイドなヒステリー。それにまた強迫傾向の結合とみたほうがよいでしょう。ダリの性格は単純さと複雑さが絡み合っています。
【楽観と悲観の奇妙な混合】
破滅的なまでの悲観と、楽観的なお道化が、ちぐはぐなまでに奇妙に混合しています。他にも、彼は相反する要素、対立物を混合させます。
【中心核の空虚】
ダリの心の中心部分つまり核となる部分には空虚が占めていてそれが全体を支配する傾向があるようです。抽象的なエネルギーが中心核に充溢すると、爆発的なエネルギーを発散します。
【フェティッシュと強迫的なこだわり】
フェティッシュが主要なモチベーションにもなっています。内面的なフェティッシュ、心の中のフェティッシュであり、彼の絵はフェティッシュなこだわりを集めて描いているようにもみえます。こだわりの重ね合わせ。彼は固着した事柄には反復的で永続的にこだわる傾向があります。
【細密と強迫性】
彼の絵は非常に細密に描かれることが多いです。これも彼の強迫性を表しているのでしょう。細密な描写がダリのシュールレアリズム絵画の特徴でもあります。
ダリは10代前半のことは印象派的な絵画を描いていましたが、印象派は細密画とは全く程遠いです。ダリは細密さを重視します。この点も古典主義絵画と通じています。一方ではリアリズムがあり、他方では非現実的な世界があり、この相反するとおもわれる両極を混合させます。そこからあらわれるのは心的現実です。
【スキャンダラスな性質】
無意識的な内面を暴くことはスキャンダラスな性質を帯びていると思われます。
【シュルレアリズム】
ダリのシュルレアリスムの特徴:
アンドレ・ブルトンのシュルレアリズムは「夢」と「オートマティズム」を基本原理としますが、それにたいしてダリは「パラノイア的=批判的方法」を提唱したという違いがあります。
ダリはいわゆるオートマティズムつまり自動筆記をそのままを表現していません。自動筆記ではないにしても、それに着想を得つつ、強迫的なまでにこだわりと固着もあったと思われます。また「自動筆記」的な着想を得ているにしても、描くときには強迫的なリアリズムと融合します。
【パラノイア的=批判的方法】
通常の精神状態とは異なる夢や妄想的な「精神錯乱的な連想」に基づき、次々にイメージが連想され、それを批判的な視点で捉え直して客観的解釈によって認識できる状態にするもののようです。たとえばそれには「ダブル・イメージや」「多重イメージ」があります。
ダリ自身の言葉によれば次のようです:「精神錯乱的な連想と解釈の批判的かつ体系的な客観化に基づく非合理的な認識の自然発生的方法(『見える女』)」
ブルトンはダリの方法を力強く支持しました。またシュールレアリストのグループに熱烈に迎え入れられたといいます。ブルトンはダリと仲違いした後もこの方法を否定しなかったとのことです。
【写実描写とシュルレアリズムの融合】
極めて細かく小さなアイテムを描いたりします。またグラデーションも筆触をほとんど残しません。印象派では筆触を残す筆さばきの名人芸でみ見せどころであり、ダリは画業を印象派から学ぶことから出発しましたが、それとは全く違います。ダリは自分の絵画のことを「手が描く写真」と表現していました。
実はそもそも写実描写はシュルレアリズムと意外に近いところにあります。
【魅力的な造形をしたアイテムの提示】
ダリの絵画は、一枚の絵の中に魅力的な造形をしたアイテムをいくつも提示します。そのためにも細密な表現があります。非現実的ですが魅力的なアイテムが細密に描かれ、画面にて配置されています。
【古典への敬意】
10年間にわたって検討されたという芸術家の採点表です。
ダリ的分析に基づく諸価値比較一覧表(『天才の日記』付録Ⅵより)(もともとはダリの手書きですが、エクセルで作成された方から引用させていただきました)
ここで挙げられている古典の画家は得点は総じて大変に高いです。独創性という点についても古典の画家は19世紀20世紀の画家を遥かに凌駕していることが注目です。見た目では20世紀の画家のほうが遥かに独創的に見えるのですが、ダリは見かけではなく、その本質を見ようとしたのでしょうか。
新古典主義のアングルは割と高い得点ですが、天才性が0点と採点しているのは笑えます。努力の人という評価でしょうか。
ピカソは総じて程々ですが、ダリは彼に天才性と霊感などを強く認めています。
ダリ自身の自己評価では概ね高いのですが、古典の画家よりは若干劣り、とくに技術と色彩の点でかなり劣っていることになっています。天才性については、古典の画家よりは軒並み−1点であり、またピカソと比べても−1点です。ダリは自分のことを天才のように称してはいても、古典主義の画家やピカソよりは若干劣るし、20点満点がないという自己評価ですから、謙虚?なところもあるのでしょう。
【ダリと戦争】
ダリの生きた時代は戦争の時代でした。
10歳の頃には第1次大戦、13歳の頃にはロシア革命、32歳の頃にはスペイン内乱による未曾有の惨状、35歳には第2次大戦です。第1次大戦とロシア革命はすこし遠い出来事だったかったかもしれませんが、スペイン内乱と第2次大戦は物理的にも心理的にも直接的な影響が大きいものでした。
もっとも少し遠かったとはいえ、第1次大戦などもふくめて、10代の頃から戦争を時代の雰囲気として、敏感に感じ取って絵画の描写にも大きな影響があったことも考えられます。芸術家は総じて繊細ですが、彼のこころは、とりわけ繊細です。ただし、繊細な人は全てのことに繊細というよりは、敏感と鈍感の両方を持っていることもあります。彼のように強迫的な特性を兼ね備えた繊細さは、特に敏感と鈍感の両方があると推察されます。
また広島の原爆投下は随分遠いところでの出来事でしたが、彼には大きな衝撃を与えました。ダリがアメリカで住んでいた時期です。アメリカが引き起こした惨禍でした。
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ダリはタルーニャの小都市にて生まれました。父親は公証人で町の有力者。父親は自治の獲得とカタラン語の復権を求める運動にも共感する思想を持っていました。父親はダリにとって絶対的な権威であったとも評されます。
ダリには幼くして死んだ兄(9ヶ月年上)がいて、同じ「サルバドール」という名が付けられていました。自宅では両親は死んだ兄の写真を掲げていて、ダリはそれが自分に似ていると思っていたようです。彼は両親からすれば、自分が死んだ兄の身代わりであるという意識が根付いたようです。自分より死んだ兄の方が優位にあって、親の愛情は自分よりもそちらに注がれているようにおもわれたのでしょうか。彼は死んだ兄に同一化していました。そればかりが自分が死に近い存在であるように感じたか、あるいは既に死んだ人間のようにも感じたようです。
彼は母親からは望むものはなんでも与えられ、小さな王様だったと言います。彼は母親を敬愛していました。
父親は抑圧的であったとされています。それに対してダリは対決的な言動であったらしいです。
小学校では、一風変わった先生から可愛がられ、性的な嗜好の対象としても接せられていたようです。
1921年、17歳で母親が癌で死去。これについてのちにダリは「わが生涯における最大の打撃」であり、母親を崇拝していたと語っています。
彼の少年時代の先生は印象派だったようです。
彼は故郷に執着し、そして家族へ執着し、そして特別な人、愛する人に執着します。この執着は長く永続するのも特徴的です。こういった執着する傾向は彼の特性の一つのようです。これも彼の内的なフェティッシュと強迫的な特性も繋がっているようにも思われます。ただし執着した妹とは決別しました(これには、妹が著作の中でダリの私生活を暴くなど許しがたいと思うような経緯もありました)。
この執着は、心に長く刻まれるものであり、それがダリの心のなかの豊かな広がりを形成していると思われます。
《ラファエロ風の首をした自画像》 1921年頃
カンヴァスに油彩 40.5 × 53.0 cm
ガラ=サルバドール・ダリ財団蔵
Collection of the Fundació Gala-Salvador Dalí, Figueres
この「ラファエロ風の首をした自画像」というタイトルがすでにシュールです。フェティッシュな傾向と着目点がみられます。そこにダリらしさが表れています。
筆触は印象派、点描、キュビズム、フォーヴィズムの混合のようにもみえます。
ラファエロは、ダリがもっとも尊敬していた画家の一人です。彼は古典主義からも学びます。
ラファエロの肖像画の首と関連づけていますが、ラファエロの首は優雅ですが、ダリのはそんなことは全然ありません。
首にこだわるというフェテッシュな着想がダリらしいのです。ダリの自画像は早くからダリらしさが現れています。同じ1921年の他の自画像もダリらしさを感じさせます。が、この時期の自画像以外の彼の他の諸作品にはこういったダリらしい画風はみられません。この時期のダリの画風は一つに決まった傾向を示していません。彼は自分独自の画風を持たないようです。独自の画風を持とうという意図さえなかったのではないでしょうか。あるときには印象派風、あるときにはキュビズム、あるときには点描派、あるときにはミロ風、あるときにはピカソ風の絵画を描きます。彼はいろいろなものになることができるというところが彼の特性の一つです。彼は自然といろいろなものになることができます。それはまるでカメレオンのようだ、と評することもできるかもしれません。またそれをヒステリー的とも言えるかとも思われます。自分にはこんなこともできるのだ、という自己顕示が先走っていたのかもしれません。かれは自己顕示欲も強い人でした。ただそれだけで終わるような人ではありません。彼は印象派の影響をうけたスタイルから出発して、印象派以降の多くの流れを素直に全部試みたということであるとも考えられます。1920年までは印象派的な画風であり、1921年以降はいろいろなものに画風を取り入れているようです。この時期のダリを要約して「模倣の時代」とも呼ばれることがあります。
そして彼の画風がいろいろなものに変貌するということ自体も含めて、それでは彼自身が総体として何であるかと問われる時に、彼独自のものが表れてきます。この時期はまだダリは「ダリ」ではありません。ダリが「ダリ」になるのは、概ね1928年から1929年にかけてではないかと思われます。つまり、24歳前後にダリは「ダリ」らしくなりました。1928年は、『アンダルシアの犬』をルイス・ブニュエルとともに製作した年です。このころからシュルレアリズムという新しい潮流に合流しました。ダリはダリらしいシュルレアリズムを築きます。このあたりにダリは芸術家「ダリ」として、いわば「発病」したのでした。
《魔女達のサルダーナ》1918年頃 水彩、油彩、インク
《アス・ビアンクからのカダケスの眺望》1919年頃 油彩
《ピュリスム風の静物》1924年 油彩
《カダケスの4人の漁師の妻達、あるいは太陽》1928年頃 油彩
母親の死後、ダリにとって妹アナ・マリア・ダリは理想の女性と化し、ミューズとなり、ダリはこの妹を偏愛し繰り返し絵の中で描きました。とくにそのお尻に興味を持ち、彼女の後ろ姿を繰り返し描くことを好みました。
1922年(18歳)、マドリードのサン・フェルナンド王立美術アカデミーに入学しました。しかし授業に失望していたようです。ルイス・ブニュエルと詩人ガルシア・ロルカに出会いました。
1925年(21歳)、バルセロナの著名な画廊にて初の個展。
1926年(22歳)、美術アカデミーの試験を拒否し、放校処分。
1928年にシュルレアリスムの代表的映画『アンダルシアの犬』を共同制作した。これがパリのシュルレアリスト達から大きな賞賛をうけました。ブルトンは、この映画作品を絶賛し、ダリがシュルレアリズムのグループを導くと語りました。ダリはシュルレアリスト・グループに正式に迎え入れられました。
L'Age D'Or 1930
これはダリは最初の頃に関わっただけのようです。
1927年、パリに赴きました。
1929年、ミロの紹介でパリのシュルレアリスト達との交流が始まりました。
1929年に正式にシュルレアリスト・グループに参加しました。
「シュルレアリスムとは、つまり私のことだ!」『天才の日記』より。
1929年ガラ・エリュアールと出会いました(ダリ25歳、ガラ35歳、10歳の年齢差)。当時、ガラはシュールレアリストの中核の一人であった詩人ポール・エリュアールの妻でした(1917年に結婚)。ガラはマックス・エルンストとも恋愛関係になっていた時期もありました。
ダリは自らのことを「か弱い裸体」であるとし、ガラが「隠者ベルナルドゥスのか弱い裸体を保護する貝殻を作りあげることに成功した(『自伝』)」と語っています。またガラを「一卵双生児」とも評していました。
ダリは女性恐怖症のような傾向もあってか、緊張が高じると笑いが止まらなくなる発作に悩まされていました。女性形経験がなかったとも言われています。ガラは、ミューズであるとともに、ダリを母親のように包み込み、性技に長けていて、画材研究などでもダリの創作を助け、ダリのあらゆる身の回りのことについて創作環境を整えることに手を尽くしました。またガラはダリの業績を商業ベースに乗せることにも熱心でした。
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1929年ごろからダリはダリらしい絵画をかきはじめます。(そして30年代がダリの最盛期ともされるようです。)
1929年 大自慰者
これはダリがガラと出会ったばかりの頃に描かれた作品です。
1929年『欲望の謎、母よ、母よ、母よ』
ダリ自身であろう横たわる顔。そして蟻は死を象徴しています。顔から吹き出た謎の物体に多くのくぼみがあり、文字が描かれていますが、文字はすべてma mèreである。つまり「僕の母」。母親が亡くなって8年ほど経ち、ずっと母親のことを思いに抱きながら、生涯の伴侶となるガラと出会ったのでした。遠景には性欲望の原初的対象でもある女体も描かれています。
1929年
《子供、女への壮大な記念碑》1929年 油彩、コラージュ
ダリがダリらしくなる転換である1929年の代表作のひとつです。この年には、このようなタイプの大作が2、3点描かれています。どれも共通した傾向があります。つまり、細かくリアルに描きこまれています。そして、夢とオートマティズム(自動筆記)というシュルレアリズムの発想であるとともに、無意識的なものを意識的な具象的アイテムとして表現しています。大小様々なアイテムがあります。これらのアイテムは魅力的な造形として提示されています。小さなアイテムも緻密に鮮明に描かれています。
これらは美の理想を描くのではなくて、人間の心理の奥底にある真実を抉り出すタイプです。特に人間の深層にある狂気や暴力性や奇怪なもの(とくに解剖学的な身体部分も含めて)が見出されています。人間の深層にはパラノイアックなものがあり、そしてそれを表現するときにはヒステリックになるということでもあろうかとおもわれます。
牙をむき出した獅子の頭は性欲動を表しているのでしょう。
1930年 姿の見えない眠る人、馬、獅子
姿が見えないと言っても、見ようによっては見えます。馬と女体が混合しています。また尻尾の毛は獅子の顔に変貌しています。ダリにとって獅子は欲望を表していることが多いようです。これら造形の組み合わせを「ダブル・イメージ」ともいいます。あるいはフロイトの精神分析の用語では夢の中の「圧縮」です。夢の中ではたとえばAという人物とBという人物が圧縮されて一人の人物になっていたりもします。ダブルがより複数化して、より多くの連想を含んだ圧縮を「多重イメージ」であり、のちにダリが展開していくことになるようです。それは鑑賞者の側の深層心理にまで繋がっていく意味でも「多重」なのでしょうか。
1931年 降りてくる夜の影
なかなかいい絵だと思います。
絵の中央あたりの球の影だけがことさら強く鮮明に描かれています。このコントラストの強い影が良いですね。しかしこの影が何を意味しているのかは不明です。
縦に長い岩肌は色も形も繊細に描かれています。
布に包まれた人物は、意味不明で、謎です。男女の区別がつきませんが、内部は男女が混合しているうえに、いろいろ異形(いぎょう)の諸部分が組み合わさっているのでしょう。
1931年 これは2016年のダリ展には出展されていませんでした。
ダリの記念碑的な作品です。この作品を記念碑的にしているのが溶けてグニャグニャ曲がった時計です。それ以外はそれまでダリの絵画で描かれていたアイテムと違いがあまりありません。この溶けた時計はこの時ダリが発明した新たな造形のアイテムです。もっともダリは、この発明品を、これ以降どんどん使用していくのではなく、ときどき登場させるくらいです。ここではこの時計がいわば「主役」ですが、今後時計が主役になることはほぼありません。ダリは新しいアイテムを考案しても、それを主役として頻出させすぎることはありません。
・止まった時計は死を表しているかもしれません。
・柔らかくなって溶けているようになったチーズに着想を得て、この溶けている時計を描いたらしいです。既存の絵画作品にこの時計を書き加えただけだったので、時計の着想を得てから時計を描き上げてこの作品を完成させたのはほんの少しの時間だったと言います。テーマとしては時間に拘束された秩序に対する嫌悪と反抗に由来するもののようです。「機械的な物体は、かくして私の最悪の敵となった。時間について言えば、それらはすべからく柔らかくなくてはならない(『自伝』)」
・ダリは、少年の頃、もらったコウモリをバケツに入れておいたら、翌日には蟻にたかられて瀕死の状態だったのを目撃しました。ダリ少年は震慄して、それ以降、蟻は死の象徴になりました。蟻のたかった時計は生ける屍の象徴ともなっているようです。蟻は、脇役として、頻出します。蟻は、多くは死のイメージ、あるいは生ける屍のイメージとして使われているように思われます。
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1934年 シュルレアリストのグループでダリを追放する動きがありました。ダリがヒトラーに共感するという発言があったこと、レーニンの顔を用いて人喰いのウィリアム・テルを描いたことなどがきっかけになっていたようです。
1934年、30歳でガラと結婚しました。ガラはダリより10歳年上であったので、当時ガラは40歳くらい。
1934年 謎めいた要素のある風景
あまり大きくないサイズです。
描かれている画家はフェルメールです。ダリは何人かの古典的な画家を尊敬していましたが、フェルメールはその一人です。ここではフェルメールは小さな人形のように描かれています。
いろいろな魅力的なアイテムが各所に配置されています。写真よりは実物の方が魅力的です。それぞれのアイテムは細かく鮮明に描きこまれています。
1935年 パラノニア PARANONIA
これもフェティッシュにして魅力的な形象のアイテムを描いています。
乳房と乳首の魅力とフェティッシュ。それを中心に小さな人間たちの魅力的な形象が活動しています。これらは騎士たちの戦闘でしょうか。そしてこのフェティッシュな対象はアメリカンな雰囲気も漂っています。
1935年 見えない人物たちのいるシュルレアリズム的構成
見えない人物という新しいアイテムが考案されました。これが反復されて描かれることにもなります。
ポジティブとは存在するという意味があります。存在をポジティブではなくて、存在をネガティブ(非存在)として表現しています。
いつも存在していれば存在は存在として感得されませんが、存在が非存在になった時に、存在が感得されます。これは一般的な逆説です。ただこうも絶対的な非存在として存在が表されると空虚が感じられます。このベッド上の痕跡は、ガラの痕跡でしょうか。しかし、アノニマスな痕跡のようにも感じられます。そして亡霊であるようにもおもわれます。
この椅子の痕跡はダリの痕跡でしょうか。あるいは逆も考えられます。つまりベッドのほうはダリで、椅子のほうはガラである、と。主体と客体は入れ替わることもあるでしょうから。またこのようにベッドの上に肘掛け椅子が配置されているのは、精神分析を行う際に分析を受ける人と分析家の位置関係とも似ているかもしれません。
そしてセクシュアルな側面が色濃くはいっています。ベッド、蟻?がいるらしい穴、そして棒状の柱です。
1935年 奇妙なものたち
1930年台半ばから「形態学的なこだま」という方法を用い始めました。同一画面で同じ形態を繰り返します。この絵画ではパッと観ただけではそれはピンとこないのですが。それと分かれば、そうだとわかるものです。たとえば。。。
1 椅子とソファの人のくぼみ。
2 女性の手と椅子のくぼみの手。
3 女性の下半身と箱の中に入った毛だらけの下半身。・・・これは不確定です。
こういった「形態学的こだま」はダリの作品に時々見られるので要注意です。
936年 《ガラの測地学的肖像》板にテンペラ
小品で細かく描かれていますが、一見精彩を欠いて大味にも見えます。測地学的とはなんのことでしょうか。
なぜわざわざテンペラで描いているのでしょうか。
《引出しのあるミロのヴィーナス》
1936年(1964年に再鋳造)、100.0 × 29.8 × 27.9 cm、白く塗られたブロンズ、白てんの毛皮の房、サルバドール・ダリ美術館蔵
素直に結構面白いオブジェです。
フロイトのことば「人間の身体は秘密の引き出しを抱えており、心理学者によってのみ、その引き出しを開けることができる。」ダリはこの理論を視覚的イメージにしようとしたらしいです。身体に引き出しがついているというイメージはダリの表現アイテムの一つに加わりました。
1936年 スペイン内戦勃発。
1936年 《オーケストラの皮を持った3人の若いシュルレアリストの女達》油彩
下はダリ展には出店されていませんでした。有名な作品です。
1936年茹でたインゲン豆のある柔らかい構造(内乱の予感)
スペイン内乱勃発の6ヶ月前に描かれました。
この絵画は戦争(内乱)の不穏な空気と重なっています。
この絵画は臨場感がありますが、それは無意識の世界にある恐怖が現実の世界に現れ出てきたという臨場感であるようにも思えます。
1937年 燃えるキリン
スペイン内戦が進行していったという背景とも関連しているようです。
燃えるキリンもダリの表現アイテムの一つになっています。
下はダリ展では展示されていません。これもダリの代表作の一つです。
1937年 ナルシスの変貌
1938年ダリはロンドンに亡命していたフロイトを訪れましたが、ダリはそのときこの作品を携えてフロイトに見せました。これはフロイトの理論に影響された作品だともいわれています。フロイトはシュルレアリズム全般を総じて評価はしておらず「バカだと思っていた」といいます。それにたいしてダリと会見した翌日にはフロイトはダリが「疑いなく巨匠の腕を持っている」と語っています。もっともフロイトは文学以外に関しては芸術音痴のところもありますので、彼の芸術評価をあまり気にすることはないと思われます。ただそれにしてもダリのこの作品はフロイトを感心させたのに違いはありません。ダリもフロイトに見せたくらいですから会心の作であったのでしょう。そしてまたダリの中でフロイトにたいする転移感情が芽生えていて、フロイトに精神分析をしてもらいたい、精神分析を受けたいという願望もダリの心のなかのどこかにあったのではないでしょうか。これはかなり可能性が高いことです。
画面左のナルシスの身体は、画面右の指と形態的に照応関係にあります。つまりこれは「形態的こだま」の一例です。特にナルシスの頭部は卵型の物体と形態的に対応していることに注目です。この絵にはダリの詩が添えられています。
「その頭に亀裂が生じるだろう時、その頭がひび割れるだろう時、その頭が破裂するだろう時、それは花になるだろう、新しいナルシス ガラ – 私のナルシスに」(詩文集『ナルシスの変貌』)
この卵型の物体はやはり卵と見てよいでしょう。卵とはキリスト教では再生の象徴です。卵は単純に割れているわけではなくて亀裂が入っているので色々な意味がこもっているのでしょうが、水仙の花が咲いているのは、やはり再生の意味があるのでしょう。これが新しく再生したナルシスです。そしてこの水仙がガラであると言っています。融解して水のなかに入っていくナルシス、これは崩壊現象を起こしているのですが、それと違って手指は地上にしっかりと立ち、硬く石化しています。この手はガラの手でもあり、ダリの手でもあるのですが、やはりガラよりはダリの手でしょう。ダリの手指に支えられて卵型の物体が危ういながらも保持されていて、そこからダリの生まれ変わりであるガラ、つまり水仙が咲いています。水仙が亀裂から生じているのも、危うさを感じさせます。柔らかいものは融解しますが、硬いものは亀裂が生じます。ダリとガラの関係はダリによって甲殻類に例えられます。軟体動物と変わりのない柔らかい肉体を持ったダリ、そして硬い甲羅となって内部を守ってくれるガラです。しかし硬いものはひび割れが生じる可能性があります。つまり硬いと脆いのです。ガラは水仙の花として咲いて、ダリを見下ろしているようです。石の手指には蟻たちがたかっていますが、蟻たちは生ける屍を表しているのでしょう。石化したものは硬くて頑丈ですが、生ける屍でもあるのです。ガラによって硬い甲殻を得ても、ガラそのものは硬いものではなく、花として咲いています。しかし花は儚いものでもあります。その背景は暗雲がたちこめています。あるいは一昔前になりますが「共依存」という言葉もありました。しかしこの共依存関係からガラは飛び出して、ダリを客観化して見ているのでもあります。これらを勝手にひとまとめにして「ガラ・コンプレクス」と呼んでみたくもなります。
また遠景の山並みには卵型の物体が乗っかっていて、これも「形態的こだま」を形成しているようです。これも指につままれている形になっています。つまり3つの卵型の物体が「形態的こだま」になっています。絵画の画面上では同じ高さで連なっています。遠景の山並みと卵は崇高です。神的でもあります。造形的にたいへん巧妙です。
またチェス盤で台座に乗った裸体の男はダリ自身でしょう。チェスは人生をゲームに例えているのでしょうか。ダリは裸のままゲームのチェス盤を見下ろしています。対戦相手も駒もない、チェス盤だけです。
8人の裸の男女がいますが、これは、怒り、絶望、嘆き、誘惑(ないしは虚栄)などの人間の心理を表しているようです。7つの大罪ではないと思われるのですが。
1938年にイギリスにいたフロイトに会いに行きましたが、戦後にはダリはパリでJ.ラカンにも会っています。やはりダリは精神分析におおきな興味を持ちつづけていたのでしょう。
1938年 果てしなき謎
「パラノイア的・批判的方法」である「多重イメージ」の典型例ともされる作品です。ここでは6つのイメージが重ねられているそうです(松村和明)。
Salvador Dali. Le taxi pluvieux 1938. Exposition internationale du surréalisme de 1938
1938年 雨降りタクシー アンドレ・カイエ撮影
先駆的革新的かもしれないオブジェ。
おどろおどろしく、死のニュアンスが漂っています。
1938年
マン・レイ《サルバドール・ダリのデザインしたマネキン》
ゼラチンシルバープリント
マネキンはシュルレアリズムの重要な表現素材の一つです。とくにダリにとってもです。
1938年にグループから除名された。ダリの「ファシスト的思想」が、アンドレ・ブルトンの逆鱗に触れたとされました。1939年にはブルトンはダリの作品が商業的になっていくのをからかって,"Avida Dollars"「ドルの亡者」というあだ名をダリに与えました。(これはSalvador Dalíのアナグラムであり,音声的にはフランス語"avide à dollars"「ドルをむさぼる」と同音である)。またダリは「シュルレアリスムの死」宣言を行いました。
ダリのシュルレアリズムは10年弱続いたことになります。
----------------1940年から1948年までアメリカに移住--------------------
第二次世界大戦中、ドイツ軍がパリを占領したことに伴い、アメリカ合衆国に移住(亡命)しました。
ダリは、ブルトンから"Avida Dollars"「ドルの亡者」などと批判されても、もろともせずに、アメリカでは多角化ないしは多角経営とでもよべそうなほど、色々な分野と連携して制作ジャンルの範囲を拡張します。インテリア・デザイン、舞台美術(映画、バレエ、オペラ)、広告、ジュエリー、ロゴマーク、ファッションデザイン、挿絵などです。ダリは経済的にも成功しました。
下はダリ展には展示されていませんでした。
1940年 戦争の顔
戦争を死のイメージと直接結びつけています。それは頭脳の中に充満し、不安と恐怖と、精神に損傷を及ぼしています。死体への恐ろしさ、そして内面の死が垣間見れれます。これも生ける屍の新たなヴァリエーションです。ダリの少年時代からのテーマが、より直接的に現実のものとして、地上に出現したかのようです。戦争は、ダリの存在の根源を脅かすほどであったことがこの作品からもうかがわれます。
1937年モンターギュ・ドーソン《風と太陽…稲妻号》クロモリトグラフ
これはダリの作品ではありません。真面目で堅実な絵画です。下の絵がダリの作品です。
《船》1942-43年 クロモリトグラフにグワッシュ
とても細かいところまで驚くほどそっくりそのまま写しとりつつ、パロディーになっています。オリジナルの作品に見られる真面目さと好対照です。
ダリもクロモリトグラフを使っているとのことで、同じ版を用いているからそっくりになっているのでしょう。ダリが細かく引き写したわけではありません。ダリが版ごと買い取ったのでしょうか。
1942年 幻想的風景
タイトルは、左から、暁、英雄的正午、夕べ
横浜美術館所蔵
3連の大変大きな作品です。一見、全体に大味な気がします。形態的こだまが随所に見られます。
白い恐怖Spellbound ヒッチコック
夢のシーンの舞台装置はダリがつくっています。ダリが残して欲しいと思っていたところの最良の部分のほとんどがカットされたとダリは語り嘆いているようです。
destionはスペイン語で「運命」という意味です。
1945年ウォルト・ディズニーとともに企画が立ち上がりました。
1945年から1946年にかけて、ダリが絵コンテを作成するなどして構想が練られました。しかし結局財政的理由からみかんに終わりました。ディズニーの甥によって短編アニメとして完成されました。
以下はyou tubeの説明文の引用
The film tells the story of Chronos, the personification of time and the inability to realize his desire to love for a mortal. The scenes blend a series of surreal paintings of Dali with dancing and metamorphosis. The target production began in 1945, 58 years before its completion and was a collaboration between Walt Disney and the Spanish surrealist painter, Salvador Dalí. Salvador Dali and Walt Disney Destiny was produced by Dali and John Hench for 8 months between 1945 and 1946. Dali, at the time, Hench described as a "ghostly figure" who knew better than Dali or the secrets of the Disney film. For some time, the project remained a secret. The work of painter Salvador Dali was to prepare a six-minute sequence combining animation with live dancers and special effects for a movie in the same format of "Fantasia." Dali in the studio working on The Disney characters are fighting against time, the giant sundial that emerges from the great stone face of Jupiter and that determines the fate of all human novels. Dalí and Hench were creating a new animation technique, the cinematic equivalent of "paranoid critique" of Dali. Method inspired by the work of Freud on the subconscious and the inclusion of hidden and double images.
Dalí said: "Entertainment highlights the art, its possibilities are endless." The plot of the film was described by. Dalí as "A magical display of the problem of life in the labyrinth of time."
Walt Disney said it was "A simple story about a young girl in search of true love."
今回のダリ展には出展なし。
1943年 新しい人間の誕生を観察する地政学的な子供
地球は卵型をしています。ここでもやはり卵は再生を意味しています。卵が割れ、ちょうど北米大陸から男が誕生しようとしています。アメリカで新しい何かが生まれてくる。もがくようにして、出てこようとしています。頭はまだ出てきておらず、これが一体何者なのかというところは、不明です。それが良きものか悪しきものなのか、それも不明です。地球を内側から蹴り上げ、左手は地球を鷲掴みにするかのごとくに抑えています。非常に強いエネルギーに満ちています。暴力的にさえ見えます。右手の子供は恐れつつも強い関心を抱いてこの光景を見ています。この女性は一体どういう意味で指差しているのでしょうか。
この女性は荒涼とした大地を背景にして、あたかも洗礼者ヨハネのようです(乳房を持っていて子供がすがっていて女性でもありますが、両性具有的です)。もしヨハネのようなものであれば、指差しているのは救世主ということになるのでしょうか。もっとも生まれ出てこようとする人間は、イエスとはだいぶん雰囲気が違います。もしかして悪魔かもしれません。救世主かもしれません。ただ救世主と言わないまでも、新人類と言えるでしょう。キューブリックの『2001年宇宙の旅』も、スターチャイルドは新人類ですが、彼はアメリカ人ボウマン船長から生まれたのでした。つまりボウマン船長は男でありながら女のように子供(スターチャイルド)を作るという偉業を成し遂げたのでした。そのこともヒントにしますとダリのこの絵画では新しい人類を生み出しているのは、この両性具有の男女(おとこおんな)であるという可能性もあります。ヨハネは預言者であり救世主をうみだした洗礼者でもあります。
ヨーロッパやロシアは南アメリカやアフリカと比べると明らかにやせ細っています。このやせほそり方は、明らかにヨーロッパの凋落(ちょうらく)をあらわしています。まるでアルツハイマー型認知症の脳の断層写真の萎縮の形状のようです。彼は新しいアメリカに期待をかけているのかと思われます。ただ、それはこの子供のように驚嘆とともに、不安と恐怖を持って見守られているます。大きく引かれた左手はヨーロッパ大陸を大きく凌駕しています。アメリカにはデモーニッシュなところもあるのです。
上から覆いかぶさる天蓋は、とうてい楽観的なものだとは思えません。
1945年 ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌
「あの爆発の知らせが私に与えた大きな恐怖」とダリは語っています。
この爆撃機は、たくさんの爆弾を投下していますが、これは原爆でしょうか、通常爆弾でしょうか。ふつうは通常爆弾と見なされますが、ダリは原爆投下のつもりで描いたのかもしれません。右下は爆発のイメージですが、これも原爆のキノコ雲と形状が異なっています。原爆投下の知らせを受けて、原爆がどういうものであるのか、まだ情報が少ないままにこれを描いたのでしょう。原爆はウラニウムを用いた新型の大量殺戮兵器である、として知られたでしょうが、当時は放射能の恐ろしさについてはあまり知られておらず、ダリも知らなかったと思われます。放射能の恐怖を思わせるものはここには描かれていません。
ただ、この爆撃機を呆然と見つめている男の頭部は、強いショックを受けています。原爆は、スペインのゲルニカの爆撃と比べ物にならないくらい強力な大量殺戮兵器です。それをアメリカが開発して投下して、無差別に人々を殺害しました。
------------------1948年以降・帰国後------------------
1948年にガラとともにスペインに帰国。ポルト・リガトに居を定めて、そこのアトリエで最晩年まで制作活動を続けました。
1951年には「神秘主義宣言」を発表。これは原爆投下やビキニ環礁の水爆実験に触発された「原子」と、宗教的な「真理」をテーマとして、大きく方向転換をしました。
1954年 《ラファエロの聖母の最高速度》
《ポルト・リガトの聖母》1950年 油彩 福岡市美術館蔵
古典主義的、宗教的な作品です。この時期のダリの特徴の一つです。
ガラが聖母です。そしてイエスがいます。このイエス像は幼年時代のダリ自身でしょうか。
色々なものが宙に浮いています。自らをこのような幼子にたとえて、妻のガラを聖なる母親に見立てるとは、ダリのガラに対するこだわりはたいへんなものです。
また、幾何学的な入れ子構造のように胴体が空洞になっていて、幼子の胴体の中央にはイエスの肉体の象徴であるパンが宙に浮いています。この絵画の焦点は、幼子の頭部とパンです。
ガラは手でピラミッド構造をつくって、調和的安定、愛情、庇護、尊重、聖性、を表しています。
ダリは戦後にカトリックに改宗しました。それから古典主義的、宗教的な作品が増えました。
またダリは幾何学的理論や立方体理論に興味を持ち、表現に取り入れています。
1956年 素早く動いている静物
1960年代以降になるとガラの浪費を補うために、より一層商業的にもなり、作品の評価は低下して、かえって不遇の時代となりました。
以下は、1969年に2500部限定のダリ署名入りの『不思議の国のアリス』の一部です。ダリが挿絵を描きました。
Dreams of Dalí
これはダリの作品でもありませんが、ダリの世界の雰囲気を表現しようとしたものです。カーソルを当てて動かすと、360度の方向が見渡せヴァーチャルリアリティふうです。