表参道ソフィアクリニック
1797年1月31日 - 1828年11月19日
・ベートーベンより30歳年下である。
・生涯に1000曲近く作曲した。
・ベートーベンが死去した翌年に、31歳の若さで夭折した。
・ビーダーマイヤーの時期にあたる。
・生前は、あまり大きな名声には至らず、むしろ不遇であった。
・ベートーベン以降のロマン派として重要な位置にあり、シューマンやメンデルスゾーンなどにも影響を与えた。
祖父はモラヴィア地方の農民の出身だが、人々の信頼を得て裁判官もしていた。彼は自分の2人の息子に教職に就くことを期待し、彼らはウィーン郊外で教鞭をとることとなった。父親の名はフランツ・テオドール・シューベルトであり、1785年にマリーと結婚し、16年間に14人の子供をもうけた。そのうち9人は早世し、成人したのは5人であった。長男は父親の後を継ぎ教師となり、次男は音楽教師となり、三男は風景画家になった。四男がフランツである。次男フェルナントが一番フランツと親しく、彼の音楽活動を理解し、フランツの死後は、彼の作品を世に広めるために尽力した。
父親フランツは、読み書きなどを教え、ヴァイオリンもよく奏いたことから、家族でみんなと一緒に音楽をする習慣があった。家庭アンサンブルのようにして演奏をしながら、フランツは音楽の手ほどきを受けたようである。そういった音楽的な環境もあってフランツは既に学童期から並外れた才能を発揮したようである。また地区のオルガン奏者に小型のオルガンの奏法を習い、教会合唱団で歌い、長兄にピアノの手ほどきを受けた。現存する最初の作品は弦楽四重奏曲であり、これは弱冠13歳(1810-1811年)の頃のものであった。その後のいくつかの弦楽四重奏曲などの楽曲はハイドンとモーツァルトの影響を受けているようである。
1808年から13年までシューベルトはコンヴィクトという寄宿制神学校に在籍していた。ここで、各科目の授業および音楽のレッスンをうけた。この学校ではアントニオ・サリエリが指導していた。フランツは成績優秀であった。彼は音楽に関しては、ベートーベンのように苦心惨憺して獲得するものではなくて、古典主義の枠内で自然に楽々と成長するタイプであったようだ。また、ここで得られた親友は彼の生涯に大きな影響を与えたようである。
コンヴィクト時代の彼は多作であった。ただ、交響曲の作曲に関しては、「ベートーベンの後で、何が出来るだろう」と語り、慎重な姿勢を示していたが、コンヴィクトを離れる直前(1813年)に第1交響曲を作曲した。これはコンヴィクト時代を締めくくるようないわば卒業作品のようなものになった。明るく楽観的で、おもにハイドンとモーツァルトの影響を受けつつ、ベートーベンを意識していると思われる。この第1交響曲などにみられるように彼の作品は明るく清々しかったが、その反面、彼の作曲の柱の一つである歌曲においては、最初期から「嘆き」や「死」などの恐ろしく暗いモチーフに覆われていた。シューベルトの性格は明るく開放的な反面、すこし鬱々としているときもあり、ときに急に高揚する傾向もあったようだ。1812年5月には、母親が死去した。1813年には父親は再婚したが、フランツを助ける優しい継母であった。第1交響曲は母親が死去した翌年の作品である。
1813年17歳でコンヴィクトをでて、作曲家になるという意思を抱きつつ、父親の意向もあって(また兵役を逃れるためもあってか)師範学校の予科に通い、1814年に父の家に帰ってきて父の学校の助教員になった。ただ、あまりこの仕事に関心を持てなかったようだ。1812-1816年までサリエリからイタリア書法をメインとした個人レッスンを継続して受けていたが、この師からハイドンやモーツァルトの真似だと非難されることもあって、悩んだようだ。この時期も、やはり多作であり、最初の『ミサ曲』、交響曲第2番と3番、そしていくつかのオペラ、弦楽四重奏曲、歌曲などを次々につくった。たとえば1815年には200曲を作曲した(そのうち70%は歌曲)。コンヴィクトを出てまもなくして作曲した『ミサ曲』は、すぐにシューベルト自身の指揮で初演を果たし好評を博した。歌曲については、ゲーテ歌曲も充実し、「愛」「涙」「憧れ」「愛が報われない孤独なさすらいの人」など彼の特有の世界が既に現れ、『糸を紡ぐグレートヒェン』『野バラ』『魔王』など有名な歌曲も既に現れた。フランツ・リストはシューベルトの楽曲全般の本質を「劇的抒情家」としている。交響曲については、モーツァルト・ハイドン・ベートーベンの路線に加えて、独自の路線も模索している。
シューベルトのロマン主義はとりわけ歌曲に現れている。この『魔王』はゲーテの原作であり、1815年に作曲された。1825年には親友を通じてゲーテに献辞を添えて送られたが、ゲーテの評価は低く返事も来なかった。しかし、これを出版して、大好評を博した。ゲーテは最晩年には評価を好転させている。
またこの作品は父親との複雑な関係性も反映されているものと思われる。『ハガールの嘆き』においては母親の胸に幼児が死に『父親殺し』では父親との潜在的な葛藤がうかがわれる。
シューベルトの歌詞はロマン派の作家から選ばれることが多く、ゲーテ73曲、シラー68曲、友人のヨーハン・マイヤーホーファー50曲である。
シューベルトはとりわけモーツァルトを高く評価してその影響を受けていた。
1816年19歳時に、交響曲第4番「悲劇的」を作曲。このタイトル「悲劇的」は作曲者自身の書き込みに従って名付けられた。早速、同じ年には交響曲第5番を作曲した。
教員を辞めて、作曲活動に専念するようになった。また父親との同居をやめて裕福な友人宅(ショーバー宅)で生活を始めた。この年には『死と乙女』『ます』『若者と死』などの歌曲、いくつかのピアノソナタを作曲。また第6交響曲を作曲しているが、この交響曲ではモーツァルトとベートーベンを行き来しているようである。
ビーダーマイヤーとは、19世紀前半のウィーンやドイツの精神生活や文化の様式のことを指す。ナポレオン以後を取り決めるためのウィーン会議が1815年に閉幕し、保守主義的で復古的な体制が維持強化される。オーストリアではメッテルニッヒがそれを強権的に主導した。当時のウィーンでは、簡素で機能的な室内装飾、工芸、絵画、政治色のない文学、そして音楽が特徴であり、市民層の意識傾向は、非政治的な自由を求め、個人の生活やサロンの社交性なかに狭められた範囲で活動の場を求めた。そして、1848年の三月革命(48年革命)がこの期間の終了の目安とされる。シューベルトもおもにこのビーダーマイヤー期に活躍した。
1819年22歳、彼にとってはじめてのペレッタ2つを作曲した。それらは舞台で上演され、一応の成功を見た。当時はロッシーニのオペラが人気の時代であった。また、このころフォーグルという当時有名な歌手と出会い、彼はシューベルトにオペラの創作を促し、旅行も連れだって3度ともにするほどであった。また、彼はシューベルトの歌曲を世に広めた。またシューベルトは富裕な貴族やブルジョワらと音楽を通じて交流を深めた。『ます』などの作曲。またマイヤーホーファーとも親しくしていて、同居もしていた。また3年間手を加え続けた『ミサ曲』を完成させた。三幕オペラ『ラザロの復活』、弦楽四重奏曲が未完のままである。弦楽四重奏曲はこれ以降数年間にわたって手をつけなかった(つまり24年から26年までに3つの弦楽四重奏曲を作曲するまで)。このように1820年は未完成作品が多いのが目立つ。マイヤーホーファーとの共同生活を解消して、画家シュヴィントと親しくするようになった。芸術愛好家たちの仲間内での舞踏会などにもピアニストとして参加することも多く、たくさんの舞曲も作曲した。この集いを「シューベルティアーデ」と呼ばれるようになった。これは後にさらに規模が大きいものにもなった。
これは後世の作品である。
歌劇『アルフォンソとエストレラ』を作曲したが上演されなかった。ただ、18歳の時に作曲された『魔王』(作品1とされた)の売れ行きが絶好調であり、さらに他の有名なゲーテ歌曲も好評であった。1822年、25歳で『交響曲第8番<未完成>』と『さすらい人幻想曲』を作曲。22年は歌曲20曲を作曲。また1822年に以下に引用する断章を書いている。これは自伝的であるとともに幻想的である。父との断絶と、死後の世界における父との和解を綴っている。もっとも現実には父親と断絶していたわけではない。
「ぼくは沢山の兄弟姉妹のなかの男の子だった。お父さんも、お母さんも、良い親だった。いつかお父さんはぼくたちを遊園地につれていってくれた兄さんたちは大いにはしゃいだけれど、ぼくは悲しかった。それからお父さんはぼくに、すてきな御馳走を、喜んで食べろと命令した。でもぼくはそれができなかったから、お父さんは憤って、ぼくに消えうせろといった。
そこでぼくは自分の道を歩み出し、別れるものへの愛で胸を一杯にしながら、遠くへさすらい出た。長い年月、ぼくは苦しみと愛とで、二つに引裂かれているように感じていた。
そこへ、お母さんが死んだという報せが来た。ぼくはすぐに会いに帰ったが、悲しみに打ち砕かれたお父さんは、これを僕に許してくれた。ぼくはお母さんのなきがらをみた。涙が目から溢れ出した。『よかったわ、あのころ』 というのがお母さんの口ぐせ だったけれど、いまお母さんはそういう過ぎ去った良き日々のように横たわっていた。
それからぼくたちはお母さんのなきがらに従っていった。棺はしずめられた。 この時からぼくはまた家にいるようになった。そしてお父さんはまたぼくを、気に入りの庭につれていった。そしてぼくにも気に入るかと訊いた。ぼくはその庭が大嫌いだったけれど、そうもいえないでいた。お父さんはもう一度、その庭が好きかと激しく訊いた。ぼくはふるえながら嫌いだといった。お父さんはぼくをぶち、ぼくは逃げだした。もう一度ぼくは自分の道を歩み、別れゆく人たちへの愛を胸一杯に感じながら、もう一度異郷にさまよい出た。長い年月、ぼくは歌をうたった。愛をうたおうとした時、愛は苦しみになった。そして苦しみをうたおうとすると、苦しみが今度は愛になるのだった。愛と苦しみとは、こうしてぼくを二つりに裂いた。
そしてある時、きよらかな娘さんが亡くなったという報せが届いた。彼女の墓を人垣が囲み、老いも若きも永遠の至福のうちに歩んでいた。乙女の眠りを乱さぬよう、声を ひそめながら。
乙女の墓からは天上の憩いが絶えず立ち昇って、周囲にざわめく若者たちの方へ向かっていた。ぼくも急に彼らの仲間に入りたいと思った。しかし人がいうには、奇跡によらない限りその仲間に入ることはできないとのことだ。しかしぼくは敬虚な心と確たる信仰をもって視線を伏せ、ゆっくりした足どりで墓に近づいていった。そして知らないうちにその仲間に入っていた。そのサークルの周りには素晴らしい音がみち、ぼくは永遠の至福が一瞬に凝結したように感じた。
ぼくのお父さんも、和らいで愛情深くみえた。お父さんはぼくを抱いて涙を流した。
しかしぼくの方がもっと泣いたのだった。」
『ピアノソナタイ長調』を作曲し、この領域で重要な展開も見せた。またいくつかのオペラも手がけた。とくに『ロザムンデ』が作曲された。歌曲集『美しい水車小屋の娘』(20曲)、『さすらい人の夜の歌』を作曲。
『弦楽四重奏曲イ長調「ロザムンデ」』は8年ぶりの弦楽四重奏曲であった。また同じ頃に『八重奏曲ヘ長調』。これ以降、「未完成病」が克服されて、後期の充実した作品群が見られた。『弦楽四重奏曲に長調<死と乙女>』着手。ピアノ曲『楽興の時』の一部。
1825年 ピアノ・ソナタ3曲。シューベルトは終生ほとんどウィーンから出なかったが、この年はオーストリア旅行にでかけた。『ハ長調交響曲ザ・グレート』の作曲を開始し、28年に完成。未完成の悩みの末の大きな交響曲の完成は意味が大きかったと思われる。これはウィーン楽友協会に献呈されたが演奏困難を理由に全曲演奏が行われなかった。これはおよそ10年後の1839年ウィーンでシューベルトの兄を訪れたシューマンによって発見され、メンデルスゾーンによって初演された。
1825年頃のシューベルトの肖像 28歳頃
皇帝フランツ宛てに宮廷副楽長の地位を求める請願書いて応募したが、約10人の応募者のうちに他の人物が採用され、大きく落胆した。『ドイツ・レクイエム』、『弦楽四重奏曲ト長調』、26曲の歌曲、『ピアノソナタト長調』
この年3月ベートーベン死去。死の一週間前にシューベルトはこの巨匠を見舞ったと伝えられている。このことはその後の作品にも深い影響を及ぼしたようである。歌曲集『冬の旅』。『ピアノ・トリオ変ロ長調』。
『ハ長調交響曲ザ・グレート』が完成。大作『ミサ曲変ホ長調』、最後の室内楽『弦楽五重奏曲ハ長調』、最後の歌曲集『白鳥の歌』、最後の三つのピアノソナタ、ピアノ連弾『幻想曲ヘ短調』。ベートーベン的な方向で、充実した諸作品を遺した。
1828年11月19日腸チフスにより夭折。