表参道ソフィアクリニック
ベートーベンが生まれた当時、ドイツは300もの領邦国家があり、ボンはその一つでした。ボンはケルンの大司教を兼ねている選帝侯が治めていた。この選帝侯は代々教養が高く、街の学芸の振興に貢献していた。当時は1万人くらいの都市であったが、街は整備されて、音楽や演劇などが愛好される気風があったという。音楽家であった祖父はフランドル地方(現在のベルギー)の出身であり、ボンの恵まれた文化環境を求めて、この地に移住してきて宮廷楽長となった。ベートーベンはこの祖父ルートヴィッヒを尊敬していたようだ。祖母はアルコール依存症になっていた。父親のヨーハンはその一人っ子であり、やはり音楽の道に進んだ。
1770年ベートーベンが誕生。同胞は、出生が8人であるのに対して、成人したのは弟2人であった。フランチェスコ派の教会で洗礼を受けた。フランチェスコ派の思想はベートーベンの思想と似通っているところがあるかもしれない。つまり、自然愛好、友愛による連帯、異教への寛容など。母親マリアは、家政を握っていて、夫と喧嘩したり冗談も言い合ったりというふうだったようだ。幼少期に祖父が亡くなってからは、経済的に下り坂になった。父親は祖父の宮廷楽長の地位を継承できると思っていたが、その思惑ははずれて低い地位のままでの宮廷音楽家のままであった。父親はアルコール依存症になった。父親はベートーベンの音楽の才能を見いだし、音楽教育を施した。しかしその教え方は乱暴になりがちであり、暴力も伴うこともあった。これは出世の望みを絶たれた失意、息子の豊かな才能への嫉妬もあったのか。他方では父親は世間に向かって息子の神童ぶりを吹聴もした。ベートーベンは演奏の練習には極めて自発的で熱心になった。10歳の頃に、ネーフェという選帝侯付きのオルガン奏者と出会い、バッハを学び、作曲の手ほどきを受けた。後年ベートーベンはバッハを繰り返し研究して音楽表現を探求した。またブロイニング夫人は、彼に音楽の家庭教師としての役目を与えてなおかつ保護した。学校教育はまともに受けていなかったが、ブロイニング邸の図書館で読書をして教養を培ったようだ。また子供の頃からモーツァルトを大変敬愛していた。1787年、16歳時に母親死去(40歳)。結核であった。それ以降父親はますますアルコール依存症を深めた。
1784年選帝侯が代替わりし、新しい選帝侯(オーストリア皇帝ヨーゼフ二世の弟)もまた文化振興に熱心であって、ボン大学も創設した。またベートーベンは器楽の学校で学ぶことができた。ベートーベンはボン大学で哲学などの授業を聴講できた可能性があるようだ。また「光明会(イルミナーティ)」というフリーメーソン系の啓蒙知識人の集まりである読書倶楽部「レーゼゲゼルシャフト」の参加者とも交流があったようだ。この読書会は啓蒙主義的皇帝ヨーゼフ二世を支持していた。またベートーベンはここではフリーメーソンの思想である自由、平等、博愛の思想にも触れていた。またカトリック系の革命思想家シュナイダーにも傾倒したようである。1789年にフランス革命が勃発したときに、ベートーヴェンはそれに衝撃をうけて呼応した。彼はそのときあるべき世界を垣間見たのであろう。また後にシラーの長編詩『歓喜に寄せて』に音楽をつけたいと思うようになった。これは後年の『交響曲第9番』第4楽章となって実現した。ボンでは、若きヴァルトシュタイン伯爵と出会い、ベートーヴェンの支援者になった。またこのボンの時代にハイドンに見いだされた。
1792年(22歳)から1798年
【ウィーン】
1792年11月22歳でウィーンに移り住む。しかし、それから間もなく同年12月には父親が急死した。貴族に優遇を受け、貴族の私邸のサロンでの演奏会に招かれピアノ演奏をした。それはバッハやモーツァルトの楽曲とともに自身の新作や即興曲の披露の場となった。前年(1791年11月)に死去したモーツァルト以降の音楽家を探していた貴族たちは、ベートーヴェンに注目して評判が高まった。当時は演奏家と作曲家の区分がはっきりしていなかったが、ベートーベンの目標はあくまでも作曲を向上させることであった。ウィーンに移住した年の12月には既にハイドンに弟子入りしていて、1年と少しの期間を彼から基礎的な作曲を学んだ。しかしより本格的に学んだのは他の音楽家たちであった。またサリエリにはオペラや声楽の教えを受けた。サリエリには9年近く指導を受けたようだが、それ以上に交流は長く続いた。
1795年24歳のとき、ウィーン音楽家協会主催の公開演奏会の一つとしてベートーベンのピアノ協奏曲が選ばれた。この選択はサリエリの意見があったのではないかともされている。この演奏会が彼の公の場でのデビューであった。当時はフランス軍の侵攻によってボンに還ることができなくなっていたため、もはや帰国の選択肢は考えられず、ウィーンにおいて活路を見いだすしかなかった。この演奏会において『ピアノ協奏曲第2番』を弾いた。その成功によって音楽家として大きく向上した。
※ ベートーベンウィーンでの複数の女性関係は自由恋愛的であったが、なおかつ友人関係として長く続くという特徴も見られた。しかし、この自由恋愛の程度がどのようなものであったのかは、立ち入ったことはあまりわからない。おそらくベートーベンは真心と誠実を尽くすタイプであったろう。成就するような恋愛はあまりなかったのではないか。
※ ベートーベンの考え方として、「力」がある。欲望や安逸に流れることが弱さであり、それは人間の本性の一つであるので、様々に学びながらも、内なる「力」によって克服して努力を続けるという考え方がある。この「力」とは権力などの力ではなく、自身の内的な信念に基づいて行動する力であって、それは必ずしも一般的な道徳規準に合わせるという考え方ではなかった。こういった考え方はウィーンにやってきてから培われたようである。このことは既存の貴族社会の規範に必ずしも従わないということであったのだろう。しかし、常に内的な信念に基づいて行動するところが、強さであったにしても、いきすぎてしまう傾向がデメリットとしてあっただろうし、また彼には逆に繊細で弱いところもあった。
1796年アルコレにてナポレオン軍とオーストリア軍の大きな戦闘があり、オーストリア軍が敗北した。そのときにオーストリア軍のために2つの軍歌を作曲した。これはどの程度ベートーベンの本意に叶うものであったかどうかは疑問の余地がある。
フランス革命からの政治的な影響:『交響曲第3番』『フィデリオ』『交響曲第9番』のライン
1797年ナポレオンはオーストリアで政治犯として囚われていたフランス人・ラファイエット侯爵を釈放するよう要求した。ベートーベンもこの釈放要求に賛同していたようである。ラフェイエット侯爵は後に『フィデリオ』の主人公のモデルにもなった。
1798年、フランス共和国の大使に伴っていた当時著名だったヴァイオリニスト、ロドルフ・クロイツァーと意気投合し、共和国の理念や英雄的行為に感銘を受け、それが『交響曲第3番エロイカ』にも現れている。またクロイツァーはフランス共和国の「民衆の祭典」および「民衆の音楽」という音楽イメージ伝えたようである。またクロイツァーが「民衆の音楽」の作曲者であった。なので彼との交流は、『交響曲第3番(1804年)』『フィデリオ』『交響曲第9番』に至る線上にもある人物である。
ウィーンでの若きベートーベンは、熱烈な信奉者がいる一方で、一般の聴衆からはあまり理解されず、また極端に彼を嫌う音楽家も多かった。
1798年ピアノソナタ『悲愴』
ベートーベンらしいピアノソナタはこの頃(『ピアノソナタ<悲愴>』)形成されたことから、やはりベートーベンらしい画期的な音楽スタイルが彼の難聴という「運命」を契機としていたと考えられる。
1798年から1805年頃 創作の変貌と充実
ウィーンに来てからだいたい5年で創作の充実期がやってきたことになる。
1798年から99年にかけて、『ピアノソナタ<悲愴>』が作曲された。これは自身による命名である。ベートーベンが自身の作品に命名するのはほとんど無かったのでこの場合は例外的であった。ヴェーゲラーへの手紙には「できることなら運命を相手に戦い、勝ちたい」と語っていた。またこの作品は賛否両論のセンセーショナルで年余にわたる反応を引き起こした。
『交響曲第1番』の初演 『弦楽四重奏曲』6曲を改訂とまとめ。『ヴァイオリンソナタ4番』、『同5番春』、ピアノソナタの『月光』『田園』、『交響曲第2番』、『交響曲第3番』(おそらく1804年完成)、3つのヴァイオリンソナタ、『ヴァイオリンソナタ<クロイツェル>』、2つの『ピアノ変奏曲』、『ピアノ協奏曲3番』また、『交響曲第5番』の初期草稿、『交響曲6番』の村の祭りのスケッチも既に見られる。
1805年頃『ピアノ協奏曲第4番』『ヴァイオリン協奏曲』『交響曲第3番』『弦楽四重奏曲ラズモフスキー』
※2つ目の『ピアノ変奏曲』では伝統的な「修飾的変奏曲」から「性格的変奏曲」という新たな変奏曲へと変化したともされる。2つは全く異なる手法になるように制作された。これは壮大にして複雑で型破りである。2つめの『ピアノ変奏曲』は、『プロメテウスの創造物』での終曲の主題であり、後に『エロイカ』でも取り上げられているので『エロイカ変奏曲』と呼ばれている。この作品は『交響曲第3番』へのステップになった。ベートーベンにとってナポレオンは<自由・平等・博愛>という革命の理念を体現したプロメテウスであった。また自らが芸術を通して善(徳・正義)を示し教えるプロメテウスの使命をもつとも考えていたか。
歌劇『フィデリオ(レオノーレ)』
フランス革命の<自由・平等・博愛>の革命の理念を背景に持つ作品であった。改変を繰り返し、1805年に初演となった。その頃ナポレオン軍がウィーンに侵攻して占領していた時期であり、入場者のほとんどがフランス兵であったという。大貴族たちはあらかじめ国外に逃亡していた。
病苦
1798年から耳鳴りと難聴が徐々に悪化を来していた。そのために次第に、人付き合いが少なくなった。最近の研究では鉛中毒が原因だったという。その鉛がどこに由来するのかは不明。胃腸障害も鉛中毒による可能性がある。1802年弟たちに宛てて「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いた。これは公表されたものではない。回復の望みがほとんど絶たれ、自らの幸福の多くが損なわれることと、芸術に対する使命をもって生きることが自分の新たな道であることが綴られている。
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女性関係
30代、1801年から02年にかけて、ジュリエッタ・グイッチャルディと恋におちた。ベートーベンが結婚を前提に交際した最初の女性。しかし彼女の本気度は低かったかもしれない。またヨゼフィーネ・ダイム伯爵夫人(当時未亡人)宛てに恋文が見つかっている。1807年頃まで続いたようだ。ベートーヴェンの子供を宿したとも言われる。テレーゼとの関係も取り沙汰される。
『交響曲第5番<運命>』、『交響曲第6番<田園>』
二度目のフランス軍の侵攻:ピアノ協奏曲第5番<皇帝>
1809年、フランス軍がふたたびウィーンを侵攻した。これと前後して『ピアノ協奏曲第5番<皇帝>』が考想されたようだ。この名称は他人が付けた通称であるが、この楽曲の性格としては、皇帝ナポレオンと対峙させたのであろうかとも考えられる。ただし発表当時は不評だったようだ。
フランス革命とナポレオンの登場は理想主義的なベートーヴェンにも若者たちにも希望をもたらしたが、二度目のフランス軍の侵攻の時期には、恨みと厭戦に変わり果てた。そういった情勢の中、ベートーヴェンの音楽は次第にヨーロッパ中の若者たちを捉えた。若者たちにとって、彼の音楽には理想を示すものが見られたからであろう。
ゲーテとの出会い
1812年にゲーテがベートーヴェンの滞在先を何度も訪れた。たいへん良好な関係であったようだ。ゲーテは彼を好意的に迎え、耳が不自由でも根気強く接してくれて、ベートーベンは大変に敬愛を深めた。
交響曲第7,8番とその後の不作の時期
1812年に『交響曲第7番』、『交響曲第8番』を作曲した。しかし、そのあと傑作がしばらく途絶えた。もっとも逆説的にも世俗的にはもっとも人気のでた時期であった。戦争中も戦争に関する音楽会などに参加したり作曲したりしていたせいもある。1814年からウィーン会議があり、各国の代表たちをもてなす作品の一つとして『フィデリオ』が選ばれ、好評だったために少なくとも20回は上演されたという。これがベートーベンの世俗的な名声の象徴でもあろう。こうして、名声と富をもたらした。しかし、これはフランス革命からヒントを得て作られたオペラだったのに。
気性の激しさ
ベートーベンはすぐにかっとしやすい気性であった。しかし、自分の誤解だったというときにはすぐに率直に謝った。
大きな失恋
1812年に大きな失恋をして、絶望的になっていたようである。
苦悩から歓喜へ
1815年の手紙。
「無限の精神の体現者でありながら有限の存在である私たちは、苦悩と歓喜の両方を耐えるべく生れついているのです。そして私たちにとって最善のことは、苦悩を通じて歓喜をかちうることだと申してもよいでしょう。」この「苦悩を通じて歓喜へ」という言葉は、ベートーベンの名言として広く知られるようになった。
思想的な背景
・人間を自然界と宇宙との関連において把握するという考え方を持っていたようだ。カントの『一般的自然史と天体の理論』に影響されて「われらの内なる道徳律と我らの上なる星空/カント」と書きとめた。
・詩人ではヨーハン・ゴットフリート・ヘルダー。
・意外にもインド思想にも傾倒していた。「インド的合唱曲」を作曲しようとしていたことも手紙に書かれていた。
フリーメーソン
17世紀後半から18世紀にかけて、フリーメーソンがヨーロッパの知識人の間に広く浸透した。啓蒙主義の普及とも歩調を合わせて、一つの時代の潮流ともなっていた。アメリカの独立戦争、フランス革命にも影響を与えた。また会員には、ヨーゼフ2世、フリードリッヒ大王、ゲーテ、シラー、ハイドン、モーツァルトなどいた。ベートーベーンの入会の記録は残っていない。しかし、ベートーベンの友人やパトロンのほとんどがメーソンであった。
カール
弟が結核により(母親も結核で死去)42歳で夭折し、その遺児カールを9歳で引き取った。ベートーベンは未亡人であるカールの実母を犯罪歴のあるとして親権を剥奪する訴訟を起こした。これがベートーベンの評判を落とす元にもなったが、今日ではベートーベンの申し立てが真実であったことが明らかになっているという。ベートーベンは勝訴した。このカールの名誉を守るために母親の真実を周囲には話さなかったのかもしれない。しかし、その後も甥の養育や教育を巡って、ベートーヴェンはこだわりが強いところがあって、他人との摩擦も生じることもあった。
健康不安
1816-18年は健康不安が強まった。ベートーベンは体調不良になりがちであり、自分も母親や弟のように結核なのではないか、とか死の影に怯えていた。しかし結局は結核ではなかったが、別の病気であった(当時は原因不明)。
転換:後期様式およびロマン主義
1816年 連作歌曲『遙かなる恋人に』。また『ピアノ・ソナタ第28番』を作曲し、この新しいピアノソナタにおいて、後期様式にはいり、音楽史におけるロマン主義への移行とも見なされる。
第9の着想
1818年にはまた転地療養中に健康の回復も見られ、『ミサ・ソレムニス』『グランド・ソナタ』『第九』の着想がみられる。
ウィーン体制
1819年ごろから、オーストリアの外相メッテルニヒによる言論統制や密告・監視社会が作られた。また文化面ではより軽やかで愉しいものが求められた。その頃のベートーベンの会話帳を通じて、共和主義者の友人たちと交流していた記録が残っている。この会話帳のなかで政府、警察、特権階級である貴族を手厳しく非難していた。当時の警視総監は1820年に彼を逮捕すべきかどうかを皇帝に上申したが、留保にされたようである。
第九
ミサ・ソレムニスを完成させてから、かねてより構想を練ってきていた『第九』に取りかかった。この着想はそもそも18歳の彼がフランス革命のことを知って高揚していたころに、シラーの長編詩「歓喜に寄せて」に曲を付けたいと意図したことに端を発している。「歓喜の歌」の主旋律は1795年の歌曲に現れて以来、繰り返し現れるようになった。『第九』は1823年から24年にかけて作曲された。1812年の『交響曲第8番』以来、10年近くの時が流れていた。
1826年にカールの自殺未遂。ピストルによる重傷。
『第九』以降は、弦楽四重奏曲などの作曲。
1827年
死去「喝采を、諸君、芝居は終わった」というのが臨終近くの言葉として知られています。
ベートーベンの晩年の信奉者シントラーの歪曲を信じたロマン・ロランが『ベートーベンの生涯』という作品を公表し、実像とは異なったベートーヴェン像をひろめたようだ。